山内マリコさんが感じた「20代で結婚しなきゃ」という焦り。地元を出て、小説家としてデビューするまで

山内マリコさん
地元に帰ると、誰もが結婚の話ばかりしていて肩身が狭い――東京で働く地方出身女性の多くが経験したことがあるのではないでしょうか。小説家の山内マリコさんもその一人。25歳で上京し、31歳で作家デビュー、34歳のときに結婚。「みんなみたいに20代のうちに結婚しなきゃ」と焦りながらも、周囲の友人とは違う人生を歩むことを選んだ山内さんに、ライフステージの変化やこれからの女性の生き方について伺いました。

小説家を目指すも、ほぼニートだった20代

山内さんの作品は「女性の生き方」や「地方出身者の葛藤」がテーマになることが多いですが、ご自身も富山から上京されているんですよね?

山内マリコ(以下、山内) はい。高校までは富山で、大学で大阪の芸大に行って、卒業後に3年くらい京都で過ごして、そこから上京しました。高校まで過ごした地元に、自分の居場所がない感覚はありましたね。

そういう感覚を持っている方はまっすぐに東京を目指すことが多いイメージがありますが、山内さんは結構転々とされているんですね。

山内 どうしても東京に行きたい、と思っていたわけじゃないんです。東京の大学も受けたけど落ちて、受かったのが大阪の郊外にある芸大でした。じゃあ、大阪でもいいかなーと。それで、映画が好きだったので、安直に映像学科に進学しました。ところがいざ入ってみたら、集団行動が死ぬほど苦手なことに気付いて、こりゃダメだ、と(笑)。もう、みんなでやる撮影が嫌で嫌で!

じゃあ、その頃はまだ小説家になりたいと思っていたわけではなかったのでしょうか?

山内 文学部に行こうと考えたことこそなかったけど、小説家もぼんやりと憧れていた職業の一つでした。最初になりたいと思ったのは、中2のとき。うわ、改めて言うと、ダッサ(笑)! まあ、思春期で内面が複雑化してきた頃で、マンガの直接的な心理描写では自分の心が満たされないと思い始めたんです。それで小説をたくさん読むようになって、「こういう本、私も書きたい!」って。あと、小説家は家で仕事できるのがいいなぁーと。「家にいたい! なりたい!」って(笑)。

ははは。

山内 読書量が増えると、文章を褒められることも多くなって、書くことには少しだけ自負があったんです。それで大学卒業後に、小説新人賞に応募してみたのですが、一次選考にも通らない駄作で……(笑)。でも、文章を書く仕事に就きたいという気持ちは大きくなってて。京都でバイトしていた雑貨屋さんを取材しにきた方に、「ライターってどうやったらなれるんですか!?」と逆質問したら、編集プロダクションを紹介してくれて。どうにかライターの職にありつくことができました。文章を書く仕事だったら何でもいいや、と思ったんですよ。

山内マリコさん

なるほど。実際は全然違います……よね?

山内 そう! ライターの仕事は1年くらい続けたものの、全然向いてなくて……。私がやっていた仕事は京都ローカルのフリーペーパーとか、関西圏で発行されている情報誌とか、店や寺の取材がメインで。だからニュートラルな紹介記事を書かなきゃいけないのに、こう、出したくなっちゃうんですよね、自分を。まだ20代前半で、いらぬ表現欲求がありあまってたんですね。無個性な文章を書くのがつらくなってきちゃった。記名記事なわけでもないんだから、個性いらないのに!

媒体にもよるかと思いますが、お店の紹介記事とかだとそうですよね。

山内 そういう流れがあって、同じ文章を書く仕事でも、やっぱり自分は小説なんだ! とはっきりしてきた感じですね。京都でいろいろ煮詰まってたところだったので、東京に行って心機一転、今度こそ小説家を本気で目指そうって。ただ、「小説家目指して上京します!」なんて、死ぬほど恥ずかしいこと言いたくないから(笑)、周囲には「映画が好きだから、映画ライターになりたいんです」とかボカして伝えて、見送ってもらいました。

一同 (爆笑)

山内 上京後は、ボロアパートでパソコンを叩いて、締め切りの近い文芸誌の新人賞に送りまくる生活が始まります。これ、小説家あるあるだと思うんですけど、郵便局で「なんとか文学新人賞係」と書かれた大きな封筒を渡すの、すごく恥ずかしいんです! 「こいつ小説家になりたがってるんだ」って思われる恥辱!

た、確かに……郵便局の窓口の人にバレるのはちょっと恥ずかしい(笑)。

山内 そうなの! みんなあの辱めを乗り越えて小説家になってるんですよ! で、東京で小説家をちゃんと目指そう、と頑張り始めた。……と言うと聞こえがいいのですが、25歳にして最悪のすねかじりニート時代に突入するのです。

そのあたり、親御さんは厳しくはなかったのでしょうか?

山内 うちの親はそこらへん甘くて、好きなことをやりなさいと野放しにしてくれていました。内心は罪悪感でいっぱいでしたが……。

同世代は働いているわけですものね。

山内 そうそうそう! 同世代の子に「最近は何してるの?」と聞かれるのが本当に嫌で。極力、新しい友人はつくらずに、当時住んでいたアパートに潜伏してました。同窓会とか絶対行きたくなかった!

小説家志望の知られざるタブーの話

そこからどれくらいで最初の賞を取れたのでしょう?

山内 27歳のときです。上京してから2年くらいで、R-18文学賞の読者賞をいただきました。これでやっと小説家としてデビューできる! あとは担当編集者さんに育ててもらおう、くらいの気持ちでいたんです(笑)。ところが、ここからが長くて……。

山内マリコさん

担当編集者さんと一緒に、賞を取った作品を本にしていく、という流れになっていくんですよね?

山内 そうそう。R-18文学賞は短編の賞なので、一冊の本にするには相当新しく書き下ろさなければならないんです。「短編をたくさん書き足しましょう」と言われて、書いては送り、書いては送り、とやっていたんですが、その担当さんが忙しくて新人を見る余裕がなかったのか、送れども送れどもレスポンスがなく、気付けば3年くらい経っていたという……。しかもそうこうしているうちに震災が起こり、一時的に富山に帰ることになります。

ええー! それはつらいですね。志半ばで諦めてしまいそうです。

山内 親も心配するし、ひとまず実家に戻ったのですが、地元にいてもやることがなく、諦めきれなくて、出すあてのない小説を一人でひたすら推敲してました。結局、ほかの出版社の方が声をかけてくれて、その1年後くらいにようやくデビュー作が出ることに。ただ、これってちょっとタブーなんです。新人賞を取った作家のデビュー作は、その賞を主催している出版社から出すのが暗黙のルールになっていて、ほかの出版社から一作目を出すのって、正規ルートではないみたいで。なかなか難しいんですよ。

それってなまじ賞を取ってしまったら、生かすも殺すもその出版社次第、ついてくれる担当編集者さんの運次第になってしまうってことですよね……。

山内 そう、賞を取っても、その出版社や担当さんが単行本を出すところまでケアしてくれるとは限らなくて、受賞したものの単行本デビューしていない人も少なからずいます。もちろん、賞を取ってすぐに本を出せて、それがすごく売れる例もたくさんありますが、私は運が悪かったんですよね。

地元は好きだけど、地元にいる私は好きじゃない

ええと、じゃあ25歳で上京して、27歳で賞を取って、そのまま3年経って震災が起こって、そこから1年後に本が出たということは……上京してから6年も粘ったんですね!

山内 賞を取ってから4年もくすぶっていたので、デビューしたときはもう31歳でした。その間に周囲は結婚ラッシュ。20歳前後で東京に出た子だと、もう10年くらい東京にいたわけだから、地元にUターンというタイミングで。こっちはやっとスタートラインに立てたところだというのに……(笑)。

20代後半のころ、そういうのに引っ張られて、自分も地元に帰らなきゃ、とか、結婚しなきゃ、とか揺れることはありましたか?

山内 揺れましたよー! ただ、住む場所に関しては東京のほうが居心地いいんですよね。好奇心を満たしてくれる場所が山のようにあるのは、単純に楽しいです。他人に干渉しない東京の気楽さは、性に合ってると思うし。一方で、地元にいると、なぜかどんどんテンションが下がって、鬱々としてくる。地元がつまらないというか、地元にいる「自分」がつまらない。でも、決して地元が嫌いで出てきたわけではないんですよ。むしろ地元は大好き。

山内マリコさん

11月発売の新刊『メガネと放蕩娘』も「地元」がテーマになっていますよね。

山内 はい! ここ何年かは小説の取材も兼ねて、地元を行ったり来たりしてました。だけど、じゃあUターンしたいか、またそこで暮らしたいかと聞かれると、全然(笑)。こういう矛盾や罪悪感、葛藤みたいなものを原動力にデビュー作『ここは退屈迎えに来て』を書いたのですが、『メガネと放蕩娘』はもう少し大人の立場で、地元の街に向き合いました。さびれた商店街を活性化させようとする話です。

私、デビュー作で地元を「退屈」と言い切ってしまったのを密かに気に病んでいて(笑)。つぐないの気持ちも込めて書きました。デビュー作では主人公は10代〜20代の若者で、ひたすら受け身だったけど、新作は33歳〜37歳の、中年のはじまり(?)くらいの年齢設定。退屈な街を憂うだけじゃなく、その街を自分たちの手で変えよう、なんとかしようと、主体的に奮闘しています。

20代で結婚しなきゃならない呪いと、女性の社会進出

山内さんは今年、結婚生活についてつづったエッセイ『皿洗いするの、どっち?』も出されていますが、ご結婚されたのはいつ頃でしょうか?

山内 29歳のときにつき合い始めた人と、同棲をはさんで、34歳で結婚しました。25歳で上京してからはずっと、小説家志望の引きこもりニートだったから、当然彼氏もいなくて。でもその頃が一番結婚に対して焦っていて、気も狂わんばかりでした(笑)。会う人会う人に「いい人いませんかね?」と口走るほど、本気で切羽詰まってて……。小説家にもなりたいけど、そんな場合じゃない、それ以上に彼氏がほしい! って欲にまみれていました。

当時はとにかく20代で結婚したい焦りがすごくて。明日彼氏ができればギリギリ間に合う! 芸能人みたいに3ヶ月くらいでスピード婚をすれば30歳の誕生日がくる前に結婚できる! とか計算していました(笑)。30歳を過ぎてしまうと、だんだんどうでもよくなっていったんですが、当時は「20代で結婚しないと」と思い込んで、自分で自分を縛って、呪いをかけている感覚がありましたね。外圧よりも、内圧に苦しんでいた感じ。

山内マリコさん

実際に結婚されてみて、世間に物申したいことはありますか?

山内 女性が外で働いてお金を稼ぐのは当たり前になったのに、男性が家庭の中で、いわゆる無償労働としての家事をすることは、まったく定着してなかったんだな〜と、つくづく感じてますね。20世紀に女性が少しずつ自由の身になって、日本では1985年に男女雇用機会均等法ができて、働く上では一応「平等」っていうタテマエができ、女性の社会進出はどんどん進んだ。で、この30年あまりの間にいろいろ洗い出された問題点が今、出そろってきている感じですよね。たまった膿をバーッと吐き出して、次の30年ではそれを解決させるため、制度や常識をブラッシュアップさせなきゃいけない、そういうタームなんだなぁと。

山内さんの活動は、そういったことを伝えるのにも繋がっていますよね。

山内 そうなんです。『皿洗いするの、どっち?』には、家事をめぐって日々繰り広げている夫との小競り合いを書いているのですが(笑)、これも膿を出す一環というか。夫婦の間で家事問題をオープンに話し合うのって、実はなかなかできない人も多い。例えば私が「春闘」と称して夫に家事分担を要求する姿勢に背中を押されて、「言っていいんだ!」と思ってもらえるとうれしいです。

取材・文/朝井麻由美
撮影/関口佳代

お話を伺った方:山内マリコ

山内さん

1980年富山県生まれ。2008年「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞し、2012年『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)でデビュー。主な著書に『アズミ・ハルコは行方不明』(幻冬舎)、『かわいい結婚』(講談社)他多数。

新刊『メガネと放蕩娘』は、シャッター通りとなった地元の商店街を活性化させようと奮闘する姉妹のストーリー。「ここ10年で私の地元である富山もずいぶんさびれてしまったんです。それでこのテーマで書こうと思いました」と山内さん。地元が好きなのに居場所がない、地方出身者ならではの複雑な思いを作品で描いてきた山内さんにとって、まったく新しい視点から地元を描いた作品。

Twitter:@maricofff

次回の更新は、11月29日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

女子校出身だからこそ「女同士」にしんどさを感じない――辛酸なめ子さん流・仕事の処世術

辛酸なめ子さん
今回『りっすん』に登場いただくのは、漫画家・コラムニストとして活躍する辛酸なめ子(しんさん・なめこ)さん。小学校1年生の頃から漫画を描いていた辛酸さんは、両親に美術の道に進むことを反対されるも、熱い思いで説得し美大に進学。そして、初の単行本発売をきっかけに独立し、漫画家・コラムニストとして本格的に活動するように。独自の感性で多くの女性から支持を受けている辛酸さんは、どんな学生時代を送ってきたのか、そして自身の働き方についてどのように考えているのか伺いました。

美大へ進学して「手先が器用じゃない」ことを知った

大学は美大に進学されたと伺いました。やはり学生時代から芸術系の分野に興味があったんですか?

辛酸なめ子さん(以下、辛酸) そうですね、小学1年生の頃には漫画を描いていましたし、絵を描いたり見たりするのは大好きでした。実は小学生の頃も美術系の中学校に行きたいと思っていたんですが、親に反対されてしまって。

小学生の頃から!

