バラエティ番組『料理の鉄人』への出演をきっかけに、22歳にして中華料理界のスターシェフとして一躍有名になった料理人・五十嵐美幸さん。現在は、実家の中華料理店から独立して開業した「中国料理美虎(みゆ)」のオーナーシェフを務めるだけでなく、さまざまなテレビ番組への出演、食育活動、定期的な料理教室の開催など、多岐にわたる活動をされています。
女性のロールモデルが少ない中華料理という世界で道を切り拓いてこられた五十嵐さんに、これまでの歩みや働き方の変化、料理人というお仕事との向き合い方などについてお話をお聞きしました。
「料理人を辞めるときは死ぬときだ」という気持ちで仕事していた
五十嵐美幸さん(以下、五十嵐) そうですね、ちょうど実家の中華料理店の料理長に就任した直後のことでした。
五十嵐 実家はいわゆる町の中華屋さんだったので、もともと家族みんなで手伝っていたんです。私は上に兄がいる4人きょうだいの2番目なんですが、きょうだいの中でも特に料理が好きで。小さい頃から実家の店の手伝いばかりして、友達と遊びにも行かなければお祭りやプールにも行ったことがない、みたいな子どもだったんですよね。とにかく料理があればいい、という感じで。
高校生くらいまではただ好きな料理を手伝っているだけという感覚だったんですが、ちょうど高校を卒業するくらいの時期に放送されていた『料理の鉄人』の影響もあって、料理の世界にもいわゆるプロのような方がいるんだな、ということを知って。そこから料理人になりたい、ということを意識し始めた記憶があります。兄は料理ではない道に進んだので、21歳のときに私が家業を継ぐ、ということになって。
五十嵐 父親が本場の料理の味を……と中国に連れて行ってくれた経験もあり、中華料理の奥深さにはずっと魅せられていたので、「中華料理の料理長」という選択そのものには迷いはありませんでした。
ほぼ同時期に『料理の鉄人』への出演のオファーもポーンときて。失うものもなければ怖いものもない歳だから、軽い気持ちで出演したんですよね。でも、出てみたらそのあとが本当に大変でした。
五十嵐 周りの人たちに急に「天才」だとか「すごい」とか言われるようになってしまって、世界がガラッと変わったというか。とにかく「もっとすごくならないと」という気持ちがより強くなっていました。自分は当たり前のことしかできていない、実力をつけるためにもっと働かなければと思っていて、当時は本当に必死でした。店が休みの日も他のお店に修行に行くなど、週7日働くという生活をずっと続けていて。
でもそんな生活を数年続けていたものだから、25歳くらいのときに大きく体調を崩してしまって。ホルモンバランスが崩れてしまったのか、生理がほとんどこない、みたいな状態になっていました。
五十嵐 うーん、そうですね……でも料理を作って人に「ありがとう」と言ってもらえることのうれしさは小さい頃から身に染みついていたので、他の道を選ぶというのはちょっと考えられなかったのかな。
しかも当時は、いま以上に女性の料理人という存在が世間に認められていない時代。周りにも「そんな仕事辞めて結婚した方がいいよ」とか言われることもありました。でも、辞めたら辞めたで「ほらね、やっぱり女に料理人なんて無理でしょ」って言われるだろうから、それが悔しくって「絶対に辞めないぞ! 」と思って(笑)。
ちゃんと実力が伴っていればいいんでしょ! 私が辞めるときは死ぬときだ! くらいの気持ちで毎日仕事していましたね。
30代で初めて「自分の幸せってなんだろう?」と考えた
五十嵐 33歳のときです。実は家出同然で店を辞め、実家を出たことが独立のきっかけなんです。
五十嵐 25歳ごろに大きく体調を崩してしまってからもずっと働き続けていたんですけれど、好きだったはずの料理がいつの間にか苦しいものになってしまっていたんです。実家の店は『料理の鉄人』へ出演したこともあり、ありがたいことに大繁盛していたので、どんどん店舗を拡大していっていたんですよ。
