育児をしながらキャリアチェンジ。先輩ママ3人が語る“育児中の転職”の道のり

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キャリアを積んでいく過程で、「転職」を考えることもあるのではないでしょうか。ただ、子供に手がかかる育児中は、なかなか転職活動にかける時間を確保しづらいもの。また、子供がいると転職に不利になるのでは……と不安に思う人もいるかもしれません。

そこで、ママになってから転職を果たした3人の座談会を実施。転職のきっかけ、転職活動での苦労、成功するポイントなどについて、語っていただきました。

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<<参加者プロフィール>>

佐伯さん

佐伯さん:36歳。お子さんは2歳の双子。新卒でインターネット広告などを手がけるIT企業に入社し、約5年間在籍。その後、広告・人材サービスなどを手がける企業に転職し、約6年在籍。その後、医療系ベンチャー企業に転職。この転職を決めた頃に妊娠が分かり、入社2ヶ月で産休を取得、出産4ヶ月でフルタイム復職。約2年在籍したのち、ソーシャルビジネスを手がける企業に入社。現在は退職し、小学生向けオンライン学習サービス「アンカー」立ち上げのために起業。

Tomoさん

Tomoさん:35歳。お子さんは4歳。新卒で、システム開発を手がける企業に入社し、SE(システムエンジニア)として約12年間在籍。この4月にSRE(サイトリライアビリティエンジニア)として転職予定。

はなさん

はなさん:34歳。お子さんは2歳と5歳。新卒でITベンチャーに入社し、約4年後にITメガベンチャーに転職。事業戦略やプロジェクトマネージメントなどを手がける。約3年後に第一子の産休を取得。復帰後すぐに2度目の転職。入社1年後に第二子の産休を取得。現在で約3年在籍中。

「夢を叶えたい」「面白い仕事をしたい」そんな思いが転職のきっかけに

皆さんが転職をしようと思ったきっかけは何ですか?

佐伯さん 私には子供の頃から「貧困問題の課題解決をしたい」という夢がありました。それを実現するために、必要なスキルや経験を身につけたいと思っていたので、ずっとひとつの会社にいるという発想はなかったんです。新卒入社以来、何社か転職して、昨年秋にソーシャルビジネス(社会問題の解決を目的としたビジネス)を扱う企業に入り、社内起業を目指していました。

転職座談会の様子

佐伯さん その後、元同僚から教育事業の立ち上げに誘われて「このタイミングを逃してはいけない」と思い、今は退職して起業しています。

Tomoさん 私も子供の頃からの夢が、システム構築をすることでした。そういう意味では、新卒でSIer(システムインテグレータ)に入社して、希望だった職につけました。事業を拡大する途中の通信関連のシステムに関われたのもいい経験でした。

ただ、前の会社の仕事は、顧客のシステム構築を手伝うのがメインで、自分で何かを生み出す・作り出すというわけではありません。このまま同じことを続けていていいのかなと疑問を持ち始め……。ちょうどその頃、SEの情報交換コミュニティに参加するようになり、「自分が井の中の蛙だ」と思うようになって。同じ時期に、システムの構築から運用までトータルで手がけるSREという職が注目され始めたので、それができる会社に移りたいなと思いました。

はなさん 私は、何か明確な夢があったわけではなく、新卒で入った会社は「面白そうなベンチャー企業」という理由で選びました。そこから転職したきっかけは、地方に作った事業所への異動を求められたことです。次は、育児休業中に、自分が新規事業で手掛けた会社のM&A(会社の合併・買収)が決まったため、復職と同じタイミングで転職しました。自分のタイミングで転職しているんですが、基本的には「どこかに移ったら面白そう」「今転職すれば面白いんじゃないか」という気持ちを持っていました。

はなさんはリモートで座談会に参加

はなさんはリモートで座談会に参加

実際の転職活動はどのように進めたのでしょうか?

佐伯(敬称略、以下同) 私は主に、選択肢を増やす目的で転職エージェントを利用しました。人材サービスの会社にいた時は転職エージェントが顧客だったので、各社のメリットをよく知っていたんです(笑)。タイプの違うエージェントをいくつかピックアップしていました。最後の転職では5社くらい受けました。

はな 私は、転職エージェントを利用したり、知り合いのつてで会社を紹介してもらったり。ママになってからの転職は、カジュアルに会社訪問させていただいたところも含めると、10社くらい受けたと思います。

Tomo 私の場合は、SEの職歴が長かったこともあって社外の同業の知り合いが多く、その人たちから情報収集したり、実際に紹介してもらったりしました。同業であれば「あの会社は雰囲気が良さそう」「この会社はすごく厳しい」など、事前にある程度評判が分かるんです。そこから興味のあるところ、よさそうなところを絞り込んで、アプローチしました。最終的に5社くらい受けました。

働くママの転職は、時間との戦い!

ママになってからの転職活動で、苦労された点は何ですか。

佐伯 圧倒的に「時間がない」ことでしたね。昼間は仕事があるし、夜は保育園のお迎えや子供たちの世話があるので、面談に行く時間がない。ですから、エージェントとの面談は、可能な限りオンラインか電話にしてもらいました。

面接を受けるだけでも時間のやりくりが必要になりますしね。

佐伯 はい。転職活動期間が長くなると、肉体的にも精神的にも負担が大きいと思ったので、候補の会社を絞り込んで短期集中でやりました。夜の面談が続く場合は、夫の出張中に自宅から2時間くらいの距離にある実家に居候し、父母に子供たちを見てもらったことも。やっぱり、独身だった時や子供がいない時とは違うと身にしみましたね。

Tomo ものすごく分かります! 夫婦ともに実家が遠いので頼れず、たくさんの会社を受けたいという気持ちはありましたけど、併行して活動できたのは2社くらいが限界でした。転職用のレジュメを作るのにも時間をとられるので、睡眠時間もかなり削られます。

転職座談会の様子

Tomo 当時は、朝3時に起きてレジュメを作り、家事をして会社に行って、帰りに子供のお迎えに行って、夕食を食べてぱたっと寝る……という感じでした。夫は転職に対しては反対することはありませんでしたが、家事・育児を率先してやってくれるタイプじゃなかったので、「少し手伝ってほしかったかな」というのも本音です。

はな 私の場合は普段から夫が家事や育児に協力的で、転職活動中も、面談で家を開ける時は子供を見ていてくれたので助かりました。でも、当時は子供1人でしたからね。今のように子供2人になってから同じようにできるかというと、難しいでしょうね。

ママになったことで、転職にハンデを感じたことはありましたか?

佐伯 勤務時間が条件と合わないことはしょっちゅうありました。子供がいない時なら「いくらでも働きます」とか「気合で頑張ります」とか言えるかもしれませんが、夜遅くまで仕事をすることが必須だと、諦めざるを得ません。

はな 私も転職活動の最初の頃、いいところまで行くのに最終的に断られることが続いてしまって、エージェントに理由を聞いたら「似たようなスペックで、子供がいなくて時間の制約もない人がいたら、そちらを選びますよね」ってダイレクトに言われて。その時はさすがに、「私はハンデを背負っているんだ」と凹みました。

でも、その後の面接からは気持ちを切り替えて、「二人目の子供を考えています」と積極的に言うようにしましたし、それを「いいことだよね」って言ってくれる会社を選びたいなと思うようになりました。そうでないと、実際に働いていけないですしね。

佐伯 子供がいる以上、柔軟な働き方をさせてもらえない会社は厳しいですね。転職活動を進めるにつれ、そういう融通がきく会社かどうかは、面接の時の話しぶりなどからだんだん分かってくるようになりました。

それぞれの事情に合わせられる「柔軟性のある職場」を選び取る

会社の制度や仕組みなどは、転職先選びに影響しましたか?

Tomo 転職の理由の一つに、前の会社で働き方への違和感が出てきたということがあります。妊娠中に夜中まで仕事することもありましたし、復職後も、制度はひと通り整っていたものの、実態に合ってない内容もありましたから。例えば「子の介護休暇」を取得するのに、事前に何枚も書類が必要になったり……。こういう働き方を続けるのは、自分にとっても子供にとってもよくないなと思っていました。

はな 私も最初の妊娠中は、新規事業の立ち上げの真っ最中で、仕事で終電を逃してタクシー帰りが何度もあったので、それはよく分かります。

佐伯 私が妊娠中に転職した会社は、ママでも働ける環境は整っていたんですが、フルタイムに近い形でだんだん時間に押し潰される感じになっていって、最後はしんどかったんです。平日に子供たちを病院に連れていくと、その分土曜日に補わなければいけないとか。もう少し余裕を持った働き方をしたいと考え、上司に相談し、融通を利かせてもらいました。また、その次の会社では思い切って、最初から9時〜16時の時短勤務で、必要ならリモートワークも可能という形で採用してもらいました。

Tomo 私も、いくつか会社を受けた中で、転職先が唯一「最初から時短勤務でいい」と言ってくれたんです。あとは社内に働くママがいらっしゃったのも決め手になりました。心強いし、自分が働くイメージも湧きやすい。面接では、エンジニアのトップの人が、実際に保育園の送迎の予定が入ったスケジュール帳を見せてくれて「自分もこうだし、あなたも子供のことを第一優先で考えていいですよ」と言ってくれたんです。そういう考え方の会社で仕事をしたいと思いました。

実際に働く前に職場の様子が分かるのはいいですね。

はな 私も、転職先の候補に残った会社には、実際の働き方を聞きたかったので「働くママがいれば話をさせてほしい」とお願いしていました。その希望に対応してくれるかどうかで、企業のマインドが分かりますよね。

結局、転職を決めた今の会社では、私が“働くママ第1号”になったのですが、フレキシブルかつ本質的なことを大切にする会社なので、非常に働きやすいです。面接の一環として会社のミーティングに呼んでもらった時に、「5~15分の遅刻の報告は、生産性がない会話だから勤怠報告を撤廃します」という宣言があったんです。そういう意識が共有されていると、朝に子供がぐずった時でも「始業時間に少し遅れそう!」とカリカリせずに済みますよね。働くパフォーマンスを上げるためなら、有給休暇も自由に取っていいと言われています。

佐伯 制度がキッチリ決まった大企業より、少人数の会社の方が融通がききやすいかもしれませんね。個人への信頼があって、アウトプットをきちんと出していれば、細かい報告はいらないというような。私は、妊娠中に転職した会社にいる時に、産休中・復職後と後に続く人のために、就業規則を自分で作りました(笑)。子供が小学校に上がるまではコアタイムなしのフレックスにする、リモートワークの時間や日数の制限はなしにするなど……。そういう働き方を認めてもらえる会社だったのは、ありがたかったです。

手元の写真

身近な家族からアドバイスのプロまで。周りへ話をしてみれば応援してくれる人はいる

転職するに当たり、エージェント以外で相談にのってもらった人はいますか?

Tomo 社外の同業者や、働く先輩ママ、以前一緒に仕事をした人ですね。特に一緒に仕事をしたことのある人からは、自分の強み、弱みを客観的に言ってもらえて、参考になりました。

佐伯 私は前回の転職ではコーチングのサービスを利用してみました。子供たちが1歳を過ぎ一息ついて、改めて自分と向き合って、今後のキャリアを考えようと思ったものの、ゆっくり時間はとれない。ならば、プロの力を借りれば短時間で考えがまとまるんじゃないかと思って。キャリアのことや家庭についてもやもやしていることを吐き出して、それをコーチングの人と一緒に整理したら、自分がやりたいことがクリアになりました。それで転職への一歩が踏み出せたので、よかったですね。

Tomo 確かに、誰かに客観的に整理してもらうことで、自分の心の中の本音も、ぽろっと出てきたりする気もしますね。自分の悩みに対して、「こういう考えもあるんじゃない?」って指摘してくれる人もありがたい。そういえば私も、年上の社外の同業者で、お子さんをお持ちの方に、よくアドバイスを受けていました。

はな 私は強いて言うなら、元同僚だった夫ですね。あとは、過去に書いたブログやメモを見て自分を振り返って、「今なぜ転職したいのか」について考えてみたり。でも自分だけで考え込むこともあったので、振り返ってみればコーチやメンターの人がいたらよかったなと思います。

家族の協力についてはいかがでしたか?

佐伯 やはり夫の理解がないと、チャレンジは難しかったですね。支えられているなとは思います。

Tomo 私の夫は、先ほど言った通り家事や育児を手伝ってくれるタイプではなかったですが、ある会社に落ちて落ち込んでいる時に「就職は縁みたいなもの。縁がなかったと思えばいいんだよ」と言ってくれて。よくあるせりふだし、自分でも分かっていることですが、実際に言葉に出して励ましてくれると、救われるなと思いました。

転職座談会の様子

はな 転職活動中、うまくいかなくて心が折れそうになることってありますよね。縁がなかったとはいえ、会社に不合格と言われると、自分が否定されているような気分になるし。でも、子供と接していると、気が晴れてきます。まあいいか、この子は私のことを「大好き」って言ってくれるし、って(笑)。

Tomo 自分を肯定してくれますからね。私も凹んだ時は子供にハグを要求していました(笑)。

途中でやめても、立ち止まってもいい。小さな1歩が今後の糧になる

最後に、転職を考えている方や、今の環境を不安に思いつつ働く方に向けたアドバイスをお願いします。

佐伯 私もかつては「子供ができたらキャリアはどうなるのか」という漠然とした不安がありました。でも働くママになるのも、転職するのも、やってみないと分からない。やってみたら意外に何とかなるし、協力してくれる人も出てきます。だから、思い切ってチャレンジしてみては、と思います。もちろんパワーもいるし時間もかかりますが、先輩でも友達でもコーチングでも、間口を広げていろいろな人に相談してみれば、何か道は見えると思います。

Tomo 昔に比べたら、子供がいることが不利にされることは減ってきたと思うんです。それは先輩ママたちが苦労してくれたおかげですね。そこに甘えつつ、でも、さらに自由に働いていきたいです。「子供がいることが不利になる会社は、こちらからお断り」くらいの気持ちでいた方がいいと思うんです。今は育児の話ですが、そのうち介護も出てくるかもしれない。働く人それぞれの事情に対処できないような会社では、人が働き続けられないし、将来も危ういと思いますから。

はな 転職をしたいという気持ちがあれば、何か少しでも行動をしてみたらいいと思います。転職エージェントに問い合わせてみるだけでもいい。小さな1歩でも、前に進めば、何か今後の糧になります。また転職活動を始めてからでも、途中で家族が体調を崩したり、自分のメンタルがしんどくなったら、ストップしてもいいと思います。他の会社を見てみて「やっぱり今いる会社がいい」と思えば、前とは違うマインドで仕事に臨むこともできますし。あまり肩肘はらず、休憩もしながら、一歩一歩を積み重ねていければいいのかなと思いますね。

取材・文/アキヤマケイコ(六識)
編集:はてな編集部

※座談会参加者のプロフィールは、取材時点(2020年2月)のものです

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「誰に向けて作るか」を大事にしたい。料理人・五十嵐美幸さんの"心得”

五十嵐さん

バラエティ番組『料理の鉄人』への出演をきっかけに、22歳にして中華料理界のスターシェフとして一躍有名になった料理人・五十嵐美幸さん。現在は、実家の中華料理店から独立して開業した「中国料理美虎(みゆ)」のオーナーシェフを務めるだけでなく、さまざまなテレビ番組への出演、食育活動、定期的な料理教室の開催など、多岐にわたる活動をされています。

女性のロールモデルが少ない中華料理という世界で道を切り拓いてこられた五十嵐さんに、これまでの歩みや働き方の変化、料理人というお仕事との向き合い方などについてお話をお聞きしました。

「料理人を辞めるときは死ぬときだ」という気持ちで仕事していた

五十嵐さんと言えば『料理の鉄人』に当時最年少挑戦者として出演されて、中華料理の女傑として一世を風靡した方、というイメージがある人も多いと思います。番組へのご出演は22歳のときだったんですよね。

五十嵐美幸さん(以下、五十嵐) そうですね、ちょうど実家の中華料理店の料理長に就任した直後のことでした。

そもそも、その若さで料理長になられたのはどのような経緯があったんでしょう?