辛酸 そうなんです。ただ、両親とも教師だったので、「ちゃんといい学校に行っていい会社に就職しなさい」という考えを持っていたんですよね。結局、美術系中学への進学はせず、中高一貫の女子校に通うことになりました。でも、私の中ではやはり諦めきれない部分があって。

美大へ進学するために両親を説得した、と。

辛酸 「こういうことをしていきたい!」という思いを親にアピールするために、文化祭のポスターを描いたり、修学旅行のしおりのデザインを考えたり、できることは積極的にしてましたね。そのかいあって、高校3年生の頃には美術系の予備校に通うことを許してもらえました。「認める」というか「諦めた」という感じでしたが……。

念願叶って入学した美大時代は、どんな風に過ごされていましたか?

辛酸 私が大学生だった1993年頃はフロッピーが流行っていて、自分の作品を収めたフロッピーを販売した時期もありましたね。当時は原宿などに個人が作ったオリジナルのフロッピーを扱う店があったんですよ。絵が入ったものもあれば、オリジナルのフォントが入ったものもあったりして、さまざまなものが売られてました。

作品を売る際、そこから「仕事につながるといいな」といった思いもあったんですか?

辛酸 多少はあったかもしれないですが、「自分の思いつきを形にしたい」というような創作意欲の方が上回っていた気がします。自分がやりたいことをやっていた感じですかね。

辛酸なめ子さん

大学時代の専攻は、イラスト関連だったのでしょうか?

辛酸 グラフィックデザインでした。でも、アニメーションとかゲームに近いものを作って、そこに漫画を張り付けたりはしていました。

グラフィックデザインを選んだ理由は?

辛酸 グラフィックデザイナーの横尾忠則さんに憧れていたということもあって、「グラフィックデザイン」というジャンルに可能性を感じていたんです。でも、実際やってみたら私は手先が器用じゃなくて。ミリ単位で色をぼかすとか、色のムラをなくすとか、そういう作業が苦手だということに気付きました。私には繊細なデザイン表現のものより自分のテイストを出しやすいイラストとか漫画が合っているのかなと感じ、大学以外のところでフリーペーパーを作ったり、漫画を応募したりという活動もたくさんしてました。

大学以外の活動の中で、影響を受けた人との出会いなどはありましたか?

辛酸 当時、展覧会のオープニングパーティーに参加したりして、現代アートの作家さんと交流を持つようにしていたんです。そこで、会田誠さん、村上隆さん、松本弦人さん、中ザワヒデキさんといった、そうそうたる現代美術家の方々に出会えました。そういう方々からいいエネルギーを吸収させていただいた感じはします。

特に中ザワヒデキさんは、ご夫妻の事務所でアルバイトもさせていただきました。フロッピーマガジンの生産などをしていましたね。

中高は女子校ということでしたが、大学で共学になったときに女子校との違いを感じましたか?

辛酸 見た目が軽い感じのイケメンが多かったので、「だまされる!」と思って最初は怖かったですね(笑)。

恋愛対象に見ることはなかったんですか?

辛酸 うーん、なかったですね。活躍されている年上のクリエイターと会うことが多かったので、同世代の男性はどうしても頼りないなって思ってしまって。だから、学校の男の人とはあまり会話しなかったですね。

単行本発売をきっかけに独立し、テレビでも活躍

学生時代、就職について考えられたことはありますか?

辛酸 芸術の世界で生きていくためには制作活動の時間が必要だと思ったので、就職は考えていませんでした。私の周りも就活をしている人の方が少なくて、学校自体が「就活しなきゃ!」というような雰囲気でもなかったですし。

就職しないことに関して、ご両親の反応は?

辛酸 この頃には、両親にとって私はアンタッチャブルな存在になっていたので(笑)。もう何も言ってこなくなってました。

辛酸なめ子さん

大学卒業後はどのように生活されていたんですか?

辛酸 大学を卒業する頃、クリエイティブなことに携われるアルバイト先を探していたときに、ちょうどゲームデザイナーの伊藤ガビンさんの事務所の求人を発見して。雑誌を中心に活躍していた方なんですが、私はもともとガビンさんの書いた文章が好きだったんですよ。それで、ここで働けたら面白いだろうなと思って働かせていただきました。

そこではどんな仕事をされていたんですか?

辛酸 最初は、「ひたすらビルを作っていく」という内容のゲームを担当して終電間際まで延々とビルのCGを作ってました。あとは、ゲームの攻略本を作成したりしていました。

ゲーム関連の会社から、どういった経緯で漫画やコラムの仕事をするようになったのでしょうか。

辛酸 実はバイト以外にも、イラストや漫画を書く仕事を個人でやっていて。その割合がちょっとずつ増えていったんです。2000年に初めて単行本『ニガヨモギ』*1を出版したときに「読者が増えた」と実感して。「個人でやっていけるかな」と感じ、アルバイトをして6年程経ったタイミングで独立しました。

現在多数の媒体でご活躍されていますが、今の仕事でのやりがいについて教えてください。

辛酸 原稿を締め切りのだいぶ前に納品して、編集者さんに驚いてもらえると、すっきり感ややりがいを感じますね。

締め切り前の納品、素晴らしいです……! 編集担当の方からするとありがたいですよね。では編集者さんではなく、読者の反応の方はいかがでしょう?

辛酸 そうですね……。怖くて自分の名前を検索とかしないので「読者さんの反応をやりがいにしてます!」という感じではないかもしれないですね。でも、仕事や街で会った方に「読んでます」「書籍を読んでいて電車で笑いをこらえるのが大変でした」なんて言っていただけるとやっぱり嬉しいですよ。

自分から反応を見にいくことはあまりしないということですね。

辛酸 はい、批判されているのを見るのは嫌ですし、褒められていても恥ずかしくなっちゃうので。編集担当の方が、私の本が書評に取り上げられていたと言ってコピーしたものを送ってくださることもあるんですけど、薄目で読むようにしてます(笑)。

辛酸さんはテレビでも活躍されていますが、テレビに出るようになったきっかけはあったのでしょうか。

辛酸 『爆笑問題のススメ』という、作家や漫画家をゲストに迎えるトーク番組にオファーをいただいたのが最初でした。そのプロデューサーから別の番組にも呼ばれて、テレビの仕事が増えていった感じですね。

テレビに出ることに拒否感はなかったのでしょうか。

辛酸 特になかったですね。ワクワクしたり、楽しそうと思うことはやっておいた方がいいと思っていたので。それに、漫画やコラムで芸能関係のネタを執筆することもあったので、そういう方たちの姿を間近で見たいという気持ちもありました。当時から今に至るまでマネージャーもつけず個人で活動をしているので、依頼があったら自分の直感で引き受けるか決めています。

ただ、巨大ドミノ倒しをするという企画で、大きな風船の中から登場しなければならないというのは怖かったですね。ドミノの針でその風船が割れるんですが、「無表情で出てきてください」ってスタッフの方が言うんですよ。怖くてあまりやりたくなかったんですけど、現場はそれをやらないと進まないっていう空気でやらざるを得なくて。テレビは刺激的ですけど、怖い部分もあるんだなと感じました。

辛酸なめ子さん

女性ならではの処世術はあくまで「自分のため」がベース

女子校出身である辛酸さんが考える、「女性同士」の人間関係についてもお聞かせください。辛酸さんの著書では『女子校育ち』(筑摩書房)というタイトルもありますが、女性同士の人間関係でつらいことなどはありましたか?

辛酸 むしろ「女子校出身」だからか、私自身は意外とそういう風に感じないんですよね。恋愛でライバル関係とかになったりすると、警戒心とかピリッとした空気が生まれやすいと思うんですが、私は思春期をそういう環境で過ごさなかったので、女性に対する警戒心があまりなくて。こちらが敵意を出さなかったら、相手も敵意を向けてこないと思うんですよ。

なるほど! では辛酸さんの周りには、いわゆるマウンティングしてくるような女性はいないということでしょうか。

辛酸 あー。でも確かに、恋愛が絡んでなくても勝ち負けをつけようとする女性っていますよね。そう言われてみると、仕事で初めて共演した方に「もしかしたらあれはマウンティングだったのかも?」と思ったこととかはありました。テレビに出始めた頃、同業の文化圏の女性からは「テレビの人になっちゃったんだ」みたいなことを言われてさみしい思いもしたな……。でも、そのときは気付かなくて、家に帰ってから気付いたりします。鈍感なのかもしれないですね。

そういう人に対して思うことは?

辛酸 多少モヤっとしますが、そんな人にエネルギーを費やしたくないので、あんまり相手にしないようにしてます。関係の薄い人だったらそれでいいですけど、毎回自慢してくるような友達がいると精神が疲れちゃうので……。そこは距離を置くようにしています。

辛酸なめ子さん

「りっすん」では主に「女性の働き方」について紹介しています。辛酸さんが考えていることがあれば、お聞かせください。

辛酸 仕事を始めたばっかりの頃はあまり服装に気を使っていなくて、もっさりした格好をしていたんです。でも、ある程度女性らしい格好をした方が、男性からぞんざいに扱われなくなるというか、仕事が円滑に進むようになったのを実感することも多くて。それは女性ならではの処世術なのかなと思ってます。

シチュエーションにもよりますが、仕事の場で女性扱いをされることに対して、人によっては憤りを感じることもあるのかな、と思うのですが……。

辛酸 私の場合、憤りを感じたことはないですね。服装に関していえば、誰かのためでなく、「とりあえず格好だけでもちゃんとしようかな」と思って自分のためにやっていることなので。それに服装を変えることで対応が変わったのは、男性だけじゃなく女性もだったんです。例えば、買い物に行ったらショップ店員に無視されなくなったとか。なので、単純に考えて、女性らしい格好をすることは、仕事をするうえでもプラスに働いているのかなと思うんですよね。

印象は大きく変わりますよね。

辛酸 そうですよね。あとは、若い頃はノーメイクだったんですけど、メイクもきちんとするようになりました。やっぱりメイクをしないと顔色も悪く見えるので、周りの人に変に心配させてしまうことがあって。相手に気を使わせないためにも、メイクは大人として必要なことだったんだなと。化粧をするようになってからは、友人にも「今日はあまりキモくないね」とか言われるようになりました。オンオフをつけるという意味でもいいですよね。

年齢を重ねても謙虚な気持ちを忘れず、調子にのらない

ロールモデルや、憧れの女性はいらっしゃいますか?

辛酸 子どもの頃は、水森亜土さんや田村セツコさんといった、イラストで活躍されている人に憧れを持っていました。大人になってから田村セツコさんとお会いする機会があったのですが、本当に気さくでピュアな方で、ますます憧れるようになりました。70代になった現在でも本を次々出されているので、かっこいいですよね。あと、私は趣味でヨガをやっているんですが、ヨガを極めた相川圭子さんという女性も尊敬してます。若い頃にヨガ教室をいくつも経営していて、その後インドに修行に行った方なんですが、どこまでも追求する姿勢がすごいなって思います。

なにかを突き詰めている女性に憧れを持たれているんですね。

辛酸 芯のある女性ってステキですよね。あとは、いい年のとりかたをしている方。やっぱり、年を重ねるごとに生き方が顔に出てくると思うので。

理想の女性に近づけるように心がけてることはありますか?

辛酸 年齢を重ねても謙虚な気持ちを忘れないようにしてます。やっぱり調子にのったらよくないですよね。

辛酸さんも60代、70代になっても仕事を続けていきたいという思いをお持ちなんですか?

辛酸 そうですね。必要としてもらえるのはすごく嬉しいことなので。仕事自体も好きですし、体が元気な限りは続けたいですね。ただ、ネガティブな思いしか浮かばなくなったりとか、やる気がどうしても出ないというときは、休んだ方がいいというサインだと思うんです。なので、自分の心や体の声をしっかりと聞いてあげることが大事だと思います。仕事も大切ですけど、やっぱり自分の健康が一番ですからね。

辛酸なめ子さん

取材・文/石部千晶(六識)
撮影/関口佳代

お話を伺った方:辛酸なめ子

辛酸なめ子

1974年東京都生まれ、埼玉県育ち。漫画家、コラムニストとして幅広いジャンルで執筆活動を行う。『女子校育ち』(筑摩書房)、『辛酸なめ子の現代社会学』(幻冬舎)など、著書多数。幻冬舎plusにて、「次元上昇日記」を連載中。幼少期から絵を描くことが好きで、小学1年生の頃には、フランス貴族による愛憎劇の漫画を描く。大学時代は、男子学生に嫌悪感を抱きつつも、女友達と充実した日々を過ごす。エゴサーチはしない派で、趣味はヨガやチベット体操。
Twitter:@godblessnameko

次回の更新は、11月22日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:当時の販売元は三才ブックス。2004年に筑摩書房より文庫本が発売されている

冗談のつもりが本当にリングデビューしてしまった――プロレスラーとしても活躍する声優・清水愛さん

清水愛さん
専門学校に在学中に声優デビューし、その後15年以上ずっと第一線で活躍している声優の清水愛さんには、なんとプロレスラーとしての顔もあります。声優とプロレスラー、まったく違う2つの職業をどのように両立させているのでしょうか。仕事を始めたきっかけから、働く上での工夫、今後の人生プランまで、余すところなく語っていただきました。

コンビニの店員とすらまともに話せなかった学生時代

清水愛さん(以下、清水) 今回は私の働き方に関するインタビューなんですよね。このテーマでの取材ってすごく新鮮です。私、「働くぞ!」と思ってお仕事をしている感覚とは少し違うんですよね……。

と、いうと?

清水 うーん……。「好きな表現活動をして、それが評価してもらえたときにお金をいただける」と言ったらいいのかな。なので、「仕事」という言葉に対して私たち役者が持っている印象は、世の中の働く人たちとはもしかすると全然違うのかもしれません。私、なるべくなら働きたいですもん。SNSで「仕事行きたくない」「休みたい」「クリスマスなのに仕事だ」といった嘆きを見かけることがありますが、「家で一人でいるよりお仕事で誰かと会えるほうがいいじゃん!」とか思ったりします。

芸能の仕事ならではの感覚ですよね。一般人でもフリーランスで働く人は同じように考えていると思います。

清水 そうですね。相手に求めていただけることありきの職業ですので、お仕事に呼んでもらえないと働けない。そもそも、なろうと思っても必ずしもなれるとは限らなかったり、お金を稼ぐぞ、と思って選ぶ職業でもなさそうですよね。

清水愛さん

清水さんは声優とプロレスラーの二足のわらじで働かれていますが、それぞれどういった経緯で始められたのでしょうか?

