ジェーン・スー「完璧な自分になったところで、自分が欲する状況になるわけではない」

JaneSu
今回「りっすん」に登場いただいたのは、コラムニスト、ラジオパーソナリティ、音楽プロデューサー、作詞家など、マルチに活躍されているジェーン・スーさん。独自の視点と表現力が人気ですが、普段はどんなことを考えながら仕事と向き合っているのか。また、どのような出来事が現在の彼女を形作っているのか。詳しい話を伺いました。

社会人経験を経て、36歳でコラムニストデビュー

現在のお仕事をされる前は、会社員として働いていたとお聞きしています。あらためて、これまでのキャリアを簡単に教えていただけないでしょうか。

ジェーン・スーさん(以下、ジェーン・スー) まず、大学を卒業し、新卒でレコード会社に就職しました。元々音楽が好きだったので、音楽業界で働ければいいなと思っていて。そこで28歳まで働いてから、同業他社に転職しました。そして、31歳でメガネ屋に転職をして、35歳になったところで会社員生活に終止符を打ちました。それからは家業を手伝ったりしていましたね。

コラム執筆をきっかけに、「ジェーン・スー」としての活動がスタートしたと伺いましたが、それはどの時期にあたるのでしょうか?

ジェーン・スー 会社を辞めてからですね。家業の手伝いをしているときに、友達に誘われたmixiで日記を書いていたんです。当時は、執筆の仕事をしたいというような思いはなくて、ただ趣味の一部としてやっていたのですが、たまたまその日記を見てくれた女性編集者さんに、コラムの仕事をしないかと声をかけていただいて。それが、35歳か36歳のとき。連載は1年で終わっちゃったんですけど、それが大本のスタートです。

コラムの連載が終わってからはどんなことをされていたのでしょうか。

ジェーン・スー そのあとしばらく、書く仕事はしていませんでしたが、友人がやっていたラジオ番組に出ることになりました。その番組は、“著名ではない音楽業界の人に話を聞く”というコーナーがあって。ちょうどこの頃、知人の音楽制作会社の業務を手伝っていた流れで、アイドルのプロデュースをする仕事にも携わっていたんです。そこで私がぴったりだということで、ゲスト出演させていただいたんですよね。

そうしたら、本当にラッキーなんですが、ちょうど新しいラジオ番組を立ち上げるところだった別のプロデューサーから「メインパーソナリティと一緒にトークを盛り上げる“パートナー”をやってみないか」というお話をいただいて、週に1回ラジオに出るようになったんです。そうこうしていたら、テレビのお話が来て。当時は、お声をかけていただいた仕事はとにかくやってみるようにしていたので、ラジオもテレビも挑戦してみました。

メディアへの露出が増えるようになってからは、ネット検索する人が出てきたときの誘導先として、ブログを開設しました。そうしたら、それに目をつけてくれた編集者の方が、「本を出しませんか?」という話をしてくださって。実は、この時期には書く仕事をまたやってみたいなという気持ちが芽生えてきていたんですよ。ブログは、私が書く文章のサンプルを見せるという意味合いもあったので、執筆のお話をいただいたときは嬉しかったですね。

書く仕事としては、楽曲の作詞もされているということですが、今まで作詞を手がけた楽曲の中で特に思い入れが深いものはありますか?

ジェーン・スー 「Tomato n’Pine」というアイドルグループは、作詞だけでなくビジュアルやコンセプトメイキングなどもやっていたので、やっぱりグループ自体に思い入れがありましたね。初めて作詞をしたのも彼女たちの歌でしたし。なので彼女たちのオリジナルアルバム『PS4U』は特に思い入れがあります。1曲を選ぶのは難しいです(笑)。

PS4U

Tomato n'Pineのオリジナルアルバム『PS4U』

作詞をするというのは難しくなかったですか?