五十嵐 実家はいわゆる町の中華屋さんだったので、もともと家族みんなで手伝っていたんです。私は上に兄がいる4人きょうだいの2番目なんですが、きょうだいの中でも特に料理が好きで。小さい頃から実家の店の手伝いばかりして、友達と遊びにも行かなければお祭りやプールにも行ったことがない、みたいな子どもだったんですよね。とにかく料理があればいい、という感じで。

高校生くらいまではただ好きな料理を手伝っているだけという感覚だったんですが、ちょうど高校を卒業するくらいの時期に放送されていた『料理の鉄人』の影響もあって、料理の世界にもいわゆるプロのような方がいるんだな、ということを知って。そこから料理人になりたい、ということを意識し始めた記憶があります。兄は料理ではない道に進んだので、21歳のときに私が家業を継ぐ、ということになって。

勇気の必要な選択だったのではと思うのですが、ご実家の中華料理店の看板を背負う、ということには迷いはありませんでしたか?

五十嵐 父親が本場の料理の味を……と中国に連れて行ってくれた経験もあり、中華料理の奥深さにはずっと魅せられていたので、「中華料理の料理長」という選択そのものには迷いはありませんでした。

ほぼ同時期に『料理の鉄人』への出演のオファーもポーンときて。失うものもなければ怖いものもない歳だから、軽い気持ちで出演したんですよね。でも、出てみたらそのあとが本当に大変でした。

大変だった、と言うと……?

五十嵐 周りの人たちに急に「天才」だとか「すごい」とか言われるようになってしまって、世界がガラッと変わったというか。とにかく「もっとすごくならないと」という気持ちがより強くなっていました。自分は当たり前のことしかできていない、実力をつけるためにもっと働かなければと思っていて、当時は本当に必死でした。店が休みの日も他のお店に修行に行くなど、週7日働くという生活をずっと続けていて。

でもそんな生活を数年続けていたものだから、25歳くらいのときに大きく体調を崩してしまって。ホルモンバランスが崩れてしまったのか、生理がほとんどこない、みたいな状態になっていました。

五十嵐美幸さん

そこまで働いていらっしゃったんですね……。そんな経験をされると、料理人という仕事を辞めたくなることもあったのでは? と思うのですが。

五十嵐 うーん、そうですね……でも料理を作って人に「ありがとう」と言ってもらえることのうれしさは小さい頃から身に染みついていたので、他の道を選ぶというのはちょっと考えられなかったのかな。

しかも当時は、いま以上に女性の料理人という存在が世間に認められていない時代。周りにも「そんな仕事辞めて結婚した方がいいよ」とか言われることもありました。でも、辞めたら辞めたで「ほらね、やっぱり女に料理人なんて無理でしょ」って言われるだろうから、それが悔しくって「絶対に辞めないぞ! 」と思って(笑)。

ちゃんと実力が伴っていればいいんでしょ! 私が辞めるときは死ぬときだ! くらいの気持ちで毎日仕事していましたね。

30代で初めて「自分の幸せってなんだろう?」と考えた

五十嵐さんはその後、30代でご実家の中華料理店から独立されたと伺っています。独立、という選択肢はいつ頃から考えるようになったんですか。

五十嵐 33歳のときです。実は家出同然で店を辞め、実家を出たことが独立のきっかけなんです。

! 実家を出た理由は、何かあったのでしょうか?

五十嵐 25歳ごろに大きく体調を崩してしまってからもずっと働き続けていたんですけれど、好きだったはずの料理がいつの間にか苦しいものになってしまっていたんです。実家の店は『料理の鉄人』へ出演したこともあり、ありがたいことに大繁盛していたので、どんどん店舗を拡大していっていたんですよ。

でも親が持病持ちだったこともあり、料理長として働けるのは当時私だけでした。妹や弟が「自分がやる」と言っても「まだできないでしょ」と家族間で喧嘩になることもあって、そんな状況がつらくなってしまって……。

美虎の厨房服

家出同然、というと、周囲の方には実家を出ることを言わなかったんですか?

五十嵐 はい。家を出ることはそれ以前からぼんやりと考えていたんですが、親から「美幸は箱入り娘だから他じゃ通用しない」と言われたりして、それもショックだったんですよね。「私、本当は料理なんて全然できないんじゃないか」と疑心暗鬼にもなりました。

ただ、それなら一度、自分ひとりでも歩いてみたい、歩けることを証明したいと思って。店を辞めることはお客さんには伝えず、家に全財産を置いて最低限の荷物だけ持ち、友達にお金を借りたりもして引っ越しました。

そのとき、次に働くお店は決めていたんですか。

五十嵐 いえ、なにも決めていなかったです。でも、ふらふらしていたら3日くらいで料理が作りたくて仕方がなくなってしまって。それまでずっと働き続けていたので、急に時間ができても動いてないと落ち着かないんですよ。だから友達の家に「いまからごはん作りに行こうか?」って連絡したこともありました。

本当に料理がお好きなんだな、と感じます……。

五十嵐 ね、結局そうなんですよね(笑)。事情を知った仲のいい友達が「だったら料理教室を開いてほしい」と言ってくれて、そこからまた料理を再開して。家からフライパンだけ持って、出張の料理教室なんかを少しずつやり始めたんです。そこで、やっぱり料理ってなんて楽しいんだろうって思えて。

ちょうど同じ頃、信頼している料理人の先輩に今後について相談すると「幸せじゃない人の料理はおいしくない。だからまずあなたが幸せになりなさい」というアドバイスをいただいたんです。そのとき、「自分の幸せってなんだろう?」ということを初めて考えたんですよね。

そのときに初めて、ですか?

五十嵐 初めてでしたね。今振り返れば思い込みのようなものなのですが、長女ということもあってか「自分さえ頑張ればみんなが仲よく平和に暮らせるはずだ」という考えで生きてきてしまっていたので、「自分がしたいこと」というのをあんまり考えたことがなかったんです。

33歳にして初めて自分と向き合った結果、「やっぱりお店を持ってお客さんに料理を作り続けたい」と感じて。お店を出す決断をしたのが、実家を出てから半年後のことでした。

五十嵐さん

初めて仕事を「減らす」選択。出産後は先手先手で動くように

ご実家のお店のお客さんにも家を出ることは伝えなかったんですよね。独立後、お店が軌道に乗るまでに時間はかかりましたか?

五十嵐 そうですね、告知も一切しなかったので……。でも、地元の人に愛されるお店をゆっくり育てていきたいという思いがあったので、独立直後は楽しくて仕方なかったです。ついていきたい、と実家の店から来てくれたスタッフもとてもいい子たちばかりで、人にも環境にも恵まれて。独立してから5年後には結婚もしました。

ぶしつけな質問かもしれないのですが、お仕事をとても大事にされてきた分、ご結婚のタイミングに迷ったりはしなかったですか?

五十嵐 独立した33歳のとき、自分の人生に優先順位をつけてみたんです。料理人として生きたい、というのがいちばん上にくるのは確実でした。その次に、必須ではないけれど、もしもいいパートナーがいたら結婚したいなと。

知り合いに言われた「自分がいちばん輝いているときに出会った人と一緒になるのがいいよ」という言葉が心に残っていたのもあり、独立して本当に好きなことができるようになってから出会ったいまの夫と、素直に結婚したいと思えたんです。

その後、40歳のときにはお子さんも出産されていますよね。お子さんが産まれてからは、どうしても働き方を調整しなければいけないタイミングもあったのではないかと想像するのですが、いかがですか。

五十嵐 息子を産んだときもギリギリまで仕事をしていたんですが、大量出血を2回くらいしてしまって。もちろん仕事を手加減しない、というのは私と夫で話し合って選択したことだったのですが、産まれた子どもを見たときに「私は自分の都合でひどいことをしてしまった」と一気に罪悪感が湧いてきて、初めて人前でワンワン泣いたんです。

それで、お店のスタッフとも改めて話し合いをして、仕事を半分くらいに減らしました。命という、自分だけではどうにもならないことがある、というのをそのときに初めて痛感したんだと思います。

五十嵐さん

なるほど……。自分のお店、というプレッシャーがあると、仕事を減らすという選択をするのも難しいのだろうな、と感じます。

五十嵐 スタッフみんなの生活もありますしね。子どもがかわいくて一緒にいたいという気持ちも強いし、仕事もしたい。なので出産後はそれまで以上に、先手先手でやるべきことを意識するようになりました。

それでも、子どもといられる時間が短いことに申し訳なさも感じていた時期もありました。ただ息子を診てくださっている小児科の先生が「料理をするのが五十嵐さんにとって幸せだということを、息子さんに伝え続けてあげてほしい」と言ってくださったのにはとても救われて、それはずっと意識しています。

確かに救われる言葉ですね。

五十嵐 昔は全然わがままを言わない子だったんですが、いまやっと5歳になって、きちんと自分の気持ちを伝えるようになったので少しホッとしています。最近、泣いていても「ママがぎゅってしてくれないと僕は泣き止まないから」とかめちゃめちゃ言うんですよ。我慢しない子になってくれてよかったな、と思っています。

家庭向けには、作りやすく、作って感謝される料理を

少し話題は変わるのですが、中華料理界には比較的、女性の料理人さんが少ないイメージがあります。そんな中で、五十嵐さんが目標とする料理人像をどうやって定められてきたのかをお聞きしたいです。

五十嵐 和食の女将さんに相談をしたりすることはあったんですが、中華には確かに身近な女性の先輩っていなかったですね。やっぱり鍋を振る動作や火力が重要なので、正直体力面的にも厳しいです。ただ、20代のときから修行に行っていたお店でオーナーシェフの方に言われた「食材のことを徹底的に学んで、お客さまに食材がおいしかったねと言ってもらえるようなシェフになりなさい」という教えは確実に自分が目指す料理人像のベースになっていると思います。

あと、軸がぶれそうになることがあると夫に相談しますね。夫は私の料理のいちばんのファンなので(笑)、迷いがあると真っ先に気付いてくれるんです。夫がおいしいって言ってくれたらそれでいい、というくらい彼のことを信頼しているんです。

その信頼関係はとても素敵ですね……! それから、五十嵐さんはいまもテレビ番組などに出演されることも多いと思うのですが、いつも家庭向けに再現しやすい料理を作られているなと感じます。お店で作られている料理と家庭向けのレシピの開発とでは、意識される点も違いますか?

五十嵐 私はそのとき誰に向けて料理を作るのか、というのを大事にしていて、それ以外のことは一切考えないようにしています。

自分のお店では、いまお話したように食材を生かした料理、毎日でも食べられる中華というのを意識しているんですが、テレビ出演や料理教室で一般の方向けに料理を教える際には、作りやすさと、それを食べる人が喜んでもらえるかどうかを重視しています。

五十嵐さん

作りやすさや作ったときに喜んでもらえるかどうか、という基準は、五十嵐さんご自身がお子さんに食事を作られるようになって実感されたことでもあったりするのでしょうか?

五十嵐 それはあると思います。息子が3歳くらいのときに、「いちばん好きな食べものは?」と聞いたら彼が「わかめごはん」って言ったんですよ。よくよく聞いたら保育園が延長になったときに、子どもたちみんなで残って食べるときのメニューがわかめごはんだって言うんです。

それを聞いたときに、どんなにいいもの、手の込んだものを作っても、楽しかったという思い出には敵わないこともあるんだなと思って。せっかく時間をかけて作っても、相手が喜んでくれなかったら意味がないじゃないですか。だったら、作る側の負担ができるだけ少ないものというのが一番いいんじゃないかなと思うんです。それに加えて、食べる人も喜んでくれるレシピを考えるのが一番いいな、と。

それは本当におっしゃるとおりだと思います。

五十嵐 だから、料理を作ったときに食べる人から「ありがとう」と言ってもらえるような味、というのはキーワードとしてとても大事にしています。

最近では仕事の一環でフードロス削減や食育活動にも取り組んでいるんですが、どちらも生産者の方や料理の作り手に「ありがとう」という気持ちを持つことだと思うので。

なるほど。五十嵐さん、改めてお聞きするとお店から料理教室、食育活動まで、本当に多種多様なお仕事をされていらっしゃいますよね……。

五十嵐 (笑)。いまは中華の調味料の開発なども進めているんです。共働きの家庭などだと料理をしたくてもなかなかその時間がとれないという人も多いと思うので、「野菜を切ってその調味料さえ入れればめっちゃおいしい」みたいなものが作れたらいいと思っていて。

買ってきたものでも、切って炒めただけのものでも、おいしくて、食べた人が喜んでくれればそれでいいんですよ。料理人として、私がめっちゃおいしくするところまでは全部やるので(笑)、そういうものも活用していただければな、と思っています。

最後に、五十嵐さんのこれからの目標を教えてください。

五十嵐 私自身、大きく体調を崩したり子どもを産んだりといったときにはいろんな方に相談しながら自分の働き方を決めていきました。その度に、周りの先輩たちにずっと「人間なんだから、ぶれたり間違えたりしてもいい」と言ってもらい続けてきたので、私も若い人たちにそれを伝えていければと思っています。中華に限らずまだまだ日本には女性の料理人が少ないので、楽しく自立して働いていける環境もある、ということを示していきたいです。

笑顔の五十嵐さん

取材・文:生湯葉シホ
撮影:関口佳代
編集:はてな編集部

お話を伺った方:五十嵐美幸さん

五十嵐美幸さん

1974年東京都東村山生まれ。小学生の頃から生家の中国料理店の厨房に入り14歳から調理を始める。高校卒業後、18歳で正式に厨房に。1997年、当時最年少挑戦者としてフジテレビ『料理の鉄人』に出演。一躍、中国料理界の新星として脚光を浴びる。以降、数々の雑誌、テレビ番組に出演。 現在は、「中国料理美虎(みゆ)」にてオーナシェフとして腕を振るいながら、料理教室、独自の料理の企画・開発、食育活動など様々な料理関連の活動を精力的に行っている。
Web:中国料理 美虎 五十嵐美幸シェフのお店トップページ

