『サプリ』は私の経験すべて――漫画家・おかざき真里さんに聞く「仕事」と「育児」の話

かしましめし
漫画『サプリ』や『&(アンド)』など、登場人物たちのリアルな心理表現や美麗な筆致で女性読者を惹きつける、漫画家・おかざき真里さん。現在「FEEL YOUNG」(祥伝社)で連載中の『かしましめし』では、“食”でつながる美大出身3人の人間模様を描いています。漫画家として活躍するおかざきさんですが、広告代理店で約11年間、CMプランナーとして働いていたとのこと。また、『サプリ』を連載中に妊娠・出産を経験されています。会社員時代に得たことや、3人の子どもを育てるワーキングマザーとしての顔にも迫ります。

ハードだった下っ端時代。小さな喜びがモチベーションに

おかざきさんは美大を卒業後、新卒で広告代理店の博報堂に入社されたそうですね。進路選択の背景から伺えますか?

おかざき真里さん(以下、おかざき) 昔から絵がとても好きだったのと、高校の美術の先生がすすめてくれたこともあって、多摩美術大学のグラフィックデザイン学科への進学を決めました。ただ、実家が江戸時代から続く造り酒屋で、私は三人姉妹の長女だったので、大学を卒業したら家業を継ぐつもりだったんです。でも、親から「おまえは出ていけ」と言われ、どうしようかなと。手に職をつけたいけど、絵で食べていくほどの自信はない。そこで、学んできたことを活かせる企業に勤めようと、博報堂を選びました。

入社後はどのようなお仕事を?

おかざき デザイナーとして採用されたのですが、当時の上司に「デザインは下手だからプランナーをやれ」と言われ、以来CMプランナーとして仕事をすることになりました。

CMの企画・制作は、広告の要になる仕事ですよね。多忙な毎日だったのでは?

おかざき そうですね。もちろん最初は下っ端からのスタート。先輩につきながら複数の案件を担当していました。朝まで作業とか、そんなことも珍しくないハードな日々でしたね。

多忙を極める中、仕事のモチベーションはどのようにキープされていたのでしょう?

おかざき 小さいことですが、自分のアイデアをプレゼンに持って行ってもらえるだけでも「やった!」と思えて。そんなことがモチベーションになっていました。ただ、経験を積んでいくにつれて、最終的にアイデアは形にならなきゃ意味がないとか、クオリティを上げていかなきゃいけないんだって分かるんですけど、下っ端のときはとにかく小さいことに喜びを見いだしていましたね。

「漫画はやめるな」上司の一言が今につながった

高校時代からイラストや漫画を描かれていたそうですが、博報堂に在職中の27歳で漫画家デビューを果たされます。CMプランナーとしての仕事と並行しながら漫画を描き続けられていたとか。

おかざき 直属の上司から「漫画はやめるな」と言われたんです。おそらく、アイデアや発想力を活かせる漫画をやめない方がいいというアドバイスだったのかなと。というのも、入社時にワンワードを与えられて、その言葉から連想するビジュアルを描く「発想力テスト」という試験があって。各自500案ほど提出するのですが、その評価が入社試験を受けた人の中で1位だったそうなんです。

すごい……! CMプランナーの仕事では、その才能を活かしきれなかったんでしょうか?

おかざき CMは数十人単位で制作するため、自分1人で完結できる仕事はほぼありません。プランナーの思い通りに作れるわけではないので、難しかったです。だからこそ、上司の言葉は「仕事以外にも自分だけの力で発想力を伸ばせる分野を持っておけ」ということだったのだろうと思います。その上司の言葉のおかげで今の自分がいると思いますし、恩を感じています。

おかざきさん

CMプランナーと漫画家の両立を経て、32歳のとき漫画家として独立されます。何かきっかけがあったのでしょうか?

おかざき 連載漫画の声が掛かったことが、独立を考えるようになった最初のきっかけですね。当時は5、6つくらいの案件に携わっていたので、仕事と並行して連載は難しいだろうと思いました。そこで上司に相談をしたところ、「1人で回せるクライアントを任せるから、辞めるのは保留にしないか?」と打診していただいて。自分のスケジュールを中心にして動けるのであれば両立できるかもと思い直し、しばらくは会社に残ることにしました。実際に辞める決断をしたのは、上司が現場を離れて役員になったタイミングです。

両立は厳しかったですか?

おかざき そうですね。漫画が本格的に忙しくなり、結婚もして年齢的に出産もしたかったので、そこまで掛け持ちはできないなと。そろそろ何か諦める決断をしないとすべてが中途半端になっちゃうと思って、会社を辞めることにしました。

仕事は「大きな流れ」に目を向けることが大事

会社員時代の経験が、作品に活きたと感じることはありますか?

おかざき 広告代理店を舞台にした漫画『サプリ』は、会社員時代の経験が1から10まで反映されていますね。もう本当に、すべてが詰まっています。

サプリ

『サプリ』(祥伝社)
(C)おかざき真里/祥伝社フィールコミックス

登場人物のモノローグ(心の中の独り言)など、染みるセリフが満載だなぁ~と。おかざきさんが会社員時代に感じていたことを盛り込んでいるのでしょうか。

おかざき 描いてあるエピソードは会社員時代のことそのままなんですけど、モノローグなどは「あのとき私が感じたことは、こういうことだったんだろうな」と思い返しながら、言葉をつけたりしています。

『サプリ』1巻の「モチベーション下げないのがプロの仕事 怖い顔しないのが女の仕事」というモノローグが印象的でした。

おかざき モノローグでは、「女の仕事」と表現しましたが、これは男女関係ないと思っています。だって、職場でいつも怒っているような表情の人って嫌じゃないですか。怖い顔をしない、とはつまり「笑顔でいると仕事がうまく回ることもある」ということだと思っています。

サプリ

『サプリ』1巻より
(C)おかざき真里/祥伝社フィールコミックス

主人公・藤井ミナミも仕事仲間から「笑顔ひとつで仕事が回るなら安いものよ」と投げかけられるシーンがありますね。

おかざき 会社員時代に感じたことですが、仕事ができる人って気配を消しているのに、その人がいるだけで、スルスルと仕事が回っていくような気がします。黒子になれるっていうのかな。そういう人って笑顔を絶やさないんですよね。

それと、できる人は「いいね!いいね!」って言って他人にも積極的に任せてくれる。目の前のことではなく、もっと流れの大きいところを見ている感じがします。

たしかにチームで仕事をしていると、1人の細かいこだわりがスムーズな進行を妨げてしてしまう、なんてこともありますよね。

おかざき 会社や組織に属している以上は、求められる役割を果たすのがプロだなと思うんです。そして、役割を遂行するうえで最も重要なのは「自分のところで仕事を止めない」こと。こだわるところはこだわる、でも、プロジェクトの流れを止めちゃいけないってときには、どんどん次に流すべきです。

ただ、どうしても小さな失敗を引きずって仕事の手が止まってしまったり、落ち込みがちな人もいたりすると思うのです。

おかざき 多分、失敗を気にするってことは、ダメなところを見つける仕事をしているんですよね。これも上司に言われてハッとしたことなんですが、「1日を円グラフにすると好む・好まざるに関わらず仕事が大半を占めるでしょう」と。その仕事を自分でいいものにしていかないと、自分の人生がダメになっちゃうと思うんです。もっと大きい目標を持った方がいいし、ダメなところに時間をかけるよりは大きいものを見ている方が仕事は絶対にうまくいくし、人生もうまくいくはずです。

「いつ死んでもいい」から毎日手料理を作る生活に

現在、母の顔も持つおかざきさんですが、『サプリ』連載時に妊娠・出産をされたそうですね。

おかざき そうです。ちょうど『サプリ』を描いているときに子ども3人を妊娠・出産しました。なので、サプリを描いている期間の半分は妊娠していて、半分は授乳していて。そして連載の最初から最後までオムツを替えていましたね。

すごすぎます……! 漫画家として活動しながらの育児に、不安はなかったのでしょうか。

おかざき なかったといえばウソになります。母親がバリバリの専業主婦だったためロールモデルがなく、試行錯誤の連続でした。そういうときって、「これが一生続くんじゃないのか」くらいに思ってしまうんですよね。子どもはだんだん大きくなっていって、夜泣きやオムツ替えもなくなっていくのに……。

今はいかがでしょう?

おかざき 大変さの根本が変わったように思います。子どもが小さいころは「ご飯をあげなきゃ」とか「寝かしつけなきゃ」とかそういう大変さだったけど、今は一番上の子が中学3年生と大きくなったこともあり、「将来子どもが1人で食べていけるようになるには」といったことに頭を悩ませています。基本的に私が「自分でやりたがる」タイプなので、子どもについ手を掛けてしまいがちになっちゃうんです。それを抑えようと必死です(笑)。子どもを見守る姿勢を身につけることが目下の課題ですね。

子育てによって変わった価値観はありますか?

おかざき すごく変わりました。たとえば、「他人がいるとちゃんとご飯を作ろうとする自分」を発見しました。それは、漫画『かしましめし』を描こうと思った理由の一つにもなりましたね。

連載中の『かしましめし』では、「ごはんを食べる」ことでつながる3人の物語を描かれていますよね。

おかざき はい。私、たぶん1人だったらコンビニでいいやっていうタイプなんですけど、子どもがいると毎日買い物して、ちゃんと料理するんですよね。

かしましめし

『かしましめし』1巻より
(C)おかざき真里/祥伝社フィールコミックス

子どもの存在が生活を変えたんですね。

おかざき 子どもが生まれるまでは、いつ死んでもいいやって思っていたんですけど、子どもが生まれたときに、初めて「あ、死ねなくなった」と思ったんです。それまでは、朝まで徹夜してもいいし、毎日が面白ければいいじゃないかっていう考えだったんですけど、圧倒的に自分が手を掛けないと死んじゃう存在がいるので……。そこは大きく変わりました。私にとって子どもを持つことは、すごくいい選択だったと思っています。

人生の選択肢はたくさん欲しい。でも恋愛は要注意!

「りっすん」では女性の「働き方」について紹介しています。おかざきさん自身が「働き方」で感じていることはありますか?

おかざき 私は、そもそも人生の選択肢って、たくさんあった方がいいと思っているんです。欲張りなんですよね。仕事もできれば一つだけじゃなくて、複数やりたい。会社員時代も、案件が2つくらいだったときは逆につらくて、行き詰まりがちでした。どうせだったら4つ以上は掛け持ちしたいと思っていました。複数の仕事を同時に請け負うことで、視野が広がるんですよ。視野の広がりとプロフェッショナルとしての深さ、それを追求するうえでプラスになる趣味、を持っておくことが大事かなと思います。

仕事以外に夢中になれることがない、ワーカホリックな人はどうすればよいでしょう?

おかざき 仕事以外に、何でもいいから両立できるものをたくさん持っているといいと思いますよ。そういえば、友人は離婚したときに、ピアノを弾くことが救いになったって話していました。ピアノがあったから離婚のつらさも乗り越えられたそうです。やっぱり、いざというときに、好きなことがあるのは大事だなって。

おかざきさんの漫画は恋愛模様も重要なテーマの一つだと思いますが、恋愛は仕事と両立する選択肢としてどうでしょう?

おかざき 恋愛が趣味でもいいと思うんですけど、自分1人じゃできなくて他人が絡んじゃうのでね。いいときはいいですけど、足を引っ張るときも多々ありますから。恋愛も、たくさんの人とするのがいいかもしれませんね(笑)。

ちなみに、漫画『かしましめし』では、1回人生で折れちゃった人たちの同居生活を描いているのですが、会社員時代から周りに人がいてくれるってとにかくありがたいことだなと思っていて。恋人ってどうしてもギブアンドテイクになりがちですが、それほど重くなく周りにいる、そういう存在がいるのはとても恵まれていますよね。

おかざきさん

生き方の選択肢を増やすという意味では、今はいい時代かもしれませんね。働き方が多様化してパラレルキャリアに挑戦する女性のロールモデルも増えましたし、シェアハウスの普及で暮らし方の幅も広がりました。

おかざき 私の時代は「女は四年制大学に進学したらダメだ」なんてことも言われていましたからね。ゴールデンコースは、短大を出て事務職に就いて社内結婚すること。そのころに比べると、幸せな時代になったなと思います。

何より私がしんどかったのは、“経験でしかモノを言わないおじさんたちの存在”です。「俺たちが若いころは~」とか、「女はこういう生き方が幸せだ」みたいなステレオタイプを押しつけようとする人たちがいましたが、今はネット世代なのでいろいろな価値観があっていいことに気付かされますし、救われますよね。

おかざきさん自身の今後の展望があれば、教えてください。

おかざき 漫画家としてどうなっていきたいか、というのは正直分からないです。以前は雑誌に漫画が載って、次は巻頭に掲載されて、連載を持って……というのが王道だったんですけど、今はインターネットからスターになる漫画家もたくさん出てきています。過渡期ではありますけど、それは素晴らしいことだなと思っています。

いずれにしても、私は「大人の仕事は楽しそうに生きること」だと思っていて。

楽しそうに、生きる?