ジェーン・スー 初めて作詞の依頼をされたときは、「やったこともないし、やりたいと思ったこともなかったので、できない」と正直に答えたんですよ。でも、依頼をくれた方が「大丈夫、できるよ」と言ってくださって。私はその人のことを信頼していたので、彼が言うのならできるのかなという気になっていったんです(笑)。手取り足取りいろいろ教えてもらいながらですが、形にしていくことができました。

それに、実際やってみたら楽しかった。それ以降も、Negiccoさん、PASSPO☆さん、でんぱ組.incさん、寺嶋由芙さんなど、アイドルの作詞はいろいろやらせていただいています。

“誰と仕事をやるか”に重点を置いてストレスを軽減。たまった疲れはマッサージでリフレッシュ

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会社員時代と現在とでは、精神的にどちらのほうが辛いと感じることが多いですか?

ジェーン・スー 今のほうが気持ち的にはしんどくはないですね。もちろん大変なんですが、しんどさの種類が違うといいますか。会社員のときは、みんなで進めていかなければいけない部分があるので、思い通りにならないことや、理不尽なこともありましたし。なので、嫌だなと思うようなことは会社員時代のほうが多かったですね。……でもそれって、年齢の関係もあると思うので、一概には言えないのかも。年齢を重ねると、受け入れられる幅が広くなる。

たしかに20代、30代、40代では、それぞれ感じ方も違うような気がします。今はどんな仕事も楽しめているのでしょうか?

ジェーン・スー もちろん、どんな仕事もストレスは0ではないので、全くストレスがないというわけではないですよ。今の仕事だと、自分でクオリティを保っていかなければならないとか、多めに仕事を受けたときでも、誰かに助けてもらうこともできない、風邪なんてひいていられないというような緊張感は常にありますし。

では、ストレスをためないように工夫されていることは?

ジェーン・スー 私が感じる仕事のストレスって、ハードさじゃなくて、人間関係がほとんどなんです。なので、仕事を受けるときは“何をやるか”じゃなくて“誰とやるか”ということを意識するようにしています。

というのも、会社員時代に「仕事がうまくいくかは“誰とやるか”で決まるようなものだから、仕事のメンバーも運任せではなく自分でコントロールできるようにしろ」と先輩から教わったんです。実際、メンバーが信頼できる人ばかりだと、風通しのよさが全然違うんですよね。

なので、おもしろそうな内容の仕事だとしても、「私とは合わなそうだな」、「ちょっと信用できないかも」という人との仕事はやらない。そうやってメンバーに重点を置くことで、ストレスはだいぶ減らせていると思いますね。

それでもストレスがたまってしまったときは、どのようにリフレッシュされているのでしょうか。

ジェーン・スー マッサージが好きなので、疲れたらマッサージに行くようにしています。『今夜もカネで解決だ』という、マッサージについて語った本を出してしまうぐらい、とにかくマッサージが好きなんですよ(笑)。体の面はもちろんですが、心の面でも癒されますしね。体と心の疲れをためないというのは、いい仕事をするのに必要なことだと思っています。

今夜もカネで解決だ

AERAの連載を書籍化した『今夜もカネで解決だ』(朝日新聞出版)

感じたことを素直に発信。共感してもらうのは嬉しいけど、女性の代弁者になるつもりはない

女性の共感が集まるエッセイを多数刊行されていますが、ご自身の中で、「共感されること」について意識されている部分はありますか?

ジェーン・スー 捉え方は人それぞれですし、あまり考えていないですね。人によっては「何言っているのか全くわからない」と思う人もいるでしょうし。なので、「読者に共感してもらおう」と意識するのではなく、私が普段感じていることをできるだけ正直に書くようにしています。

「女性の代弁者」と評されていることについては、どのようなことを感じていらっしゃいますか?

ジェーン・スー 「この世代の代表」というつもりはまるでないですし、あまりそういうのを背負いたくないなとも思っています。共感してもらえるのは嬉しいんですが、そこから祭り上げられていくのは望んでいないというか。

私は、読者と会話しているつもりで書いているので、「私が言ったことが正解」みたいになってしまうのは違うと思うんですよね。読んでいる人が思考停止になってしまうのは本望ではなく、「私はどうだろう?」と考えてもらえたら嬉しいです。

なので、私の考えが正しいのではなく、「こういう考えの人もいるんだな」ぐらいで受け止めてもらえたら。

世間が抱いている「ジェーン・スー」というイメージと、本当の自分とのギャップというのは感じたりしますか?