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山崎ナオコーラさんが子どもを産んで変わったこと。「稼ぐことが仕事の全てじゃない」

山崎ナオコーラさんが子どもを産んで変わったこと。「稼ぐことが仕事の全てじゃない」

“子どもを育てるのはえらいって言われるのに、自分を育てるのはえらいって言われないのは、なんだか変だなって常々思っているんですよ。” 

──作家・山崎ナオコーラさんが2019年に発表した小説『趣味で腹いっぱい』に、こんなせりふが登場します。

本書は、働き者の夫・小太郎と、働かずに“趣味”に没頭する妻・鞠子の生活を描いた物語。経済的な自立はせずとも伸び伸びと趣味を楽しむ鞠子の姿を通して、働くこと、生活すること、趣味を楽しむことの意味を問いかけるような1冊です。

この本の著者の山崎さん自身は、「仕事にこだわり過ぎて趣味を軽視していた」過去があるといいます。今回はそんな山崎さんに、仕事や趣味に対する考え方の変化や「育児の人」と周囲から思われることの葛藤などについて、お話をお聞きしました。

「稼ぐことが仕事の全てじゃない」とやっと思えてきた

山崎さんが以前、インタビューの中で「小説を書いていることが友人からは“趣味の一環”と思われがち」とお話しされていたのが印象的だったんです。その言葉に「いや、小説は仕事だ」と言い返したい時期もあった、とおっしゃっていて。

山崎ナオコーラさん(以下、山崎) デビューしたばかりの20代の頃は、友人に「作家って空いた時間にできる仕事だからいいよね」と言われるのがショックだったし、嫌だったんです。

私自身、もともとは会社員をしながら新人賞をとって作家になっているので、「作家だって会社員と同じだよ、税金もちゃんと払ってるよ」と思って(笑)。当時は、自分のアイデンティティが仕事にあると思って生きていた気がします。

一方で、2019年に発表された『趣味で腹いっぱい』(河出書房新社)は、経済的な自立をせずに“趣味”に打ち込む人を肯定するような小説ですよね。拝読して、山崎さんの中で仕事や趣味というものに対する考えが少し変わってこられたのかな、と感じたんですが。

山崎 そうなんです。昔は趣味というものをどこか軽視していたんだと思うんですけど、だんだん考えが変わってきて、それを反省しまして……。

そもそも、働いている人だけが社会人だっていう考え方は違うんじゃないか、お金を稼いでいる人も趣味に没頭している人も、社会参加をしていることに変わりはないんじゃないかと思うようになってきたんです。

山崎ナオコーラ『趣味で腹いっぱい』

山崎ナオコーラ『趣味で腹いっぱい』(河出書房新社)

それには、なにかきっかけがあったんでしょうか?

山崎 結婚して子どもが産まれたり、あとたぶん、私自身の本が昔ほど売れなくなってきたりしたこともあるのかもしれません。収入が減って、独身の頃みたいに自由にお金が使えなくなってきたら、この先の人生やっていけるのかな、という不安が大きくなってきて。

……それまではお金を稼いでいるということにプライドがあったんですけど、それがなくなってくると、どう自分の仕事に自信を持てばいいのか分からなくなるんですよね。このまま依頼が減って仕事がなくなるんじゃないか、という焦りもありましたし。

確かに、「このまま仕事がなくなったら」という想像はとても怖いですよね……。

山崎 子どもが産まれたときも、じつは最初保育園に落ちてしまったんですけど、同い年の子どもがいる他の作家仲間とかはみんな入れて。そのとき自分の仕事がちょっと下降気味だったこともあって、「やっぱりいい仕事をしてる人たちは保育園に入るべきだよな」みたいな気持ちになってしまったりして。……でも、たとえ売れていなくてもいい仕事はいい仕事だ、となんとか自分を奮い立たせたんです。それには、夫の影響もあったんですけど。

パートナーの方は書店員をされている方なんですよね。

山崎 そうです。その夫が、多様性を肯定するためには少ない部数の本も書店になくてはいけないんだという話をしていて、本当にそのとおりだなと思って。夫自身も、収入が多いわけではないけれど信念をもって書店員をしている人なので、その姿を見ていたら、稼ぐことが仕事の全てじゃないし、売れない本でも出すこと自体に意味があるはずだとやっと思えるようになってきたというか。

稼ぐことが仕事の全てじゃない、本当におっしゃるとおりだと思います。

山崎 でもそこで、稼げる仕事と稼げない仕事、売れる本と売れない本に違いがなくって、お金をどれだけもらえるかは仕事の価値に関係ないとしたら、仕事と趣味というものの線引きもすごく曖昧になるな、と気づいて……。

そう思うようになったら、仕事は趣味とは違うもの、大事なもの、と捉えていた自分が恥ずかしくなったんですよ。そういった考えの変化が、小説『趣味で腹いっぱい』につながったんだと思います。

山崎ナオコーラさんが子どもを産んで変わったこと。「稼ぐことが仕事の全てじゃない」

自分のことも「他人」のように扱えるのがいちばんいい

さきほど、“お金を稼いでいる人も趣味に没頭している人も、社会参加をしていることに変わりはない”とおっしゃっていましたよね。趣味も社会参加につながる、ということについてもうすこし詳しくお聞きできますか。

山崎 今、時代的にも、働くことに対する考え方がだんだん変わってきていますよね。働き方改革が始まったり、長期休暇や育休がとりやすい企業も前より増えてきたり。単純にたくさん労働すればお金が稼げる、ではなくって、みんなそれぞれの人生を大事にした方が結果的に生産性が上がるんじゃないか、という考え方が社会に広く共有されるようになってきたのかなと思うんです。

そんな流れの中で、どれだけお金を稼ぐかだけでなく、どこにお金を払うか……つまり、仕事じゃなく消費も立派な社会参加だということを書きたいな、と思うようになってきて。例えば、震災に対する義援金を送ったりするのも社会を動かすことのひとつだし、働いて稼ぐことだけが経済活動、社会参加ではないなと。

社会参加、ということは昔から強く意識されてきたんですか。

山崎 「社会派作家」になりたい、という意識は前からありますね。30歳くらいのときからだったかな、社会にコミットしている感覚がほしいと強く思うようになって。30代になって周りを見たときに、他の人たちがみんな社会的な活動をしているように見えたんです。でも、文学っていわゆるお米を作ったりサービスを提供したりする仕事と違って、“人のためになってる感”があまりないじゃないですか。

直接的には感じにくい、ということですよね。

山崎 そうです、どうしてもただの考えごとみたいに思われがちな分野を仕事にしているので、実感として社会を動かしている感覚が薄いと思うんですよね、作家は。

でも、先程お話ししたような考えの変化もあって、銀行の話だとか国と国で大きなお金が動くみたいな話をしなくても、喫茶店のコーヒーに1杯いくら払うかとか、趣味にどうお金を使うかとか、そういう自分なりの「経済小説」を書くことで社会派作家を目指していけばいいんだと、今は思っています。

山崎ナオコーラさんが子どもを産んで変わったこと。「稼ぐことが仕事の全てじゃない」

今のお話とも少し重なるかと思うんですが、『趣味で腹いっぱい』の中で、登場人物が「子どもを育てるのはえらいって言われるのに、自分を育てるのはえらいって言われないのは、なんだか変だなって常々思っている」と語るシーンがとても印象的だったんです。

山崎 ありがとうございます。

消費も立派な社会参加だ、という認識が世間的にも広まってきているのはおっしゃるとおりだと思うのですが、やっぱりまだまだ、家族のためではなく、自分自身に時間やお金を使うことがよくないこと・わがままなこととされてしまう風潮があるようにも感じていて。『趣味で腹いっぱい』に関してももしかしたら、「働かないで趣味に没頭するなんて」という反響もあったのかなと想像したのですが。

山崎 うーん……そういう方もいるのかもしれないですね。でも、「趣味に没頭していることを隠さなきゃいけないと思って生きてきたけれど、言っていいんだなと思えた」というご感想もいただきました。

ああ、それはうれしいですね……!

山崎 そうですね、うれしかったです。「誰かのために」みたいな空気がたぶん昔はもっと濃厚にあって、「趣味で◯◯しているんだ」みたいな、「自分のための話」をすると引かれるんじゃないか、というプレッシャーがある方も多かったのではないでしょうか。

個人的には、自分のことも他人みたいに扱うのがいちばんいいんじゃないかなって思います。社会とか地球をよくしたいって考えたときに、とりあえず家族や友人にやさしくしよう、という発想になりがちだと思うんですが、いちばん簡単なことって自分にそうすることですよね。自分も社会の一員だって考えて、自分のことも他人みたいに大事にできたらベストなんじゃないかなって思いますね。

「女性作家」ではなく「作家」なのだ

ちょっと話題は変わるのですが、山崎さんは現在、「肩書きは、作家と親だけ」とTwitterのプロフィールに書かれていますよね。性別も非公表、とされていて。そう書かれるようになった背景をお聞きできたらと思うのですが。

山崎 そうそう、「作家と親」って書いてますよね。お話ししたとおり、若い頃は趣味じゃなくって仕事としてやってます、って言いたかったから「作家」という肩書きに誇りを持っていたと思うんですけど、今はなんか別に作家じゃなくてもいいって気がしますね……作家って書くのもやめようかな(笑)。他にいい言葉が思い浮かばなくって。

スクリーンショット

山崎(@naocolayamazaki)さんのTwitterトップページ(閲覧日:2020.02.13)

「人種も国籍も年齢も容姿も捨てました」とも書かれていますよね。

山崎 昔は単行本に載るプロフィールなどを編集の方などに書いていただいていたんですけど、お任せするとだいたい、年齢とか性別とかこれまでに受賞した文学賞がずらずらって並んだプロフィールになるんですね。それを見ていると、年齢と性別と受賞歴だけが自分みたいな気がだんだんしてきてしまって……その、つらいんですよ(笑)。

ああ、それは確かにつらいです。

山崎 「〇〇賞候補」とか書かれても、だからなんなんだ感が個人的にすごくあって(笑)。文字数の無駄に思えたので、プロフィールを自分で書くようにして、最近はだんだんその時点での目標とか、勝手なフレーズを入れるようになってきたんです。「こんなプロフィールで大丈夫かな?」と最初は思っていたんですが、意外と通るんですよ。じゃあ特に性別とか年齢とかはいらないかなって。性別とか年齢とかって、仕事をするときにどうしてもそればかり注目されがちなんですよね。

そうですね、作家の方に限らずそうだと思います。

山崎 私はデビュー作が『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)という男性視点の小説だったので、「女性なのにどうして男性視点で書いたんですか」とか「女性からの意見を聞かせてください」みたいなインタビューが、デビュー直後は本当に多かったんです。

それに対して、私はただ作家になりたかったのに、ってすごく思って。……私は谷崎潤一郎みたいになりたいと思って作家を目指したものですから、作家じゃなく女性作家という仕事に就いたかのような扱われ方をしたのがつらくって。

「女性」の部分だけに注目され続けるのには違和感を覚えますよね。

山崎 だからプロフィールにも「性別非公表」って書くようになったんですよ。実際のところ(性別が)伝わってはいても、「でも私、仕事上では性別を公表してないんで」と自分の中で思っていれば楽になるな、と。

「いい」「悪い」でジャッジする感覚が、なくなるといい

そういえば以前、山崎さんが『「育児の人」「育児の話をしたがっている人」と思われて、もう「文学の人」「文学の話がしたい人」だと思われないことがつらくてたまらない』とツイートをされていたのを拝見したんですが、今のお話に少し近いような気がします。

山崎 確かに。でも自分で育児のエッセイも書いているので、これは本当にちょっとした愚痴ですね(笑)。小説の打ち合わせに行ってもみなさん育児の話をしてくれることが多くて、たぶんよかれと思ってその話題を振ってくれていると思うんですけど、私が文学者としての仕事ができてないからなのかなあ、みたいなことをふと思って。

個人ではなく、「〇〇の人」としてしか見られないことが続くとモヤモヤしますよね。特に会社員の方だと、「女性目線」「働くお母さん目線」の意見を求められることもあると思いますし、逆に自分が無意識にそれを要請してしまっているかも、という怖さもあります。

山崎 「女性」とか「育児の人」は特にそうですよね。でも、私もイベントなどで育児をテーマにお話しすることもありますし、私自身このモヤモヤをどうすればいいのかは正直よく分からなくて。難しいですよね……。

あ、ちょっと思うのが、少子化もあって「育児をしている」というのがとてもいいことだと思われがちだから、みんなよかれと思ってその話を振ってくれるのかな、と。「最近病気しちゃって」という話にはあまり触れないようにするのに、「最近育児で忙しくて」だといいみたいな。でも、人の人生に起きるいろんなできごとを、いいとか悪いっていうふうにジャッジする感覚自体が世の中からなくなるといいんじゃないかなって気がします。

なるほど、確かにそうですね。

山崎 仕事をしながら育児をしていると、どうしても一時的に働き方を変えなきゃいけないタイミングがあるじゃないですか。でも、育児に限らず、自分の病気や家族の介護みたいな各々の事情があって、働き方を調整しなきゃいけない時期って全員にあると思うんですよね。

趣味のために会社を早退するのはなんだか引け目を感じる……みたいなこともありますよね。

山崎 そうそう、そこの差をなくした方がいいですよね。本当は、「きょうは気が乗らないから休みたいです」みたいなことも通る世の中になったらすごくいいですよね。

最後に、山崎さんは今後、ご自身のお仕事とどのように向き合っていきたいと考えられていますか? さきほどお話しいただいた考えの変化なども含めて、あらためてお聞きしたいです。

山崎 今は、極力「仕事」とか「働く」という言葉は使わないで文学活動をしていけたらと思っています。さっき話題に出た「育児の人」のツイートをしたときに、友人の小林エリカちゃんが「でも、育児してるときも文学してるよね」みたいな返信をくれたんですよ。

それを見て、労働だけが社会参加じゃないっていう考え方が社会に浸透してきつつあるように、育児しながら考えごとをしてるとか、なんとなくの雰囲気づくりをしてる、とかもぜんぶ文学の仕事かもしれないって思って。書いている時間は仕事で、書いていない時間は育児、というような線引きはもしかしたらいらないのかもしれないな、と。だから現状は極力、「仕事だから」みたいな言い方をしないでいろいろやってみようかなと思っています。

山崎ナオコーラさんが子どもを産んで変わったこと。「稼ぐことが仕事の全てじゃない」

取材協力:May cafe

取材・文:生湯葉シホ
撮影:小野奈那子
編集:はてな編集部

お話を伺った方:山崎ナオコーラさん

山崎ナオコーラさん

作家。親。性別非公表。ついでに人種も国籍も年齢も容姿も捨てました。肩書きは、作家と親だけで。0歳児と4歳児と暮らしています。小説『リボンの男』(河出書房新社)、エッセイ『ブスの自信の持ち方』(誠文堂新光社)、賞に頼らず売れてやる。

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「私には本しかない、とは思わない」出会い系サイトで本をすすめまくった書店員の“流される”生き方

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2018年に出版され、大きな話題を呼んだ実録小説『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』(通称:『であすす』)。本書の著者である書店員・花田菜々子さんは、2013年からの1年間、実際に出会い系サイトを利用して出会った70名の人たちに「本をすすめまくる」活動をされていた異色の経歴の持ち主です。

「本をすすめまくった1年間の前と後では、自分の人生がはっきり分かれている気がする」と語る花田さんに、本をすすめる活動を経て感じられたことやその際に意識されていたこと、理想とする生き方や働き方などについて伺いました。

「アホだなあ私」と思うような行動をすることが必要だった

花田さんはもともと、SNSなどはあまり積極的に使わないタイプだと『であすす』に書かれていましたよね。Facebookなども使ったことがなかった、と。

花田菜々子さん(以下、花田) そうですね。SNSにはずっと苦手意識がありました。

本の冒頭で、そんな方がとても自然に出会い系サイトを使い始められたことにまずちょっと驚いたのですが、花田さんにとって「出会い系で知らない人に会う」というのは、そんなにハードルの高い行動ではなかったんでしょうか?