おかざき 大人が毎日楽しそうにしていれば、子どもが希望を持って「大人になりたい」と思ってくれるじゃないですか。なので、母としても、漫画家としても「楽しそうに生きる」ことを大事にしていきたいです。

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)

お話を伺った方:おかざき真里さん

おかざき真里

1967年、長野県生まれ。博報堂在職中の1994年に『ぶ〜け』(集英社)でデビュー。2000年に博報堂を退社後、広告代理店を舞台にした『サプリ』(祥伝社)がドラマ化もされるなど、大ヒット。その他、代表作として『渋谷区円山町』(集英社)、『&(アンド)』(祥伝社)など。現在は「月刊!スピリッツ」で『阿・吽』、「FEEL YOUNG」で『かしましめし』を連載中。最新作『かしましめし』では、心が折れて仕事を辞めた千春、バリキャリだが男でつまづくナカムラ、恋人との関係がうまくいかないゲイの英治の3人が「ごはんを食べる」ことでつながり、“生き返る”物語を描いている。ほか、東京国立博物館「特別展『仁和寺と御室派のみほとけ展』」にて『阿・吽』コラボレーション開催中(2018年3月11日まで)。開催を記念し、読売本社ギャラリーでも『阿・吽』特別展示実施中。

次回の更新は、2018年2月7日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

医師として、母としてのゴールを考える 森戸やすみさんの「ブログ、仕事、子育て」事情

今回「りっすん」に登場いただいたのは、小児科医であり、ブログなどで発信を続け、さまざまなメディアでも活躍する森戸やすみ先生。自身も17歳と11歳の娘さんを育てる現役ママです。子育てしていれば誰もがぶつかる育児の悩みを分かりやすく解説したブログや著書で、多くのお母さんたちの不安や悩みに寄り添っています。そんな森戸先生に、自身の働き方のことやブログを始めたきっかけ、小児科医として感じることなどについて、伺いました。

小児科医 =「子育てのエキスパート」ではない

最初に、森戸先生の経歴を教えてください。

森戸やすみ先生(以下:森戸) 開業したばかりのクリニックで小児科医として働きながら、17歳と11歳の娘を育てています。これまで、新生児医療を行うNICU(新生児集中治療室)や産婦人科の小児科部門、一般小児向けのクリニックなどを経験してきました。

小児科医、というのは志望されて?

森戸 いえ、もともと小児科医志望ではなかったんです。初めての実習が小児科からで。そこで、「小児科って楽しそうだし興味深いな」と思ったんですね。外来に来る子どもの9割は急性疾患です。でも、本来なら整形外科や耳鼻科で診るべき案件もすべて、子どもの不調はまず小児科にくる。いろいろな初期対応をしなければならないのは、やりがいのある仕事だと思いました。

もちろん、子どもは大好きでしたが、子どもが好きなだけでは小児科医は務まらなかったと思います。小児科って、子どもに嫌がることばかりしますから。子どもに好かれる職業ではないのかも、と思います。

妊娠・出産は、キャリアにどう影響がありましたか?

森戸 実は私、大学病院で2年の初期研修を終えて出張に出ていた地方*1で、結婚・妊娠・出産を経験しているんです。1人目を産んだのは28歳で、そのときのポジションは研修医でした。当時私が派遣されていた市立病院では、研修医の妊娠と出産は初めてのケースだったんです。そこは退職しましたが、やはり医師として、長い間休んでしまうとキャリアが途絶えてしまうのでは……という不安はありました。

研修医時代での妊娠・出産というのは当時珍しかったのでしょうか。

森戸 一般的に女性の医師は、学生時代からの相手と早めに結婚するか、ある程度のキャリアを積んでから遅めに結婚するか、のどちらかが多いと思います。私は研修医の立場での妊娠と出産だったのですが、当時、研修医に対する産休と育休は制度にないと言われてしまって、一度病院を辞めるしか選択肢がありませんでした。

そうだったんですね……! 産後の復帰は、いつされたのでしょうか。

森戸 長女を出産して、10ヶ月くらい経ってからです。小児科医はただでさえ不足しているので、半日でもいいし、非常勤でもいいから現場に復帰してみないかというお誘いがあったんです。実家のある県に戻ってから、再度キャリアをスタートさせました。

ご実家の協力もあっての復帰だったのですね。

森戸 私の場合、本当に恵まれた環境でした。実家のサポートなくては、復帰は難しかったと思います。所属していた医局では、私が子どもを産んでも残って働く女医の第一号だったんです。それまでの女医の先輩たちは、結婚したら辞めて専業主婦になったり、旦那さんの出張について行って(旦那さんも医師であることが多いです)自分は非常勤の勤務になったり……が、大半でした。

でも、当時の医局長が理解のある先生で「子育てしながら働く女医のモデルケースにしたいから、無理をしなくていいよ」と言ってくれて、いろいろな面で助けられました。小児科は女医が多い科なので、人員確保のためには、積極的に環境を整えていかないといけないですもんね。

森戸さん

お子さんができてから、仕事への姿勢に何か変化はありましたか。

森戸 小児科医って、子育てのエキスパートだと思われがちなんです。でも、医師は病気を診る人であって、自分の子どもの子育ては、初めてのことばかり。授乳も、沐浴も、自分の子が初めてだったんですよ。当直なら朝がきたら誰か代わってくれるけれど、自分の子はそうはいかないですよね(笑)。子どもを産んでから、小児科にくるお母さんたちの気持ちはより深く理解できるようになったと思います。

お母さんたちの気持ちに、より寄り添えるようになったということですね。

森戸 そうですね。外来に来たお母さんたちに対して、「荷物をたくさん持って、病気の子どもを連れてきて、本当大変ですよね」など、より共感できるようになりました。やっとの思いで靴を履かせたと思ったら「ママ、トイレ~」と言われたりなんて、日常茶飯事ですよね。子育てが大変とは聞いていたけれど、こういうこともあるのかぁ~と改めて分かりました。

現役のお母さん医師として発信できること

森戸さんは自身のブログ「Jasmine Cafe」で、日々の出来事や小児科医として感じることなどを長年つづられていますよね。ブログを始めたのは、何かきっかけがあるのでしょうか。

森戸 次女が2歳になった頃、自分の時間に少し余裕ができてきたこともあって、始めました。それ以前から外来で一人ひとりに説明するのではなく、広く、効率よく、子どものからだや病気のことについて発信できないだろうか、と考えてはいて。

医師として、お父さん・お母さんに役立つ発信をしていきたいということだったのですね。

森戸 夜に患者さんを診る医師の負担を減らしたい、という思いもありました。夜中、突然熱が出たお子さんを焦って病院に連れていく親の不安も減らしてあげたい。お子さんにとっても、病気でしんどいときに必要以上の診察を受けるのはかわいそうだな、と。親、子ども、医師、みんなにとってハッピーなことになればいいなと思って。

でも、毎日医療的なことを書いていても面白くないし、そんなに話のネタもないですよね。なので、自分が子育てをしている日常で、笑えたり、ほっとしたり、でもその中にちょっと役に立つ情報がある。そんなブログになればいいなぁと思っていました。

反響が多かったと感じたブログ記事はありますか?

森戸 beeちゃんはプリキュアを消していいと言った。」という記事に対する反響は大きかったですね。小さいままだと思っていた我が子がいつの間にか大きくなっていってしまう、母としての悲しみをつづった些細な出来事なのですが、共感してくれるお母さんたちがとっても多くて驚きました。診察やトークショーなどでお会いするお母さんたちに、「あの記事に涙しました」と言ってくれる方が今でもいらっしゃいます。

ブログを続けていてよかったと思うことがあれば、教えてください。

森戸 ブログを毎日のように書き続けていくことは、自分の子どもの子育てログにもなりました。子育ては、振り返ると本当にあっという間の出来事。ブログがなければ私自身も忘れてしまっていた、なかったことになってしまう思い出や成長を振り返ることができるのは、幸せなことだと思います。

肌で感じる、お父さんたちの育児参加

診察やブログなどでお母さんたちとつながっていくなかで、ここ最近のご両親の子どもに関する悩みはどういうものが多いと感じますか。

森戸 発達障害に関する不安や、相談は多いですね。幼児期に「うちの子は何度言ってもいうことを聞かないんだけど、発達障害なのではないか」などと相談に来られるお母さんは多いですが、親御さんの悩み通りの特性を持った子であることは少ないです。母子手帳に書いてある月齢や年齢での成長項目が一つでもできないと、不安になる方が多いように感じています。

では、父親の育児参加について、近年何か変化を感じることはありますか。

森戸 お父さんが外来にお子さんを連れてくることは、昔も今もあります。でも、昔はお父さんに何を聞いても分からなかった。ご自分のお子さんの生年月日が分からなかった、なんてお父さんもいました。奥さんに「連れて行って」と言われたから、ただ連れてきているだけという感じですね。

一方で、今のお父さんたちは、普段から育児に参加しているんだなぁと思いますね。「今日はうんちが何回出ました」とか「ミルクはいつもの半分くらいしか飲めませんでした」とか、細かなこともしっかりと答えられる方が増えてきました。

働くお母さんたちが増えると、自然と父親も育児に介入していくことになりますよね。

森戸 お父さんたちに伝えたいのは、「働きながらの育児はとっても大変だけど、面白くてやりがいもありますよ」ということですね。育児に参加しないままでいたら、いつのまにかお母さんと子どもの間に強固な絆ができあがっていて、自分だけ蚊帳の外……なんて寂しいですよね。会社にもうちにも居場所があるって素敵なことだと思います。

森戸さん

働いているお母さんたちの悩みは、どんなものが多いと感じますか?

森戸 いつの時代もそうなのですが、保育園にお子さんを通わせているお母さんたちには「うちの子は、寝ない・食べない」という悩みが多いです。ネントレ(寝かしつけトレーニングのこと)の本などが長く売れているのは、寝かしつけの解決策がなくて悩んでいるお母さんが多いからですよね。

でも、保育園で2時間も昼寝をしていれば、夜なかなか寝ないのは当たり前なんです。そういうお母さんたちにはいつも、「トータルで何時間寝られていればいいですよ」とか「一週間を通してバランスのいい食事を心がけていればいいですよ」と伝えるようにしています。

お母さんたちは特に、子どもに対して「もっとこうしてあげないと」という葛藤がありそうです。

森戸 「日本のママほど頑張っているママはいない!」と思いますよ。離乳食だって、毎食手作りするのは日本のお母さんくらいだと思います。頑張りすぎず、あまりプレッシャーを感じずに楽しく子育てをしていってほしいですね。まずはお母さんがハッピーで、笑顔でいることが大事なんです。

働いている女性で、妊娠・出産のタイミングに悩んでいる方にはどう思いますか。

森戸 今の女性はしっかりと自立していて、何でもちゃんとしなきゃという意識が強く「なかなか子どもを産めない」、「産むタイミングが分からない」、「仕事をしながら育てていけるか不安」と言いますよね。でも、「さぁもう産んでいいですよ!」という合格免許のようなものはないし、誰もタイミングを計ってゴーサインを出してくれないんです。

いつか子どもがほしいと思っているなら、女性として感染症のチェックなどはしておいた方がいいと思います。妊娠してから分かった病気や予防接種歴で、つらい思いをしている子どもをたくさん見てきました。子どもがいる人生を送りたいと思っているなら、婦人科検診は欠かさず行っておくべきだと伝えたいです。もちろん感染症は男性にもチェックしておいてほしいです。

子どもの幸せがどんな形であっても受容するようにしたい

ご自身の育児に対して、お子さんが思春期になった今、何か心がけていることなどありますか。

森戸 娘たちは今、思春期真っただ中。親として何でもかんでも口出ししたくなることはありますが、個人として認めて、なるべく自分で決めさせるようにしています。娘としても、私に言いたいことはいろいろあると思います。激しい反抗期はありませんでしたが、女同士なので言い合うことももちろんあって。でも、仲良くできていると思います。

進路や将来のことを娘さんたちと話すとき、女性として、こうなってほしいという思いはありますか。またそれをどう伝えていますか。

森戸 小さな頃から、「女性であっても仕事は持つべき」ということは伝えてきました。それが、好きな仕事ならなおさらいいですね。自立をしてほしいというのは、強い願いです。

森戸さん

最後に、医師として今後どう歩んでいきたいか、お考えがあれば教えてください。

森戸 医師としてのゴールはどこにあるんだろうというのは常に考えますね。研究をいっぱいやりたいとか、大きな病院の院長になりたいとか、学会や組織で登りつめたいとか、人それぞれあると思いますが……。妊娠出産、育児がある中で、そういったことを目指すのは、私には難しく、できなかったです。それに、私はなるべく自分で子育てをして、それを臨床に生かせるようにする、ということに興味がありました。今は、クリニック勤務の医師を始めたばかりなので、まず地域医療に貢献しながら、ブログや本を通してより広くお母さんたちの不安や悩みに寄り添っていきたいと思っています。普段の外来で聞きたいことをまとめて相談できないお母さんたちのために、月に2回無料相談の日を設けているんです。そういう活動を続けていくことで、少しでもお母さんたちに医療の知見が増えたらいいなと思っています。