でも親が持病持ちだったこともあり、料理長として働けるのは当時私だけでした。妹や弟が「自分がやる」と言っても「まだできないでしょ」と家族間で喧嘩になることもあって、そんな状況がつらくなってしまって……。
五十嵐 はい。家を出ることはそれ以前からぼんやりと考えていたんですが、親から「美幸は箱入り娘だから他じゃ通用しない」と言われたりして、それもショックだったんですよね。「私、本当は料理なんて全然できないんじゃないか」と疑心暗鬼にもなりました。
ただ、それなら一度、自分ひとりでも歩いてみたい、歩けることを証明したいと思って。店を辞めることはお客さんには伝えず、家に全財産を置いて最低限の荷物だけ持ち、友達にお金を借りたりもして引っ越しました。
五十嵐 いえ、なにも決めていなかったです。でも、ふらふらしていたら3日くらいで料理が作りたくて仕方がなくなってしまって。それまでずっと働き続けていたので、急に時間ができても動いてないと落ち着かないんですよ。だから友達の家に「いまからごはん作りに行こうか?」って連絡したこともありました。
五十嵐 ね、結局そうなんですよね(笑)。事情を知った仲のいい友達が「だったら料理教室を開いてほしい」と言ってくれて、そこからまた料理を再開して。家からフライパンだけ持って、出張の料理教室なんかを少しずつやり始めたんです。そこで、やっぱり料理ってなんて楽しいんだろうって思えて。
ちょうど同じ頃、信頼している料理人の先輩に今後について相談すると「幸せじゃない人の料理はおいしくない。だからまずあなたが幸せになりなさい」というアドバイスをいただいたんです。そのとき、「自分の幸せってなんだろう?」ということを初めて考えたんですよね。
五十嵐 初めてでしたね。今振り返れば思い込みのようなものなのですが、長女ということもあってか「自分さえ頑張ればみんなが仲よく平和に暮らせるはずだ」という考えで生きてきてしまっていたので、「自分がしたいこと」というのをあんまり考えたことがなかったんです。
33歳にして初めて自分と向き合った結果、「やっぱりお店を持ってお客さんに料理を作り続けたい」と感じて。お店を出す決断をしたのが、実家を出てから半年後のことでした。
初めて仕事を「減らす」選択。出産後は先手先手で動くように
五十嵐 そうですね、告知も一切しなかったので……。でも、地元の人に愛されるお店をゆっくり育てていきたいという思いがあったので、独立直後は楽しくて仕方なかったです。ついていきたい、と実家の店から来てくれたスタッフもとてもいい子たちばかりで、人にも環境にも恵まれて。独立してから5年後には結婚もしました。
五十嵐 独立した33歳のとき、自分の人生に優先順位をつけてみたんです。料理人として生きたい、というのがいちばん上にくるのは確実でした。その次に、必須ではないけれど、もしもいいパートナーがいたら結婚したいなと。
知り合いに言われた「自分がいちばん輝いているときに出会った人と一緒になるのがいいよ」という言葉が心に残っていたのもあり、独立して本当に好きなことができるようになってから出会ったいまの夫と、素直に結婚したいと思えたんです。
五十嵐 息子を産んだときもギリギリまで仕事をしていたんですが、大量出血を2回くらいしてしまって。もちろん仕事を手加減しない、というのは私と夫で話し合って選択したことだったのですが、産まれた子どもを見たときに「私は自分の都合でひどいことをしてしまった」と一気に罪悪感が湧いてきて、初めて人前でワンワン泣いたんです。
それで、お店のスタッフとも改めて話し合いをして、仕事を半分くらいに減らしました。命という、自分だけではどうにもならないことがある、というのをそのときに初めて痛感したんだと思います。
五十嵐 スタッフみんなの生活もありますしね。子どもがかわいくて一緒にいたいという気持ちも強いし、仕事もしたい。なので出産後はそれまで以上に、先手先手でやるべきことを意識するようになりました。