花田 いえ、いま振り返ると、自分でもずいぶん荒療治だったなと思いますよ(笑)。本に書いたとおり当時(※2013年)は仕事に行き詰まっていて、夫とも半別居のような状態だったので、とにかくなにか環境を変えてみたかったんです。

そういうときに習い事をしてみたり趣味のサークルに入ってみたり、という選択をする方は多いと思うんですが、そんな生ぬるい……というか無難な体験では、自分の負った傷は癒えないんじゃないかと思ったんですよね。

あえてハードな場に飛び込んでみようと。

花田 そうですね。一度ガツンと殴られるような思いをしないとなにも変わらないような気がしていたので、自分から見ても「アホだなあ私」と思うような行動をとることが当時は必要だったというか……。やっぱりその頃は元気もなかったので、「こんなヘンなことをしている自分ってちょっと面白いよね」みたいなイメージを持つことで、自分のことをどうにか支えていたというのはあるのかなと思います。

それと、私が使っていた出会い系サイトは出会いの目的を恋愛に限定しておらず、あくまで「知らない人と30分だけ会って話してみる」という場を提供するサービスだったんですよ。そのアイデア自体も面白いなと思いましたし、「ここでなにかをしてみたら世界が広がるかもしれない」という直感があって。実際に、サイトで本をすすめまくった1年間より以前とそれ以後では、自分の人生がはっきり分かれているような気はします。

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サイトで会った人に本をすすめるという活動を始められた当初は、性的なことをストレートにぶつけてくる人がいたり、不快な思いもしたと著書に書かれていましたよね。知らない人と会うのをやめたくなることもあったのではと思ったのですが、いかがですか。

花田 確かに、同性の読者からは「自分だったら最初の何人かで心が折れてたと思います」というご感想を頂くこともあります。

熱心に本をすすめた相手が実は自分に性的な関心しか抱いていなかった、というときはもちろん私もがっかりはしたんですが、それ以上に「そうか、出会い系にはこういうこともあるのか」と世界のしくみをひとつ知れたみたいな気持ちでいたので、わりと平気でしたね(笑)。もちろん困った人もときどきはいたんですが、サイトで出会った70人の中にはいい人や面白い人の方が圧倒的に多くて。

基本的にはとても出会いに恵まれていたなと思いますし、その時期は友人が急にブワッと増えたので、休日のスケジュールを調整するのが大変なくらいでした。

なるほど、それをお聞きしてちょっとホッとしました……。

花田 お会いした人の中には「いま仕事してないんだよね」という人や「これから起業しようと思ってる」みたいな人も結構いて、「あ、意外とみんな自由なんだな」と思えたのも経験として大きかったです。

会社がつまらなかったり家庭がうまくいかなかったりして、仮にその場所を失ったとしても、面白い場所って他にもいくらでもあるのかもしれないなと思えたというか。頭では分かっていたつもりだったんですが、実際に人と会いまくったことでそれを本当に信じられるようになった、という気がします。

出会い系での1年を経て「無理だ」とすぐに思わなくなった

花田さんは「出会った70人に本をすすめまくる」経験のあとに、転職と離婚という人生の転機を迎えられていますよね。そういったできごと以外にも、なにかその1年を経てご自身の中で変化などはありましたか?

花田 いま言ったことにも近いんですが、場数を踏むことって大事だなとあらためて思うようになりました。人に本をすすめるという行為って、当たり前ですがとにかく実際に人に本をすすめてみることでしかうまくならないんです。実際に70人に会ったことで、どういうふうに本を紹介すれば人が興味を持ってくれるのか、という実験をたくさんさせてもらったような気がしますし、活動を始めたときよりもはるかに短い時間で相手の方がどんな本を求めているかが分かるようになりましたね。

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そのスキルはいまのお仕事にもつながっていますよね。例えば他にもなにか、性格的な面での変化などってありましたか?

花田 なにか行動を起こす前に「無理だな」とは思わなくなったような気がします。昔はすごくやってみたいこと、憧れていることがあっても「そんなことできるわけない」って思うことが多かったんですが、「いや、やってみたら意外とできるかも」と思えるようになったというか。

本に書かれていた、京都の憧れの書店の店長さんに会いに行くことなどもそのひとつだったんでしょうか。

花田 そうですね。もちろんそれまでも、自分から連絡をすれば会っていただけるかもしれないとは分かっていたんですが、「自分なんて……」みたいな遠慮の気持ちがあって。でもその1年間を経てタガが外れたというか、「絶対に無理」と思う前に「会っていただくにはどうしたらいいんだろう?」と考えられるようになったんだと思います。

……あっ、それで言うと、本を出すという目標も同じだったのかもしれないです。『であすす』を出す前に、実は友人と企画して『まだまだ知らない 夢の本屋ガイド』(朝日出版社)という本を出版しているんですが。

本を出すということも、もともとは「絶対に無理」と思われていたんですか?

花田 昔だったらそうだったと思います。その本は出会い系での1年を経て転職したあとに出したんですが、一緒に本をつくった友人には散々「出版なんか無茶だよ」と言われ続けていました。で、私はずっと「いや分かんないよ、出せるかもしれないじゃん」と言い続けていて(笑)。

あるとき友人をうまく乗せて、「じゃあもしも仮にこの本が出せるとしたら、どこの出版社から出したい?」と希望の出版社をランキングにして5つ挙げてもらったんです。それを聞き出したところで、「じゃあこの1位の出版社から順番に乗り込んでみようか」と。友人は引いてたんですけど、結局、第一希望だった出版社から本当に出版していただくことができたんですよ。

すごい行動力ですね……!

花田 だからそういう図々しさというか、調子に乗ることも意外と大事だと気づいたんだと思いますね。もしもそれで出版社5社に断られていたとしても、こっちに失うものもないですし。出会い系での1年が、自分を必要以上に抑える、みたいなストッパーを外してくれたんだと思います。

星座文庫

作家の星座別で分けた「星座文庫」のコーナー。同じ誕生日の作家が書いた本に出会えることも

人に本をすすめるときにいちばん意識していること

「本をすすめる」という行為についても少しお聞きしたいのですが、初対面の人と会話をしながらその人にぴったりの本をすすめることって、単に本の知識やコミュニケーション能力があればできるものではないように思います。 花田さんが人に本をすすめるとき、相手の方のお話をどういうふうに聞かれているのかが気になるのですが……。

花田 いちばん意識しているのは相手が話すことを否定したり自分の意見を押しつけたりは絶対にしないということですね。

相手が話すことを否定しない、意見を押しつけない、というのは「本をすすめる」ときだけでなく日頃の対人コミュニケーションでも大事かもしれませんね。

花田 そうかもしれませんね。「本をすすめる」場合の話をすると、例えば「失恋してしまって恋人のことが忘れられない。なにかいまの自分に合う本を教えてください」というお客様がいらしたとして、「だったら早く忘れたいですよね」とか「新しい恋人を探した方がいいですよね」ということを私が言うのは違うと思っています。

その方が「新しい恋愛をしたいと思っています」と言うのであればそれに合う本を探すようにしますし、「忘れられなくて苦しいです」と言うのであればその苦しみに対しての本を探す、というイメージです。

なるほど。中には、そこまで具体的に自分の読みたい本の方向性やジャンルを決めないで来られる方もいるのかなと思うのですが。

花田 確かに、『であすす』を出したこともあって、自分でもなにが読みたいのか分からないけれどなにかすすめてほしい、という方もときどきお店に来てくださいます。お店だとどうしてもお話できる時間が短いので、そういうときにはこちらもなるべく早めに的確な回答を引き出せるよう、その方が出されたキーワードからひとつひとつお話を聞いていっていまのお気持ちを知ろうとしていますね。

もしも悩んでいらっしゃることがあるようだったら、「いまどういうお気持ちですか」と聞くよりは、「それはうれしい気持ちと不安な気持ちであればどちらに近いですか?」という形で聞くようにしています。

チャートのように絞っていくイメージなんですね。

花田 極端な話、本を紹介するという最終目的がなければ「そうなんですね」「大変ですね」とずっとお話を聞くだけでいいと思うんですが、やっぱり相手の方にすすめるための1冊を決めるとなると、質問がどうしても具体的にならざるを得ないんです。「それって旦那さんに対する怒りですか、それともお子さんに対する怒りですか?」みたいに2択で聞いていかないと本が選べないので。

そこまで具体的な形で聞いてもらうと、漠然と考えていたことでもかなりクリアになっていくような気がします。

花田 やっぱり「本を探す」というひとつの目的があると、ただ漫然とお話を聞くよりも芯を食ったやりとりになりやすいのか、悩みや考え事がひとつ前に進んだ、と言っていただくことも多いです。

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(写真左)店内には趣向を凝らした装飾が至るところに。(写真右)このPOPは「新井賞」でおなじみの新井見枝香さん作なのだそう。

「自分には本しかない」とは決めつけない

個人的に『であすす』でとても印象的だったのが、“これからもどんどん流されてどこかへ行き続けるのだろうか。ならばどこまでも流れていって見てやろう”という、花田さんの人生観ともとれる言葉でした。花田さんは実際に“流される”生き方を理想とされているんですか?

花田 ああ、そうだと思います。「〇〇歳までに家を建てたい」とか「5年後までに年収を〇〇円にしたい」みたいなものが、たぶん私にはあまりピンとこなくて……。

将来のビジョンがイメージできない、という人は花田さんに限らず一定数いるように思います。

花田 数年後を見据えるのって正直難しいですよね。私の場合は、どこかに旗を立ててその場所をひたすら目指すというよりは、たまたまそのときに流れてきたものに飛び乗ってみる、みたいな生き方の方がもともと好きなんだろうなと思います。自分がそう思っているからなのかたまたまなのかは分からないんですが、実際にここ数年は転職が続いていて。

ひとつ前の職場もこのお店(HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE)への転職もそうなんですが、「やってみませんか」というお話をいただいた形だったんです。そう言っていただいたからにはめちゃくちゃ頑張ってみようかな、というスタンスでこれまでやってきているので、私は流されるままの方が結果的に面白い仕事に出会えるのかな、と思ったりもします。もちろん、どこに流れ着いてもいい、というわけではないんですけど。

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HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGEの様子。華やかな装飾が目を引きます

どこでもいいというわけではない、と言うと?

花田 多分、野心が強いタイプなんです。このお店も前職も新しい店舗を一からつくるというタイミングでの転職だったんですが、そういうふうに、できるなら新しいことをやりたい、新しい場所でチャレンジしてみたいという気持ちがあって。流れ着いた先で自分の持っているものを精一杯ぶつける、というのが合っているのかなと感じます。

例えばですが、今後、いつか流れ着いた先にある仕事が書店員さんではない可能性もあったりするんでしょうか。

花田 本屋以外の仕事ですか? やってみたい!(笑)書店員をやり始めてもう 20年くらいになるので、極端に言えば「書店で初めて自分の棚を持っておすすめ本を並べた瞬間」のようなフレッシュな感動は、もう二度と味わえないと思うんですよ。

もちろんこれまでの20年の蓄積があるからこそやれることもあると思いますし、実際にまだまだやりたいこともあるんですけど、一方で書店員以外の人生も味わってみたいな、と思ったりもします。

やっぱり対面でお客様とお話して本をすすめていくときのライブ感は大好きなんですが、その仕事しかできない、というのは思い込みかもしれないですもんね。……私、大学生のときにパンを製造するアルバイトをしていたことがあるんですけど、実はいまだにあれに勝る楽しい仕事はないって思っていて。

えっ、そうなんですか!?

花田 クリームパンにクリームを入れたりする仕事だったんですけど、焼き上がったパンがラックにどんどんたまっていくので、ラックいっぱいになる前に仕上げて店頭に出さないといけなくて、テトリスみたいな感じだったんですよね。「○時までにここのパンは全部出そう!」ってバイトのみんなで頑張るのが最高に楽しかった記憶があって(笑)。

花田さんのお仕事遍歴の中では異色ですよね。意外でした……。

花田 だから多分、自分にはこれしかないはずだって決めつけない方がいいですよね。私には本しかないって思ったら選択肢が狭まってしまうだろうし、いつまで(本の仕事を)やるか分からないという気持ちがあるからこそ、やれるうちに全力を尽くしておこう、という気持ちがあります。

いつかまたパン屋さんがやりたくなるかもしれないですし、もしかしたら10年後、20年後には掃除のプロフェッショナルとかになっているかもしれないですから(笑)。そういう人生の可能性もあるのかな、と思うと、これから先がちょっと楽しみになったりはしますね。

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取材・文:生湯葉シホ
撮影:関口佳代
編集:はてな編集部

『であすす』文庫版発売!

であすす
(河出書房新社)

夫に別れを告げ家を飛び出し、宿無し生活。どん底人生まっしぐらの書店員・花田菜々子。そんな彼女がふと思い立って登録したのが、出会い系サイト「X」。プロフィール欄に個性を出すため、悩みに悩んで書いた一言は、「今のあなたにぴったりな本を一冊選んでおすすめさせていただきます」ーー。

悩みまくる書店員・花田菜々子が初めて書いた、大人のための青春実録私小説『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』待望の文庫版が発売!