「母として」はいかがでしょう。

森戸 親としては、子どもが幸せになればいいなと思います。でも、私の思う幸せと違う幸せを選んできたら、それでも受け止められるのか?という気持ちはありますよ。子どもは元気で笑顔でいられればいいじゃないとは思っているものの、私も普通の母親なので、無意識に押し付けのようなことを考えてしまったりもします。子どもの幸せがどんな形であっても受容することができる……というのがゴールなのかな。小さな子どもに対しては通ってきた道なので分かりますが、大人になっていく子どもたちを見守るこれからの時間は、未知の世界です。

母として、もうちょっと年をとって経験を積んだら、医師としても深みが出てくるんじゃないかなぁと、自分のこれからの仕事や人生を楽しみにしています。

取材・文/浦和ツナ子

お話を伺った方:森戸やすみ さん

森戸さん

小児科専門医。一般小児科、NICU勤務を経て、現在は世田谷にある小児科クリニック勤務。専門的な学術書と手に取りやすい気軽な本の中間に位置するようなものを作りたいと考えている。二児の母。
ブログ: Jasmine Cafe
Twitter:@jasminjoy

次回の更新は、2018年1月24日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:医師の「出張」は、数年単位で大学から離れた病院に派遣され働くことが大半

気鋭のクリエイター・市原えつこさんの仕事観「会社員もフリーもリスクヘッジは必要」

市原さん
故人の姿を模したロボットで、死後49日間を故人と遺族が共生できる「デジタルシャーマン・プロジェクト」や、秋田県男鹿市で200年以上伝承される重要無形民俗文化財「ナマハゲ行事」が持つ機能を再解釈し表現した「都市のナマハゲ」。こうした、テクノロジー×日本文化という視点から斬新なプロダクトを発表し、注目を集める市原えつこさん。現在、フリーのメディアアーティストとして活動する市原さんですが、安定した会社員の地位を捨て、独立に至った背景にはどのような考えがあったのでしょうか。新進気鋭のクリエイターに「働くということ」、パラレルキャリアの考え方など、素朴な疑問をぶつけてみました。

咀嚼が難しい事象をメディアアートで伝えたい

市原さんはメディアアーティストとしてだけではなく、執筆業や司会業まで幅広いお仕事をされていますよね。

市原えつこさん(以下、市原) 基本的にはメディアアーティストが本業で、日本特有の文化とテクノロジーをかけ合わせたデバイスやインスタレーションの企画・制作を得意としています。それを主軸にしながら、アートやテクノロジー関連の執筆・連載を任せてもらっていたり、イベント・番組のディレクションや司会などの喋るお仕事もさせていただいています。あと、会社員時代はデザイナーとして働いていたので、「稼ぎが足りねー!」となったらデザインの仕事を請け負うことも。あまりにも自分の軸からブレるものはお断りさせていただくこともありますが、面白そうと思えばこだわらずに引き受けるようにしていますね。

市原さんの作品は、ぱっと見のユーモアもさることながら、社会が抱えている問題意識を練り込ませているところが魅力だなと思っています。

市原 そこは表現者としてこだわっているところです。もともと社会でタブー視され、隠蔽されている物事に興味があるので、性的なものや死、精神世界など咀嚼しにくい事象についてテクノロジーを活用することで、具現化していきたいんですよね。左脳で分析して、右脳で表現に昇華させていくプロセスが脳トレっぽくて面白いんです。それに、メディアアートは、目の前で体感できるもの。現実世界で自分の表現がダイレクトに伝わるところも魅力だと感じています。

インスピレーションはどこから?

市原 私は個人的な体験を大切にしてるんです。例えば、身内の葬儀に参加した経験が、Pepperに故人のマスクを被せて生前の言動を再現する「デジタルシャーマン・プロジェクト」の発想につながりました。自分の中にある世界を表現したいというよりは、日常の出来事から触発されることが多いですね。調べて満足せず、実際に現場へ行った方がインスピレーションを得られます。

スクリーンショット

Digital Shaman Project

自身の経験を基に制作した「デジタルシャーマン・プロジェクト」

安定or挑戦で悩んだ日々。独立のきっかけは骨折!?

市原さんは、現代美術などを研究対象にしている早稲田大学文化構想学部卒でいらっしゃいますが、やはり仕事もアート系に進むつもりだったのでしょうか?

市原 いえ、メディアアートは完全に趣味でしたね。大学生のころは、それを仕事にしようと思ったことはなくて、好きだからやっていただけでした。しかし、就職後も大学時代の経験が忘れられなくて、今に至るという感じです。

新卒で、ヤフー株式会社にデザイナーとして入社されていますよね。

市原 就職した当時は、デザインができれば幸せで満足度は高かったんです。サービスのウェブデザインとか、新しいスマホアプリのデザインとかを担当させていただいていたので、「デザインの勉強もできてお金ももらえるなんて、なんてありがてぇんだ」と。ただ、デザイナーとして企業に勤めていると、対象となるユーザーを想定し、誰かの課題解決のためにデザインをすることになります。そうじゃなくて、自分の欲望で作品を作らないと「精神的に死ぬ!」とだんだん思うようになったんですよね。また、デザイナーとしての伸び悩みも感じていました。

市原さん

それが社会人初の「仕事の壁」だったんですね。それをどう乗り越えられたのでしょう?

市原 学生時代に知り合った、AR(拡張現実)分野の最先端をいく開発ユニット「AR三兄弟」の川田十夢さんに久しぶりにお会いしたときに、「イベントに作品を出してみなよ」って声をかけていただいて。そのイベントがきっかけで、各所からお声がけをいただく機会が増え、副業として作品制作を始めるようになりました。

本業とのバランスを取るのは難しくなかったですか?

市原 そうですね。副業を始めてからは、平均睡眠時間が4〜5時間くらいでした。7時くらいに起きてから副業の企画制作やメールの返信などをこなし10時に出社。ランチはPC を小脇に抱えて、カフェでサンドイッチをかき込みながら副業の企画を練り、ダッシュで戻りなるべく定時上がりを心がけ、帰ってからはハンバーガーとかをむさぼりながら、個人の作品制作をする、みたいな生活でした。遊ぶ時間がなかったですし、炭水化物ばっかり食べていたので、栄養面でもいろいろ問題があったと思います。

挫折しそうになったことは?

市原 いや、そんな生活が常態化していたので、つらさを実感したことはなかったですね。稼ぎも安定していてベストじゃんと思っていました。2年くらい前までは……。

と言いますと、何か転機になる出来事が?

市原 27歳で今が最後のチャンスだと思って独立を決心したんです。ちょっとスピリチュアルな話になってしまいますが、たまたま知人の展覧会でブースを開いていた占い師に鑑定をお願いしたら、「早く会社を辞めた方がいい、守護霊が今後のことを考えさせるために足を折ろうとしている」って言われたんです。そのときは、フーンと聞き流していたんですが、その1ヶ月後、本当に会社で階段から落ちて足を折っちゃって。それが退職の一番大きな理由ですね。

占いがまさにピタリと当たったんですね! そもそもなぜ独立を躊躇されていたのでしょうか?

市原 手堅いキャリアを選びたくて、普通に文系の大学に進学して会社員になったのですが、その身分を捨ててしまって、社会的に大丈夫か、みたいな不安があったんです。

市原さん

加えて、経済的な不安もありますよね。

市原 はい、お金になりそうな気はしなかったですね。アーティストが食えるイメージは全くないですから。そもそも本当は美大に行こうと思っていたんですが、将来のことを考えて断念したところもあって。

堅実ですね。

市原 両親はむしろ美大に行けばいいと言ってくれたんですが、学費も高いですし、卒業後にペイできるのか? みたいな。文系大学に行った方が潰しがきくし、コスパは良いだろうと思って進学したので。結構、堅実だと思いますね。

堅実さを占いが打ち破ったというのが面白いです。

市原 うすうす辞めた方がいいのかなと思っているなかで、何か決定的な出来事が欲しかったんですよね。それが上司と喧嘩するとか、職場環境が悪くなるとか、きっといつかあるのだろうと待っていたんですが……なかったんですよね。それで、骨折を決定的な出来事にしたかったんだと思います。

一つの会社に特化するのは危険。スキルを磨き応用力をつけるべき

実際にフリーランスになって、仕事はどのように開拓されたのでしょうか?

市原 私の場合、ブログの退職エントリへの反響が大きかったですね。どういう経緯で会社を辞めて、どういうことをしたくて独立したのか、ポリシーとか、自分ができることをつらつらと書いたのですが、そこからお仕事のご依頼をたくさんいただけました。執筆やデザインの仕事や、大きい企業からお仕事を打診されることもあって、「ああ、良かった。とりあえず当面はやっていけそうだな」と。

独立してから、不安を感じたことはないですか?

市原 不安はありましたが、会社に戻りたいとは1ミリも思いませんでした。葛藤がなくなったというか、やりたいことをストレートにやれるようになったので、すごく健やかな気持ちになれたんです。完全に自分のやりたいことありきであらゆる選択ができる働き方は、やっぱりいいですね。会社員時代からの知り合いと久しぶりに会うと、「憑き物が落ちた顔してるね」って言われますもん。フリーは野生動物みたいなものなので、サバイバルに必死で悩んでいる余裕がないというのもあります。

では、フリーランスのしんどいところとは?

市原 気を抜くとすぐにマズい状況になることですね。フリーランスは雇用される立場と比較すると法に守られていないので、契約書をよく読んでいなかったり、資金繰りがちゃんとできていなかったり、リスクマネジメントができていなかったりすると簡単に立ち行かなくなります。あと、お人好しすぎると自分の首を締めることです。ギャラや条件面の交渉が不十分なまま、「いいよ、いいよ」と安請け合いしちゃうと、後で苦労することも多いです。

市原さん

ただ、逆に会社員として一つの仕事を全うしたい人もいると思います。そんな人でも、これからは「パラレルキャリア」を意識すべきなのでしょうか?

市原 確かに、この変化の大きい時代に特定の会社に特化しすぎるのは怖いなとは思いますね。他の現場でも応用可能なスキルかどうかを意識し、組織依存スキルばかりを身につけないように目配りする方が安全かなと思います。私も新卒の頃はそうだったのですが、その会社にいないと生きていけないという状況だと、「クビになったらどうしよう」というプレッシャーがすごいですし、いざというときに困ってしまうこともあるんじゃないかな。倒産やリストラの可能性もゼロではないわけですし。だからこそ、個人の人脈を作っておいた方が、精神的な安定につながりますよね。「会社を辞めてもどうにかなるぞ」と思えた方が、気持ちの面で楽だろうなとは思います。

なるほど。

市原 自己顕示欲が強い人はフリーになると水を得た魚のようになるというのが持論ですが、マネジメント力が優秀で協調性もあり、サポーターとして輝けるという方もいらっしゃいますよね。それであれば無理に独立することはないと思います。SNS時代になり、独自性を出せ出せ言われて苦しい時代だなぁという気がしますが、外圧にあわせて無理しなくてもいいんじゃないかなと。私は自己顕示欲が強い方だと自覚しているんですが、個性がモノを言う仕事は自我や自己顕示欲がないとつらくなるんじゃないかなと思います。

発明おばあちゃんになって、仙人みたいな暮らしをしたい

メディアアートの分野は、発展途上ということもあり若い方が活躍している印象ですが、将来への不安はどうでしょう?

市原 今は特にないですね。25歳くらいまでは、「歳とるのがつらいわ~」って漠然と憂鬱に思ってたんですけど、別に容姿を売りにして仕事をしているわけではないので、思考を切り替えました。若さはアドバンテージでもありますが、その反面ビジネスの場においてなめられやすくなる側面もあると思います。また、中堅どころの年齢になると各業界で同世代の友人たちが裁量を持つようになってくるので、遊ぶように仕事ができたりもしますし。よくよく考えると年齢を重ねることは別に苦痛でもなんでもなく、年々生きるのがラクになっている感覚があります。晩年は発明おばあちゃんになって、山奥のラボに篭って仙人みたいな暮らしをしたいって思いますね。ただ、40代から50代にかけてのイメージがすっぽり抜けてるんで、その辺りはしっかり考えないといけないです(笑)。

そこはまだ明確ではないと。

市原 はい。でも、できれば一生働きたいという気持ちが強いですね。フリーになると、結婚・出産・定年など人生のライフステージが変化しても対応しやすいのが強みではあります。大きな収入じゃなかったとしても、自分で生み出せるお金がある程度あると精神的な安定にはつながると思いますね。

ただ、会社を辞めてフリーになりたいけど、ずば抜けた能力もないから無理だ、と諦めモードの人もいると思うのです。

市原 最近は「フリーになるべし」という意見が目立つような気がしますが、フリーも良し悪しがあって、万人におすすめできるわけではないと思うんですよね。ただ、今は人材の流動化が当たり前になってきて、会社員に戻ろうとすれば戻れることも多い。独立に踏み切りやすい状況ではあるので、悩み続けるくらいならチャレンジしてみて、向き不向きを判断してみるのもいいと思います。フリーになってみたら、意外と食べていけることに気付くかもしれませんし、改めて会社員の良さに気付くこともあるかもしれない。

「丸腰」で出るのが不安であれば、副業というレベルではなくても個人で発信しておくとか、自分で作りたいものを作っていくとか、安定した会社員という強みを活かして、面白がってもらえるようなことをやっておく。最初はあまりお金にならないかもしれませんが、自分を面白がってくれる人や応援してくれる人がいる、というのはこの不安定な時代におけるリスクヘッジになるかなと思います。

市原さん

最近は「副業解禁」が話題になることも多いですが、副業を始めてみたいという人にアドバイスできることはありますか?