清水 声優に関しては、なりたくて夢見ていたというわけでは全然ないんです。もうそれ以前の問題で、子どもの頃からものすごく引っ込み思案で、コンビニの店員さんとすらまともに話せなくて。「温めますか?」「お箸つけますか?」と聞かれるだけで、「…………は……はぃ……」と赤面してしまっていました。

それで、高校を卒業するときに、このまま大人になるわけにはいかない、と思って地元の専門学校の声優コースに入学することにしたんです。声優の勉強を何年かすれば、ハキハキ喋れるようになるはずだ、と。

そうだったんですね。半ばリハビリのために……。

清水 そうです。自己啓発のためでした(笑)。なりたい職業云々ではなく、まずはまともに喋れるようにならなきゃ、ちゃんと人間として生きていけるようなスタートラインに立ちたい、と。私は怠け者なので、養成所や劇団ではなく、専門学校を選びました。養成所だと毎日レッスンがあるわけではなく週1回だけとか、週3回あったとしても1コマ2時間とかのところが多くて。だったら、強制的に朝から夕方までみっちり授業が詰まっている専門学校に身を置いて、人と喋る勇気やテクニックを培うほうが私には合っているなと思ったんです。

結果、授業がすごく楽しくてのめり込んでいき、運よく事務所所属のチャンスをいただけたわけですが、当時の私からしたら、コンビニの店員さんとも話せないような人間が、まさか将来的に人前に姿を晒すような職業に就くことになるとは……です。

役という仮面をかぶることで「喋っていいんだ」と思えた

実は声優の仕事がすごく向いていたってことですよね。

清水 私の場合、引っ込み思案だったのが逆によかったのかもしれません。たぶん、自分の中に「表現したい。本当は話したいけどうまくできない」と鬱屈したものがたくさん溜まっていたんですよね。それが、台本をもらって役という仮面をかぶることで、その溜まって圧縮された感情をセリフに乗せて爆発させることができるんだと思います。

逆に役を通しての表現ではなく、自分自身をさらけ出すタイプのお仕事はすごく苦手でした。

例えばどんな仕事でしょう?

清水 若い頃、ドラマCDのおまけトラックとして、キャスト一人一人が例えば「学生時代の思い出を語る」といったプライベートなインタビューを収録することが多くて。そういうのがもう、本当ーっに苦手で! 役というフィルターがあればいくらでも、何でも喋れるんです。私がこの役を担当すると決まっていることで、自分は喋っていいんだ、と思えます。でも、それがない状態で、私自身を生身でポンと置かれたら、一体私の話すことに関心を持ってくれる人なんかいるのだろうか……とがんじがらめになってしまって。最近では、こんな私の境遇にも共感してくれる人がいることがわかって平気になったのですが、当時はつらかったです(笑)。

たしかに声優といえば裏方というイメージがありますが、最近ではイベント出演や雑誌に掲載されるなど前に出るタイプの仕事も増えている印象があります。

清水 私の学生時代(2000年頃)は、林原めぐみさんなどが歌の活動を含め活躍されていましたが、それ以前は今ほど声優さんたちが前に出る仕事って多くなかったように思います。声優雑誌にグラビアが載ったり、握手会やイベントに出たりといったお仕事が増えていったのは、私がデビューした頃くらいからですかね。

先ほど「すごく引っ込み思案だった」とおっしゃっていましたが握手会やイベントなど、ファンとの距離が比較的近いような仕事は、ストレスにはならなかったですか?

清水 ステージに一人きりで喋るのは今でもすごく緊張しますが、サイン会や握手会など、ファンの方と直接会話するイベントは当時からずっと大好きです。みなさん「好き」という気持ちを持って会いに来てくださるので、愛の告白をされているような感覚になります。

なるほど、引っ込み思案とはいえ、人とのコミュニケーション自体はお好きなんですね。

清水 そうですね。あと、突き詰めていくと、私は人から必要とされたかったんですよね。声優の仕事をしていると、普通に生きていたら絶対に出会えないような遠くに住んでいる人にまで私の声が届いて、「声を聞くと元気が出ます」といった感想をもらえたりするんです。一瞬でも誰かの役に立つことが嬉しくて、自分の存在価値を感じられる。お仕事をいただくことについても同じで、依頼をいただけるのはつまり、「あなたの声とお芝居が必要なので、あなたがこの台本を読んだ上で、この日、この時間、このスタジオに来てください」ということなんです。

これって私じゃなければダメってことなので、私自身が求められているという実感を持てます。ちょっと闇が深いかもしれないんですけど……。スケジュールにお仕事が入っていると、「あ、ちゃんと居場所がある。私、存在していていいんだな」って(笑)。自分の価値を他者に求めるのは、よくないこととは思うんですけど、こういう性格なんですよね。

清水愛さんのお仕事必須アイテム

声優の仕事で声を張り上げるシーンがある日は、コンビニで売っているチキンの揚げ物を食べるのだそう。「脂っこくて喉が潤うので、声の伸びがすごくよくなるんですよ」と清水さん。多色ボールペンも、台本チェックには欠かせない必須アイテム

冗談のつもりが本当にプロレスラーになってしまった

プロレスの仕事についてはどのようなきっかけで始められたのでしょうか?

清水 プロレスラーになったのは、本当にひょんなきっかけだったんです。プロレス観戦にハマり、プライベートの時間をすべてプロレスに費やすくらいプロレス漬けの生活を送っていたときに、プロレスイベントの出演依頼をいただいて。告知をするときに、「ついにリングデビューします!」と冗談で書いたんですよ。別にイベントに出るだけで、リングで戦うわけでもないのに。

でもそうしたら、なんと主催者さんが乗り気になってくださったんです。知り合いのプロレスラーさんたちも「やるんだったら教えてあげるよ」とか、「コスチューム作るなら紹介しますよ」と言ってくださって。あれよあれよと雪だるま式に話が大きくなってしまって、本当の意味で“リングデビュー”できることになっちゃったんです!

清水愛さん

白無垢をイメージしたリングコスチューム

単なる冗談が本当のことに!

清水 短期間だったけど必死に練習して、どうにか試合をして、その日は怪我なく無事終わりました。1回きりのお遊びでしょ、話題作りのためでしょ、と結構言われたりしたんですけど、体を動かすのがすごく楽しくって。「ちゃんとやりたい」と思って改めて練習をするようになって、今に至ります。

声優としての清水さんのファンの方からはどのような反応をされましたか?

清水 「ケガをするんじゃないか」とかなり心配されました。今まで美少女キャラやおとなしい性格の役を多くやってきたからなのか、素早く動けなさそう、どんくさそう、おっとりしてそう、と思われがちで。実際はそんなに運動が苦手なわけじゃないんですけどね。プロレスに限らず、自分の素を出そうとすると、意外、とか、イメージと違うって言われることが多かったかもしれません。

素の清水さんは、おとなしいキャラでも、おっとりしているわけでもないということでしょうか?

清水 そうなんです。とか言いつつ、見た目に関しては自分自身が考える「好みの女の子像」があって、自分を着せ替え人形にしていた節があります(笑)。前髪ぱっつんの黒髪ロングでサイドには「触覚」がないと嫌で、ゴスロリを好んで着ていました。これもよく「事務所命令」「媚びている」など言われたのですが、そんなこと全くなくて。単に自分の好みでした。そういったルックスの面ではファンの方と好みが合致していたんですが、中身がみなさんの想像とかけ離れていて……。

だから、昔は特に、ファンの方々の思うイメージに自分を押し込めるように頑張っていました。キャラのイメージを崩さないようにしよう、とか、男性の影は見せないほうがいいのかな、とか。別に自分を偽ってよく見せようとか、自己犠牲の精神とかそういうつもりじゃなくて、相手に喜んでもらえるのが一番、と思っていて。

素を出せなくてしんどい、よりも「喜んでもらえる」というほうが優先度が高かったんですね。

清水 完全にそうですね。そのせいか、私のことをMだと思って「俺ドSなんだよねー」というタイプの男性に好意を持っていただきがちでした。実際は私、全然Mじゃないんですよ。「Sはサービス・察しのS、Mは満足のM」と言いますけど、相手が望むようなサービスをしたいという気持ちが強いので、根っこはスーパードSだと思います。

声優とプロレスラーを両立するためのやりくり

兼業の工夫についてもお聞かせください。声優もプロレスラーも、毎月働く日が決まっているわけではなくスケジュールが不安定な職業だとは思いますが、どのように両立していますか?

清水 時間のやりくりの面では、フリーランスで働いている今はスケジュールを全て把握することができるので、調整しやすいですね。事務所に所属していた頃は「この日はお休みかな」と思っても「明日の仕事は○時に、場所はどこどこです」と前日に連絡が来たり、逆に仕事があると思って空けておくと直前に「なくなりました」と連絡が来たりします。「この日に仕事が入るorなくなる」というのは自分で逐一問い合わせる必要があるんですよね。フリーランスだとそういった事務所とのやり取りが必要ないため、この日はプロレスの試合だから、翌日に収録は入れないようにしよう、などと柔軟に対応できます。

清水愛さん

リングコスチュームは、清水さん自らデザインしているのだそう

試合の翌日に収録を入れないようにしているのはなぜでしょうか?

清水 単純に体力が……というのと(笑)、以前プロレスの試合で男性の強い蹴りを思いっきり顎に2発もらってしまったことがありまして。プロレスって基本的には顔面攻撃NGなんですが、食らっちゃったんです。慌てて病院に行ったんですが、口の片側がうまく動かなくなってしまって……。翌日に声優のお仕事が入っていたので、どうしよう……って青ざめました。そのときはどうにか乗り切りましたが、今はより気をつけるようにしています。健康面や体調面に気を配るのも大切な仕事ですからね。自分でできることとして、フリーランスということを生かし声優とプロレスラー、それぞれのお仕事でベストを出せるようなスケジュールを可能な限り組むようにしています。

試合のとき、気をつけていることもあるのでしょうか。

清水 喉を潰されたら死活問題なので、どうしてもそこを守ろうとする戦い方になってきます。ただ、ほかのプロレスラーの皆さんもそれぞれどこかしらケガをしていて、そこをかばいながら戦っていることもあるので、そういう意味では同じだと思っています。

出産や子育てをしたら、仕事復帰したくても席が空いているとは限らない

最後に、声優兼プロレスラーとしての今後のキャリアプランについてはどうお考えでしょうか?

清水 この間、大会の最中に男性のプロレスラーさんが「もうすぐ妻が出産なんです」と報告しているのを聞いて「出産前後でも、男性は試合ができていいなぁ〜」ってうらやましく思いました。

たしかに、女性はどうしても働く上で、子どもを産むかどうか問題が付いて回りますよね。

清水 19歳から声優をやらせていただきつつ、途中でプロレスもやりたいと思って業界に飛び込んだのが32歳。今が36歳。ずっと大好きな仕事をさせていただいて幸せですし、ついつい自分のやりたいことを優先させてしまってきたのですが、昔から「子どもを産むなら2人欲しい」という夢があって。でも、今は「何ヶ月先に仕事が決まっているから……」と、どんどん先延ばしになってしまっているんですよね。もし、「今なら仕事が落ち着いている」というタイミングがあったとしても、そのときに運よく妊娠できるとも限らないですし。安静にする必要があるのは産む前後の1週間だけ、とかだったらいいのに!

わかります。妊娠期間が約10ヶ月もあって、その後しばらくは子どもから目が離せない時期が続くのは、働きたい人にとってはあまりに長すぎますよね。

清水 また、子どもを授かったとしても、子育てが落ち着いた後に声優やプロレスの仕事に戻ってこられる席があるかというと、その保証はありません。声優です、と再び名乗れるのかと思うと不安ですね。どんどん新しい人も出てきますし、出産や子育てが落ち着いたときには、私の戻れる場所はなくなっているかもしれません。体力があるうちに出産や子育てをすることを考えたら、できるだけ早いほうがいいのはわかってはいるのですが……。

難しい問題ですよね。「これが正解」というのもないと思います。特に、“お仕事をいただく立場”である芸能やフリーランスで働く女性にとって、永遠の課題だと思います。

清水 ですよね。もしも60歳や70歳で産めるのならば、まだまだ先延ばしにしてしまうかもしれません。でも、現実ではそうもいかないと思うので、正直どうすればいいのか自分の中で答えは出ていないです。なんて言いつつ、産むことができたらそれはそれで、子育てのほうが向いているかも! とか思っちゃうかもしれないですけどね。

清水愛さん

取材・文/朝井麻由美
撮影/関口佳代

お話を伺った方:清水愛

mii

日本工学院専門学校演劇俳優科声優コース出身。声優業の傍ら、プロレスラーとしても活躍中。声優としての主な出演作に、『おねがい☆ツインズ』(小野寺樺恋役)、『舞-HiME』(美袋命役)、『エル・カザド』(エリス)などがある。事務所所属を経て、現在はフリーで活動中。直近の活動情報として、2017年11月6日に朗読イベント「謎解きR.P.G.」、2017年12月8日〜12日に劇団あかぺら倶楽部「行かせてッ!〜沢井一太郎の憂鬱〜」、2017年12月29日〜30日:「Frontwing LIVE 2017 -First Flight-」に出演予定。

Twitter:@aitter_smz
Instagram:@aitter_smz
ニコニコ生放送:清水愛チャンネル 毎週水曜23時より乙女ゲーム実況生放送中

次回の更新は、11月1日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

出版社の記者からエンジニアへ転身――Zaim代表取締役・閑歳孝子さんの働き方

閑歳さん
今回『りっすん』がインタビューしたのは株式会社Zaimの代表取締役、閑歳孝子(かんさい・たかこ)さん。もともと出版社で記者として働いていた閑歳さんがエンジニアとしてのキャリアをスタートさせたのは29歳のとき。その後、個人で開発した家計簿アプリ「Zaim」がヒット。2012年、33歳のときにはZaimを法人化し経営者となったという、異色の経歴の持ち主です。エンジニアへの転身に至るまでのこと、家計簿アプリを作ろうと思ったきっかけ、Zaimの今後についてなど、詳しく伺いました。

出版社の記者から、29歳でエンジニアに転身

インターネットの業界に入る前は別の業界・職種で働いていたんですよね。

閑歳孝子さん(以下、閑歳) そうなんです。大学卒業後に出版社へ入社し、記者を約3年半していました。

違う業種へ転職することに迷いはありませんでしたか?