お話を伺った方:花田菜々子さん

花田菜々子さん

1979年、東京都生まれ。「ヴィレッジヴァンガード」に12年ほど勤めたのち「二子玉川 蔦屋家電」ブックコンシェルジュ、「パン屋の本屋」店長を経て、現在は「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」の店長を務める。編著書に『まだまだ知らない 夢の本屋ガイド』(朝日出版社)がある。2020年3月には「であすす」の続編ともいえる実録私小説『シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか問題」のこと』が河出書房新社より発売予定。
Twitter:@hanadananako

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阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

「他人なのに顔が似ている」という理由で2007年にコンビを結成して以来、シュールなネタとどこか力の抜けたスタンスでじわじわと人気を集めてきたお笑いコンビ・阿佐ヶ谷姉妹。近年では阿佐ヶ谷のアパートでの同居(※現在はアパートの隣同士)生活や、老後に友人や家族とひとつのアパートに暮らす「阿佐ヶ谷ハイム」の構想が話題になったりと、おふたりの生き方・暮らし方も注目されつつあります。

そんな阿佐ヶ谷姉妹の姉・渡辺江里子さんと妹・木村美穂さんに、今回は「思い出づくり」として取り組まれているという仕事の話を軸に、下積み時代のことや、外野からの言葉への向き合い方、「息切れしない程度に働く」ためのコツなどを伺いました。

30代半ばまで続いた「モヤモヤ期」

今日はおふたりに、お仕事に対するスタンスやこれまでの働き方について伺えればと思っています。

渡辺江里子さん(以下、エリコ) 私たちって働いてるの?

木村美穂さん(以下、ミホ) 他の人よりのんきかもしれないけど働いてるんじゃない?

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

妹・木村美穂さん(左)と姉・渡辺江里子さん(右)

もともとエリコさんとミホさんは、芸人としての活動を始める前に「東京乾電池」という劇団にいらっしゃったんですよね。おふたりとも、大学卒業後にすぐに劇団に入られたんですか?

ミホ 私は短大を出たあと一度就職してるんです、百貨店に入っていた寝具屋さんに。でもちょっと販売とか向いてないな、と気づいて短期間で辞めてしまって、そこから劇団に研究生っていう形で入って……。

エリコ 当時はお芝居とお笑いがすごくはやっていて、テレビなんかでもよく放送されてたのよね。東京乾電池という劇団は特に、お芝居とお笑いをニュートラルに行き来するような舞台をずっと作られていたので、ああ面白そうだなと思って。私は大学4年生のときにそこに入らせていただいたんですけど、ミホさんも私も、劇団には1年しかいなかったんです。

そうだったんですね、もっと長く在籍されていたのかと。

エリコ 正確には「劇団員」としては在籍すらしていないんです。研究生として授業やお稽古を1年間受けて優秀であればそのまま劇団員になれるということだったんですけど、私たちは優秀ではない、もろもろの方に入ってしまって。

ミホ 残れなかったのよね。

エリコ そうなんです。当時はなんとなく、研究生からそのまま劇団員になれれば楽しい気持ちのままで社会人デビューできるのかなあ、なんて思ってたんですけど、大学の卒論と教育実習、劇団の活動がぜんぶ重なっちゃったものだからなにもうまくいかなくって。

ミホ お姉さんはちょっと計画性がないのよね。だいたい強欲なのよ。

エリコ そうねえ、強欲なのかもしれない……。なにかひとつでもうまくいけばラッキーなんじゃないかと思ったんだけど、結局そんな器用な人間でもなくて。大学を卒業する頃には、就職もしてないし劇団にも残れなかったので、なんにもなくなってしまったんです。

当時はアルバイトなどをしながら生活されていたんですか?

エリコ そうですね。私はコールセンターのアルバイトをしながら、知り合いの方と年にほんの数回、お芝居をやらせていただいたりしてました。お芝居の方がメインのはずなのに、なんだかだんだんその日のお金を稼ぐことがメインになってきているような気がしてモヤモヤしていたんですけど……。

ミホ 私も似たような感じで、目的もなくデータ入力のアルバイトをしてました。バイト中にときどきお姉さんに手紙書いたり。またぱっと思い立って演劇の学校に行ったりして。

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

当時、すでにおふたりはお友達だったんですね。

エリコ 劇団の研究所に入った当初から似たような顔の人がいるなとはお互いに思ってて、お喋りしているうちに仲良くなったんです。当時はまだミホさんは実家にいたので、たまにうちに遊びにきてもらったり、電話したりしてね。ミホさんあの頃、すっごくたくさん手紙くれたわね。

ミホ そうねえ。

エリコ 一度、手紙に「P.S.今日はプレゼントが2つもあるぞ」みたいなことが書かれていて、なにかなと思ったら封筒の中にパンダコパンダのシールと、どこかの雑誌から切り抜いてきたジャイアント馬場さんの写真が入ってたことがあった。この人、イカれてるわねえと思いましたね。

ミホ いい写真だったでしょう、アラーキーさんの撮った写真だったのよ。

エリコ あれは確かにとってもいいお写真だった。当時お互いに20代後半だったんですけどね。

ミホ そんな好き勝手なものを送りつけられる相手がお姉さんくらいしかいなかったんです。モヤモヤしてた気持ちを唯一分かってくれそうなのがお姉さんだった。

「次も呼ばれるにはどうすればいいか」ばかり考えていた

その後、おふたりは2007年に30代半ばでコンビを組み、お笑い芸人としてのお仕事を始められたんですよね。

エリコ そうです、いちばん最初は知り合いの方のお笑いライブに呼んでいただいて。1回だけ出てみてくれないか、というお話だったので、そうミホさんにもお願いしたんですけど、ありがたいことにそれからときどきお仕事のお声がかかるようになって。

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

当時はどんなネタをされていたんでしょう。

エリコ ライブで、ひと組あたりの持ち時間が4分のところを私たちだけ8分やってしまって。しかも喋るのは最初の1~2分だけで、あとはフルサイズで6分間ただ「トルコ行進曲」を歌うっていう。

(一同爆笑)。

エリコ 当時はバラエティ番組のテレビカメラが新人発掘のためにいろんな劇場やライブハウスに入っていたみたいで、私たちそんな年齢でピンクのドレスなんか着てるし、変わった人たちがいるってことで少しずつ皆さんに知っていただいて……という。ミホさん、あってる?

ミホ あってるあってる。

30代半ばというとお笑い芸人さんとしては比較的遅めのスタートなのかなと思うのですが、それに関して迷いや不安を感じられたことってありましたか?

エリコ そのときそのときのライブをどうこなすかで頭がいっぱいでしたね。

お笑いで天下とったるみたいな気持ちでこの世界に飛び込んだわけでもないので、お仕事も毎回恐る恐るでしたし、ネタを作るのもそんなに得意じゃないですし、他の先輩方がやってらっしゃるのを真似したつもりでいても、体力的にも技術的にも全然及ばなくって。今回もうまくいかなかったわね、みたいなことがコンビを組んで数年はずっと続いていたと思います。

ミホ でももうこのドレスでロケに行ったりしてるものですから。

エリコ そうねえ。そこからドレスを脱いで他のことをやる、というほど自分たちに芸があるとも思えなかったですし、その頃はその頃で行き詰まっていて。

そんな中で、お仕事を続けられるモチベーションはどこにあったんでしょうか。

エリコ 当時はアルバイトもしてましたから、一応お笑いのお仕事1本で食べられるようになるのがいちばんいいなあとは思っていて。親孝行もしたいし、できればたまにはちょっと旅行も行きたいみたいな、そういう日々のことかしら……でも、なんだったのかしらねえ、モチベーション。

ミホ ふふ。

エリコ あらなんで笑ったの。

ミホ なんだったんだろうと思って。

エリコ モチベーションのモチで笑ったのかと思った、ミホさんお餅が好きだから。

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

きなこ餅が好物だというミホさん

(笑)。日々のちょっとした目標がお仕事のやる気につながっていたのかもしれないですね。

ミホ 私たち、やる気がすごくあったわけじゃないもんね。

エリコ だったらもっとネタ作ってるわよね。ただ、面白いって思っていただかないと次がなくなっちゃいますから、次も呼んでいただくにはどうすればいいか、ということだけを毎回考えてた気がします。

肩の荷を下ろしてくれた「思い出づくり」という言葉

おふたりはマネージャーさんとの二人三脚の関係性でも知られていると思うのですが、今のマネージャーさんとの出会いは大きかったですか?

エリコ それは本当に。2012年に今の事務所に移らせていただいて、4年くらい前から今のマネージャーさんに担当いただいているんですけど、これまで他の事務所でいろんな有名な方とお仕事されてきて、ご自身でも表現活動をされている方なんですよ。年齢は私とひと回り違う、とてもお若い方ではあるんですけど……あら、子年だから年男だわ。

ミホ お姉さんもね。

エリコ 私も年女だわ。……そんなお若い方ではあるんですけど、いろんなことに造詣の深い方で。尊敬できる部分が多々あったので、私たちももうプライドとか関係なく「どうしたら面白くなりますかね」って日々相談して、一緒に考えていただいたりして。いちばん行き詰まっていた頃に、お仕事に対する姿勢をすこし変えてくださったのもマネージャーさんのアドバイスでしたね。

そのお話、ぜひお聞きしたいです。

エリコ 何年か前、私たちがすごく悩んでいたときに、マネージャーさんが「仕事を『思い出づくり』と捉えればいいんじゃないですか」って言ってくださったんです。

「おふたりとも努力が似合うタイプではないし、大きな夢とか野望を持つよりも、仕事の楽しいこともちょっとしんどいことも人生の中の思い出の1ページっていうふうに捉えたらいいんじゃないですか。修学旅行で撮った写真を集めてあとから『これ楽しかったわね』って言うみたいに」って。その言葉が当時の私たちにはすごくストンと落ちたんですよね。

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

好物は餃子だというエリコさん

ミホ そうねえ。

エリコ もちろん、どうやったらもっと売れるかというのは自分たちでも考えなきゃいけないことなんですけど、そのアドバイスで本当に肩の荷がひとつ下りたというか。

ミホ たぶん他の芸人さんだったらもっと熱いアドバイスをされると思うんですけど、私たちの性格を把握した上でそういう言葉をかけてくれたんだと思います。

エリコ ああ、そうかもしれないわね。

(同席されていたマネージャーさんに)そうだったんですか?

マネージャーOさん いや、僕ももともとあんまり夢とか野望とか大きいものがあるタイプじゃないんです。だから自然体のアドバイスだったと思います。

エリコ でもやっぱり、その方その方に応じたマネジメントをしてくださってるっていうのはあると思う。それは私たちでどうこうできることじゃないですから、出会いや環境に恵まれてるっていうのは本当にあると思うんですけどね。

ミホ ご縁だわね。

エリコ ご縁ねえ。

「もっとガツガツいかないとだめだよ」外野の言葉との向き合い方

おふたりともお仕事に対して大きな夢や野望を持っているわけじゃない、というのはすごくリアルだなと思うんです。働いていらっしゃる方全員が大きな夢を持っているわけではないと思いますし。

エリコ すみませんねえ、なんだか。

ミホ でもやっぱり、何年後にどうなりたいかをもっと考えていかないとだめだ、って人に言われることもあったんですよ。

エリコ そうねえ。言われたわ。

ミホ 全然考えられないそういうの。

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

そういう外からの言葉には、「芸人なんだから」とか「もう40代なんだから」とか、もしかすると「女性なんだから」みたいなものもあったかもしれないなと想像するんですが、どういうふうに向き合ってこられたんですか。

エリコ 本当にいろんなことを言われたわよね。私たちって昔からふたりとも容姿があまり変わらなくって老け顔なんですけど、コンビを組んだ当初から「阿佐ヶ谷姉妹はもっと『おばさん』を推していった方がいいと思うよ」って言ってくる方もいて。でも当時はあまりしっくりこなかったというか……そのアドバイスを受け止められなくって。

ミホ それでちょっと若い人ぶって、私たちなりのとんがったネタをやったりもしてたんです。

エリコ とんがったネタ、あったわね。コントの途中で急に「五輪の新競技だ」ってミホさんが手で輪っかを作って、私が本気でそこに飛び込もうとするんだけど絶対に失敗するっていう、自分たちですら意味の分からないネタ。

……30代はそういうことをしていたから「その歳で恥ずかしくないのか」って言われたこともありましたし、「もっとガツガツいかないとだめだよ」って言われたこともあったんですけど……聞く耳をあんまり持たなかったんですよね。

ミホ 頑固だから聞き入れないんですよ。

それはお二方ともですか。

エリコ そうだと思います。でも、人からのアドバイスに対して「そうじゃないと思います」って言うほどの自信や気概もないので、そのときは「そうですね、ありがとうございます」ってさも聞いたかのように受け流していた気がします。もちろん、全てのアドバイスをスルーしていたわけではないと思うんですけど。

ミホ そうね。聞いてはいた。

エリコ 「おばさん」というものに対しては、40歳前後になってきてから初めて自分たちの「おばさん性」みたいなものを面白がれるようになってきた感じがあって。だから30代のときに頂いたアドバイスが全然役に立たなかったっていうわけではなく、頂いたものは頂いたものとして、使えるときになってそれを引き出して参考にさせていただいたという気がします。私たちはそういうスタンスだったから、大きく壊れずにここまでこられたのかなとは思いますね。

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」"

ただ今度は逆に自分たちのことを「おばさん」と言わない方がいい、とおっしゃる方もいると思うのですが。

エリコ 自分を「おばさん」とか「おじさん」と自称することでなにか失われるものがある、と感じていらっしゃる方ももちろんいると思うんです。

そういう方を「おばさん」と呼ぶのはもちろん違うと思うんですが、もしも「おばさん」と自称するかどうかでモヤモヤしているなら、「そうねえ、まあおばさんよね」と思ってしまうのもアリじゃないかしら、と最近は思います。

ミホ とんがってたネタから「おばさんあるある」みたいなちょっと分かりやすいネタをやってみたときに、いつの間にか自分たちで違和感がなかったというか、受け入れられるようになってたんですよね。

エリコ もちろん「おばさんは最強」みたいなことでもないんですけど、卑下するでもそれを振りかざすでもなく、ニュートラルに自分の中にあるおばさん性みたいなものと付き合っていけたらいいのかなっていうのはありますね。私たちはおばさんって言うようになって楽にはなった気はするわね?

ミホ うん、そうねえ。

「息切れしない程度に働く」ためのルーティン

いま、おふたりには目標や目指していらっしゃるところってあったりしますか? 2018年には「女芸人No.1決定戦 THE W」で優勝もされていますが。

ミホ 目標……。今年はどうしようか、みたいなことは考えたりするんですけどね。

エリコ おとといだったかしら、ミホさん家のこたつで話し合ったのよね。確か、今年はもっと面白くなりたいねって言ってたわね。

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

「THE W 2018」優勝時には奮発して98円の豆苗を4つ購入したそう

それはライブやお笑いのコンテストを盛り上げたい、ということでしょうか。

エリコ ライブもそうですし、テレビもそうですしね。今年のお正月も地方でステージに立たせていただいたんですけど、ご家族連れでいらしてくださってるお客様もいて。全方向に向けたお笑いって本当に難しいとは思うんですけど、皆さんもっと笑いたいだろうな、どうしたら笑っていただけるのかなって思う気持ちもあるので。まだまだだなあって思ったりして。

「まだまだ」というのは、どういうときに思われるんですか?