市原 何を副業にすべきか考えるとき、まずは自分がなんとなく気になるもの、やりたいものに時間を使うことで見えてくる気がします。まずは軽い気持ちでもいいのでやってみて、そのうえで無意識に出てくる個性は何なのか、その都度振り返って自己分析してみるのはどうでしょうか。あと、自分が言い出しっぺでやっていることって独自性が出やすいですよね。特に、副業の場合だと本業の収入があって、利益度外視でやりたい放題やれるわけです。会社員であればそれを強みに、純粋に興味あることに向き合い、やりたいことや適性のあることをあぶり出せばいいと思います。

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/関口佳代

お話を伺った方:市原えつこさん

市原さん

メディアアーティスト、妄想インベンター。1988年、愛知県生まれ。早稲田大学 文化構想学部 表象・メディア論系卒業。日本的な文化・習慣・信仰を独自の観点で読み解き、テクノロジーを用いて新しい切り口を示す作品を制作する。主な作品に家庭用ロボットに死者の痕跡を宿らせ49日間共生できる「デジタルシャーマン・プロジェクト」など。2016年にヤフー株式会社を退社し独立、現在はフリーランス。第20回文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門優秀賞を受賞。
Web:市原えつこ 公式Webサイト
Twitter:@etsuko_ichihara

次回の更新は、2018年1月10日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

仕事の原点は “小室ファミリー”? 貝印初の女性開発職が思い描く「意気込まない」働き方とは

栗田さん
『りっすん』が「企業の中で働く女性」にフォーカスするシリーズ「おしごとりっすん」。今回登場いただいたのは貝印株式会社の開発部に所属する栗田圭子(くりた けいこ)さんです。新卒で貝印グループで製造を行っているカイ インダストリーズ株式会社(岐阜県関市)に入社して今年で14年目。現在貝印の商品開発を担当している栗田さんは、なんと貝印が始まって以来、初の女性開発職なのだそう。仕事への取り組みから、キャリアとプライベートのバランスの取り方まで、詳しくお話しいただきました。

大学時代の経験から、美容関連の仕事を目指すように

栗田さんは開発職なんですよね。ということは、理系の大学を出られているのでしょうか?

栗田圭子さん(以下、栗田) そうです。地元(岐阜)の大学の工学部を出ています。ただ、私はあんまり研究者志向というわけではなく、なんていうか、夜な夜な飲み会に行っちゃうような生活を送っていて……。

ええと、リア充というか、「パリピ」と呼ばれるような……?

栗田 そうです(笑)。もちろん、授業はちゃんと受けていたのですが、メイクやオシャレを頑張ったり、街へ繰り出したり、といったことをしているグループにいました。当時、小室ファミリーが流行っていて、安室奈美恵さんや華原朋美さんの真似をしていました。アムラー世代なんですよ。

ギャル全盛期の時代ですね!

栗田 高校のときは、ルーズソックスまでで我慢していたんです。厳しい進学校にいた反動で、大学デビューみたいなことになってしまって(笑)。でも、そのおかげでメイク道具に興味を持つようになり、女性をキレイにするものを扱う仕事に就きたい、と今の仕事に繋がっています。

貝印さんは刃物のイメージが強いですが、美容関連の商品も多く出されていますよね。

栗田 それで、貝印の工場(カイ インダストリーズ株式会社)なら実家から通えるのもあって、入社試験を受けました。

じゃあ、新卒の頃は岐阜にいらしたんですね。

栗田 そうです。東京に来たのはほんの3年前で。美容関連用品を希望して入社したものの、最初の配属は医療器具の研究職で、眼科用のメスをミリ単位で研究していました。そこから開発に異動して、美容関連用品からキッチン用品まであらゆる商品を担当してきました。

初めて担当した商品では、嬉しい反面 悔しい思いも

開発では具体的にはどのようなことをされてきたのでしょうか?

栗田 本来、開発というのは、東京にある商品企画部が立案したものに沿って実際に作っていくのですが、入社5年目くらいの頃、「開発の立場から美容関連用品の企画に関わったらいいんじゃない?」と言ってもらいまして。実は貝印の女性開発職って私が初めてで、それまで女性は一人もいなかったんです。それで、美容関連用品はほとんどが女性向けのものだから、開発の知識もある女性目線の意見がほしい、と。そう言ってもらえたことが、今の私の仕事のスタンスを確立するきっかけになったと、今でも本当に感謝しています。

開発の立場の人が企画から関わることで、実現性のある企画が立案できるようになるということでしょうか?

栗田 まさにそうです。企画部がこういう商品を作りたいと言っても、量産するには技術的に難しい、なんてことも多々あります。私自身も決められたものの図面を描くより、アイディアを出すほうが好きなので、楽しんでやらせていただけました。

商品企画のアイディアを出されるようになってから、どのようなものを担当されたのでしょうか?

栗田 例えば、「おだんごヘルパー」は私が最初に企画から関わった商品です。当時、歌手の絢香さんがしていたおだんご頭が若い子の間で人気があったんですけど、おだんごってちゃんとやろうとすると結構難しいんですよね。それで、髪に巻き付けることでおだんごの形を崩れにくくするヘアアクセサリーを作りました。これ、面同士で付けたり剥がしたりできる素材(面ファスナー)でできているんですよ。髪にくっつくからおだんごを作ったときに安定するんです。

栗田さんが企画開発した「おだんごヘルパー」。パッケージも少しずつ変化している。
写真右側のものが旧パッケージで、写真左側のものが現行品のパッケージ

(サンプル品を頭につけてみて)本当ですね! 髪にくっつくだなんて考えたこともなかったです。

栗田 髪に巻くカーラーも面ファスナーでできているので、そこから着想を得ました。これはすごく売れて、確か発売前に来ていた注文の数が、当初想定していた数の10倍近かったと思います。

最初に担当された商品でいきなりそんなに売れるのはすごいですね!

栗田 ただ、「面同士で付けたり剥がしたりできる素材をヘアアクセサリーに使う」というアイディア自体に権利はないので、その後、他社さんに似たような別の商品を色々出されてしまって、結構悔しい思いもしました。

東京への転勤は、プライベートの転機にも

東京にいらして3年、と先ほどおっしゃっていましたが、もともとは会社が地元にあるから入社試験を受けたのですよね。転勤には葛藤があったのではないでしょうか……?

栗田 はい、これには結構悩みました。それまでも企画部とのやり取りの関係で、週一くらいのペースで東京に来ていたものの、貝印の本社がある秋葉原と岐阜との往復しかしていなくて土地勘もないし、ひとりっ子なので親も渋っていて……。でも最終的には、とりあえず半年くらいやってみて、ダメなら辞めるか異動を申し出るかすればいいや、と腹をくくりました。

ずっと地元で働いていただけに、見知らぬ土地で働く覚悟というのも相当ですよね。

栗田 そうなんです。ただ、いずれにせよ岐阜の工場には何度も足を運ぶことになるので、週一で東京出張している生活が、週一で岐阜出張をする生活になるだけかな、と。それに、東京で働く同郷の人と知り合って、相談に乗ってもらっていたのも大きいかもしれません。のちに、夫になる人なのですが。

……! そうなのですね!

栗田 夫は大学で東京に出てきてそのまま東京で就職していて、知人の紹介で知り合いまして。偶然にも地元も出身高校も同じだったんです。私の転勤がきっかけで、翌年に結婚しました。結局こっちに家も建てて、すっかり東京が拠点になったのですが、やはり夫が同郷だと、生活のちょっとしたことにも違和感がなくて過ごしやすいです。

共働き夫婦は家事の分担に頭を悩ませることが多いですが、どのように工夫されていますでしょうか?

栗田 料理などの家事は私がほぼ全てやっていますね。

ええっ!

栗田 私、家事をすることはそんなに苦じゃないんですよね。平日仕事から帰ってきて家事をするのは確かに大変ではありますが、その分、時短商品のアイディアが浮かぶなど仕事面で視野が広がりましたし。今までは「多機能で便利」という発想ばかりだったのが、手間がかからないラクなものへの需要を身をもって実感しました。

栗田さんが企画開発に携わった商品の一部。時短を意識したアイテムも!

なるほど。仕事に繋がるとはいえ、自分ばかり家事をやっているという、気持ち的なストレスはありませんか?

栗田 そもそも私、結構専業主婦志向が強かったんですよね。私の地元では結婚したら仕事を辞めるっていうのが当たり前で、私も結婚したら辞めるものだとずっと思っていましたし。

そうだったのですね。第一線で働きつつ、家事もさらっとこなしているなんて、なかなかできることじゃないと思いますので、すごいです。

栗田 いえいえ、私も忙しかったりうまくいかなかったりで、イライラすることもありますよ。基本的に感情の起伏も激しいですし。でも、感情をなくしたら終わりだとも思っていて。感情があるからこそ食べ物や服やメイクに対する興味を持つわけで、感情のおかげで自分の意見を持てるんです。機嫌が悪いときなんかは眉間にシワが寄って負のオーラが出ているのですが、無理に取り繕って感情を消そうとしても余計にうまくいかなくなるだけなので。そういうときは、一晩思いっきり飲んだり、早く寝て忘れるようにしたり。感情を持つことは悪いことではないんだ、と自分に言い聞かせています(笑)。

キャリアに対する野望はあえて持たず、意気込まない

今後のお仕事について思い描いていることがあればお教えください。

栗田 うーん……、まずお仕事についてですが、実はキャリアに対する野望とかは全然ないんです。私は貝印で初めての女性開発職ではありますが、下の世代にとってのモデルケースになりたい、と意気込んでいるわけでもなく。ただ、昔「この人じゃないと頼れない、代わりがいないと思われる存在になってほしい」と父に言われたのが印象に残っていて、この言葉だけはずっと意識して働いています。

では、プライベートな面でお考えになっていることがあれば教えてください。

栗田 目下考えなければならないのは子どもを産むかどうかについてですね。私は今36歳なので、そろそろ焦らなければいけないと思いつつもわりと楽観的です。幸い理解があり、頼れる上司ばかりなので、もし今後仕事と家庭との両立で悩んだとしてもなんとかなるかなと。それに、子どもはいきなり産まれるわけでもなく、約10ヶ月も考える猶予がありますしね。あまり先のことを考えて悩んでも疲れちゃいますから、考えすぎないようにしています。

取材・文/朝井麻由美
撮影/関口佳代

お話を伺った方:栗田圭子さん(貝印株式会社 商品本部 開発部)

栗田さん

2003年カイ インダストリーズ株式会社入社。医療用開発器具の研究職を経て、開発職に。美容関連用品、キッチン用品を担当し、2014年より貝印株式会社勤務に。仕事終わりに会社の先輩や同僚と飲みに行くことが、ストレス発散になっているのだそう。

次回の更新は、12月20日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

山内マリコさんが感じた「20代で結婚しなきゃ」という焦り。地元を出て、小説家としてデビューするまで

山内マリコさん
地元に帰ると、誰もが結婚の話ばかりしていて肩身が狭い――東京で働く地方出身女性の多くが経験したことがあるのではないでしょうか。小説家の山内マリコさんもその一人。25歳で上京し、31歳で作家デビュー、34歳のときに結婚。「みんなみたいに20代のうちに結婚しなきゃ」と焦りながらも、周囲の友人とは違う人生を歩むことを選んだ山内さんに、ライフステージの変化やこれからの女性の生き方について伺いました。

小説家を目指すも、ほぼニートだった20代

山内さんの作品は「女性の生き方」や「地方出身者の葛藤」がテーマになることが多いですが、ご自身も富山から上京されているんですよね?

山内マリコ(以下、山内) はい。高校までは富山で、大学で大阪の芸大に行って、卒業後に3年くらい京都で過ごして、そこから上京しました。高校まで過ごした地元に、自分の居場所がない感覚はありましたね。

そういう感覚を持っている方はまっすぐに東京を目指すことが多いイメージがありますが、山内さんは結構転々とされているんですね。

山内 どうしても東京に行きたい、と思っていたわけじゃないんです。東京の大学も受けたけど落ちて、受かったのが大阪の郊外にある芸大でした。じゃあ、大阪でもいいかなーと。それで、映画が好きだったので、安直に映像学科に進学しました。ところがいざ入ってみたら、集団行動が死ぬほど苦手なことに気付いて、こりゃダメだ、と(笑)。もう、みんなでやる撮影が嫌で嫌で!