ジェーン・スー キャラ作りで無理をしていないので、あんまり感じないですね。ラジオに出始めたときも、友人から「普段から話しているようなことをラジオで話してるだけだけど大丈夫なの?」って心配されるぐらいで(笑)。書籍を読んだ友人からも同じようなことを言われるので、ほぼ、「ジェーン・スー=私」なんでしょうね。でも、本名じゃないので、どこか他人事に見ている部分もあるんですよ。

別人格とまではいかないですけど、ジェーン・スーは“拡声器”みたいな感じで。ペンネームで出して大正解でした。きっと本名だったら、もっと自分をよく見せようとしていたと思います。

結婚寸前で破談になった過去も。恋愛の失敗があったからこそ、今の自分がある

JaneSu

「この出来事がなかったら今がなかったかも」というような印象的なエピソードがあれば教えてください。

ジェーン・スー 実は、35歳のときに結婚しようと思っていた人がいたんです。結婚式場の仮予約までしたんですが、結局うまくいかなくなってギリギリでひっくり返ってしまい……「結婚、やめようか」ということになったんです。お互いの価値観が合わなかったという根本的な部分もあるんですが、結婚に焦っていたとか私側にいろいろ問題があったので。相手は巻き込まれ事故ですよ、申しわけないです。

式場の予約をするなど、お話はかなり進んでいたんですね。結婚に至らなかった原因に、思い当たる節はあったのでしょうか……?

ジェーン・スー 当時、私の中で“人生の一発逆転”みたいなのを狙っていたんだと思います。「ちゃんと結婚する」という、“普通の人が普通にすること”を、「私にもできるんだ!」というのを証明したくて、いろいろ無理をしていたんではないかと。

当時の写真を見ると、別人みたいなんですよ! 表情も服装も髪型も、“女性とはこうあるべき”という姿に思いっきり寄せていて。あのまま無理をし続けなくてよかったと思いますし、相手も、こんなの妻にもらわなくてよかったと思っているでしょうね(笑)。

破局後、気持ちが落ち込んでしまった時期もあったかと思います。

ジェーン・スー もちろん悲しみはありましたが、それ以上に「やっぱり私、ダメだったか!」という諦めのような感情が大きかったです。「やっぱり、みんなと同じことができなかったな!!!!」と、自分にがっかりしました。

後悔はなかったのでしょうか。

ジェーン・スー そうですね。ないわけじゃないですけど、あのときに結婚していたら、アラサー時代の葛藤を書いた『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』も出せなかったですし。書いたとしても、結婚した女からの提言みたいな感じで嫌じゃないですか(笑)。

それに、今はラジオで忙しくしていますが、もし家族がいたらラジオをやることも躊躇していたと思うんですよ。テレビに出るようになったのも、ブログを書くようになったのも破談後の話なんですが、きっと結婚していたらいろんなことにストッパーがかかっていたと思いますね。

今は毎日が踏ん張りどき。のんびりする時間を犠牲にしても仕事に集中

最近、夢中になっていることはありますか?

ジェーン・スー 仕事ですかね。きっと、仕事をちゃんとしている自分が好きなんです。でも、仕事を優先している分、いろんなことを犠牲にしているとも感じています。例えば、のんびりする時間。SNSを見ていると、同世代の子たちは、子どももだいぶ大きくなったので、じっくり「大人のぬり絵」とかをしていたりするんですよ! 私にはそんな時間まるでない。教養だったり趣味だったり、自分の内側を仕事以外のもので濃密にしていくような時間、作業はかなり犠牲にしていると思いますね。

現在は、趣味に没頭したり、自分と向き合う時間は意識的に作っている……ということでしょうか。

ジェーン・スー 正直、今はそういう時間もとれていないですね。締め切りもたくさんありますし。働きどきというか、今が踏ん張りどきだと毎日思っているので。とにかく仕事をしています。

もしゆっくりできる時間がもらえるとしたら、どんなふうに使いたいですか?

ジェーン・スー 住環境を変えたいので、まず海外に住みます。そこで、本を読んだりしたいですね。締め切りのない、のんびりした時間を過ごしたいです。あまりにもヒマだから運動でも始めるかという気持ちになってしまうような(笑)。そうすれば、自分と向き合う時間も必然的にできそうですよね。

完璧な自分になることで、理想の人間関係を築けるとは限らない。コンプレックスが強みになることも

JaneSu

さまざまな出来事が、ジェーン・スーさんを作り上げていったと思いますが、まさしく「今の自分」を構成しているものはなんだと思いますか?