閑歳 正直、数ヶ月悩みました。勤めていた出版社は大きい企業でしたし、職場の環境もよかったので。仕事に不満があったわけではないから、どうしようかなと。本当にいい会社だったので、退職する人も少なかったんですよ。なので、私が転職すると聞いた同僚は、みんなびっくりしていましたね。

不満がないという中で、転職を決めたのはなぜでしょうか?

閑歳 当時、SNSの業界が盛り上がってきていて面白そうだなと漠然と思っていたんです。というのも、大学時代に課題の一環で、SNSに似たサービスを友人と作ったことがあって、そのときの楽しかった記憶がよみがえってきたんです。そんな時期、たまたま大学時代の同級生が作った会社から「大学のときに作っていたようなサービスを私の会社でも立ち上げてほしい」と声を掛けていただいて。それで、インターネット業界に転職をしました。

閑歳さん

「大学時代に作ったサービス」はどういうものだったのでしょうか?

閑歳 研究室の先生がNTTの研究所長をしていて、当時開発されたばかりの「iモード」が使える機種の携帯をたくさん持ってきたんです。「これで何かサービスを作ったらこの携帯をあげよう」と提案されて、「携帯ほしい、やろう!」となって(笑)。

それで、「キャンパス内で手軽に友達と連絡をとれたら便利だよね」という発想から、大学内でのみ使えるエリア限定のサービスを作りました。「特定の友達と連絡をとる」というよりかは、「つぶやき」みたいな形で、自分が今どういう気持ちや状況なのかというのを伝えるもので、今思うと、まさにTwitterみたいなサービスでした。大学内でみんなすごく使ってくれていましたし、「便利」と言ってもらえるのは嬉しかったですね。

このサービスを使っていた同級生が後に会社を立ち上げ、閑歳さんに声を掛けたんですね。

閑歳 そうです。ただ、当時の私はプログラミングに関する経験も知識もなかったので、いきなり何かを作るということはありませんでした。会社や企業を対象とした受託開発系の会社だったので、エンジニアと営業の間をつなぐような仕事をしていました。いわゆる、ディレクターのような役割です。

でも「プログラミングをやってみたい」という気持ちもあったので、仕様書を作るとか、簡単なデザイン変更とか、エンジニアの手を煩わせるプログラミングは私が行うようにしていたんです。徐々にその作業が面白くなってきて、趣味でサービスを作るようになりました。

趣味で作ったものの中で、印象に残っているサービスは?

閑歳 「携帯で撮った写真を特定のメールアドレスに送れば、結婚式で使うようなスライドショーが作れる」というサービスでした。嬉しいことに、多くの方に使用してもらえて、メディアでも取り上げていただいたりして。このサービスがきっかけで、29歳のとき、BtoB向けのツールを作るベンチャー企業にエンジニアとして転職しました。

そこで一から教えてもらって、エンジニアとして一通りのことができるようになりました。自社サービスの開発や、当時はTwitterやFacebookなどが盛り上がってきた時期だったので、それらに関連するサービスやbot*1を作ったりしていましたね。

閑歳さん

お話を聞いていると、プログラミングへの関心度がもともと高いように感じました。何かきっかけはあったのでしょうか?

閑歳 なぜだかわからないですけど、もともとそういう性質を持っていたみたいです(笑)。インターネットやPCも、ずっと好きで。小学生のころから、家のワープロを隅々まで使っていたり、「草の根BBS」というインターネットが普及する前の通信を使ってみたりしていました。

あとはゲームも好きでした。小学生時代にはスーパーファミコン用の衛星放送受信機アダプタのモニター募集に応募してみたりもしてましたね。「サテラビュー」といわれるものなんですが、当時、衛星放送を受信するというのはかなり珍しかったんですよ。とにかくゲームと通信に異常な興味を示す子どもでした。私は田舎育ちだったんですが、田舎にいながらいろんな情報が手元にやってくるという体験は、とても夢があってワクワクすることだったんです。

自分を追い込みながら個人でZaimをリリース

Zaimを企画・開発しようと思ったきっかけについて教えてください。

閑歳 仕事だけでなく趣味でもSNS関連のサービスを作っていたとき、私の中で「便利だけど、なくなっても困らないサービスだよな」という点がひっかかっていたんです。使っていて便利だったり、楽しかったりするかもしれないけど、真剣にそのサービスを使っているかというとそうではない。そこで、もっと人の生活に入り込めるようなサービスを作っていきたいなと思うようになりました。「なくなったら困る!」というサービスを作らないと、自分自身が成長していけないように感じたんです。

その思いからZaimが誕生したんですね。

閑歳 そうですね。「Zaimを作りきれなければ、社会人として終わる……!」と自分を追い込みながら、2011年の7月ごろにZaimをリリースをしました。このときは、仕事とは関係なく、趣味の一環として作っていました。

閑歳さん

Zaimを開発するとき、お金以外にもテーマの候補はあったのでしょうか?

閑歳 家計簿か、匿名サービスか、Q&Aサービスの3つで悩んでいました。匿名サービスでいうと今っぽい「2ちゃんねる」みたいなものはまだそんなにないよなとか。Q&Aサイトだと、「Yahoo!知恵袋」のようなサービスからそんなに進んでいないよなとか考えていました。その中で、どれが作りやすいかなと考えたときに、自分の身近にあったのが家計簿だったんです。家計簿は一人暮らしのころからつけていたので、使う人の気持ちがわかると思って、家計簿を選びました。

それと、Zaim開発当時は、スマホやアプリがちょうど一般の人にも普及しはじめたころ。ガラケーからスマホへとデバイスが変わることによって、今まであったサービスの概念も変わるだろうという考えもありました。

個人でZaimをリリースしたということですが、そこから起業したのはなぜでしょうか。

閑歳 Zaimを個人でリリースして1年経った段階でダウンロード数が数十万になっていて。個人情報を預かるので、ユーザーに安心して使ってもらうためにも法人の運営にしようということで、会社を立ち上げることにしました。当時のメンバーは私1人でしたが、仲間を集め、少しずつ大きくなっていき、今に至るといった形です。

経営者になってみて、働き方に変化はありましたか?

閑歳 会社員時代はずっと平社員で現場が好きなタイプでした。そこからいきなり経営者になったので、社員だったころの気持ちを生かして、「経営者はこうあるべき」というよりかは「自分が社員だったときに、経営側からされた嫌なことはしないようにしよう」ということに重きを置くようにしていましたね。

ただ経営側になって、「経営者も嫌われたくてやっているのではなくて、ちゃんとした理由があってそうせざるを得なかったんだな」という、社員のときはわからなかったこともわかるようになりました。

代表取締役となるとなかなか現場に出られないと思うのですが、エンジニアとして手を動かしたくなることはありますか?

閑歳 がっつり仕事でサービスを作り上げることはできないので、本質ではないところでちょくちょく作るようにしています。例えば、弊社のエントランスにある受付のシステムは私が作りました。タッチパネルを操作すると社内チャットに来訪者が来たと通知されるシステムになっていて、来訪者が迷わないようにシンプルな作りに仕上げました。社内のエンジニアにも「電話に出る手間が省ける」と、なかなか好評です(笑)。

あとは、社内専用のタイムカードや経費精算のシステムを作ったりしています。

会社受付画面

閑歳さんが開発した会社受付画面

Zaimで気持ちよくお金を使ってもらえるように

現在提供しているZaimのサービスで意識されていることは?

閑歳 サービス側からのメッセージは、極力ポジティブになるように気をつけています。「お金足りませんよ」とか「このままではまずいですよ」というようなメッセージはあまり出さない。ネガティブなメッセージは悲しいし、やる気をなくすじゃないですか。実際に、利用者の主婦の方にヒアリングをしたときに「毎日頑張っているのに家庭ではあまりほめられない」という意見があったんですよね。

なので、夜に使ったら「今日もいい日だったな」というポジティブな気分で1日を終えられるアプリになるように意識しています。毎日更新したらスタンプがもらえるんですが、それも「応援しています」とか、「よく頑張ったね」というスタンスのものを使っています。

たしかに、応援してもらえるとやる気も湧いてきますよね。

閑歳 「お金を使いすぎ」という情報を出すのも時には大事なんですが、私たちはお金を使うことも大事だと思っているんです。必要以上に貯めてもらうのではなくて、適切にお金を使ってもらうことを志しています。

あの瞬間がなかったら今の自分はないという出来事があったら教えてください。

閑歳 私は人との出会いやタイミングにすごく恵まれていて。そう感じる瞬間はけっこうありましたね。

例えば、出版社からインターネット業界に転職するとき。その日は雑誌の校了日で、すごく忙しかったんですが、友人から「どうしても今から会って話がしたい」と何回も電話がかかってきて。「校了なので無理だ」と断ったんですが、その後も電話が続いたので、根負けして友人に会いに行ったんですよ。そこで、のちに転職する会社の方と出会って。あのとき電話に出なかったら今はないでしょうね。

閑歳さん

「りっすん」では女性の働き方を主なテーマにしています。Zaimでの、女性の働き方について教えてください。

閑歳 弊社では今年の5月に初めて育休明けの社員が戻ってきました。それまでは前例がなかったんです。

本来弊社はフレックスタイム制ではないのですが、育児と介護の場合はフレックスを採用し、時短勤務以外にも育児のために現在フレックスで働いてもらっている社員もいます。会社の規模があまり大きくないというのを生かして、本人と話し合いながら働き方については柔軟に対応していきたいなと思っています。まだ手探りの部分はあるのですが、弊社は女性社員も多いので、そのあたりは考慮していきたいですね。

最後に、今後の展望を教えてください。

閑歳 Zaimはこれからもアップデートをしていきます。このアプリを夫婦で使って、2人でお金の管理をしてもらうとか、お子さんと共有して、「ひとつの家族が暮らすにはこんなにお金がかかるんだよ」というのを知ってもらうとか。そんなふうに使ってもらえるようになりたいと思っています。家族と共有することで、「お小遣いもう少し増やせるね」とか、「大学へ行くにはお金がかかるからバイトを始めよう」とか、いい方向に行動を変えたり、お金を気持ちよく使うためのお手伝いができたりすると嬉しいです。

ありがとうございました!

取材・執筆/石部千晶(六識)
撮影/小高雅也

お話を伺った方 閑歳孝子(株式会社Zaim 代表取締役)

閑歳さん

2012年に株式会社Zaimを設立。小学生のころからワープロやゲームが大好きで、大学時代には友人と共同でSNSに似たサービスを作る。初めて購入したPCはWindowsの「コンパック」。これまで一番衝撃を受けたWebサービスは「Orkut(オーカット)」というSNSサービスで、現在は将棋(主に藤井四段)とスマホアプリの「Walkr - ポケットの中の銀河冒険」にハマッている。

次回の更新は、10月18日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:操作を自動で行うプログラムの総称。Twitterでは手動ではなく機械によって自動的に投稿をするプログラムを指す

「辞める」と決めたとき迷いはなかった――元フロントエンジニアの漫画家・矢島光さん

矢島さん
今回「りっすん」でお話を伺ったのは、株式会社サイバーエージェントでフロントエンジニアをしていた経歴を持つ漫画家、矢島光さん。自身の会社員経験を反映させたWeb漫画『彼女のいる彼氏』が単行本化されるなど、着々と漫画家としてステップアップしている矢島さんですが、会社員から漫画家の道へ転身することに迷いはなかったのでしょうか? また、プライベートと仕事への考え方は? 今後の展望なども併せて、赤裸々に語っていただきました。

“あるある”を凝縮させたITきゅんきゅん系Web漫画がヒット

矢島さんが漫画家として活動されるまでの経歴について教えてください。

矢島さん(以下、矢島) 慶應義塾大学で環境情報を学んだ後、株式会社サイバーエージェントにフロントエンジニアとして新卒入社しました。3年弱勤めた後に退職し、2015年2月から専業漫画家として活動をはじめました。初めて連載を持つことができたのはサイバーエージェントを退職してからで、それがWeb媒体「ROLA*1」に掲載していたWeb漫画『彼女のいる彼氏』です。

『彼女のいる彼氏』は、ご自身がサイバーエージェントで働いていたときのことを参考にされているんですよね。

矢島 そうです。まだ働きながら漫画を描いていたとき、ROLAの編集部宛てに、「会ってもらえませんか」とメールを送ったのが始まりでした。メールをしたら、当時のROLAの編集長が会ってくださったんですよ。その打ち合わせの場で「えー!! サイバーエージェントで働いているの!?」と面白がってくれて。そのまま「ネーム(漫画を描く際の、コマ割りや構図、セリフなど)を描いておいで」と話が進んだんです。

職歴に目を留めてもらった、と。

矢島 ありがたいですよね。本当、人生どこでどう転ぶかわからない。ROLAの編集長から「世間には、サイバーエージェントについて興味を持っている人がたくさんいるんだよ」と言われて。私にとっては意外なことでびっくりしたのですが、「なら教えてあげよう」と思って、そのまま描きました。とはいえ、連載化する前に描いたネームは、送ってはボツ、送ってはボツの繰り返しで、なかなか大変でした。

彼女のいる彼氏 1 (BUNCH COMICS)

彼女のいる彼氏 1 (BUNCH COMICS)

  • 作者: 矢島光
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/10/08
  • メディア: コミック

仕事描写のリアルさだけでなく「ITきゅんきゅん系」と表現されるような恋愛模様も『彼女のいる彼氏』が支持されるポイントかと思います。この“きゅんきゅん”要素も、矢島さんの実体験をベースにしているのでしょうか?