じゃあ、その頃はまだ小説家になりたいと思っていたわけではなかったのでしょうか?

山内 文学部に行こうと考えたことこそなかったけど、小説家もぼんやりと憧れていた職業の一つでした。最初になりたいと思ったのは、中2のとき。うわ、改めて言うと、ダッサ(笑)! まあ、思春期で内面が複雑化してきた頃で、マンガの直接的な心理描写では自分の心が満たされないと思い始めたんです。それで小説をたくさん読むようになって、「こういう本、私も書きたい!」って。あと、小説家は家で仕事できるのがいいなぁーと。「家にいたい! なりたい!」って(笑)。

ははは。

山内 読書量が増えると、文章を褒められることも多くなって、書くことには少しだけ自負があったんです。それで大学卒業後に、小説新人賞に応募してみたのですが、一次選考にも通らない駄作で……(笑)。でも、文章を書く仕事に就きたいという気持ちは大きくなってて。京都でバイトしていた雑貨屋さんを取材しにきた方に、「ライターってどうやったらなれるんですか!?」と逆質問したら、編集プロダクションを紹介してくれて。どうにかライターの職にありつくことができました。文章を書く仕事だったら何でもいいや、と思ったんですよ。

山内マリコさん

なるほど。実際は全然違います……よね?

山内 そう! ライターの仕事は1年くらい続けたものの、全然向いてなくて……。私がやっていた仕事は京都ローカルのフリーペーパーとか、関西圏で発行されている情報誌とか、店や寺の取材がメインで。だからニュートラルな紹介記事を書かなきゃいけないのに、こう、出したくなっちゃうんですよね、自分を。まだ20代前半で、いらぬ表現欲求がありあまってたんですね。無個性な文章を書くのがつらくなってきちゃった。記名記事なわけでもないんだから、個性いらないのに!

媒体にもよるかと思いますが、お店の紹介記事とかだとそうですよね。

山内 そういう流れがあって、同じ文章を書く仕事でも、やっぱり自分は小説なんだ! とはっきりしてきた感じですね。京都でいろいろ煮詰まってたところだったので、東京に行って心機一転、今度こそ小説家を本気で目指そうって。ただ、「小説家目指して上京します!」なんて、死ぬほど恥ずかしいこと言いたくないから(笑)、周囲には「映画が好きだから、映画ライターになりたいんです」とかボカして伝えて、見送ってもらいました。

一同 (爆笑)

山内 上京後は、ボロアパートでパソコンを叩いて、締め切りの近い文芸誌の新人賞に送りまくる生活が始まります。これ、小説家あるあるだと思うんですけど、郵便局で「なんとか文学新人賞係」と書かれた大きな封筒を渡すの、すごく恥ずかしいんです! 「こいつ小説家になりたがってるんだ」って思われる恥辱!

た、確かに……郵便局の窓口の人にバレるのはちょっと恥ずかしい(笑)。

山内 そうなの! みんなあの辱めを乗り越えて小説家になってるんですよ! で、東京で小説家をちゃんと目指そう、と頑張り始めた。……と言うと聞こえがいいのですが、25歳にして最悪のすねかじりニート時代に突入するのです。

そのあたり、親御さんは厳しくはなかったのでしょうか?

山内 うちの親はそこらへん甘くて、好きなことをやりなさいと野放しにしてくれていました。内心は罪悪感でいっぱいでしたが……。

同世代は働いているわけですものね。

山内 そうそうそう! 同世代の子に「最近は何してるの?」と聞かれるのが本当に嫌で。極力、新しい友人はつくらずに、当時住んでいたアパートに潜伏してました。同窓会とか絶対行きたくなかった!

小説家志望の知られざるタブーの話

そこからどれくらいで最初の賞を取れたのでしょう?

山内 27歳のときです。上京してから2年くらいで、R-18文学賞の読者賞をいただきました。これでやっと小説家としてデビューできる! あとは担当編集者さんに育ててもらおう、くらいの気持ちでいたんです(笑)。ところが、ここからが長くて……。

山内マリコさん

担当編集者さんと一緒に、賞を取った作品を本にしていく、という流れになっていくんですよね?

山内 そうそう。R-18文学賞は短編の賞なので、一冊の本にするには相当新しく書き下ろさなければならないんです。「短編をたくさん書き足しましょう」と言われて、書いては送り、書いては送り、とやっていたんですが、その担当さんが忙しくて新人を見る余裕がなかったのか、送れども送れどもレスポンスがなく、気付けば3年くらい経っていたという……。しかもそうこうしているうちに震災が起こり、一時的に富山に帰ることになります。

ええー! それはつらいですね。志半ばで諦めてしまいそうです。

山内 親も心配するし、ひとまず実家に戻ったのですが、地元にいてもやることがなく、諦めきれなくて、出すあてのない小説を一人でひたすら推敲してました。結局、ほかの出版社の方が声をかけてくれて、その1年後くらいにようやくデビュー作が出ることに。ただ、これってちょっとタブーなんです。新人賞を取った作家のデビュー作は、その賞を主催している出版社から出すのが暗黙のルールになっていて、ほかの出版社から一作目を出すのって、正規ルートではないみたいで。なかなか難しいんですよ。

それってなまじ賞を取ってしまったら、生かすも殺すもその出版社次第、ついてくれる担当編集者さんの運次第になってしまうってことですよね……。

山内 そう、賞を取っても、その出版社や担当さんが単行本を出すところまでケアしてくれるとは限らなくて、受賞したものの単行本デビューしていない人も少なからずいます。もちろん、賞を取ってすぐに本を出せて、それがすごく売れる例もたくさんありますが、私は運が悪かったんですよね。

地元は好きだけど、地元にいる私は好きじゃない

ええと、じゃあ25歳で上京して、27歳で賞を取って、そのまま3年経って震災が起こって、そこから1年後に本が出たということは……上京してから6年も粘ったんですね!

山内 賞を取ってから4年もくすぶっていたので、デビューしたときはもう31歳でした。その間に周囲は結婚ラッシュ。20歳前後で東京に出た子だと、もう10年くらい東京にいたわけだから、地元にUターンというタイミングで。こっちはやっとスタートラインに立てたところだというのに……(笑)。

20代後半のころ、そういうのに引っ張られて、自分も地元に帰らなきゃ、とか、結婚しなきゃ、とか揺れることはありましたか?

山内 揺れましたよー! ただ、住む場所に関しては東京のほうが居心地いいんですよね。好奇心を満たしてくれる場所が山のようにあるのは、単純に楽しいです。他人に干渉しない東京の気楽さは、性に合ってると思うし。一方で、地元にいると、なぜかどんどんテンションが下がって、鬱々としてくる。地元がつまらないというか、地元にいる「自分」がつまらない。でも、決して地元が嫌いで出てきたわけではないんですよ。むしろ地元は大好き。

山内マリコさん

11月発売の新刊『メガネと放蕩娘』も「地元」がテーマになっていますよね。

山内 はい! ここ何年かは小説の取材も兼ねて、地元を行ったり来たりしてました。だけど、じゃあUターンしたいか、またそこで暮らしたいかと聞かれると、全然(笑)。こういう矛盾や罪悪感、葛藤みたいなものを原動力にデビュー作『ここは退屈迎えに来て』を書いたのですが、『メガネと放蕩娘』はもう少し大人の立場で、地元の街に向き合いました。さびれた商店街を活性化させようとする話です。

私、デビュー作で地元を「退屈」と言い切ってしまったのを密かに気に病んでいて(笑)。つぐないの気持ちも込めて書きました。デビュー作では主人公は10代〜20代の若者で、ひたすら受け身だったけど、新作は33歳〜37歳の、中年のはじまり(?)くらいの年齢設定。退屈な街を憂うだけじゃなく、その街を自分たちの手で変えよう、なんとかしようと、主体的に奮闘しています。

20代で結婚しなきゃならない呪いと、女性の社会進出

山内さんは今年、結婚生活についてつづったエッセイ『皿洗いするの、どっち?』も出されていますが、ご結婚されたのはいつ頃でしょうか?

山内 29歳のときにつき合い始めた人と、同棲をはさんで、34歳で結婚しました。25歳で上京してからはずっと、小説家志望の引きこもりニートだったから、当然彼氏もいなくて。でもその頃が一番結婚に対して焦っていて、気も狂わんばかりでした(笑)。会う人会う人に「いい人いませんかね?」と口走るほど、本気で切羽詰まってて……。小説家にもなりたいけど、そんな場合じゃない、それ以上に彼氏がほしい! って欲にまみれていました。

当時はとにかく20代で結婚したい焦りがすごくて。明日彼氏ができればギリギリ間に合う! 芸能人みたいに3ヶ月くらいでスピード婚をすれば30歳の誕生日がくる前に結婚できる! とか計算していました(笑)。30歳を過ぎてしまうと、だんだんどうでもよくなっていったんですが、当時は「20代で結婚しないと」と思い込んで、自分で自分を縛って、呪いをかけている感覚がありましたね。外圧よりも、内圧に苦しんでいた感じ。

山内マリコさん

実際に結婚されてみて、世間に物申したいことはありますか?

山内 女性が外で働いてお金を稼ぐのは当たり前になったのに、男性が家庭の中で、いわゆる無償労働としての家事をすることは、まったく定着してなかったんだな〜と、つくづく感じてますね。20世紀に女性が少しずつ自由の身になって、日本では1985年に男女雇用機会均等法ができて、働く上では一応「平等」っていうタテマエができ、女性の社会進出はどんどん進んだ。で、この30年あまりの間にいろいろ洗い出された問題点が今、出そろってきている感じですよね。たまった膿をバーッと吐き出して、次の30年ではそれを解決させるため、制度や常識をブラッシュアップさせなきゃいけない、そういうタームなんだなぁと。

山内さんの活動は、そういったことを伝えるのにも繋がっていますよね。

山内 そうなんです。『皿洗いするの、どっち?』には、家事をめぐって日々繰り広げている夫との小競り合いを書いているのですが(笑)、これも膿を出す一環というか。夫婦の間で家事問題をオープンに話し合うのって、実はなかなかできない人も多い。例えば私が「春闘」と称して夫に家事分担を要求する姿勢に背中を押されて、「言っていいんだ!」と思ってもらえるとうれしいです。

取材・文/朝井麻由美
撮影/関口佳代

お話を伺った方:山内マリコ

山内さん

1980年富山県生まれ。2008年「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞し、2012年『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)でデビュー。主な著書に『アズミ・ハルコは行方不明』(幻冬舎)、『かわいい結婚』(講談社)他多数。

新刊『メガネと放蕩娘』は、シャッター通りとなった地元の商店街を活性化させようと奮闘する姉妹のストーリー。「ここ10年で私の地元である富山もずいぶんさびれてしまったんです。それでこのテーマで書こうと思いました」と山内さん。地元が好きなのに居場所がない、地方出身者ならではの複雑な思いを作品で描いてきた山内さんにとって、まったく新しい視点から地元を描いた作品。

Twitter:@maricofff

次回の更新は、11月29日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

女子校出身だからこそ「女同士」にしんどさを感じない――辛酸なめ子さん流・仕事の処世術

辛酸なめ子さん
今回『りっすん』に登場いただくのは、漫画家・コラムニストとして活躍する辛酸なめ子(しんさん・なめこ)さん。小学校1年生の頃から漫画を描いていた辛酸さんは、両親に美術の道に進むことを反対されるも、熱い思いで説得し美大に進学。そして、初の単行本発売をきっかけに独立し、漫画家・コラムニストとして本格的に活動するように。独自の感性で多くの女性から支持を受けている辛酸さんは、どんな学生時代を送ってきたのか、そして自身の働き方についてどのように考えているのか伺いました。

美大へ進学して「手先が器用じゃない」ことを知った

大学は美大に進学されたと伺いました。やはり学生時代から芸術系の分野に興味があったんですか?

辛酸なめ子さん(以下、辛酸) そうですね、小学1年生の頃には漫画を描いていましたし、絵を描いたり見たりするのは大好きでした。実は小学生の頃も美術系の中学校に行きたいと思っていたんですが、親に反対されてしまって。

小学生の頃から!

辛酸 そうなんです。ただ、両親とも教師だったので、「ちゃんといい学校に行っていい会社に就職しなさい」という考えを持っていたんですよね。結局、美術系中学への進学はせず、中高一貫の女子校に通うことになりました。でも、私の中ではやはり諦めきれない部分があって。

美大へ進学するために両親を説得した、と。

辛酸 「こういうことをしていきたい!」という思いを親にアピールするために、文化祭のポスターを描いたり、修学旅行のしおりのデザインを考えたり、できることは積極的にしてましたね。そのかいあって、高校3年生の頃には美術系の予備校に通うことを許してもらえました。「認める」というか「諦めた」という感じでしたが……。

念願叶って入学した美大時代は、どんな風に過ごされていましたか?