それでも、子どもといられる時間が短いことに申し訳なさも感じていた時期もありました。ただ息子を診てくださっている小児科の先生が「料理をするのが五十嵐さんにとって幸せだということを、息子さんに伝え続けてあげてほしい」と言ってくださったのにはとても救われて、それはずっと意識しています。
五十嵐 昔は全然わがままを言わない子だったんですが、いまやっと5歳になって、きちんと自分の気持ちを伝えるようになったので少しホッとしています。最近、泣いていても「ママがぎゅってしてくれないと僕は泣き止まないから」とかめちゃめちゃ言うんですよ。我慢しない子になってくれてよかったな、と思っています。
家庭向けには、作りやすく、作って感謝される料理を
五十嵐 和食の女将さんに相談をしたりすることはあったんですが、中華には確かに身近な女性の先輩っていなかったですね。やっぱり鍋を振る動作や火力が重要なので、正直体力面的にも厳しいです。ただ、20代のときから修行に行っていたお店でオーナーシェフの方に言われた「食材のことを徹底的に学んで、お客さまに食材がおいしかったねと言ってもらえるようなシェフになりなさい」という教えは確実に自分が目指す料理人像のベースになっていると思います。
あと、軸がぶれそうになることがあると夫に相談しますね。夫は私の料理のいちばんのファンなので(笑)、迷いがあると真っ先に気付いてくれるんです。夫がおいしいって言ってくれたらそれでいい、というくらい彼のことを信頼しているんです。
五十嵐 私はそのとき誰に向けて料理を作るのか、というのを大事にしていて、それ以外のことは一切考えないようにしています。
自分のお店では、いまお話したように食材を生かした料理、毎日でも食べられる中華というのを意識しているんですが、テレビ出演や料理教室で一般の方向けに料理を教える際には、作りやすさと、それを食べる人が喜んでもらえるかどうかを重視しています。
五十嵐 それはあると思います。息子が3歳くらいのときに、「いちばん好きな食べものは?」と聞いたら彼が「わかめごはん」って言ったんですよ。よくよく聞いたら保育園が延長になったときに、子どもたちみんなで残って食べるときのメニューがわかめごはんだって言うんです。
それを聞いたときに、どんなにいいもの、手の込んだものを作っても、楽しかったという思い出には敵わないこともあるんだなと思って。せっかく時間をかけて作っても、相手が喜んでくれなかったら意味がないじゃないですか。だったら、作る側の負担ができるだけ少ないものというのが一番いいんじゃないかなと思うんです。それに加えて、食べる人も喜んでくれるレシピを考えるのが一番いいな、と。
五十嵐 だから、料理を作ったときに食べる人から「ありがとう」と言ってもらえるような味、というのはキーワードとしてとても大事にしています。
最近では仕事の一環でフードロス削減や食育活動にも取り組んでいるんですが、どちらも生産者の方や料理の作り手に「ありがとう」という気持ちを持つことだと思うので。
五十嵐 (笑)。いまは中華の調味料の開発なども進めているんです。共働きの家庭などだと料理をしたくてもなかなかその時間がとれないという人も多いと思うので、「野菜を切ってその調味料さえ入れればめっちゃおいしい」みたいなものが作れたらいいと思っていて。
買ってきたものでも、切って炒めただけのものでも、おいしくて、食べた人が喜んでくれればそれでいいんですよ。料理人として、私がめっちゃおいしくするところまでは全部やるので(笑)、そういうものも活用していただければな、と思っています。
五十嵐 私自身、大きく体調を崩したり子どもを産んだりといったときにはいろんな方に相談しながら自分の働き方を決めていきました。その度に、周りの先輩たちにずっと「人間なんだから、ぶれたり間違えたりしてもいい」と言ってもらい続けてきたので、私も若い人たちにそれを伝えていければと思っています。中華に限らずまだまだ日本には女性の料理人が少ないので、楽しく自立して働いていける環境もある、ということを示していきたいです。
取材・文:生湯葉シホ
撮影:関口佳代
編集:はてな編集部
お話を伺った方:五十嵐美幸さん