矢島 すべてではないですが……一部反映はされています(笑)。ネームになかなかOKが出ないころ、編集長さんと飲みに行く機会がありまして。そのとき、私が経験したダメな恋愛話をしたら、「それおもしろいね! その話をベースにした漫画を描こう」ということになったんですよ。

実は私、それまで恋愛の話はほとんど描いたことがなかったんです。なので、編集長さんにそう言われたとき、「まじか!!!」というのが率直な感想でした(笑)。でも、ネームを描いて送ってみたら、おもしろいと好評で。結局それが『彼女のいる彼氏』というタイトルで連載されることになったんです。

選択に迷わない=動き出すタイミング

矢島さん

漫画家への憧れは、いつごろからあったのでしょうか。

矢島 きっかけは小学3年生のときです。当時私は、月刊誌の『りぼん』が大好きで、毎月楽しみに読んでいました。その中で、種村有菜先生の『イ・オ・ン』という連載が始まったんですが、扉絵がとにかくすっごくキレイで! その美しさに感動して、「私もこんな絵が描きたい!!」と思って、漫画家を夢見るようになりました。

小学生のころからの夢だったんですね。それからは、漫画家になるためにどんな行動をされていたんですか?

矢島 出版社へ自分の漫画を売り込んだりしました。初めて漫画を持ち込んだのは大学2年生のころ。出版社への漫画の持ち込みは、サイバーエージェントに就職してからも続けていました。

就職活動時、サイバーエージェントを選んだ決め手はどこにあったのでしょうか。

矢島 大学の先輩が、サイバーエージェントのフロントエンジニアとして働いていたんです。その先輩に、サイバーエージェントのトークイベントに誘われたのがきっかけでした。そのときは、トーク内容が難しくて、私には何を言っているのか全然わからなかったんですけど……(笑)。オフィス見学もさせていただいたのですが、働いてる方みなさん楽しそうだったんですよね。それで、ここがいいのではと感じて。

その当時、「漫画家として活動していく」という選択肢はなかったのでしょうか。

矢島 大学生のころはすでに漫画を描いていたので、「漫画家」という選択肢もありました。でも、正直「漫画家として生活できるのか?」という不安もあったので……悩みました。ありがたいことに現在は漫画のお仕事で生計を立てられていますが、当時そのようになれる確証はもちろんなかったわけですから。自分自身踏ん切りがつかなかったので「いったん両方やってみよう」と思って、就職しました。

生活面での不安から企業へ就職したというように、やはり、会社員は「安定している」など魅力があるかと思います。それを手放してまで漫画家一本でやっていこう、と思ったのはどうしてでしょうか?

矢島 会社員として働いていても、漫画家への未練がタラタラだったんですよね。実は会社員時代、心が疲れてしまって半年ぐらい休職をさせていただいたことがあったんです。それにも関わらずその期間中も漫画を描くことはやめられなくて。それで、自分の中にある「漫画を描きたい、漫画家になりたい」という強い思いに気付いて、退職を決意しました。

葛藤はなかったのでしょうか。

矢島 「辞める」と決めたら、すっと辞められました。私自身の考えになるのですが、葛藤があるということは、それは動き出すタイミングではないんだな、と思うんです。就職するときはまだ漫画家としてやっていけるだろうかという不安があったので、きっと決断するタイミングではなかった。サイバーエージェントを辞めることに迷いがなかったあのときが、漫画家の道に進むベストなタイミングだったんだなと今でも思っています。

漫画を描くことで、苦手だった人たちへの印象が変わったことも

世に出た作品もそうでない作品も含めて、特に思い入れのある作品について教えてください。

矢島 やっぱり『彼女のいる彼氏』への思い入れは格別です。初連載で最終回まで描いた作品でしたし、大好きな編集さんと作った作品なので。

(画像左から)『彼女のいる彼氏』に登場する徳永、咲、ルミ、佐倉

特に思い出深いシーンはありますか?

矢島 “キラキラ女子の苦悩”について描いた回があるのですが、私の中ではあの話がダントツで気に入っています。

作中の職場「株式会社サイダーエイジ ジャパン」で働くキラキラ女子・藤田ルミにフォーカスした回ですね。

矢島 はい。サイバーエージェントにいたときに一番感じたのが、「キラキラ女子って大変なんだ」ということだったので、それを伝えられてよかったです。

キラキラ女子の苦労を知るまでは、キラキラ女子についてどんなイメージをお持ちだったのでしょうか。

矢島 「楽しそうでキラキラしていていいっすね」みたいな、嫉妬の心が根底にありましたね(笑)。でも、「どんなときも疲れた顔を見せない」とか「周りに対する細かい気配り」とか、キラキラ女子でいることの大変さを知ってから、彼女たちを見る目が変わりました。

それに、描くことによって、私はキラキラ女子に対して、嫉妬だけでなく感謝の気持ちを持っていたんだということにも気付くことができました。「いつも場を華やかにしてくれてありがとう」とか、「みんなの誕生日を祝ってくれてありがとう」とか。漫画を描くことで、自分ではなかなか気付けない本心と向き合うこともできたと思います。

他に、自分にとって欠かせない作品はありますか?

矢島 23歳のときに雑誌『モーニング』の「MANGA OPEN」という新人賞で奨励賞をいただいた、『ピーピングトム』という漫画も大切な作品です。のぞき魔の男の子がバトントワリングを始めるという内容の読み切りです。すっごい下手くそだけど、絵に勢いがあるんです。

例えば、バトンが回っているシーンを描くとしたら、今だと「どうやったらキレイに描けるだろう?」と慎重になってしまうんですが、当時は何の資料も見ないでガリガリ描いていたんですよ(笑)。バカだなぁって思いますが、バトンがぐるぐる回っている描写は、汚いけど迫力がすごくあるんです。今では描けないよさがあって、見るたびに初心に立ち返りますね。

「自分にとっての転機」と思えるような出来事はありますか?

矢島 間違いなく、編集者さんとの出会いですね。『彼女のいる彼氏』の編集さんはもちろんですし、『ピーピングトム』を読んで初めてついてくれた担当さんもそうです。実は、この『ピーピングトム』の担当さんが「一度就職した方がいい。それで、サラリーマン漫画描こうよ!」って言ってくださっていたんですよ。その言葉に後押しされて、就職して、今につながっているので、感謝しかありません。

関わった編集さんと、すごくいい関係が築けているんですね。

矢島 すべての編集者さんとの出会いがなければ、こうはなっていなかったと断言できますね。今描いている漫画を見てくれている担当さんも、私のことをすごく考えてくださっていて。私、担当してくれた編集さん全員のことが大好きなんです。

大好きなバトントワリングに漫画で貢献したい

『彼女のいる彼氏』のように、今後もご自身の経験を生かした漫画を描いていこうという気持ちはあるのでしょうか?

矢島 あります。でも、昔ほどノンフィクションの漫画を描こうとは思っていなくて。というのも、一人前の作家さんって、フィクションでもストーリーを描き切れちゃうんです。なので、感情の面では体験したことを反映させたいですけど、ストーリーは完全フィクションで描けるようになりたいと考えています。それに、そうなれないと、いつかメンタルが潰れてしまうと思いますし。ノンフィクションで描くというのは、自分の身を削りすぎちゃうことでもあるので。

今後描いていきたいテーマや構想はもう考えられているんですか?

矢島 次の連載では『ピーピングトム』のように、中高でやっていた「バトントワリング(バトン)」をテーマにした漫画を描く予定でいます。ただ、今の自分の画力では表現しきれないこともあるなと感じることがあって。「スポーツ漫画は画力が必要」と聞いてはいたのですが、その通りで。まだまだ頑張らなきゃいけないな、と思います。

バトンの漫画を描きたいというのは、どうしてでしょうか。

矢島 純粋に、バトンが大好きなんです。ずっとバトンの連載を描くことを目標にしてきました。漫画を描くのと同じぐらい大好き。バトンはまだまだマイナーな競技なので、私が漫画を描くことで、もっともっとバトンの魅力を広めていけたらと思っています。

漫画家としての仕事のやりがいは、どんなときに感じますか?

矢島 やっぱり、読者さんが喜んでくれることです。『彼女のいる彼氏』を描いているときは、よくエゴサーチしていましたよ(笑)。「キャラクターが好き」っていうコメントは特に嬉しかったです。でも、作品に登場する「徳永」というチャラ男だけは、けなしてもらった方が嬉しいキャラクター。「本当にクソ男なのに、どうしても嫌いになれない」なんてコメントがあると、「狙い通りだ~」という感じでニヤニヤしちゃいました(笑)。

矢島さん

漫画家という職業に対するイメージにおいて、漫画家になる前と後とでギャップはありましたか?

矢島 ないですね。イメージ通り、キツイです(笑)。でも、会社員も実際大変ですよね。体調崩せないのはどちらも同じですし。

ただ、漫画の週刊連載となるとやっぱりハードかも。会社員で言うと大きめのプロジェクトが毎週あるというイメージで、息つく暇がないんですよ。私は隔週の連載しかまだ体験していませんが、それでも次々と絶え間なく原稿を描かなきゃいけない状態でした。

漫画家生活で、特に「大変だな」と感じるのは、どんなときでしょうか。

矢島 休みなく原稿を描かなきゃいけないこと……ですかね。大きな出来事がある訳じゃないんですが、今週分描き終わったと思った直後にはまた次のネームを描かなければいけない。『彼女のいる彼氏』を連載していた2年間は淡々とこの日々が続いていたのが、地味につらかったです。

それと、連載中の期間は、描く作業に影響が出ないよう感情の振れ幅を抑えることを意識していたんですが、それも精神的にしんどかったです。

感情を抑える?

例えば、ある出来事で落ち込みすぎちゃうと、筆が進まなくなる恐れがある。それを回避したかったので感情をコントロールしていましたが、あまりにも感情が死んでしまうといい作品も描けないし……そのさじ加減が難しかったです。

肉体的なハードさだけでなく、精神的なつらさも大きかったんですね。その期間、ちゃんとリフレッシュはできていたのでしょうか。

矢島 3ヶ月に1回ぐらいは遊んでリフレッシュしてました。宿泊はできないですが、日帰りで旅行に出かけることが多かったです。あと、大好きな夏フェスには毎年行っていました。

ハードでも、やりたいことができている幸福感で乗り切れる

では、会社員時代を振り返ってみて、「つらかったな」と感じるエピソードがあれば教えてください。

矢島 仕事内容というより、気持ちの問題にはなるんですが……。仕事で手を抜いたことはありませんが、私が漫画を描いていることを理解してくれている上司や同僚には、常にどこか申し訳ない気持ちを持っていました。会社の仕事と漫画家活動の両方をやっていることに対して、自分に納得ができていなかった部分もあるんだと思います。後ろめたさを抱えながら仕事をすること自体がつらかったですね。

矢島さん

もし今でも会社員と漫画家の両立生活を続けていたら、今ごろどんな自分になっていたと思いますか?

矢島 連載を目指して漫画を描きながら会社員もしていた当時の私は、会社の人から見るとかなりまいっていた状態だったみたいで。やりたいことが100%できないフラストレーションと、会社に迷惑をかけているのではないか、というネガティブな気持ちがそうさせていたんだと思います。なので、そういう沈んだ感情がずっと続いていたんじゃないですかね……。それを想像すると、自分のためにも周りの人のためにも、早めに決断ができてよかったと思います。

漫画を描き続けるのは大変なことですが、漫画を描けることが幸せなので、苦労より幸福度が上回っていると思います。

現在は、仕事とプライベートのバランスは理想通りにとれていると思いますか?

矢島 私は、プライベートと仕事を分けて考えていなくて。仕事が楽しければ、プライベートはなくてもいいと思っているんです。編集さんから「週刊連載は、(忙しすぎて)女でもなければ人間でもなくなるよ」という話を聞いたことがあるのですが、もし描くチャンスがあるのなら、喜んでやりたいと思います。

すごい覚悟です……! では、今後の目標を教えてください。

矢島 多くの人から「いい」と言ってもらえるバトンの漫画を描いて、バトントワリングがオリンピック種目になることに少しでも貢献したいです。贅沢なことを言えば、映像化できたら嬉しいなと思います。自分の意志ではどうすることもできないですが、「おもしろいものを描けば達成できる!」と思ってやっています。

最後に、「夢を持っているけれど、なかなか一歩を踏み出せない」という方にアドバイスをお願いします。

矢島 先ほども少し話しましたが、葛藤があるうちは動き出すタイミングではないと思うので、「ここだ!」というときが来るまでは待つことも大切じゃないかと思います。ただ、何もせず待つだけでは進歩がないので、そのときに向けて準備をしておくことも忘れずに。ベストなタイミングが来たら、迷いなく飛び込むことができるはずですよ。

ありがとうございました!

取材・執筆/石部千晶(六識)

お話を伺った人:矢島光

矢島光

サイバーエージェントでの就業経験を持つ漫画家。自身の経験を生かした、IT企業を舞台にした恋愛漫画『彼女のいる彼氏』で、多くの女性から支持を得る。ふんわりのんびりした外見からは想像できない、自分に厳しいストイックな一面も。最近は、お笑い芸人の「和牛」さんにハマり、ツッコミの川西さんが漫才のときに演じる女性の仕草や表情を漫画の参考にしているそう。

次回の更新は、10月4日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:現在はサービス終了しており、Webサイトはクローズしている

カピバラさんのような、長く愛されるキャラクターを育てたい。バンダイ井上さんのお仕事

inouesan
『りっすん』が「企業の中で働く女性」にフォーカスするシリーズ「おしごとりっすん」。第5回に登場いただくのは、株式会社バンダイの「ファンシー雑貨プロジェクト」で活躍している、井上陽子(いのうえ・ようこ)さん。人気キャラクター「カピバラさん」のプロモーション企画や、新キャラクター「ほわころくらぶ」の商品開発など、たくさんの“かわいい”を発信している井上さん。なぜバンダイで働くことにしたのか、普段どんな思いを持ってお仕事と向き合っているのか、詳しい話を伺いました。

「カピバラさん」「ほわころくらぶ」などのプロモーション・商品開発に奮闘中

現在のお仕事について教えていただけますか?