辛酸 私が大学生だった1993年頃はフロッピーが流行っていて、自分の作品を収めたフロッピーを販売した時期もありましたね。当時は原宿などに個人が作ったオリジナルのフロッピーを扱う店があったんですよ。絵が入ったものもあれば、オリジナルのフォントが入ったものもあったりして、さまざまなものが売られてました。

作品を売る際、そこから「仕事につながるといいな」といった思いもあったんですか?

辛酸 多少はあったかもしれないですが、「自分の思いつきを形にしたい」というような創作意欲の方が上回っていた気がします。自分がやりたいことをやっていた感じですかね。

辛酸なめ子さん

大学時代の専攻は、イラスト関連だったのでしょうか?

辛酸 グラフィックデザインでした。でも、アニメーションとかゲームに近いものを作って、そこに漫画を張り付けたりはしていました。

グラフィックデザインを選んだ理由は?

辛酸 グラフィックデザイナーの横尾忠則さんに憧れていたということもあって、「グラフィックデザイン」というジャンルに可能性を感じていたんです。でも、実際やってみたら私は手先が器用じゃなくて。ミリ単位で色をぼかすとか、色のムラをなくすとか、そういう作業が苦手だということに気付きました。私には繊細なデザイン表現のものより自分のテイストを出しやすいイラストとか漫画が合っているのかなと感じ、大学以外のところでフリーペーパーを作ったり、漫画を応募したりという活動もたくさんしてました。

大学以外の活動の中で、影響を受けた人との出会いなどはありましたか?

辛酸 当時、展覧会のオープニングパーティーに参加したりして、現代アートの作家さんと交流を持つようにしていたんです。そこで、会田誠さん、村上隆さん、松本弦人さん、中ザワヒデキさんといった、そうそうたる現代美術家の方々に出会えました。そういう方々からいいエネルギーを吸収させていただいた感じはします。

特に中ザワヒデキさんは、ご夫妻の事務所でアルバイトもさせていただきました。フロッピーマガジンの生産などをしていましたね。

中高は女子校ということでしたが、大学で共学になったときに女子校との違いを感じましたか?

辛酸 見た目が軽い感じのイケメンが多かったので、「だまされる!」と思って最初は怖かったですね(笑)。

恋愛対象に見ることはなかったんですか?

辛酸 うーん、なかったですね。活躍されている年上のクリエイターと会うことが多かったので、同世代の男性はどうしても頼りないなって思ってしまって。だから、学校の男の人とはあまり会話しなかったですね。

単行本発売をきっかけに独立し、テレビでも活躍

学生時代、就職について考えられたことはありますか?

辛酸 芸術の世界で生きていくためには制作活動の時間が必要だと思ったので、就職は考えていませんでした。私の周りも就活をしている人の方が少なくて、学校自体が「就活しなきゃ!」というような雰囲気でもなかったですし。

就職しないことに関して、ご両親の反応は?

辛酸 この頃には、両親にとって私はアンタッチャブルな存在になっていたので(笑)。もう何も言ってこなくなってました。

辛酸なめ子さん

大学卒業後はどのように生活されていたんですか?

辛酸 大学を卒業する頃、クリエイティブなことに携われるアルバイト先を探していたときに、ちょうどゲームデザイナーの伊藤ガビンさんの事務所の求人を発見して。雑誌を中心に活躍していた方なんですが、私はもともとガビンさんの書いた文章が好きだったんですよ。それで、ここで働けたら面白いだろうなと思って働かせていただきました。

そこではどんな仕事をされていたんですか?

辛酸 最初は、「ひたすらビルを作っていく」という内容のゲームを担当して終電間際まで延々とビルのCGを作ってました。あとは、ゲームの攻略本を作成したりしていました。

ゲーム関連の会社から、どういった経緯で漫画やコラムの仕事をするようになったのでしょうか。

辛酸 実はバイト以外にも、イラストや漫画を書く仕事を個人でやっていて。その割合がちょっとずつ増えていったんです。2000年に初めて単行本『ニガヨモギ』*1を出版したときに「読者が増えた」と実感して。「個人でやっていけるかな」と感じ、アルバイトをして6年程経ったタイミングで独立しました。

現在多数の媒体でご活躍されていますが、今の仕事でのやりがいについて教えてください。

辛酸 原稿を締め切りのだいぶ前に納品して、編集者さんに驚いてもらえると、すっきり感ややりがいを感じますね。

締め切り前の納品、素晴らしいです……! 編集担当の方からするとありがたいですよね。では編集者さんではなく、読者の反応の方はいかがでしょう?

辛酸 そうですね……。怖くて自分の名前を検索とかしないので「読者さんの反応をやりがいにしてます!」という感じではないかもしれないですね。でも、仕事や街で会った方に「読んでます」「書籍を読んでいて電車で笑いをこらえるのが大変でした」なんて言っていただけるとやっぱり嬉しいですよ。

自分から反応を見にいくことはあまりしないということですね。

辛酸 はい、批判されているのを見るのは嫌ですし、褒められていても恥ずかしくなっちゃうので。編集担当の方が、私の本が書評に取り上げられていたと言ってコピーしたものを送ってくださることもあるんですけど、薄目で読むようにしてます(笑)。

辛酸さんはテレビでも活躍されていますが、テレビに出るようになったきっかけはあったのでしょうか。

辛酸 『爆笑問題のススメ』という、作家や漫画家をゲストに迎えるトーク番組にオファーをいただいたのが最初でした。そのプロデューサーから別の番組にも呼ばれて、テレビの仕事が増えていった感じですね。

テレビに出ることに拒否感はなかったのでしょうか。

辛酸 特になかったですね。ワクワクしたり、楽しそうと思うことはやっておいた方がいいと思っていたので。それに、漫画やコラムで芸能関係のネタを執筆することもあったので、そういう方たちの姿を間近で見たいという気持ちもありました。当時から今に至るまでマネージャーもつけず個人で活動をしているので、依頼があったら自分の直感で引き受けるか決めています。

ただ、巨大ドミノ倒しをするという企画で、大きな風船の中から登場しなければならないというのは怖かったですね。ドミノの針でその風船が割れるんですが、「無表情で出てきてください」ってスタッフの方が言うんですよ。怖くてあまりやりたくなかったんですけど、現場はそれをやらないと進まないっていう空気でやらざるを得なくて。テレビは刺激的ですけど、怖い部分もあるんだなと感じました。

辛酸なめ子さん

女性ならではの処世術はあくまで「自分のため」がベース

女子校出身である辛酸さんが考える、「女性同士」の人間関係についてもお聞かせください。辛酸さんの著書では『女子校育ち』(筑摩書房)というタイトルもありますが、女性同士の人間関係でつらいことなどはありましたか?

辛酸 むしろ「女子校出身」だからか、私自身は意外とそういう風に感じないんですよね。恋愛でライバル関係とかになったりすると、警戒心とかピリッとした空気が生まれやすいと思うんですが、私は思春期をそういう環境で過ごさなかったので、女性に対する警戒心があまりなくて。こちらが敵意を出さなかったら、相手も敵意を向けてこないと思うんですよ。

なるほど! では辛酸さんの周りには、いわゆるマウンティングしてくるような女性はいないということでしょうか。

辛酸 あー。でも確かに、恋愛が絡んでなくても勝ち負けをつけようとする女性っていますよね。そう言われてみると、仕事で初めて共演した方に「もしかしたらあれはマウンティングだったのかも?」と思ったこととかはありました。テレビに出始めた頃、同業の文化圏の女性からは「テレビの人になっちゃったんだ」みたいなことを言われてさみしい思いもしたな……。でも、そのときは気付かなくて、家に帰ってから気付いたりします。鈍感なのかもしれないですね。

そういう人に対して思うことは?

辛酸 多少モヤっとしますが、そんな人にエネルギーを費やしたくないので、あんまり相手にしないようにしてます。関係の薄い人だったらそれでいいですけど、毎回自慢してくるような友達がいると精神が疲れちゃうので……。そこは距離を置くようにしています。

辛酸なめ子さん

「りっすん」では主に「女性の働き方」について紹介しています。辛酸さんが考えていることがあれば、お聞かせください。

辛酸 仕事を始めたばっかりの頃はあまり服装に気を使っていなくて、もっさりした格好をしていたんです。でも、ある程度女性らしい格好をした方が、男性からぞんざいに扱われなくなるというか、仕事が円滑に進むようになったのを実感することも多くて。それは女性ならではの処世術なのかなと思ってます。

シチュエーションにもよりますが、仕事の場で女性扱いをされることに対して、人によっては憤りを感じることもあるのかな、と思うのですが……。

辛酸 私の場合、憤りを感じたことはないですね。服装に関していえば、誰かのためでなく、「とりあえず格好だけでもちゃんとしようかな」と思って自分のためにやっていることなので。それに服装を変えることで対応が変わったのは、男性だけじゃなく女性もだったんです。例えば、買い物に行ったらショップ店員に無視されなくなったとか。なので、単純に考えて、女性らしい格好をすることは、仕事をするうえでもプラスに働いているのかなと思うんですよね。

印象は大きく変わりますよね。

辛酸 そうですよね。あとは、若い頃はノーメイクだったんですけど、メイクもきちんとするようになりました。やっぱりメイクをしないと顔色も悪く見えるので、周りの人に変に心配させてしまうことがあって。相手に気を使わせないためにも、メイクは大人として必要なことだったんだなと。化粧をするようになってからは、友人にも「今日はあまりキモくないね」とか言われるようになりました。オンオフをつけるという意味でもいいですよね。

年齢を重ねても謙虚な気持ちを忘れず、調子にのらない

ロールモデルや、憧れの女性はいらっしゃいますか?

辛酸 子どもの頃は、水森亜土さんや田村セツコさんといった、イラストで活躍されている人に憧れを持っていました。大人になってから田村セツコさんとお会いする機会があったのですが、本当に気さくでピュアな方で、ますます憧れるようになりました。70代になった現在でも本を次々出されているので、かっこいいですよね。あと、私は趣味でヨガをやっているんですが、ヨガを極めた相川圭子さんという女性も尊敬してます。若い頃にヨガ教室をいくつも経営していて、その後インドに修行に行った方なんですが、どこまでも追求する姿勢がすごいなって思います。

なにかを突き詰めている女性に憧れを持たれているんですね。

辛酸 芯のある女性ってステキですよね。あとは、いい年のとりかたをしている方。やっぱり、年を重ねるごとに生き方が顔に出てくると思うので。

理想の女性に近づけるように心がけてることはありますか?

辛酸 年齢を重ねても謙虚な気持ちを忘れないようにしてます。やっぱり調子にのったらよくないですよね。

辛酸さんも60代、70代になっても仕事を続けていきたいという思いをお持ちなんですか?

辛酸 そうですね。必要としてもらえるのはすごく嬉しいことなので。仕事自体も好きですし、体が元気な限りは続けたいですね。ただ、ネガティブな思いしか浮かばなくなったりとか、やる気がどうしても出ないというときは、休んだ方がいいというサインだと思うんです。なので、自分の心や体の声をしっかりと聞いてあげることが大事だと思います。仕事も大切ですけど、やっぱり自分の健康が一番ですからね。

辛酸なめ子さん

取材・文/石部千晶(六識)
撮影/関口佳代

お話を伺った方:辛酸なめ子

辛酸なめ子

1974年東京都生まれ、埼玉県育ち。漫画家、コラムニストとして幅広いジャンルで執筆活動を行う。『女子校育ち』(筑摩書房)、『辛酸なめ子の現代社会学』(幻冬舎)など、著書多数。幻冬舎plusにて、「次元上昇日記」を連載中。幼少期から絵を描くことが好きで、小学1年生の頃には、フランス貴族による愛憎劇の漫画を描く。大学時代は、男子学生に嫌悪感を抱きつつも、女友達と充実した日々を過ごす。エゴサーチはしない派で、趣味はヨガやチベット体操。
Twitter:@godblessnameko

次回の更新は、11月22日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:当時の販売元は三才ブックス。2004年に筑摩書房より文庫本が発売されている

冗談のつもりが本当にリングデビューしてしまった――プロレスラーとしても活躍する声優・清水愛さん

清水愛さん
専門学校に在学中に声優デビューし、その後15年以上ずっと第一線で活躍している声優の清水愛さんには、なんとプロレスラーとしての顔もあります。声優とプロレスラー、まったく違う2つの職業をどのように両立させているのでしょうか。仕事を始めたきっかけから、働く上での工夫、今後の人生プランまで、余すところなく語っていただきました。

コンビニの店員とすらまともに話せなかった学生時代

清水愛さん(以下、清水) 今回は私の働き方に関するインタビューなんですよね。このテーマでの取材ってすごく新鮮です。私、「働くぞ!」と思ってお仕事をしている感覚とは少し違うんですよね……。

と、いうと?