ミホ ネタのあの場所なかなかウケないね、みたいな。

エリコ そうねえ……やっぱりこう、なにかがカチッと合ったときのドカン、というお客様の反応はうれしいんですよ。それは快感でもありますし、このお仕事をしててよかったなと思える瞬間なので。まだどうもね、カチッ、がゆるいのよね私たち。それでまあ、もっと面白くなって、ご近所さんとか家族に恩返ししていくしかないわね。

ご近所さんといえば、いまは同じアパートのお隣の部屋同士に住んでいるおふたりですが、将来はその暮らしをもっと拡張して、友人や家族たちと同じアパートで暮らす「阿佐ヶ谷ハイム」の構想があると最近よく話していらっしゃいますよね。それに対して、周りの方から反響などありましたか?

ミホ まだ全然、家を建てるには程遠いんですけどね。

エリコ でもすでにもう、独身のフリーアナウンサーの方とか、ご結婚はされているけどいつなにがあるか分からないので入りたい、という方がいらっしゃって、予約は3部屋分埋まってるんですよ。

ミホ そこに親とかも入ったらいっぱいになっちゃうか。

エリコ そうね、家族も入れると8部屋以上のアパートを建てなきゃいけない計算になるのかな。けっこうハードねえ。自分たちが息切れしない程度にやっていって、いずれ家も建てられたらいいんじゃないかしら、とは思うんですけど。

「息切れしない程度に」働くのが意外と難しいんじゃないかなと感じたりもするのですが、おふたりはいかがですか。目の前に仕事がたくさんあるとつい無理をしてしまう、という方も多いと思うんですが……。

エリコ 会社員の方なんてきっとそうでしょうねえ。

ミホ 私たちより会社とかに勤められている方のほうが、毎日すごく働いてると思いますよ。

エリコ 本当に素晴らしいと思う。ときどき自分たちが朝早い時間に出なきゃいけないことがあると、阿佐ヶ谷の商店街や電車の中にもこれから働きに行く方がたくさんいらっしゃって、それだけで素晴らしいって思うもん。……あっごめんなさい、息切れしないためにはの話だったわね。

ミホ 銭湯かしらね。

エリコ えっ?

阿佐ヶ谷姉妹「大きな野望は持たない。私たちにとって仕事は『思い出づくり』のようなもの」

ミホ 近所の銭湯に行くこと。

エリコ 銭湯?

ミホさんはよく行かれるんですか?

ミホ この前やっと1回行ったのよね。阿佐ヶ谷に20年住んでて初めて。

エリコ しかもそれ私がついていったんじゃない。ひとりだと怖いからって。

(笑)。他にもそういう、ストレスを溜めないための生活のコツやルーティンってありますか?

エリコ ミホさんは猫とか温泉の動画をよく見てるわね。

ミホ そうねえ。あとは整骨院に行ったり、体操教室にお姉さんと通ったり。

エリコ 私たちは自分たちのこと甘やかしてばっかりだもんね。己に全然厳しくないんですよ。……ねえ、このお話、働いてる方のためになるのかしら?

ミホ 全然なんともならない話しちゃった気がするわね。

阿佐ヶ谷姉妹

取材・文/生湯葉シホ
撮影/加藤岳
編集/はてな編集部

『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』文庫版発売!

『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』書影

2020年2月6日発売予定 / 600円(+税) / 幻冬舎刊

40代・独身・女芸人の同居生活はちょっとした小競合いと人情味溢れるご近所づきあいが満載。エアコンの設定温度や布団の陣地で揉める一方、ご近所からの手作り餃子おすそわけに舌鼓。白髪染めや運動不足等の加齢事情を抱えつつもマイペースな日々が続くと思いきや―。

地味な暮らしと不思議な家族愛漂う往復エッセイ。その後の姉妹対談も収録。

お話を伺った方:阿佐ヶ谷姉妹(あさがやしまい)

阿佐ヶ谷姉妹

妹の木村美穂(きむら みほ)さんと、姉の渡辺 江里子(わたなべ えりこ)さんによるお笑いコンビ。劇団東京乾電池研究所にて知り合い、その後2007年にコンビ結成。2016年フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした『第22回細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』」優勝。2018年「女芸人No.1決定戦 THE W」優勝。
Twitter:@asagayanoane
Blog:姉妹だより

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不毛な会議はもうしたくない! 議論を可視化するグラフィックレコーディングのすすめ

清水さん

長いだけで議論の前進しない会議や、参加者が当たり障りの発言しかできない空気のある会議など、不毛な会議が続いてうんざりした経験はありませんか?

そんな場の議論を整理・活性化させるため、主に模造紙とペンを用いて人々の対話をイラストや図式でリアルタイムに可視化する「グラフィックレコーディング」という手法が、近年注目を集めています。

今回お話を伺う清水淳子さんは2013年から「Tokyo Graphic Recorder」としてグラフィックレコーディングの研究・実践を続けている人物。日本におけるグラフィックレコーディングの第一人者である清水さんに、グラフィックレコーディングという手法を始めたきっかけやその効果、そしていち会社員が社内の会議に無理なくグラフィックレコーディングを取り入れるためのコツなどを語っていただきました。

きっかけは「このまま終わったらまずい」会議だった

清水さんがグラフィックレコーディングという手法を始めたのは、会社員時代の会議がきっかけだったとお聞きしています。

清水 淳子さん(以下:清水) 数年前、デザイナーとして入社した会社でとあるプロジェクトに関する会議があったのですが、それが専門も立場も異なるさまざまな人たちが集まっている場だったんです。そのため参加者の発言の内容がお互いにうまく伝わらず、場の空気が悪くなりかけていって……。

気まずい状況ですね……。

清水 内容に齟齬が生じたままで解散となってしまうと、デザイナーとして自分がなにを作ればいいのか分からないじゃないですか。これはまずい、この場で怒られてもいいからもう少し現状を整理しておきたい……と焦ったときに、とっさに思いついたのが「グラフィックでコミュニケーションをとる」という苦肉の策で。

ホワイトボードの前に出ていって、言葉ではなくイラストや図を描いてみんなが話している内容や一人ひとりが伝えたい内容を可視化し説明するようにしたら、その場の空気がやわらかくなっていき、生じてしまっていた齟齬が一気に解消されていくのを感じたんです。

すごい効果……! そこでグラフィックを使うという表現方法の便利さに気づいたんですか?

清水 これはすごく役に立つなと感じたのですが、同時に、まだ日本では受け入れられにくい手法かもしれないなとも思いました。

私自身、その会議に参加したのが20代前半の頃。そのくらい若い社員が、会議の場でひとり席を立ちホワイトボードの前に行く、ということ自体に勇気がいるなと実感したので……。

グラフィックレコーディングの様子

確かに、若手社員がいままでと違うやり方で会議を進行しようとしたら、驚く人は出てくるかもしれませんね。

清水 会議中ホワイトボードを使うときも、なんとなくテキスト以外のものを描くことに抵抗のある空間じゃありませんか? 議事録もWordなどテキストの形でとるべきであって、重要な会議中に絵を描くなんてけしからんという雰囲気があるというか。

何となく分かるような気がします。

清水 また社内の会議とは別に、この頃はさまざまな社外勉強会に参加していました。その勉強会の内容を、自分用にまとめたメモとしてSNSやブログにアップしたところものすごく好評で。イベントでリアルタイムで描いてくれないか? という依頼をいただくようになってきたんです。

2013年には従来のグラフィックデザインとは異なるグラフィックの可能性を探求するために「Tokyo Graphic Recorder」という名前でサイトを立ち上げ、肩書きを「グラフィックレコーダー」と名乗るようになりました。サイトを通じて依頼をくださった企業の会議やシンポジウムなど、いろんな場に出向いてグラフィックレコーディングを行い、その手法や効果を研究するということを実験的にするようになりましたね。

グラフィックレコーディングの様子

そして活動を続ける中で、海外にも同様の手法があるというのを聞いたんです。グラフィックを表現ではなくツールとして使い、議論を活性化するというのは既に海外ではメジャーなやり方なんだと知り、「じゃあこの手法を日本の文化の中で定着させるためにはどうすればいいんだろう?」と考えるようになったんです。

グラフィックレコーディングが議論の場にもたらす効果

さまざまな場所に出向いてグラフィックレコーディングをおこなう中で、やはりどんな議論の場でもグラフィックレコーディングを用いることはプラスに働く、と感じたんでしょうか?

清水 私が最初にグラフィックレコーディングをやり始めた会議のように、議論の場のコミュニケーションを円滑にし「対話の活性化を促す」効果を感じたのはもちろん、その場に来られなかった人やあとから内容を確認したい人のためのアーカイブとして役に立つケースがあるということにも気づきました。目的に応じてさまざまな効果を発揮できるな、と。

グラフィックレコーディングがもっとも効果的に機能するのって、例えばどのような場なのでしょうか。

清水 いろいろな年代や職種、立場の人たちが集まってゼロからなにかを考えなければいけないようなカオスな場だとより効果的に機能すると思います。「この会議、このままだとやばそう……」という状況にはいちばん効くんじゃないかなと。

清水さんが最初にグラフィックレコーディングを始めた会議も同じかもしれませんが、そういった状況での会議って、どうしても当たり障りのない曖昧な意見の出し合いになってしまいがちですよね。

清水 そうなんですよね。だからこそ、そういった場でグラフィックを用いて論点の整理をすることが、不毛になりかけている会議を少しでも前に進ませたり、よりよい対話をもたらしたりするきっかけになると思っています。

Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書

著書『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』ではグラフィックレコーディングの実践方法を段階的に解説しているほか、素早く会議中の要素をグラフィックに落とし込むコツなども網羅されています。絵を描くことに苦手意識を持っている人でも抵抗感なく始められるよう多くの事例を交えながら紹介されていおりまさに「教科書」的な一冊

最初はA4の紙からスタートさせる

グラフィックレコーディングという手法に興味があって、実際に自分の会社でもやってみたいという人は多いと思います。けれど最初に清水さんがおっしゃったように、若手社員の人が突然席を立って「今日は私が会議中の話題をグラフィックにしてみます」と言うのはなかなかハードルが高そうで……。

清水 例えば、いきなり大きな模造紙を会議室に貼ってグラフィックレコーディングを始めようとしたら「でしゃばり」って思われてしまうかもしれないですし、万一失敗したときに潰しがききづらいと思うんですよ(笑)。最初はA4くらいの紙やノートを使って会議の内容をリアルタイムで聞きながら個人のメモとして記録することをチャレンジして、会議後にシェアして反応を見るのがいいかもしれません。

それでもハードルが高いという場合には、議事録を元に、会議のサマリーを図解にして、参加していたメンバーにメールで送ってみることから始めてみるのもいいと思います。いきなり派手にリアルタイムでグラフィックレコーディングするよりも、まずはグラフィックでコミュニケーションするメリットを確実に感じられる体験作りができると安心ですね。

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清水さんがグラフィックレコーディングを実行する際欠かせないペン。持つ角度によって太さを変えられるものを特に愛用しているのだそう

なるほど、最初はグラフィックを用いることのメリットを伝えることに徹するという。

清水 そうです。それでもし社内の人たちが「あのメモ、分かりやすかったよね」と興味を持ってくれたらグラフィックレコーディングという手法があることを伝えて、徐々に会議中にホワイトボードや模造紙を利用してみる、というのが現実的なのかなと。

グラフィックレコーディングの具体的な実践方法は清水さんの著書やnoteなどでも多数発信されていると思うのですが、議論をリアルタイムでグラフィック化するためにはまず、その場で出た意見(情報)を要約・整理するスキルが必要になってくると思うんです。清水さんが普段グラフィックレコーディングをおこなう際、意識している「情報整理のコツ」ってありますか?

清水 グラフィックレコーディングは、文字起こしのように全ての発言を一言一句そのままに記録していくことは不可能です。なので、その場で話している人が一番伝えたいことを読み解き、グラフィックに置き換える、という作業の繰り返しです。イメージとしては国語の試験で出される「この段落に書かれている内容を15文字以内に要約せよ」という問題を解き続けている感じでしょうか……。

話を聞き取り、頭の中で要約した発言をひとかたまりとして、それを図解やイラストレーション、もしくは簡潔なテキストに翻訳してリアルタイムで描き続けていく、ということを繰り返しています。

その際に、図解とイラストレーション、テキストの描きわけはどう意識されていますか?

清水 数字や固有名詞などのファクトはできるだけテキストとして忠実に残して、時間の余裕があれば図解やイラストも添える形にしています。要約した内容はなるべく網羅的にテキストとして残すようにしているんですが、テキストだけだと陳腐に見えてしまうよう要約になりそうなときは、図やイラストを大きめに描き、見る人のイメージを増幅できるするようにしています。

例えば「情熱」や「熱意」というエモーショナルだけど漠然としたキーワードが出たとして、その場の文脈や空気が分かれば違和感なく受け入れられると思うんですが、テキストだけだと、後から見た人がどうしても「?」となってしまうと思うので、そういうときは前向きな表情の人のイラストに変えてみたりして。

テキストとイラスト、図解を組み合わせた例

テキストとイラスト、図解を組み合わせた例

全ての話題を拾おうとすると、どうしてもレコーディングが間に合わないと思うのですが、話題の取捨選択はどのようにすればいいのでしょうか。

清水 目的によって優先順位は変わるのですが、基本的にはグラフィックレコーディングでしか残せないようなところを拾う、ということを意識しています。

“見栄”を取り払って対話のきっかけをつくる

いまのお話をお聞きすると、グラフィックレコーディングをする人は「できるだけ正確にその場の議論を記録する」というよりも、「自分なりのフィルターを通して議論を記録する」という意識でいた方がよいのでしょうか。

清水 もちろんいろいろなグラフィッカーの人がいるので、その場の議論をできるだけ正確に記録したいという方もいると思います。ただ私自身はどちらかというと「私の耳で聞こえたことを自分なりに網羅して記録しておくので、これを元にして情報を修正したり整理したりしてください」という材料を用意するような気持ちで描いています。

私が自分のセンサーをフルに発動して場を記録しようとしても、機械ではなく人間なので、やっぱりどこかに抜けや漏れは出ます。しかし、完全な記録ではないからこそ、参加者の方は「ここは本当にこういう話でよかったんだっけ?」と疑いながら、グラフィックを見ることができる。自分なりの解釈を加えながらグラフィックを見ることで、さらなる議論の活性化に利用してほしいですね。

グラフィックレコーディングの例

出来上がったグラフィックを中心に議論が活性化していく、というのは理想的だと思うのですが、場をそういう状態にするためにはグラフィックレコーディングをする人にファシリテーションのスキルも必要になってきそうですよね。

清水 そうですね。会議によっては私がグラフィックレコーディングに集中して、もう1名ファシリテーターの方に入っていただくという形でタッグを組むケースは多いです。

社内の会議でファシリテーター役の人がほかにいるときは、その人としっかり役割分担するというのがとても大事になってくると思います。ファシリテーターの人に対して「もしも言葉に詰まったり時間内に終わらなくなりそうなときはグラフィックを地図として使ってください、私は記録であなたの進行をサポートします」ということをきちんと伝えられていると、お互いに安心して会議に臨むことができるんじゃないかなと。

なるほど、確かにそれができると安心ですね。実際に、清水さんの本をきっかけにして自分の会社でグラフィックレコーディングにチャレンジしてみた、という方の声を聞いたりすることもありますか?