井上さん(以下、井上) 「ファンシー雑貨プロジェクト」というチームに所属し、主にプロモーションを担当しています。チームは12名で、そのうち女性が7名、男性が5名です。「ファンシー雑貨プロジェクト」は、バンダイの他の部署と比べてもプロモーション方法がちょっと特殊なんです。

特殊、というと?

井上 他の部署は、基本的にはCMや広告などで、“キャラクターの商品”を売るためのプロモーションをしていますが、私たちは、“キャラクター自体”のプロモーションをしています。代表的なキャラクターでは、「カピバラさん」がありますね。キャラクターの認知度アップを目指したり、いかにしてそのキャラクターを好きになってもらえるかということを考えているんです。

具体的に、プロモーションの仕事はどのような業務があるのでしょうか。

井上 キャラクターのデザインや商品展開に合わせて、イベントの企画・実施をしています。「カピバラさん」では、カフェとコラボをしたり、旅行会社さんとのツアー企画、動物施設とのタイアップ、人気キャラクターとのコラボなどを実施しました。

現在、井上さんが担当しているキャラクターを教えてください!

井上 前期までは「カピバラさん」の担当をしていましたが、今期からは、新しく立ち上げた「ほわころくらぶ」というキャラクターの担当になり、グッズの開発やプロモーションの実施などを中心に日々奮闘しています。私は今回、「ほわころくらぶ」のプロデューサーとしてメインで仕事をしています! ですから、このキャラクターへの思い入れも強いですし、今まで以上にいろいろとドキドキしています。

howakoroclub

井上さんが担当する「ほわころくらぶ」(C)NORIYUKI ECHIGAWA

「ほわころくらぶ」、見ているだけで癒やされます……!

井上 イラストレーターのえちがわのりゆきさんがデザインしたキャラクターです。このキャラクターの商品化窓口を弊社が行っていまして、作者さんと一緒に、今後のキャラクター展開について相談しながらデザイン、商品化のタイミング、イベントやコラボなどの企画を進めています。バンダイからは2017年9月上旬に、初めてのグッズとしてぬいぐるみを発売しました。

ところで、プロモーションのお仕事と聞くと「華やかなお仕事なのかな?」というイメージがありますが……。井上さんはそのあたりについてどう思われますか?

井上 そんなことないと思いますよ(笑)。チームの人数も少ないですし、限られた予算の中で企画を進めなければならないので、自分たちで細かい作業を行うこともしょっちゅうあるんです。

例えば、キャラクターのコラボカフェや、物販の催事イベントなどを行う際、イベントのパネルを作ったり、キャラクターと写真が撮れる整理券を1枚ずつ切ったりという作業も私たちがやっています。お客様には見えないところで地味な仕事もたくさんしているので……。イメージされているような華やかさには欠けるかもしれないですね。

本当に細かなところまで担当されているんですね。ちなみに井上さんはキャラクターとのコラボカフェを実施するとき、どんな業務をされているのでしょうか。

井上 お店の方と一緒にメニュー開発をしたり、ランチョンマットなどの配布物を決めたり、装飾をどうするかを決めたり……。あらゆることに携わります。お客様に満足してもらえるよう、「さまざまな方向からキャラクターの世界観を楽しめる空間を作ろう!」と尽力しています。

子どもを笑顔にできる“おもちゃ”に魅力を感じ、バンダイへ

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学生時代はどんなことを勉強されていたのでしょうか。

井上 大学では、児童福祉を専攻していました。当時は子どもの発達や保育、児童虐待、子育て支援などの「子どもに関わる勉強」をしたいと思っていて。

そこからバンダイへ入社しようと思ったのは、どういった点に魅力を感じたのでしょうか。

井上 就職活動時、最初はバンダイ以外のおもちゃ会社だけでなく、通販会社など、「モノ作りに携われる仕事」をチェックしていたんです。その中でも、バンダイの「人を喜ばせるモノ作りができる」だけでなく、「子どもたちに夢を与えることができる」という点に強い魅力を感じて。

例えば、キャラクターの変身グッズを扱っているので、子どもに「ヒーローになりたい!」という夢を与えたり、その夢に寄り添ってあげることができる。これは、バンダイだからこそできることだと思っています。

バンダイの「子どもたちに夢を与えることができる」点に魅力を感じた、というのはやはり“子どもが好き”といった思いが根底にあったからなのでしょうか?

井上 もちろんそれもありますが、弟の影響が大きかったように思います。

私には13歳年下の弟がいるんですが、年が離れていることもあって、自分の子どものようにかわいいんですよね(笑)。そんな弟がおもちゃで楽しそうに遊んでいるのを見て、「おもちゃって子どもをこんなに笑顔にすることができるんだ。おもちゃってすごい!」と思うようになりました。

弟さんの笑顔が、おもちゃを扱う会社への憧れを高めていったんですね。

井上 そうですね。それと、子どもが喜ぶ「モノ」を作る仕事に就きたいという思いはありましたが、バンダイは幅広い年齢層の商材を扱う会社で、さまざまなチャレンジができるというのも魅力に感じました。

現在の「ファンシー雑貨プロジェクト」への所属は、井上さんの希望だったのでしょうか?
 
井上 そうです。異動の希望を出して、入社4年目に異動することになりました。

inouesan

異動したいと思ったきっかけのようなものはあったのでしょうか?
 
井上 もともとファンシー系の雑貨が好きだったというのもありますが、入社して数年働いているうちに、「自分の感覚が生かせるところで働いてみたい」という思いが芽生えてきたんです。「ファンシー雑貨プロジェクト」は主に20~30代の女性に向けた商品を扱っているので、ターゲット層と自分の年齢がぴったり合っていて。なので、ファン層の気持ちを分かってあげたり、思いをくみ取りやすかったりするので、お客様の心に刺さる企画が考えられるんじゃないかなと思い、異動を希望しました。

ちなみに井上さんは、入社する前からキャラクターものはお好きだったのでしょうか。

井上 好きでした! 学生時代も、キャラクターの筆記用具とかを使っていました。かわいいものが身近にあると、それだけでワクワクしますよね。あとは雑貨も好きでした。大人になった今もプライベートで買い物に出かけたら、キャラクターグッズや雑貨コーナーをついのぞいてしまいます。最近は、無意識のうちに「この雑貨でうちのキャラクターグッズを作ってみたいな」と、仕事目線で見るようになっちゃいました(笑)。

「カピバラさん」のコラボツアーでは、お客様からのリアルな声も

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仕事をしていて「嬉しい!」と感じる瞬間について教えてください!

井上 やっぱり、お客様に喜んでいただけたときが、何よりも嬉しいですね。お客様が参加するタイプのイベントに携わることも多く、直接お客様の反応を見ることができるので。

例えばコラボカフェだったら、オープン前から多くのお客様が並んでくださっていたり、入った瞬間に「わぁ!」と感動してくださったり……。そういう様子を見ていると、私も「頑張ってよかった!」とこみ上げてくるものがあります。カフェの方と肩を組んで涙したこともありましたね(笑)。お客様の笑顔が一番の活力です。

このお仕事をしてきて、特に思い出に残っているエピソードを教えてください。

井上 旅行会社さんと一緒に、「カピバラさん」とのコラボツアーで那須や台湾の旅を企画したときのことですが、私も運営のため旅行に同行しました。そのとき、お客様と直接会話をする時間がたくさんあって、お客様のリアルな声をしっかり聞くことができたんです。「あのデザインがよかった」「こういうグッズが欲しい」と、お客様の表情を見ながらご意見を聞くことができたのが嬉しかったですし、勉強になりました。ツアー自体も好評で、貴重な経験ができました。

ファンの方と直接話すというのは刺激になりますね!

井上 「カピバラさん」のキャラクターイベントをしているときに、カピバラさんのファンの方が「前もいらっしゃった担当の方ですよね」と声をかけてくださったり、私宛てにお手紙を書いて来てくださった、ということもあるんです。「いつも楽しいイベントをありがとうございます」というようなことを書いてくださっていたりして。私は一担当者ではあるんですが、私のキャラクターへの愛情が、お客様にも伝わっているのかなと思って、とっても嬉しく思いました。

逆に、これまでのお仕事で「大変だったな」「つらかったな」と感じたことはありますか?

井上 「おしゃれで大人っぽいカピバラさんの新デザインを作ろう」と企画し、実際に進める過程は、悩んだり、落ち込むことが多くありました。

具体的に、どんな点で悩んだのでしょうか。

井上 「カピバラさん」は今までキャラクターが前面に出ているデザインが多く、少し幼いイメージもあったので、「カピバラさんは好きだけど、もっとさりげなく持てるデザインの商品が欲しい」という意見も多く寄せられていたんです。そこで大人っぽい新デザインを……ということだったのですが、今までのキャラクターイメージを変えることにもなるので、最初関係者の方々から「売れるの?」という不安の声をいただくことがあったんです。10年以上も人気のキャラクターですし、ファンも一緒に歩み大人になっているので、大人っぽいデザインの必要性はアンケートの調査や分析からも自信はあったのですが……。

「キャラクターの新しい一面を作ろう」というキャラクターにとっていい決断をしたのに、不安の声をいただいたというのはたしかに悩みますね……。

井上 ただ、売り出した結果販売状況もよく、人気のデザインシリーズとして今までになかったお店への商品導入やタイアップも実現しました。より多くのお客様に手に取ってもらえて、「大人っぽいデザインを今後も広げていきましょう」となったんです。最終的にはすごくいい形で企画を進めることができました。

「大人の女性」をターゲットにした「OTONA KAPIBARASAN」 (C)TRYWORKS

苦労した分、いい結果に結びついたのは喜びも倍以上になりますね! その他、普段のお仕事で気持ちが落ち込んでしまうようなことはありますか?

井上 そういうのは少ないかもしれないですね。そもそも、会社自体が挑戦することを評価してくれることもあり、失敗しても「次の挑戦に生かし、挽回する!」という風土があるんです。なので、失敗したとしても落ち込みすぎず、次に向けていろいろなことに挑戦できていると思います。それでも落ち込むときは、チームのメンバーに相談して解決するようにしています。

チームのメンバーに迷わず相談ができるというのは、いいですね。

井上 一人でどうしようもなく困ったときは、声をかけると一緒に解決策を考えてくれるし、みんなでなんとかしようと考えてくれるチームです。チームの人数が少ない分、役職に就いている方も現場に出たりとか、一緒になってイベントで使用するパネルを作ってくれたりしているので、そういう環境がまたチームの絆を深めているのかもしれないですね。

今は私がチームの最年少ですが、後輩ができたときは、私が今先輩にしてもらっているような、意見を言ったり相談をしやすい雰囲気を作っていきたいと思っています。

働く上でモチベーションになっていることはありますか?

井上 そうですね……。これもやっぱりお客様の笑顔を見ることですかね。キャラクターのイベントの開催や商品発売をするとなれば、開催や発売に至るまでがどんなに大変できつくても、当日にはお客様の笑顔にたくさん出会えます。そうすると、つらかった思いもふき飛んじゃうんです! その笑顔を糧にして、次の企画も乗り越える……。この繰り返しですね(笑)。

あとは、自分が担当するキャラクターにとても愛情を持っているので、その愛情が、自分のモチベーションを上げてくれているという部分も大きいと思います。

担当するキャラクターを、長く愛されるよう育てたい

働く上で、ロールモデルにしている人はいらっしゃいますか?

井上 入社して最初に配属された部署では女性の先輩が多かったのですが、みなさんそれぞれすごい方ばかりだったんです。仕事がバリバリできて、しっかりした意見を言えて、憧れの方ばかりでした。なので、今の自分の仕事ぶりをチェックするときは、その先輩方が当時入社何年目だったかを思い出しながら、「自分は、当時の先輩に追いつけているかな?」と考えるようにしています。その都度「まだまだだ! もっと頑張らないと!!」と、やる気になりますね。

今後の目標を教えてください。

井上 直近では、今担当している「ほわころくらぶ」を、多くの人に長く愛される、定番のキャラクターに育てていくことですね。「カピバラさん」は誕生して10年以上になりますが、それだけ続くと定番キャラクターだなという認識があるので。まずは10年続くよう目指します。

KAPIBARASAN

しばらくは、今のチームで頑張っていこうと?

井上 はい。まだまだ新しいキャラクターを作って、育成しないといけないなと思っているので。「ほわころくらぶ」だけでなく、もっとたくさんのキャラクターに携わっていきたいです。

また、今後はもっといろんな開発もやってみたいなという意欲も湧きました。今はぬいぐるみの開発ですが、バンダイは、おもちゃやコスメ、アパレルなど幅広い商品を扱っているので。長い目で見たら、そういう違った商材の開発もしてみたいな、と思います。

ありがとうございました!