清水 うーん……。「好きな表現活動をして、それが評価してもらえたときにお金をいただける」と言ったらいいのかな。なので、「仕事」という言葉に対して私たち役者が持っている印象は、世の中の働く人たちとはもしかすると全然違うのかもしれません。私、なるべくなら働きたいですもん。SNSで「仕事行きたくない」「休みたい」「クリスマスなのに仕事だ」といった嘆きを見かけることがありますが、「家で一人でいるよりお仕事で誰かと会えるほうがいいじゃん!」とか思ったりします。

芸能の仕事ならではの感覚ですよね。一般人でもフリーランスで働く人は同じように考えていると思います。

清水 そうですね。相手に求めていただけることありきの職業ですので、お仕事に呼んでもらえないと働けない。そもそも、なろうと思っても必ずしもなれるとは限らなかったり、お金を稼ぐぞ、と思って選ぶ職業でもなさそうですよね。

清水愛さん

清水さんは声優とプロレスラーの二足のわらじで働かれていますが、それぞれどういった経緯で始められたのでしょうか?

清水 声優に関しては、なりたくて夢見ていたというわけでは全然ないんです。もうそれ以前の問題で、子どもの頃からものすごく引っ込み思案で、コンビニの店員さんとすらまともに話せなくて。「温めますか?」「お箸つけますか?」と聞かれるだけで、「…………は……はぃ……」と赤面してしまっていました。

それで、高校を卒業するときに、このまま大人になるわけにはいかない、と思って地元の専門学校の声優コースに入学することにしたんです。声優の勉強を何年かすれば、ハキハキ喋れるようになるはずだ、と。

そうだったんですね。半ばリハビリのために……。

清水 そうです。自己啓発のためでした(笑)。なりたい職業云々ではなく、まずはまともに喋れるようにならなきゃ、ちゃんと人間として生きていけるようなスタートラインに立ちたい、と。私は怠け者なので、養成所や劇団ではなく、専門学校を選びました。養成所だと毎日レッスンがあるわけではなく週1回だけとか、週3回あったとしても1コマ2時間とかのところが多くて。だったら、強制的に朝から夕方までみっちり授業が詰まっている専門学校に身を置いて、人と喋る勇気やテクニックを培うほうが私には合っているなと思ったんです。

結果、授業がすごく楽しくてのめり込んでいき、運よく事務所所属のチャンスをいただけたわけですが、当時の私からしたら、コンビニの店員さんとも話せないような人間が、まさか将来的に人前に姿を晒すような職業に就くことになるとは……です。

役という仮面をかぶることで「喋っていいんだ」と思えた

実は声優の仕事がすごく向いていたってことですよね。

清水 私の場合、引っ込み思案だったのが逆によかったのかもしれません。たぶん、自分の中に「表現したい。本当は話したいけどうまくできない」と鬱屈したものがたくさん溜まっていたんですよね。それが、台本をもらって役という仮面をかぶることで、その溜まって圧縮された感情をセリフに乗せて爆発させることができるんだと思います。

逆に役を通しての表現ではなく、自分自身をさらけ出すタイプのお仕事はすごく苦手でした。

例えばどんな仕事でしょう?

清水 若い頃、ドラマCDのおまけトラックとして、キャスト一人一人が例えば「学生時代の思い出を語る」といったプライベートなインタビューを収録することが多くて。そういうのがもう、本当ーっに苦手で! 役というフィルターがあればいくらでも、何でも喋れるんです。私がこの役を担当すると決まっていることで、自分は喋っていいんだ、と思えます。でも、それがない状態で、私自身を生身でポンと置かれたら、一体私の話すことに関心を持ってくれる人なんかいるのだろうか……とがんじがらめになってしまって。最近では、こんな私の境遇にも共感してくれる人がいることがわかって平気になったのですが、当時はつらかったです(笑)。

たしかに声優といえば裏方というイメージがありますが、最近ではイベント出演や雑誌に掲載されるなど前に出るタイプの仕事も増えている印象があります。

清水 私の学生時代(2000年頃)は、林原めぐみさんなどが歌の活動を含め活躍されていましたが、それ以前は今ほど声優さんたちが前に出る仕事って多くなかったように思います。声優雑誌にグラビアが載ったり、握手会やイベントに出たりといったお仕事が増えていったのは、私がデビューした頃くらいからですかね。

先ほど「すごく引っ込み思案だった」とおっしゃっていましたが握手会やイベントなど、ファンとの距離が比較的近いような仕事は、ストレスにはならなかったですか?

清水 ステージに一人きりで喋るのは今でもすごく緊張しますが、サイン会や握手会など、ファンの方と直接会話するイベントは当時からずっと大好きです。みなさん「好き」という気持ちを持って会いに来てくださるので、愛の告白をされているような感覚になります。

なるほど、引っ込み思案とはいえ、人とのコミュニケーション自体はお好きなんですね。

清水 そうですね。あと、突き詰めていくと、私は人から必要とされたかったんですよね。声優の仕事をしていると、普通に生きていたら絶対に出会えないような遠くに住んでいる人にまで私の声が届いて、「声を聞くと元気が出ます」といった感想をもらえたりするんです。一瞬でも誰かの役に立つことが嬉しくて、自分の存在価値を感じられる。お仕事をいただくことについても同じで、依頼をいただけるのはつまり、「あなたの声とお芝居が必要なので、あなたがこの台本を読んだ上で、この日、この時間、このスタジオに来てください」ということなんです。

これって私じゃなければダメってことなので、私自身が求められているという実感を持てます。ちょっと闇が深いかもしれないんですけど……。スケジュールにお仕事が入っていると、「あ、ちゃんと居場所がある。私、存在していていいんだな」って(笑)。自分の価値を他者に求めるのは、よくないこととは思うんですけど、こういう性格なんですよね。

清水愛さんのお仕事必須アイテム

声優の仕事で声を張り上げるシーンがある日は、コンビニで売っているチキンの揚げ物を食べるのだそう。「脂っこくて喉が潤うので、声の伸びがすごくよくなるんですよ」と清水さん。多色ボールペンも、台本チェックには欠かせない必須アイテム

冗談のつもりが本当にプロレスラーになってしまった

プロレスの仕事についてはどのようなきっかけで始められたのでしょうか?

清水 プロレスラーになったのは、本当にひょんなきっかけだったんです。プロレス観戦にハマり、プライベートの時間をすべてプロレスに費やすくらいプロレス漬けの生活を送っていたときに、プロレスイベントの出演依頼をいただいて。告知をするときに、「ついにリングデビューします!」と冗談で書いたんですよ。別にイベントに出るだけで、リングで戦うわけでもないのに。

でもそうしたら、なんと主催者さんが乗り気になってくださったんです。知り合いのプロレスラーさんたちも「やるんだったら教えてあげるよ」とか、「コスチューム作るなら紹介しますよ」と言ってくださって。あれよあれよと雪だるま式に話が大きくなってしまって、本当の意味で“リングデビュー”できることになっちゃったんです!

清水愛さん

白無垢をイメージしたリングコスチューム

単なる冗談が本当のことに!

清水 短期間だったけど必死に練習して、どうにか試合をして、その日は怪我なく無事終わりました。1回きりのお遊びでしょ、話題作りのためでしょ、と結構言われたりしたんですけど、体を動かすのがすごく楽しくって。「ちゃんとやりたい」と思って改めて練習をするようになって、今に至ります。

声優としての清水さんのファンの方からはどのような反応をされましたか?

清水 「ケガをするんじゃないか」とかなり心配されました。今まで美少女キャラやおとなしい性格の役を多くやってきたからなのか、素早く動けなさそう、どんくさそう、おっとりしてそう、と思われがちで。実際はそんなに運動が苦手なわけじゃないんですけどね。プロレスに限らず、自分の素を出そうとすると、意外、とか、イメージと違うって言われることが多かったかもしれません。

素の清水さんは、おとなしいキャラでも、おっとりしているわけでもないということでしょうか?

清水 そうなんです。とか言いつつ、見た目に関しては自分自身が考える「好みの女の子像」があって、自分を着せ替え人形にしていた節があります(笑)。前髪ぱっつんの黒髪ロングでサイドには「触覚」がないと嫌で、ゴスロリを好んで着ていました。これもよく「事務所命令」「媚びている」など言われたのですが、そんなこと全くなくて。単に自分の好みでした。そういったルックスの面ではファンの方と好みが合致していたんですが、中身がみなさんの想像とかけ離れていて……。

だから、昔は特に、ファンの方々の思うイメージに自分を押し込めるように頑張っていました。キャラのイメージを崩さないようにしよう、とか、男性の影は見せないほうがいいのかな、とか。別に自分を偽ってよく見せようとか、自己犠牲の精神とかそういうつもりじゃなくて、相手に喜んでもらえるのが一番、と思っていて。

素を出せなくてしんどい、よりも「喜んでもらえる」というほうが優先度が高かったんですね。

清水 完全にそうですね。そのせいか、私のことをMだと思って「俺ドSなんだよねー」というタイプの男性に好意を持っていただきがちでした。実際は私、全然Mじゃないんですよ。「Sはサービス・察しのS、Mは満足のM」と言いますけど、相手が望むようなサービスをしたいという気持ちが強いので、根っこはスーパードSだと思います。

声優とプロレスラーを両立するためのやりくり

兼業の工夫についてもお聞かせください。声優もプロレスラーも、毎月働く日が決まっているわけではなくスケジュールが不安定な職業だとは思いますが、どのように両立していますか?

清水 時間のやりくりの面では、フリーランスで働いている今はスケジュールを全て把握することができるので、調整しやすいですね。事務所に所属していた頃は「この日はお休みかな」と思っても「明日の仕事は○時に、場所はどこどこです」と前日に連絡が来たり、逆に仕事があると思って空けておくと直前に「なくなりました」と連絡が来たりします。「この日に仕事が入るorなくなる」というのは自分で逐一問い合わせる必要があるんですよね。フリーランスだとそういった事務所とのやり取りが必要ないため、この日はプロレスの試合だから、翌日に収録は入れないようにしよう、などと柔軟に対応できます。

清水愛さん

リングコスチュームは、清水さん自らデザインしているのだそう

試合の翌日に収録を入れないようにしているのはなぜでしょうか?

清水 単純に体力が……というのと(笑)、以前プロレスの試合で男性の強い蹴りを思いっきり顎に2発もらってしまったことがありまして。プロレスって基本的には顔面攻撃NGなんですが、食らっちゃったんです。慌てて病院に行ったんですが、口の片側がうまく動かなくなってしまって……。翌日に声優のお仕事が入っていたので、どうしよう……って青ざめました。そのときはどうにか乗り切りましたが、今はより気をつけるようにしています。健康面や体調面に気を配るのも大切な仕事ですからね。自分でできることとして、フリーランスということを生かし声優とプロレスラー、それぞれのお仕事でベストを出せるようなスケジュールを可能な限り組むようにしています。

試合のとき、気をつけていることもあるのでしょうか。

清水 喉を潰されたら死活問題なので、どうしてもそこを守ろうとする戦い方になってきます。ただ、ほかのプロレスラーの皆さんもそれぞれどこかしらケガをしていて、そこをかばいながら戦っていることもあるので、そういう意味では同じだと思っています。

出産や子育てをしたら、仕事復帰したくても席が空いているとは限らない

最後に、声優兼プロレスラーとしての今後のキャリアプランについてはどうお考えでしょうか?

清水 この間、大会の最中に男性のプロレスラーさんが「もうすぐ妻が出産なんです」と報告しているのを聞いて「出産前後でも、男性は試合ができていいなぁ〜」ってうらやましく思いました。

たしかに、女性はどうしても働く上で、子どもを産むかどうか問題が付いて回りますよね。

清水 19歳から声優をやらせていただきつつ、途中でプロレスもやりたいと思って業界に飛び込んだのが32歳。今が36歳。ずっと大好きな仕事をさせていただいて幸せですし、ついつい自分のやりたいことを優先させてしまってきたのですが、昔から「子どもを産むなら2人欲しい」という夢があって。でも、今は「何ヶ月先に仕事が決まっているから……」と、どんどん先延ばしになってしまっているんですよね。もし、「今なら仕事が落ち着いている」というタイミングがあったとしても、そのときに運よく妊娠できるとも限らないですし。安静にする必要があるのは産む前後の1週間だけ、とかだったらいいのに!