ジェーン・スー 仕事が好きという気持ちとコンプレックスがうまく反応して、今の状況が作り出されたとは思いますね。さっき話した「普通の人が普通にできることが普通にできない」というコンプレックスが、今の私を作ってくれているのかもしれないです。

ジェーン・スーさんは、コンプレックスを受け入れられているんですね。「コンプレックスが、今の私を作っている」というのは、なかなか自分では言えないと思います。受け入れるようになったのはどうしてだと思いますか?

ジェーン・スー 限界まで、「みんなと同じことをやる」を試してみたからじゃないですかね。徹底的にやって、それでもダメだとわかったので(笑)。

コンプレックスを克服しようという作業も、30代半ばぐらいまでは必死になってやるのも悪くないと思うんですよ。納得するまでやらないと、結局は諦めもつかないでしょうし。
やるだけやって克服できたらラッキーだし、ここまでやってもダメってわかれば、受け入れるしかないですからね。

あとは、コンプレックスがあるからこそ、人との差別化が図れたり、それが自分の強みになったりと、プラスに働くことを実感できたのも大きかったと思いますね。

ジェーン・スーさん流の、自分のコンプレックスや劣等感を受け入れていくコツはあるんですか?

ジェーン・スー コンプレックスを他者に受け入れてもらえると、自分でも肯定できるようになると思います。全方位の人にコンプレックスをさらけ出す必要はないので、心を許せる人に「私、こんなところがコンプレックスなんだ」と話してみたらいいんじゃないですかね。そうしたら、だいたいの人が受け入れてくれるか、そんなことないよと否定してくれると思うので、その繰り返しです。

あと、悩んでいるときって、だいたいヒマなんですよ。だから、自分を忙しくするっていうのは大事だと思います。頭で考えてばかりいるなら、体を動かしてみるとかして、その悩みから一度自分を離してあげるというのが大切かな、と。

だって悩みって、その人の頭の中にあるだけで、本質的には実在しないんですよ。悩むことが全て無意味だとは思いませんが、時間を取られすぎるのはもったいないですよね。その悩みは、自分が作り上げた単なる自意識のせいだったってことも大いにありますし。それなら、その分体を動かしたり、仕事や趣味に没頭したりするほうがよっぽど有意義だと思います。

最後に、理想の自分と、現実の自分とのギャップに悩んでいる人にアドバイスをお願いします。

ジェーン・スー 誰だって完璧な自分でいたいと思う気持ちはありますよね。その根底には、人から好かれたい、愛されたいという思いもあって、それぞれなりたい自分を目指しているはずなんです。

でも、「ここを突っ込まれるかも」と思うことに最初から回答を用意しているような、いろいろなことに予防線を張っている人って、あんまり好かれないと思うんですよ。仕事ができて見た目もステキな人でも、スキがあまりにもないと、こっちが息苦しくなってきてしまうし、これ以上踏み込んでいこうという気持ちになれなかったりする。

つまり、自分のなりたい“完璧な自分”になったところで、自分が欲している状況になれるとは限らない。無理しているのに、自分の思うような状況になれないなんて悲しいじゃないですか。誰からも愛される自分でいたいのだったら、素直で正直でいることが一番なんだろうと思いますよ。それが一番難しいんですけどね。

JaneSu

ありがとうございました!

取材・執筆/石部千晶(六識)
撮影/赤司聡

お話を伺った人:ジェーン・スー

ジェーン・スー

コラムニスト、ラジオパーソナリティ、音楽プロデューサー、作詞家など、幅広く活躍。『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ社)などのエッセイで、多くの女性から共感を呼ぶ。休日はだらだらと寝て過ごすことが多い。

次回の更新は、8月2日(水)の予定です。

異業種から出版へ! 主婦の友社の営業として「購入メリットが訴えられる仕掛けを考える」

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『りっすん』が「企業の中で働く女性」にフォーカスするシリーズ「おしごとりっすん」の第3回は、株式会社主婦の友社で営業を担当している北村智佳さん。新卒から約5年間勤めた空調製品の法人営業の仕事から、出版業界に飛び込んだ北村さん。なぜ転職に踏み切ったのか、日々の仕事ではどのようなことを考えているのか、お話を伺いました。

全国の書店や書店チェーン店向けに、主婦の友社の書籍を紹介

北村さんは現在主婦の友社で営業として活躍されているということですが、具体的にどのような業務をされているのか、教えていただけますか?