取材・執筆/石部千晶(六識)
撮影/小高雅也


(C)TRYWORKS
(C)NORIYUKI ECHIGAWA

お話を伺った方:井上陽子(株式会社バンダイ ファンシー雑貨プロジェクト)

井上さん

バンダイに入社して7年目。メディア部で3年間働いた後、現在のファンシー雑貨プロジェクトに所属。アニメキャラクターのグッズ開発にも携わっているため、帰宅後は録画しておいたアニメ番組をチェックしている。長年担当していた「カピバラさん」に顔が似てきたと言われることも。

次回の更新は、9月20日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

ほぼ日CFO篠田さん「仕事は相手が『いい』と言ってくれて、初めて意味を持つもの」

篠田さん
Webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」の運営や、「ほぼ日手帳」をはじめとしたオリジナルグッズの販売などを行う「株式会社ほぼ日」でCFO(最高財務責任者)を務める篠田真貴子さん。長年、外資系の大手企業で働いていた篠田さんですが、なぜ「ほぼ日」に転職することを決めたのでしょうか。その理由や、どのような考えを持って仕事に取り組んでいるのかなど、くわしく伺いました。

40歳で外資系企業から「ほぼ日」へ転職。インフラ作りに尽力

はじめに、これまでの経歴について教えてください。

篠田さん(以下、篠田) 大学を卒業後、1991年に株式会社日本長期信用銀行(現・株式会社新生銀行)に入行し、社会人になりました。日本長期信用銀行を1995年に退社した後、3年間アメリカに留学して、国際関係論の修士とMBA(経営管理修士)の資格を取りました。日本に戻ってからは、マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社、ノバルティス ファーマ株式会社、ネスレニュートリション株式会社と、外資系の大きな会社で働きました。そして、40歳のときにほぼ日に移り、CFOになって今に至ります。会社でいうと現在が5社目ですね。

入社前、ほぼ日という会社にどのような印象を持っていましたか?

篠田 私は「ほぼ日刊イトイ新聞」のファンであり読者だったので、入社前からWebサイトをよく見ていたんです。その時点でも、「私が今まで仕事をしてきた企業とはものすごく違うんだろうな」という大まかな想像はできましたが、それ以上の印象は正直なかったですね。

それに、実はいきなり入社したわけではなく、正式なオファーをいただく前に、ほぼ日で3ヶ月ほど、あるプロジェクトのお手伝いをさせていただいていたんです。糸井*1や乗組員*2が、どのように仕事を進めているのかというのを、入社前にある程度見られたのはよかったなと思います。

その3ヶ月で、どんなことを感じられましたか?

篠田 当時のほぼ日は、コンテンツと商品が優れているのでお客様がついてきてくださっているけれど、組織立っておらず「なんとなく会社が成り立っている」状態でした。小さな会社ならそれでもいいのかもしれないですが、一定以上の規模になると、やっぱり経営とか組織運営とか、インフラを強化していかないといけないんですよね。でも、ほぼ日はそこが「できていない」ということを社内に数ヶ月いただけでも感じ取れました。私が今までいた会社は、当たり前のようにインフラが整備されていたので、「こんな状態でも会社って回るんだ!」というのが、最初の頃の正直な感想です(笑)。

3ヶ月間で、「ほぼ日で仕事をしたい」という思いは高まったのでしょうか。

篠田 そうですね。私は全く違う分野の会社で働いていたので、「私がこの組織に貢献できるのか?」という不安が少しあったんです。でも入社前の3ヶ月で、「インフラを強化するという点で、最低限役に立てる」という確信を持てたので、自分の中で入社を決意することができました。

それと、当時の自分の状況に閉塞感を感じていたということも、ほぼ日への入社を決めた大きな要因になっていたと思います。

閉塞感?

篠田 大企業にいた頃は中間管理職をやっていたわけですが、大企業って社長にならない限りどこまでも永遠に中間管理職なんですよ。社長になりたいわけでもないので、同じ職種でいる限り、転職しても中間管理職をやっていくということに変わりはない。事業の内容が変わったとか、規模が大きくなったという変化でモチベーションを保てる方もいると思うのですが、私は「職場が変わってもやることはずっと同じだ……」と、げんなりしてしまったんです。

あとは、これまで勤めていた企業では昇格していくために「海外転勤で経験を積む必要がある」というのは普通のことだったのですが、当時子供が小さかったので、海外転勤は厳しいという面もありました。子供が小さいからといって、海外転勤を断り続けるのって、社員としてはよくないと思っていたんです。

篠田さん

そのタイミングで、ほぼ日からオファーがあったんですね。

篠田 はい。どこかで進路変更しないと、自分のモチベーションが持たないとは感じていましたが、どうしたらいいのかアイデアもないし、考える余裕もない。そんなところに、ほぼ日からお話をいただいて。「思わぬ進路変更来た!」みたいな感じでしたね(笑)。

ただ、私はずっと転職人生だったので、「この会社にずっと残ってほしい」という意味でお誘いいただいているのなら、そこはお約束できないなという懸念はあって。正直に社長にお話ししました。「それでも構わない」とお返事をいただけたので、だったらお受けしても無責任にはならないと思い、引き受けることにしました。

先ほど、「インフラを整えるという点で役に立てると確信した」と仰っていましたが、ほぼ日に転職されてからインフラが整うまではどのくらい時間がかかったのでしょうか?

篠田 だいたい3年ぐらいですかね。いろんなことをしましたよ。

例えば、売れ高の数字はわかるんだけど、それが喜ぶべき数字なのか、まずいと思うべき数字なのかというのは、過去の情報の共有と分析がないとわからないんです。でも、これまでのほぼ日はそこがまとまっていなかったから、同じ数字を見ても喜ぶ人と悲しむ人が同時に出ていたんですよね。なので、過去の数字をちゃんと整えて、比較すべきものを作るという作業もやりました。ほかにも人事制度を作ったり、商品の管理方法を見直したり……いろいろやりました。基礎が整ったことで、社員の仕事効率は格段に上がったと思います。

では、現在の日々の業務はどんなことを行っているのでしょうか。

篠田 ほぼ日は2017年3月16日に上場しまして、3月まではその準備に忙殺されていました。今はだいぶ落ち着いてきて、大きくわけると3つの仕事をしています。ざっくり言いますと、1つは、いわゆる予算とか経営計画といわれるもの。2つめは、上場したばかりなので、新しく投資家や株主になってくださった方たちとの関係作りを考えること。そして3つめが海外に向けての商品の展開活動のことです。まだまだやりたいことがたくさんある状態ですね。

仕事は相手に「いい」と思ってもらえるかどうかが大切

篠田さん

多くの会社で経験を積んだ篠田さんですが、これまでの社会人生活の中で、一番私らしく働けているなと感じたのは、いつの時期になりますか?

篠田 「私らしく」ですか……。これは私の考えになるんですが、仕事って「私らしさ」を追求する場所ではないと思っていて。

!!

篠田 仕事は趣味ではありません。あくまでも、受け取った相手が「いい」と言ってくれることによって、初めて意味を持つものだと思うんですよ。「私らしい」かどうかは、相手からしたらどうでもいいこと。私の趣味にお客様は付き合う必要もないと思います。

なので、仕事に「私らしさ」を求めるというのは、個人的には微妙なところかなと思うんです。さまざまなメディアでも、働き方の部分で「私らしさ」「自分らしさ」というキーワードを見かけるんですが……。

確かに、そういう風潮は強いかもしれないです。相手の承認があって、初めて意味を持つというのは考えさせられます……。

篠田 「幸せな仕事=自分らしさの発揮」というような思い込みが強くなりすぎてるのかもしれないですね。

では、篠田さんは仕事をしていて、どんな瞬間に喜びを感じますか?

篠田 お客様に「よかった」と言ってもらって、自分が役に立てた実感があったときは、素直に嬉しいなと思いますね。それはどの職場にいるときも同じです。でも、お客様に喜んでいただけても、「これって私にとっては別にどうでもいいことなのかも……」と冷静に感じてしまったときもありました。

具体的には?

篠田 例えば、革の名刺入れを作ることになって、私はステッチを入れる係に任命されたとします。仕事だからキレイに縫いますし、それが売れてお客様に喜んでもらえたとしたら、一瞬「よかった、嬉しい」って感じるとは思うんです。でも、「本当は縫うことにあんまり興味ないな。本当は革を染める作業をしたかったな」という思いがあったら、いくらお客様に喜んでもらっても「これじゃない感」というのが心に残ってしまうんですよね。

お客様に喜んでいただけても自分の喜びにはつながらないタイプの仕事もあれば、相手が喜んでくれたことを素直に嬉しいと思えるタイプの仕事があるように思います。自分と相手の喜びが合ったなと感じた瞬間は、どの職場でも大小いろいろありましたが、職場としてそのヒット率が高いのは、今のほぼ日だなと感じていますね。

悩むのではなく考えて、課題設定することが大事

篠田さん

ご自身が若手社員だった頃を振り返って、反省点などはありますか?

篠田 もういっぱいあります(笑)。まず、「根拠のない万能感」を持っていたこと。

「私は何でもできる」と思っていて、「帰国子女だからもっと英語ができる部署に行きたい」ということを平気で上司に言っちゃったり。仕事をする上で、理不尽なこと、不公平なことがあったときは、堂々と会社に異議を唱えたり……。当時の私が今ここにいたら、本気で叱り飛ばすと思いますね(笑)。「配慮をしろ」「仕事ってそういうことじゃないでしょ?」って言いたい。とにかく、正論ありきの生意気な若者でした。

意見が言えること自体は悪くないことだと思いますが……。確かに、周囲の人はハラハラしていたかもしれませんね。

篠田 でも、自己弁護するわけじゃないですが、その変な思い込みがあったからこそ、いろいろなことに物おじせずに挑戦できたと思うんです。当時の私がああだったから、今の私があるというのは否めないところはありますね。

若さ故ということはありますよね(笑)。読者の中にも、「今のままでいいのだろうか?」と悩んでいる人は少なくないと思いますが、そういった方に向けてアドバイスをいただけないでしょうか。

篠田 何を悩んでいるかによりますが、まず知ってもらいたいのは、「悩む」と「考える」では、性質が全く違うということ。悩むのはやめて、考える技術をつけてもらいたいですね。 問題を解決したいのなら、事実をきちんと見て、「何を考えなければならないのか」という課題を設定する必要があると思うんです。

「悩む」と「考える」は違う……?

篠田 不満という気持ちだけがあって、その正体を直視できないまま、感情だけで動いてしまうのが「悩み」。不満とは、理想と現状にマイナスのズレが生じている状態です。悩みを解決したいのなら、自分の理想はどんなものであり、それに対して現状がどうなっているかという事実確認をしなければならないんです。

そのギャップを埋めるか埋めないかというのもその人の判断次第ですし、埋めるとしたらどうするべきか、どれぐらい時間がかけられるかを「考える」のが大切なんですよね。なので、悩んでいる暇があったら考えてみましょうよ、と。悩んでいたって何も動きません。

ただ不満を抱えるだけでは状況はよくならない、ということですね。

篠田 はい。20代前半の方の仕事に関する悩みを聞いていると、自分を見ようとしすぎて、視野が狭くなっちゃっている方がけっこういるんですよね。言うならば、自分のおへそだけを見て「私ってブスですかね?」と言っているようなもの。そうではなくて、鏡に映る自分全体を見ましょうよ、と言いたいです。自分を客観的に見つめることが重要なんじゃないかな、と思います。

あとは、もし「仕事の価値がわからない」と悩んでいるのなら、「自分の仕事が続いている=自分の仕事に対して価値を感じてくれている人が必ずどこかにいる」ということを知ってほしいです。需要と供給がなければ、仕事は継続されないわけですから。なので、自分の仕事に対して価値を感じてくれているのは「誰か」ということを把握しておくと、仕事をする上で励みになるかもしれないですね。

「わからない」のは普通のこと。自分を追い込みすぎないように

篠田さん

職場の活躍している同年代の人と自分を比べて落ち込んでしまうという人も多いと思います。そういった悩みはどのように対処したらいいと思いますか?

篠田 そういう人は、自分なりの仕事への手応えがあったら、どんなに小さなことでも意識して大切にしていくといいのではないでしょうか。そこには、「自分の仕事上での力を発揮して、人に喜ばれた」という事実があるわけですから。

それに、人と比べちゃう気持ちはよくわかるんですが、その人と自分の本質的な持ち味や得意なものはそもそも違うんです。自分が得意なものを極めていって、その分野で活躍できたらいいですよね。

あとは、仕事を始めてまだ数年という人は、仕事がわからないからといって自分を追い込む必要はないと思います。最初の10年くらいは、わからなくて当たり前。わからないというのは普通のことなんだから、「悩んでいる自分は異常」という追い詰め方はしちゃダメです。それって、いきなりスペインに行って「スペイン語がわからない。周りのみんなは話せているのになんで!」と悩んでいるのと同じ状況かもしれないですよ。そんなの無理じゃないですか。「わからないのは普通のこと。理解できるようになるプロセスの途中なんだ」というふうに思ってもらいたいですね。

ほぼ日を出ていったら、またほぼ日のファンに戻るだけ

今後の働き方のビジョンはお持ちですか?

篠田 友人の中には、「何歳まで働く」と期限を決めている人もいるんですが、私はそういうのはないんですよね。長く働いていたいんだと思います。ただ、働く場所については、あまり考えていません。

今現在、ほぼ日を辞めたいとかは全く考えてないですし、やりたいこと、やるべきこともたくさんあります。でも、会社と個人って別の人格だし、それぞれが日々成長しているので、進む方向やスピードがいつまでも同じとは限らないんですよね。なので、進む方向やスピードが合っているうちは一緒にやればいいし、ズレてきたら無理に合わせずに別れた(辞める)ほうが、お互いのためだと思うんです。そこに別に悲しみとかはなくて。私が会社で役に立たなくなったときに、「どうする?」って話すほうが辛いじゃないですか。

会社に対して固執していない、ということでしょうか。

篠田 今この瞬間は、ほぼ日に対してものすごい固執していますけど、その関係が未来に続くとは思っていないんです。そういう考えになったのは、初めて就職した当時の人気企業が経営破綻*3してしまったことが大きく関係しているのかもしれないですね。

だから、ほぼ日と私の関係が変わっていくことは、今後あり得ることだと思っています。先のことは、そのときに出会った「何か」次第。もしほぼ日を出ていったら、またほぼ日のファンに戻って、Webサイトを見たり手帳を買ったりするんじゃないかな、と思います(笑)。

篠田さん

ありがとうございました!