わかります。妊娠期間が約10ヶ月もあって、その後しばらくは子どもから目が離せない時期が続くのは、働きたい人にとってはあまりに長すぎますよね。

清水 また、子どもを授かったとしても、子育てが落ち着いた後に声優やプロレスの仕事に戻ってこられる席があるかというと、その保証はありません。声優です、と再び名乗れるのかと思うと不安ですね。どんどん新しい人も出てきますし、出産や子育てが落ち着いたときには、私の戻れる場所はなくなっているかもしれません。体力があるうちに出産や子育てをすることを考えたら、できるだけ早いほうがいいのはわかってはいるのですが……。

難しい問題ですよね。「これが正解」というのもないと思います。特に、“お仕事をいただく立場”である芸能やフリーランスで働く女性にとって、永遠の課題だと思います。

清水 ですよね。もしも60歳や70歳で産めるのならば、まだまだ先延ばしにしてしまうかもしれません。でも、現実ではそうもいかないと思うので、正直どうすればいいのか自分の中で答えは出ていないです。なんて言いつつ、産むことができたらそれはそれで、子育てのほうが向いているかも! とか思っちゃうかもしれないですけどね。

清水愛さん

取材・文/朝井麻由美
撮影/関口佳代

お話を伺った方:清水愛

mii

日本工学院専門学校演劇俳優科声優コース出身。声優業の傍ら、プロレスラーとしても活躍中。声優としての主な出演作に、『おねがい☆ツインズ』(小野寺樺恋役)、『舞-HiME』(美袋命役)、『エル・カザド』(エリス)などがある。事務所所属を経て、現在はフリーで活動中。直近の活動情報として、2017年11月6日に朗読イベント「謎解きR.P.G.」、2017年12月8日〜12日に劇団あかぺら倶楽部「行かせてッ!〜沢井一太郎の憂鬱〜」、2017年12月29日〜30日:「Frontwing LIVE 2017 -First Flight-」に出演予定。

Twitter:@aitter_smz
Instagram:@aitter_smz
ニコニコ生放送:清水愛チャンネル 毎週水曜23時より乙女ゲーム実況生放送中

次回の更新は、11月1日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

出版社の記者からエンジニアへ転身――Zaim代表取締役・閑歳孝子さんの働き方

閑歳さん
今回『りっすん』がインタビューしたのは株式会社Zaimの代表取締役、閑歳孝子(かんさい・たかこ)さん。もともと出版社で記者として働いていた閑歳さんがエンジニアとしてのキャリアをスタートさせたのは29歳のとき。その後、個人で開発した家計簿アプリ「Zaim」がヒット。2012年、33歳のときにはZaimを法人化し経営者となったという、異色の経歴の持ち主です。エンジニアへの転身に至るまでのこと、家計簿アプリを作ろうと思ったきっかけ、Zaimの今後についてなど、詳しく伺いました。

出版社の記者から、29歳でエンジニアに転身

インターネットの業界に入る前は別の業界・職種で働いていたんですよね。

閑歳孝子さん(以下、閑歳) そうなんです。大学卒業後に出版社へ入社し、記者を約3年半していました。

違う業種へ転職することに迷いはありませんでしたか?

閑歳 正直、数ヶ月悩みました。勤めていた出版社は大きい企業でしたし、職場の環境もよかったので。仕事に不満があったわけではないから、どうしようかなと。本当にいい会社だったので、退職する人も少なかったんですよ。なので、私が転職すると聞いた同僚は、みんなびっくりしていましたね。

不満がないという中で、転職を決めたのはなぜでしょうか?

閑歳 当時、SNSの業界が盛り上がってきていて面白そうだなと漠然と思っていたんです。というのも、大学時代に課題の一環で、SNSに似たサービスを友人と作ったことがあって、そのときの楽しかった記憶がよみがえってきたんです。そんな時期、たまたま大学時代の同級生が作った会社から「大学のときに作っていたようなサービスを私の会社でも立ち上げてほしい」と声を掛けていただいて。それで、インターネット業界に転職をしました。

閑歳さん

「大学時代に作ったサービス」はどういうものだったのでしょうか?

閑歳 研究室の先生がNTTの研究所長をしていて、当時開発されたばかりの「iモード」が使える機種の携帯をたくさん持ってきたんです。「これで何かサービスを作ったらこの携帯をあげよう」と提案されて、「携帯ほしい、やろう!」となって(笑)。

それで、「キャンパス内で手軽に友達と連絡をとれたら便利だよね」という発想から、大学内でのみ使えるエリア限定のサービスを作りました。「特定の友達と連絡をとる」というよりかは、「つぶやき」みたいな形で、自分が今どういう気持ちや状況なのかというのを伝えるもので、今思うと、まさにTwitterみたいなサービスでした。大学内でみんなすごく使ってくれていましたし、「便利」と言ってもらえるのは嬉しかったですね。

このサービスを使っていた同級生が後に会社を立ち上げ、閑歳さんに声を掛けたんですね。

閑歳 そうです。ただ、当時の私はプログラミングに関する経験も知識もなかったので、いきなり何かを作るということはありませんでした。会社や企業を対象とした受託開発系の会社だったので、エンジニアと営業の間をつなぐような仕事をしていました。いわゆる、ディレクターのような役割です。

でも「プログラミングをやってみたい」という気持ちもあったので、仕様書を作るとか、簡単なデザイン変更とか、エンジニアの手を煩わせるプログラミングは私が行うようにしていたんです。徐々にその作業が面白くなってきて、趣味でサービスを作るようになりました。

趣味で作ったものの中で、印象に残っているサービスは?

閑歳 「携帯で撮った写真を特定のメールアドレスに送れば、結婚式で使うようなスライドショーが作れる」というサービスでした。嬉しいことに、多くの方に使用してもらえて、メディアでも取り上げていただいたりして。このサービスがきっかけで、29歳のとき、BtoB向けのツールを作るベンチャー企業にエンジニアとして転職しました。

そこで一から教えてもらって、エンジニアとして一通りのことができるようになりました。自社サービスの開発や、当時はTwitterやFacebookなどが盛り上がってきた時期だったので、それらに関連するサービスやbot*1を作ったりしていましたね。

閑歳さん

お話を聞いていると、プログラミングへの関心度がもともと高いように感じました。何かきっかけはあったのでしょうか?

閑歳 なぜだかわからないですけど、もともとそういう性質を持っていたみたいです(笑)。インターネットやPCも、ずっと好きで。小学生のころから、家のワープロを隅々まで使っていたり、「草の根BBS」というインターネットが普及する前の通信を使ってみたりしていました。

あとはゲームも好きでした。小学生時代にはスーパーファミコン用の衛星放送受信機アダプタのモニター募集に応募してみたりもしてましたね。「サテラビュー」といわれるものなんですが、当時、衛星放送を受信するというのはかなり珍しかったんですよ。とにかくゲームと通信に異常な興味を示す子どもでした。私は田舎育ちだったんですが、田舎にいながらいろんな情報が手元にやってくるという体験は、とても夢があってワクワクすることだったんです。

自分を追い込みながら個人でZaimをリリース

Zaimを企画・開発しようと思ったきっかけについて教えてください。

閑歳 仕事だけでなく趣味でもSNS関連のサービスを作っていたとき、私の中で「便利だけど、なくなっても困らないサービスだよな」という点がひっかかっていたんです。使っていて便利だったり、楽しかったりするかもしれないけど、真剣にそのサービスを使っているかというとそうではない。そこで、もっと人の生活に入り込めるようなサービスを作っていきたいなと思うようになりました。「なくなったら困る!」というサービスを作らないと、自分自身が成長していけないように感じたんです。

その思いからZaimが誕生したんですね。

閑歳 そうですね。「Zaimを作りきれなければ、社会人として終わる……!」と自分を追い込みながら、2011年の7月ごろにZaimをリリースをしました。このときは、仕事とは関係なく、趣味の一環として作っていました。

閑歳さん

Zaimを開発するとき、お金以外にもテーマの候補はあったのでしょうか?

閑歳 家計簿か、匿名サービスか、Q&Aサービスの3つで悩んでいました。匿名サービスでいうと今っぽい「2ちゃんねる」みたいなものはまだそんなにないよなとか。Q&Aサイトだと、「Yahoo!知恵袋」のようなサービスからそんなに進んでいないよなとか考えていました。その中で、どれが作りやすいかなと考えたときに、自分の身近にあったのが家計簿だったんです。家計簿は一人暮らしのころからつけていたので、使う人の気持ちがわかると思って、家計簿を選びました。

それと、Zaim開発当時は、スマホやアプリがちょうど一般の人にも普及しはじめたころ。ガラケーからスマホへとデバイスが変わることによって、今まであったサービスの概念も変わるだろうという考えもありました。

個人でZaimをリリースしたということですが、そこから起業したのはなぜでしょうか。

閑歳 Zaimを個人でリリースして1年経った段階でダウンロード数が数十万になっていて。個人情報を預かるので、ユーザーに安心して使ってもらうためにも法人の運営にしようということで、会社を立ち上げることにしました。当時のメンバーは私1人でしたが、仲間を集め、少しずつ大きくなっていき、今に至るといった形です。

経営者になってみて、働き方に変化はありましたか?

閑歳 会社員時代はずっと平社員で現場が好きなタイプでした。そこからいきなり経営者になったので、社員だったころの気持ちを生かして、「経営者はこうあるべき」というよりかは「自分が社員だったときに、経営側からされた嫌なことはしないようにしよう」ということに重きを置くようにしていましたね。

ただ経営側になって、「経営者も嫌われたくてやっているのではなくて、ちゃんとした理由があってそうせざるを得なかったんだな」という、社員のときはわからなかったこともわかるようになりました。

代表取締役となるとなかなか現場に出られないと思うのですが、エンジニアとして手を動かしたくなることはありますか?

閑歳 がっつり仕事でサービスを作り上げることはできないので、本質ではないところでちょくちょく作るようにしています。例えば、弊社のエントランスにある受付のシステムは私が作りました。タッチパネルを操作すると社内チャットに来訪者が来たと通知されるシステムになっていて、来訪者が迷わないようにシンプルな作りに仕上げました。社内のエンジニアにも「電話に出る手間が省ける」と、なかなか好評です(笑)。

あとは、社内専用のタイムカードや経費精算のシステムを作ったりしています。

会社受付画面

閑歳さんが開発した会社受付画面

Zaimで気持ちよくお金を使ってもらえるように

現在提供しているZaimのサービスで意識されていることは?

閑歳 サービス側からのメッセージは、極力ポジティブになるように気をつけています。「お金足りませんよ」とか「このままではまずいですよ」というようなメッセージはあまり出さない。ネガティブなメッセージは悲しいし、やる気をなくすじゃないですか。実際に、利用者の主婦の方にヒアリングをしたときに「毎日頑張っているのに家庭ではあまりほめられない」という意見があったんですよね。

なので、夜に使ったら「今日もいい日だったな」というポジティブな気分で1日を終えられるアプリになるように意識しています。毎日更新したらスタンプがもらえるんですが、それも「応援しています」とか、「よく頑張ったね」というスタンスのものを使っています。

たしかに、応援してもらえるとやる気も湧いてきますよね。

閑歳 「お金を使いすぎ」という情報を出すのも時には大事なんですが、私たちはお金を使うことも大事だと思っているんです。必要以上に貯めてもらうのではなくて、適切にお金を使ってもらうことを志しています。

あの瞬間がなかったら今の自分はないという出来事があったら教えてください。

閑歳 私は人との出会いやタイミングにすごく恵まれていて。そう感じる瞬間はけっこうありましたね。

例えば、出版社からインターネット業界に転職するとき。その日は雑誌の校了日で、すごく忙しかったんですが、友人から「どうしても今から会って話がしたい」と何回も電話がかかってきて。「校了なので無理だ」と断ったんですが、その後も電話が続いたので、根負けして友人に会いに行ったんですよ。そこで、のちに転職する会社の方と出会って。あのとき電話に出なかったら今はないでしょうね。

閑歳さん

「りっすん」では女性の働き方を主なテーマにしています。Zaimでの、女性の働き方について教えてください。

閑歳 弊社では今年の5月に初めて育休明けの社員が戻ってきました。それまでは前例がなかったんです。

本来弊社はフレックスタイム制ではないのですが、育児と介護の場合はフレックスを採用し、時短勤務以外にも育児のために現在フレックスで働いてもらっている社員もいます。会社の規模があまり大きくないというのを生かして、本人と話し合いながら働き方については柔軟に対応していきたいなと思っています。まだ手探りの部分はあるのですが、弊社は女性社員も多いので、そのあたりは考慮していきたいですね。

最後に、今後の展望を教えてください。

閑歳 Zaimはこれからもアップデートをしていきます。このアプリを夫婦で使って、2人でお金の管理をしてもらうとか、お子さんと共有して、「ひとつの家族が暮らすにはこんなにお金がかかるんだよ」というのを知ってもらうとか。そんなふうに使ってもらえるようになりたいと思っています。家族と共有することで、「お小遣いもう少し増やせるね」とか、「大学へ行くにはお金がかかるからバイトを始めよう」とか、いい方向に行動を変えたり、お金を気持ちよく使うためのお手伝いができたりすると嬉しいです。

ありがとうございました!

取材・執筆/石部千晶(六識)
撮影/小高雅也

お話を伺った方 閑歳孝子(株式会社Zaim 代表取締役)

閑歳さん

2012年に株式会社Zaimを設立。小学生のころからワープロやゲームが大好きで、大学時代には友人と共同でSNSに似たサービスを作る。初めて購入したPCはWindowsの「コンパック」。これまで一番衝撃を受けたWebサービスは「Orkut(オーカット)」というSNSサービスで、現在は将棋(主に藤井四段)とスマホアプリの「Walkr - ポケットの中の銀河冒険」にハマッている。

次回の更新は、10月18日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:操作を自動で行うプログラムの総称。Twitterでは手動ではなく機械によって自動的に投稿をするプログラムを指す