清水 ありますね……! 私の本に限らずいろいろな影響もあると思うんですがさまざまな業種の方から「グラフィックレコーディングを取り入れてみました」という報告を聞くケースが少しずつ増えていて。グラフィックもひとつのコミュニケーションツールであるというのがだんだん社会の中に浸透し始めたのかなと感じます。

インタビュー中の様子

新しいことをやろうとする人の意見が聞き入れられにくい会社もまだまだ多いとは思うのですが、必ずしもテキストだけにこだわらなくてもいいんだ、ということが広まっていくといいですよね。

清水 そうですね。この活動をしているとときどき、「グラフィックレコーディング自体は嫌いじゃないけれど、実は言葉をグラフィックに変換されると内容があんまり頭に入ってこないんだよね」とこっそり言われることがあるんです。

個人的にはグラフィックよりテキストの量が多い方が頭に入るタイプなので、そう仰る方の気持ちも分かるような気がします……!

清水 私は長い文章がなかなか頭に入ってこないタイプなんですが、逆にビジュアルランゲージが頭に入りづらいというタイプの人もいるんだなと。グラフィックは「万能なコミュニケーション手段」だと考えてしまいがちですが、そうではないと思います。ビジュアル、テキスト、音声、人それぞれ認知しやすい情報の形があることを理解しあうことは重要ですね。

ただやはり、テキストだらけの情報よりもグラフィックが入っている情報の方が目を引きますし、きちんと読もうという気持ちになる人は多いだろうなと思います。

清水 グラフィックの特徴・よさとして、とりあえず忙しい中でも、短時間で一度は全体像に目を通しやすいて向けてもらえる、というのは大きいと思います。会議中「今、どんなことを話しているんだっけ?」となる瞬間でも、グラフィックでリアルタイムに可視化されていれば、パッと見て何となく全体の状況がつかみやすくなりますよね。また、先程もお話したようにグラフィックレコーディングは記録としての役割も担うと考えています。

テキストベースの議事録の場合、全体像に目を通すのは結構大変です。なので、分かりにくいなと感じても、理解したふりしちゃうことってあるじゃないですか(笑)。それがグラフィックであれば、その会議に参加してない人でも全体像に目を通すハードルは低くなるんじゃないかな。

グラフィックレコーディングの例

確かにパッと見たときの印象はテキストとグラフィックでは違いますね。テキストだと「うっ」と身構えてしまう人もいるかも。

清水 それからテキストだけの情報だと、読解力や議論されているテーマの難易度によって内容をよく読み取れる人とそうでない人が出てきてしまうのですが、グラフィックの場合は「これってどういうこと?」という質問をすぐに投げかけやすいので、仮に分かりづらい箇所があってもそこからすり合わせができる。

大人の見栄みたいなものを取り払って、本音で対話するきっかけをつくりやすいというのが、グラフィックレコーディングの面白いところだと思いますね。

お話を伺った方:清水淳子さん

千野

1986生まれ。2009年 多摩美術大学情報デザイン学科卒業後 デザイナーに。2013年Tokyo Graphic Recorderとして活動開始。2019年、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程デザイン専攻 修了。現在、フリーランスとして活動しつつ、多摩美術大学情報デザイン学科専任講師として情報視覚言語の研究をベースに、メディアデザイン領域とReboaderゼミを担当。著書に『Graphic Recorder ―議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書』がある。
WebTwitter

取材・文/生湯葉シホ
撮影/曽我美芽
編集/はてな編集部

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復職を控えどんなことを考えた? 先輩ワーキングマザー3人が語る復職後の仕事と育児

集合写真


来年度から復職予定のワーキングマザーの皆さんは、保育園の申し込み時期を過ぎてひとまずホッとしているタイミングかもしれません。悲喜こもごもの結果がこれから出るとして、復職へ向け、親子ともに心の準備をされていることでしょう。

今回は、実際に復職して働いているワーママブロガーさん3名にご登場いただき、復職前後の心境や体験談を語っていただきました。これから復職する予定の方々にエールをお届けできればと思います。

***

<<参加者プロフィール>>

イカズミさん

イカズミさん:30代後半。お子さんは3歳と1歳。復職時のお子さんの月齢は、上のお子さんが5ヶ月、下のお子さんが7ヶ月。編集プロダクションの総務を担当。

コロポンさん

コロポンさん:30代前半。お子さんは1歳4ヶ月。復職時のお子さんの月齢は8ヶ月。IT関連のベンチャー企業でWebディレクターとして従事。

ビーさん

ビーさん:40代前半。お子さんは4歳。復職時のお子さんの月齢は10ヶ月。外資系IT企業の技術職。

小さな子どもを預けて働く葛藤は、あった?

復職時のお話を伺う前に、皆さんが保活(子どもを保育園に入れるために行う活動)をどう乗り越えたのか教えてください。

コロポンさん 私は妊娠中から保活を始めていました。どんな仕事でも働いていたいと思っていたので、保活のモチベーションは高かったように思います。

ビー(敬称略、以下同) 私の場合、出産前は何もしていなくて……。動き始めるのが遅かったので焦りました。息子を抱っこして役所に通い、いろいろな園を見学して。結果が出るまでは、精神的につらかったです。つらかった分、入園決定の知らせを聞いた時は「ヤッター!」って。すごい解放感でした。

イカズミ 子どもの預け先が決まらないことには復職ができないので、先が見えない不安にメンタルがやられますよね。うちの兄弟たちは今、別々の園に通っています。入れたらどこでも文句は言っていられない。頭も体もフル回転の保活でした。

保育園が決まったのはいいけれど、その後「子育てと仕事の両立が不安になる……」と考えてしまう話もよく耳にします。決まってからの準備や慣らし保育を経ていざ入園した際に、不安や葛藤はありましたか?

イカズミ 長男の時は「仕事が楽しみで仕方ない!」とフレッシュな気持ちでした。入園が生後5ヶ月で月齢が若かったから、子ども本人も慣れるのが早かったのかもしれません。逆に、次男はなかなか保育園の環境に慣れず、ご飯は食べない、ミルクも飲まない、寝てくれない……。保育士さんも手を焼いていたようで、「本当に復帰できるんだろうか」と、2度目の復職では自信を失くしかけました。

コロポン うちの娘は、家は“ずりばい”を始めていたのに、保育園では1ヶ月間、全然動かなかったらしいんです。娘なりに慣れない環境への葛藤とかあったのかなぁ〜、このまま復職していいのだろうかと、一気に申し訳ない気持ちに……。

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コロポン 親にとっても最初は慣れるための期間ですよね。時間がたてばお互い必ず慣れるんですけど。

ビー 「お母さんとお別れする時は泣いているけれど、姿が見えなくなるとケロっとしています」みたいな話はよく聞きますよね。私も息子を保育園に送った後に窓から様子をのぞいてみたら、楽しそうに遊んでいて拍子抜けしました。

お子さんが保育園に慣れてくると、安心して仕事に臨めますね。

ビー 何より、すぐに保育園での秩序を学んできたのにびっくりしました。自分でお友達の様子を見て、着替えをしたり、片付けをしたり、社会性を身につけている。親がまだ教えていないことでもお友達を見て吸収してくるので、「これは行かせてよかった!」と思いました。

イカズミ そうそう、うちの子どもたちは私よりきれいに洋服をたためますよ(笑)。保育園では日常生活の細かいところまでフォローしてもらっている。日々感動です。

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復職する上で、夫婦間で決めたことや協議したことはありましたか?

イカズミ うちは夫が忙しい職種なので、復職時には育児や家事に関する分担の話し合いはしませんでした。現実的に無理なので……。その代わり、年1~2回の休めるタイミングで有休を取って、おいしいものを食べたり、友だちと会ってしゃべり倒したりして、ストレスを発散しています。

ビー 復職を決めた時に、我が家では「朝子どもを保育園に送っていった方じゃない人が、お迎えをする」というルールを作りました。仕事がどうしてもたまっている時に「週の半分は残業できる日がある」と思うだけで、心の余裕が生まれます。週の半分くらいずつで分担しているので、とっても気が楽です。

コロポン 「夫婦だから平等だし、半々で休むべき」って思ってはいるんですが、なかなか難しいですよね。まさにちょうど昨夜、子どもの面倒を見ることで夫とけんかになりました。私は基本的にはリモートワークで、出社するのは月1回程度なんです。だから、子どもの具合が悪い時でも家で様子を見ながら仕事をするんですが、全く進まないですよね……。

イカズミ リモートワークの罠ですよね。子どもが隣にいてなかなか満足に仕事ができないのに、それが具合の悪い日ならなおさら……。

コロポン 実は、今日(編集部注:取材当日)も子どもが体調を崩して、この数日保育園を休んでいる状況で。夫に「明日くらいは仕事を休めない?」と聞いたら、「え? なんで?」と。思い返せば、復職後もなぜかいつも率先して「私が見るよ」と言っていたのが良くなかったのかも。けんかでこれまでの大変さを吐き出したら、「僕も分かっていなかった」と理解してくれました。

復職後の働き方に変化はある? 誰もが直面する、両立の難しさ

復職後、スムーズに仕事と育児の両立をスタートできましたか?

コロポン 仕事を始めると、子どものことだけを考える時間は少なくなり、一気に楽になった気がします。

イカズミ 私にとっては、通勤がご褒美の時間になりました。つかの間の一人時間を満喫して、職場に着くと切り替え! でも、保育園からの着信があると一気に心配と不安の現実に引き戻されてしまって……。

働くママたちが最初に直面する“急な呼び出し問題”ですね。

イカズミ 病気に関する連絡には未だに慣れなくて、携帯電話が鳴るたびに「ビクッ」とします。今年の夏は、次男がウイルス性の病気のオンパレードで、そのほとんどが私にうつってしまい……。病院で自分の点滴をして、子どもの看病をして、お互いに良くなると仕事&保育園へ復帰して、でもまたすぐに呼び出しが来る状態でした。子どもの健康管理にはとても神経を使いますね。

コロポン 子ども自身がいろいろなウイルスをもらってきて、保育園に行けなくなるだろうとは予想していたけれど、まさか自分にもうつってダウンするとは思わなかった! 仕方ないことですけど、結構つらいですよね。

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ビー 子どもからうつった結果、自分が体調不良になると、なんだか休みを取りづらいような気がしています。

コロポン そう! うちの会社は子どもを持つ人が私以外にいないので、「え? 風邪ってそんなに大人にもうつるの?」とみんなビックリしていました。

子どもの体調不調は連続しがちなのでしょうか。

イカズミ 1歳を過ぎると「だんだん減ったなぁ」と感じます。油断はしちゃいけないんですけれどね。

ビー 子どもが体調を崩すと、有給休暇の残数を気にしてしまいます。こればっかりは対策のしようがないので、「免疫もらって、徐々に強くなってるはずだから」と前向きに考えるしかないですよね。

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話には聞いていても、こんなに思うようにいかないのか……と考えてしまいますね。復職前からそういう知識を持っておくのはよさそうですね。

イカズミ 私は総務なので、産前産後休業(産休)や育児休業(育休)の制度には詳しいつもりだったんです。でも、「産休に入る前に、有休も使っちゃおう」と、結構消化してしまっていて。この夏の怒濤の体調不良に続いて、今冬インフルエンザにかかってしまったら有休が足りなくなるな……と毎日ヒヤヒヤしています。

復職後の方が、タフになれた気がしている

復職した女性からは「パフォーマンスが思うように出せず悩んでいる」という声もあるのではないかと思います。復帰前・復帰後で、ご自身が思い描いていた働き方との乖離はありますか?

イカズミ “子どもオンリーの生活”からの復職は全てが新鮮でしたが、最初は苦しかったですよ。「自分は会社にいてもいなくてもいいんじゃ?」とか考えてしまって。まさにマミートラック(出産・育児休業を経て復職した女性が、子育てと仕事を両立する名目でそれまでと違う仕事に変わり、キャリアアップのコースから外れてしまうこと)にハマりました。

必死に仕事して結果を出さないといけないというプレッシャーがある反面、仕事から離れているわ産前と産後で考えることが変わっているわで、ミスを連発するんです。勘を取り戻すまでは、なかなか調子が出ませんでしたね。

ビー 私も「復帰に当たって何かしておかないと」「産休中に勉強しなきゃ!」なんて張り切って考えていたのに、全然ダメで。産後って、体を使うのはいいけれど、「覚える」「考える」などはちょっとしんどくなりますね。

イカズミ 何しろ乳幼児のお世話で、慢性的な睡眠不足になっていますからね。休める時に休まないと。「育休」っていうくらいだから、復職する前はとにかく休むことも大事!

コロポン 意欲がない、仕事ができる気がしなくなる……という状況は誰しもありますよね。私も産後、一瞬新人同様の状態になって、「あれ? 今までどんな仕事していたっけ?」なんて思いました。でも本格的に復職してから、自分が会社にいる意味をより深く考えるようになって、国家資格を取ったんです。

ビーイカズミ え~、すごい!

コロポン 勉強は大変でしたが、今の私は出産前より密度が濃い仕事ができているように思います。「どんな状況下でも仕事ができる人間でありたい」という気持ちがありました。

働き方がFacebook流に!? 復職後、自然に切り替わった仕事の進め方

復職後の方が「時間の使い方がうまくなった」「効率が上がった」ということもあるのかもしれませんね。

ビー これまでもダラダラやっていたわけではないのですが、やり方が変わった、というのはありますね。以前はひとつの仕事について100パーセントのレベルを目指してやっていたけれど、今は「もしかしたら明日子どもが風邪をひくかもしれない」ということを頭に入れて、一気に50パーセントくらいの及第点まで持っていくスタイルに。

イカズミ お話を聞いて気づいたんですが、私もそういうやり方に切り替わっているかも! 「まずここだけはおさえておこう。それができたら、これもやれるな」という仕事の仕方になりますよね。

コロポン 働ける時間が決まっているから、「絶対これだけはやっておかなきゃ」という優先順位付けが早く、的確になりましたね。復職後の方が、テキパキできているような?