取材・執筆/石部千晶(六識)
撮影/小高雅也

お話を伺った方:篠田真貴子(株式会社ほぼ日・CFO)

篠田さん

アメリカ留学や、大手外資系企業で働くなどの経歴を持つ。2児の母になり今後の働き方について考えはじめたタイミングで、東京糸井重里事務所(現・株式会社ほぼ日)からオファーがあり、転職を決意。2008年にCFOに就任し、会社の基礎作りに奮闘。現在は9時頃出社し、18時頃に退社。帰ってからは、料理などの家事を行う。

次回の更新は、9月6日(水)の予定です。

編集:はてな編集部

*1:株式会社ほぼ日代表取締役社長の糸井重里さん

*2:ほぼ日では、従業員のことを「乗組員」と呼んでいる

*3:篠田さんが最初に就職した日本長期信用銀行は、1998年に経営破綻し、一時国有化された

積水化学・沓掛さん「『こんな人になら、私もなれそう』と思ってもらえる先輩になりたい」

沓掛さん
『りっすん』が「企業の中で働く女性」にフォーカスするシリーズ「おしごとりっすん」。第4回は、積水化学工業株式会社のリフォーム営業統括部で活躍されている沓掛愛美(くつかけ・まなみ)さんです。大学卒業後、リフォーム全般のサービスを行う積水化学グループ会社の東京セキスイファミエス株式会社に入社した沓掛さんですが、30歳を機に、社内制度を使って同グループの積水化学工業株式会社に出向という形で異動しました。なぜその選択をしたのか、生活はどのように変化したのか、お話を伺いました。

テレビ番組に影響を受けて建築が学べる大学に進学

入社までの経緯を教えてください。

沓掛さん(以下、沓掛) 建築系の大学を卒業後、積水化学グループ会社の東京セキスイファミエス株式会社に営業職で就職しました。その後、2014年に積水化学工業株式会社の住宅カンパニーに移り、今に至ります。

建築系の大学に通っていたというのは、建築関係の仕事に就きたいという思いがあったからでしょうか?

沓掛 そうですね。私は2007年に就職しましたが、10代の頃『大改造!!劇的ビフォーアフター』という、家のリフォームをするテレビ番組がはやっていたんですよね。それを見て、「私も匠になりたい!」と思って(笑)。

大学では具体的にどんなことを学ばれていたのでしょうか。

沓掛 構造や大規模建築など、建築の中にもいろいろな分野がありますが、その中でも私は動線など、「いかに快適に住むか」を中心に学んでいました。例えば、“キッチンとランドリースペースが近いと家事が楽になる”というように、「家の中の人の動き」を考え、間取りを作るというものです。人によってライフスタイルは違うので、その人その人に合わせたプランを考えるのは大変ですが、とてもおもしろかったですね。

最初の会社では、大学で学んだことを生かせていたという実感はありましたか?

沓掛 リフォームと聞くと、間取りをがらっと変えて……というようなイメージがあると思いますが、外壁の塗り替えなどを行う「メンテナンス」や、太陽光パネルを設置といった「エネルギー提案」もリフォームになります。営業時代はそういうメニューをメインに扱っていたので、大学で学んだことがすごく生かせていたかというと、なかなか難しかった気がします。でも、大学では学ばなかったことも知れて、リフォームの新しい魅力を見つけられました。

自由に働ける期間もあとわずかだと思い、30歳で新たな仕事にチャレンジ

沓掛さん

社内の人材公募制度を利用し異動されたということですが、なぜそれを利用しようと思ったのでしょうか。

沓掛 30歳手前で、社内のキャリアプラン研修を受けたことがきっかけです。研修では、自分の年齢や、今後どんな人生のイベントが待っているかを書き出す機会があり、そのときに、「私ももう30歳。今は夫婦2人だけど、将来は子どもも欲しいし、自由に思いっきり働けるのもあと3年ぐらいかも……」と感じて。

今後どういうふうに働いていこうかな、何をしていこうかなと考えていたタイミングで、ちょうどリフォーム事業の社内公募があったんです。それで、「新しい業務や環境にチャレンジするなら今だ」というタイミングもあり、思い切って応募しました。

募集していた仕事内容にも魅力を感じた部分はあったのでしょうか?

沓掛 募集内容には、商品サービスの企画立案・研修というおおまかなことは記載されていましたが、具体的に何をするかは分かりませんでした。でも、新しいチャレンジをしてみたい、リフォームの仕事をずっとやりたいという、2つの大きな望みはクリアできるので、魅力的に感じました。

異動して、日常が変わるということに抵抗はありませんでしたか?

沓掛 そのときは、異動するといっても同じグループ会社かつ、今まで携わってきたリフォームに関する業務ということもあり「そんなに戸惑うこともないのでは」と簡単に考えていたので、大きな不安や抵抗はありませんでした。ただ、実際に異動してからは、しばらくの間は苦労しましたね。

具体的には、どんなところが大変でしたか?

沓掛 当たり前のことですが、私のことを知っている人や私が知っている人がいません。そして、同じグループでも社内のルールやシステムが違う。やることが違う……と、とにかく何もかもが違いました。

グループ会社といえども、最初は戸惑いがあったんですね。

沓掛 そうですね。仕事や環境に慣れることに時間がかかりました。以前は目の前のお客様に対して「何を提案するか」という業務が主でしたが、異動後は社内全体や不特定多数のお客様へ向けて情報を発信するようになり、仕事の範囲もすごく広がって。また、それまではエリアの決まった営業所で仕事をしていたので、出張はありませんでしたが、異動後は、全国各地に出張へ行くことも増えました。

ただ、大変ではありますが、自分の為に時間を使える時期に挑戦してよかったなと思っています。子どもができてから新しい環境に……というのは、それこそ難しいことだと思うので。今年で異動して丸3年が経ち、業務にもだいぶ慣れ、仕事を楽しめるようにりました。

情報誌作成や商品企画など、幅広い仕事で活躍中

沓掛さん

現在のお仕事の内容を教えてください。

沓掛 仕事内容の幅が本当に広いので、一言で説明するのは難しいのですが……リフォーム事業に関するバックアップ業務全般を行っています。大きく分けると、お客様向けの仕事と、社内向けの仕事があります。

お客様向けの仕事では、弊社が手掛ける住宅(セキスイハイム)にお住まいの方に、年4回お届けする『ハーモネート』という情報誌の企画・編集を行っています。他に、Webサイトやカタログの企画・制作なども行います。社内向けの仕事は、イントラネットの企画・整備・運営や、リフォーム対応の商品企画などをします。時期にもよりますが、どちらかというとお客様向けの仕事のほうが比率は高いですね。

沓掛さん

お客様向け情報誌『ハーモネート』、リフォームのカタログ

多岐にわたってご活躍されているんですね。現在のチームはどのような構成なのでしょうか。

沓掛 現在は、リフォーム営業統括部という部署に所属しています。メンバーは13人で、そのうち女性は2名です。年齢的には私が最年少になります。仕事の進め方は、グループメンバーだけで進める、というよりもさまざまなメンバーと連携して仕事をすることが多いです。例えば、会員向けの情報誌を作るときは、部内メンバー+制作会社の方、商品企画では、商品開発部+私たちのメンバー数名というように、仕事の内容によってチームが変わります。

失敗したら、まず事実を認めることが大事。そこから解決策を考える

仕事をしているとつらいこともあるかと思いますが、それを乗り越えるコツや方法はありますか?

沓掛 私は心の切り替えがあまり上手じゃなく、「会社に行きたくない」と思うと、なかなかモチベ―ジョンを取り戻せないんですよね。行きたくない日が始まると、1週間ぐらい沈んだ気持ちが続いてしまうこともあります。

そういうときは、例えば新しい靴を買って「明日はあの靴を履いていこう」と思ったり、前日、会社におやつを置いて帰って「早くあのスイーツを食べたい」と自分を騙しています。会社に行くのが楽しみになる別の目的を作ることで、なんとか足を向かわせている感じですね(笑)。

出社後は、上司や先輩に話を聞いてもらったり、退勤後同期と飲みに行ったりして、気持ちをリフレッシュさせるようにしています。最終的に、何をしたらスパッと気持ちを切り替えられるかはまだ把握できていないので、模索中です。

他にも試した方法はあるのでしょうか?

沓掛 丸一日寝る日を作ることもあります。思いっきり寝たら、「まぁいっか」とすっきりすることもありました。それと、偉人の名言や、仕事で成功されている人が書かれた本や記事を読むと、前向きになれたり、悩みを解決するヒントが隠されていることもあるんですよね。

最近だと、働く女性にスポットを当てた記事で書かれていた、「ワークライフバランス」の話が心に残っています。私は、「バランス」と言うからには、どちらも均等に頑張らなければいけないのではと思っていました。でも、その記事には「人生の中で、今はワークに重きを置いてる時期、今はライフに重きを置いてる時期だとマネジメントすることが、ワークライフバランスです」と書かれていて。

ついつい今だけを見て「こんなにワークに片寄っている。洗濯物もたまるし、夕食が用意できず主人任せになったり……私はダメだー」となっていましたが、「今は仕事を頑張っている時期だから、これでもいいんだ」と、気持ちが楽になりました。

沓掛さん

仕事で落ち込んでしまった、というエピソードがあれば教えてください。

沓掛 すぐ忘れちゃうタイプで……直近で大きな落ち込みはないですね(笑)。でもやっぱり、大なり小なり、仕事で失敗してしまったときは落ち込みます。

失敗したときは、どのように気持ちの整理をつけているのでしょうか。

沓掛 失敗してしまったときは、その事実を認めるようにしています。「なんか上手くいかないなー」と、ぼんやり思っているのではなく、「ここが失敗した!」と上手くいかなかったポイントを確認する。

例えば、ページ作成を依頼し、でき上がったものが意図と違う内容で戻ってきたとします。納期まで時間がない場合、失敗した原因は「依頼の仕方が悪く意図を伝えきれなかったこと」と「スケジュールに余裕がなかったこと」。悔しいですが、そのことをきちんと受け入れます。すると、「できる範囲で納期変更の交渉や修正を行おう」と今やるべきことが明確になったり、次回は、「依頼時のやり方を改め、確認スケジュールも長めに設定するぞ」と考えられるようになり、落ち込む暇がなくなります。

お客様からの反応は励みに。自分の成長を感じるのも、活力のひとつ

仕事のやりがいは、どんなときに感じますか?

沓掛 お客様の反応、社内の環境、自分自身の成長などで感じます。

お客様向けの情報誌に、編集部宛てのアンケートハガキが付いており、そのお便りが毎号5,000通ぐらい届きます。企画した記事に対して「おもしろかった」「参考にしたい」というような声をもらうと、純粋にうれしいし、励みになります。

社内では、「こうしたらどうか」と自分が感じたことを素直に上司やメンバーに話せ、実行に移せる環境にやりがいを感じます。話を受け入れ、前向きに意見をくれる周囲の方々に感謝しています。

自分の成長では、最初は慣れなかった仕事が、1回目より2回目、2回目より3回目というように、回を重ねるごとに上手くできるようになっていると、やっぱりうれしいですね。自己満足と言われてしまうかもしれないですけど(笑)。おごるのはよくないですが、自分の頑張りを認めてあげる瞬間も大切なんじゃないかなと思います。

自分の中で「やりがい」を感じる切り口をいくつか持っておくと、常に何かしらの「うれしいこと」があるので、モチベーションを保つのに役立っています。

沓掛さん

仕事をしていく上で、目標としている人やロールモデルはいらっしゃいますか?

沓掛 ずばり「この人」という方はいませんが、その都度、自分の気持ちに合った人を目標にしています。最近ですと、企画内容を上手くまとめられない案件があったとき、別の企画で上手に内容をまとめ、進めている女性の先輩を見つけました。「なるほど、こうやってやればいいんだ」と参考にしたり。そんなふうに、いろんな人のいいところをつまんでいる感じです。

あと、最近影響を受けたのが、ある男性タレントさんの記事。そこには、「10代はアイドルとして生きていて、20代は役者になると目標を決めて、それに必要な格闘技を習い始め、師範資格を身につけた」ということが書かれていました。10年単位で物事を考え、極められるってすごいなと思いましたし、私も長い視野で今後のキャリアを考えてみようと思いましたね。

後輩から「この人にできるなら私にもできる」と思ってもらえる存在でありたい

今後のキャリアについて、どのようにお考えですか。

沓掛 先ほど話した男性タレントさんの話でいうと、私の20代は、リフォームの営業や設計の技術を磨く時間でした。30代は、企画編集など違う分野での仕事がスタートしたので、そのスキルを高めていきたいと思っています。同時に、40代・50代へ向けて、私はどういう仕事が得意なのか、好きなのか、ということも見つけていきたいですね。

ワークライフバランスについては、今後どうしていきたいですか?

沓掛 子どもを産みたいなと思っています。そして、その後も、リフォームに関わる仕事を続けたいです。

現在の部署では最年少ということですが、後輩ができたとき伝えていきたいと思っていることがあれば、教えてください。

沓掛 私の周りの女性は、すごい方が多いんです。バリバリ仕事ができてかっこいい、憧れの的になるような女性ばかりで。

でも私はバリバリタイプではないので、後輩から「この人にできるなら私にもできる」と思われる存在でいたいです。私を見て「こんな人になら、私もなれそう」って思ってもらえたら成功です。

雲の上の存在ばかりだと、「私はあんなふうにはなれない」って最初から諦めてしまう人も中にはいると思うんです(自分がそうなので)。なので、身近な存在といいますか……そんなふうに見られる先輩がいてもいいんじゃないかなって。こんな私でもやりがいを持って働けているんだよっていうのを後輩には伝えていきたいと思っています。

ありがとうございました!

取材・執筆/石部千晶(六識)
撮影/小高雅也

お話を伺った方:沓掛愛美(積水化学工業株式会社 リフォーム営業統括部 企画部)

沓掛さん

積水化学工業に移って3年、Webサイトや情報誌の編集・企画を中心に幅広い分野の仕事を担当。女性ならではの細やかな視線で、新企画や冊子の構成などを提案する。いろいろなことに興味を持つので、趣味はそのときどきで変わる。最近では、取材先で影響を受け、断捨離に目覚める。

次回の更新は、8月23日(水)の予定です。