ビー Facebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグの“Done is better than perfect.”(完璧を目指すよりまずは終わらせろ)という言葉がありますね。このやり方はまさにFacebook流なのかもしれません。完璧を求めるのも悪いやり方じゃないけれど、出産前は完璧を目指すあまりに完成まで到達しないこともなくはなかった。結果として、完成を着々と目指すやり方は「私には合っているのかも」と思います。

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これから復職をする人に、何かアドバイスはありますか?

イカズミ 世の中の“ワーママ像”に惑わされず、適度に自分を労わって、自己防衛しながらやっていきましょう、ということですね。

コロポン そうそう、復職前はいろいろ考えちゃうんですよ。理想の働き方とか、こういう母親でありたいとか……。

イカズミ あとは、トラブルが起きた時の対応パターンを周りの人と話し合っておけるといいですね。子どものことを全て把握しておければいいんですが、それは不可能ですから。子どもが病気になった時の最低限のノウハウは共有しておく。

ビー 育児は究極のマインドフルネス(今起こっている経験や気持ちに注意を向ける状態)じゃないかと思っています。今やるべきことを、とにかくプライオリティー順にやるしかない。やらないと進まないから、悩む必要はあまりないと思っています。

イカズミ 復職した後、必死で日々を過ごすうちに、気が付いてみればあっという間に何ヶ月かたっているものですよね。

ビー 我が家の復職前の課題は、旦那に育児に慣れてもらうということでした。その代わり、夫がやったことについては文句は言わないようにしようと決めています。

コロポン 私が昨日けんかして分かったことは、「細かく言葉でシェアすることが大事」なんだなということです。オーバーくらいに「大変」「しんどい」「もうだめ」って吐き出してもいいと思う。出産するまで「母親という立場になったら、真っ先に自分を犠牲にしてしまいそう……」というイメージを抱いていたけれど、それって実は、全く逆で! 「自分の存在は家庭にとって一番大切なものだから、まずは自分を大事にしないと」とも思うようになりました。

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ビー 息子は、4歳ですっごく楽になりましたよ。乳幼児を抱えてバリバリ働きたいと思っているママたちは、今後、絶対に楽になるので心配しないでほしいですね。本当にそれまでよりは手が掛からなくなります。意外と早くに手が離れちゃうんだなぁ~と、振り返ってみて実感します。

イカズミ それって、先輩ママたちに散々言われて「本当に!?」って思っていたけれど、時間がたてばみんな必ずアドバイスとして言う側の立場になってしまいますね。走り続けていれば、その中で楽しいことがたくさんありますよね。子どもの成長が何よりのご褒美かな。

ビー 保活からの復職で合わせて1年間くらいは体力的にも精神的にも大変で、経済的にもきついかもしれないですけど、長期的な目で見れば女性のキャリアだってこれからも続いていくんだから、悲観することはないですよね。

コロポン うちの娘は1歳でまだまだ体調を崩しがち。両立に悩むことも多いけれど、徐々に心も体も回復してきて、無敵に近づいている気がする!(笑)

取材・文/遠藤るりこ
編集:はてな編集部

※座談会参加者のプロフィールは、取材時点(2019年11月)のものです

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お局感なく後輩と接するには? 道重さゆみが語る、チームでもソロでも活躍する秘訣

道重さゆみさん

年齢を重ねていき、徐々に職場での立ち位置が「プレイヤー」から「管理職」に変化していく人も少なくありません。ただ、「初めて部下ができたけど、注意の仕方に悩む」「できる後輩の姿を見ると焦ってしまう」ーーそんな職場の後輩との接し方に、迷ってしまうことはありませんか。

そこで今回お話を伺ったのはモーニング娘。OGの道重さゆみさん。モーニング娘。のメンバーとして13歳でデビュー後、8代目リーダーとしてグループを牽引。卒業後、約2年4カ月の芸能活動休業期間を経て、現在はソロアーティストとして活躍中です。リーダー就任期間中、同僚のメンバーは年下ばかりだった道重さん。そんな彼女にやわらかに後輩に接するコツについて聞きました。

また道重さんは「ソロになってからは、生活も心境も完全に変わりました」とも語ります。令和元年に30歳を迎えた道重さんに、年齢を重ねることについての正直な気持ちについても伺いました。

ソロになって自由にできるからこそ、迷いだらけにもなった

長年リーダーとして、「モーニング娘。のために」を最優先して動いていた道重さん。ソロで活動するようになって「管理職じゃなくなって自分の肩の力が抜けた」とか、変わったことはありますか?

道重さゆみ(以下:道重) 私、リーダーになったからプレイヤーじゃなくなったとか、ソロになったからプレイヤーに戻ったっていう感覚は、正直あんまりないんですよ。どの立場でも自分は自分として、道重さゆみというプレイヤーなんだっていう意識でやっています。でも、もし「リーダー=管理職」と例えるならば、ソロになってからは、道重さゆみの管理を自分自身がやっている状態ですね。

自分を律したり、作品のコンセプトを決めたり、モーニング娘。時代とは全然違う動き方が必要ですよね。

道重 やり方は全然違いますね。モーニング娘。時代は、つんくさんや会社の方が作品や演出を考えてくれることの方が多いので、私はそんなモーニング娘。を「どう伝えるか」を意識して活動していたんです。ソロになってからは、アルバムのタイトルとか、ライブのコンセプトやセットとか、衣装のイメージとか、そういうことを自分で考えるんですよ。

ソロになって自由になんでもできるようになったときに、迷わなかったですか? どうやって思考を整理していったんでしょうか。

道重 そりゃもう、迷いだらけでした! だから、普段の生活から変えましたね。街を歩いて見えること、全部参考にしようと意識したんです。「あの看板、なんでこの色なんだろう?」とか「私だったらこのフォントは使わないな」とか、今まで気にしていなかったことも注意して見るようになりましたし、考えながら歩くようになりました。

インタビューを受ける道重さゆみさん

衣装も、モーニング娘。のときはみんなおそろいの衣装だったりとか、メンバーカラーがあったりとかしましたけど、自分で決めるときに参考にしているものは。

道重 知識の土台もないと本当に分からないので、普段からファッション誌を眺めたり、今まではあまり見なかった海外のモード誌を買ったりしました。「世の中はこういう服があるんだな」っていうのを知識として持っておくと、いざ何かするときにアイデアが思いつきやすいので。それでも、やりたいことが分からなくなったときは、友達に聞くこともあります。「これ、どう思う?」って。

芸能界の先輩やスタッフさんじゃなくて、お友達に?

道重 はい。ずっと仲が良い同級生の子に聞いていますね。本当に気を使わずに、ダメならダメって言ってくれるので。自分ひとりで考えていると、考え過ぎて訳が分からなくなってくるんですよ。あとは、行き詰まったら一旦寝ちゃうこともあります。一瞬、現実から逃げるんです。

もちろん起きても何も変わっていないし、締め切りは守るタイプなので逃げたことはありません。結局ただの仮眠です(笑)。でも一旦寝ることにより、気持ちが整理されてやりたいことが見えてくる場合もあります。

今は「モーニング娘。」の看板がなくて、味方も必須だと思います。スタッフさんや、取引先の方とのコミュニケーションで心がけていることとかってありますか?

道重 基本的には「自分は人見知りじゃない」って思いこむようにしています。「人見知りなんです」って言われても相手は困っちゃうと思うし、そう言うと自分でも「私は人見知りだから仕方がない」と開き直ってしまいそうで。だから自分からは言わないようにしてるし、「私は人見知りじゃないのに、なんで縮こまってるんだ! ちゃんと言わなくちゃ」って考えるようにしています。

マインドの引き上げ方が上手なんですね。昔から毎日鏡の前でつぶやいているという「よし、今日もかわいいぞ!」もそうですし。

道重 そうですね。自分に自信がない日は特にそう言って思い込ませています。ただ、昔から正直に自分のことをかわいいと思ってるんですよ。本当に恥ずかしいんですけど(笑)。鏡見るのは、大好きです!

「私かわいい」キャラも、最初はキャラだと思っていなかったんです。たまたま先輩が「それ面白いよ」ってMCでネタにしてくれたことで、見つかったキャラクターですね。ありがたいです。

キュートな表情の道重さゆみさんかなしい表情の道重さゆみさん
うさちゃんピース5秒前の道重さゆみさんピースをする道重さゆみさん

後輩への注意。マイナスな気持ちを引きずらないようにさせる

アラサー世代になってくると、管理職に就く方が増えてきます。後輩とコミュニケーションをとる上で、「しっかり言わなきゃいけないけれど、お局扱いされたらどうしよう」という不安を抱える人もいますが、道重さんは後輩と接するときにどんなことを気をつけていましたか。

道重 私も加入当初はすごくよく怒られる新人だったんですけど、先輩から怒られるときに何が一番嫌かって、怒られた後がすごく嫌だったんですよ。

あぁ、その気持ち分かります。

道重 「まだ怒ってるかな……?」って気にしたりとか、「さっき怒られたばかりだから、気軽に話しかけたら反省してないみたいかな?」とか、ずっと様子を伺っちゃって。そういうことをすごく考えて、次の日の朝ですら「昨日怒られたから挨拶しづらいな……」って、ずっとドキドキしたままなんですよ。

後に引きずってしまう、と。

道重 勝手にこっちが気まずいと思っているだけなんですけど、それがすごく自分の中でつらかったんです。だから、私が後輩に注意した後は、基本的に「帰り際には絶対に私から声をかけて、笑顔でバイバイする」って、自分の中で決めていました。

もちろん怒ったこと、注意したこと、その事実(内容)はこれから反省してほしいけど、「怒られちゃったな」っていうマイナスな気持ちを引きずってしまうのは良くない。これだけは、常に意識していましたね。

「注意するときは、褒める言葉もかける」とかは?

道重 それは難しいですね。私の場合は直してほしいところがあるとき、できるだけその場ですぐ声をかけるようにしていたので、うまくセットにならないことが多くて。何に対してもモヤモヤを持ち越さないように「褒めるときは褒める」「注意するときは注意する」という感じです。後出しするとあの時から「ずっと怒ってたのかな?」って思われちゃうし。

道重さゆみさん

なるほど。加入当初の道重さんは、歌が苦手でしたが、自分が苦手意識があったものを指摘するときって、どうしていましたか?

道重 自分ができていないことは人に教えられないので、歌とかダンスのテクニックに関しては、私は後輩に注意したことが一回もないんです(笑)。むしろ私が(歌やダンスの)得意な後輩に聞いてました。

「ここの振付って、どうやったらうまくできるかなぁ?」とか。歌もダンスもトークも、得意な子と苦手な子がいる。それぞれ得意な子に聞いて、支えあえばいいのかなって。そういう、お互いの歩み寄りがあったからこそ、距離が縮まった部分が大きいですね。

すごいですね。優秀な年下からのアドバイス、素直に受け入れられない人も中にはいるじゃないですか。

道重 確かにその気持ちも、分かります。でもプライドなんて捨てて普通に聞いてましたね。後輩たちも普通に「こうやるんですよ!」と教えてくれて、一緒に練習していました。「リーダーだから」「先輩だから」って考えるより、グループ自体のレベルの底上げが大事だと思います。

職場のプロジェクトチームなどでも同様のことが言えそうですね。後輩との接し方でもう一つ質問させてください。道重さんは普段から、後輩メンバーとプライベートでも交流していましたが、誘い方のコツはありますか? 仕事は仕事、飲みに行きたくない派の人もいるので、難しいなと思うんですが。

道重 自分から声をかける場合、はじめは「今度行こうね!」みたいな感じでふわっと誘っています。リアクションが良ければ本格的にスケジュールを合わせていく、みたいな感じですね。

ちゃんと断りやすいように、余白を作るっていうことですね(笑)。

道重 そうですね(笑)。最初から強制的には言わないみたいな感じですね。本当に行きたければ、向こうからも「じゃあ◯日はどうですか?」と言ってきてくれますし。

最初から「この日とこの日とこの日空いてる!」って誘われると、逃げられない! ってプレッシャーになりますものね。素敵な気遣いです。

道重 私、正直後輩に恵まれてたんですよね。気は使ってくれるけど、いい意味で遠慮がない子たち。

でもリーダーになったばっかりの頃は、やっぱりすごく思い詰めてたんです。「リーダーなんだから頑張らなくちゃ」とか「今までの歴代のリーダーみたいに動かなくちゃ」と悩んでいたけど、中澤裕子さんが「今までのリーダーの真似はしなくていいよ、しげちゃんらしくね」って言ってくださって、すごく安心したことを覚えています。

道重さゆみさん道重さゆみさん

ツインテール、一生やります

道重さんは、モーニング娘。を卒業するときに「『よし! 私、今日もかわいいぞ!』がギャグ化する前に、リアルにかわいいうちに卒業したい」とお話されていました。MCで自虐もあったし、当時は年齢に対してプレッシャーがあったのかな? と思うんですが、今は歳を重ねることを楽しんでいるように見えますね。時代の流れで、考えが変わったのでしょうか。

道重 実はあんまり時代の流れに……とかいうのは意識してないんですよね。私は私。だから、ずっとピンクが好き。ただ昔は「かわいい」のピークは25歳なのかな? って思っていたので、そこのうちに卒業したいって思っていました。あと、20代になったあたりで「私、ツインテールやってて大丈夫かな?」って不安になる時期もあったんです。

でも、今となっては、30歳になったけど、全然やりたいんですよね(笑)。もうここまできたら「一生やり続けよっ」って感じです(笑)。でも、似合わなくなったらしたくなくなると思うので、いつまでもツインテールがしたいと思える自分でいたいなと思います。

その変化って、かなり大きいですよね。

道重 「結局、こんな私が好き」って気付くことができたのが大きいですね。自分で言うのは少し恥ずかしいですけど、2、3年前の自撮りを見返していても、「今日の方がかわいい!」って思うんですよ(笑)。

かわいいを毎日アップデートしている、と。

道重 応援してくれている人たちに対しても失礼じゃないですか。だんだん劣化していってるって自分自身が思ってるなんて、絶対によくないことだと思うので。今の道重さゆみを応援してくれている人たちに対して、一番かわいい私を見せたいっていう気持ちでやってます。

道重さゆみさん

取材・執筆/小沢あや(@hibicoto
撮影/曽我美芽(@mimeeeeeeee
編集/はてな編集部

お話を伺った方:道重さゆみ(みちしげ さゆみ)さん

道重さゆみさん

1989年生まれ。2003年1月、モーニング娘。に6期メンバーとして加入。2012年、8代目リーダーに就任。リーダー就任期間中にはオリコンシングルチャートで5作連続第1位の記録を達成する。2014年にモーニング娘。'14および ハロー!プロジェクトを卒業。モーニング娘。への在籍日数は4329日と歴代最長。約2年4カ月の芸能活動休業期間を経て、2017年春に芸能活動を正式再開。
Twitter:@tubuyakisayumin
Instagram:@sayumimichishige0713

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