北村さん(以下、北村) 私は現在、販売部販売促進課に所属していて、主に全国の書店をお客様として営業を行っています。みなさんがよく知っているような全国展開をしているナショナルチェーンや、各地方の有力な書店をチームの6人で割り振りして担当している形です。

「主婦の友社」ということで、働いている方も女性が多いのかな、という印象がありますが、チームの男女比はどのような形なんでしょうか?

北村 現在の販売促進課は男女3人ずつです。編集部には女性が多いので、トータルで見ると女性の方が多いですね。販売促進課も今はたまたま半々ですが、少し前は女性が多かったです。昔は男性が多かった時代が長かったと聞いています。

全国にはかなりの数の書店があると思いますが、6人で全国を網羅するとなると、ひとり何店舗ぐらい担当するんですか?

北村 チェーンの本部も担当していますから、全ての店舗に直接足を運んでいるということではないのですが、個店数でいうと100~200店ずつぐらいでしょうか。

全国の各エリアに在住している「ブックメイト」と呼ばれる営業のお手伝いをしてくださる方が30名ほどいまして、私たち6名とブックメイトとで連携しながら、全国の書店の情報を得て営業をしています。

北村さんはどのエリアを担当されているんですか?

北村 私は、北海道と東北6県、千葉県と東京都の一部の書店を担当しています。それ以外に、全国的にチェーン展開している書店の本部も数ヶ所担当しています。

普段の業務では、担当エリアの書店に出向くことが多いんですか?

北村 そうですね。日々の営業としては、都内や都心近郊の主要な店舗と本部に訪問をして、商談をさせていただいています。

通常は朝9時30分始業で、午前中は新刊の情報をまとめたり、販売促進のための資料を作ったりと、社内の仕事がメインです。お昼過ぎの時間を狙って、午後は書店訪問に行きます。ですから、会社にいる時間よりも、外に出ている時間の方が多いですね。

地域の特色を把握して、地域に合った本を提案して、売り上げをアップ

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地方エリアも担当されているとのことですが、実際に地方の書店に足を運ぶこともあるんですか?

北村 月に1~2回は出張で地方に行き、同じように書店の担当者と商談をしています。地域にもよりますが、最低でも2泊3日で、1日あたり6~8店を回る感じですね。

1日にそんなに書店を回るんですか!? かなりハードな気がしますが……。

北村 慣れると案外大丈夫ですよ(笑)。

都心と地方では売れ行きも違ってくると思うのですが、地域に合わせて営業をするスタンスも変えているのでしょうか?

北村 都心と地方では、本のトレンドが違ったり、そのペースも違ったりということはあるんですが、営業をする際はあまり先入観を持たないようにしています。売れない理由を最初から作りたくないんです。そのため、その土地ではどんなものが流行っているのかを担当の方に積極的に聞いて、ゼロベースで情報交換をするようにしていますね。

その中で、都心と地方での違いを感じることはありましたか?

北村 驚いたのは、地方紙や、ローカルのテレビ番組は、東京の人には想像がつかないほどの力を持っていること。実際に、そのエリアだけで爆発的に売れる商品が存在するんです。

特に北海道は面積は広いけれど、みなさん北海道ならではの新聞を読んで、北海道ならではのテレビ番組を見ているんですよね。東京では話題になっていない本でも、地方の番組や新聞に取り上げられることで、一千冊近くの受注ができたこともありました。こういうことがあるので、どんなものが流行っていて、どういった媒体に影響力があるかというのは、常にどの地域でも聞くようにしています。

私は神奈川県出身なので、このように地方特有の強い力があるというのは、この仕事に就くまでは知らなかったですね。

地域のカラーをつかむことも販売促進につながっていくんですね。ちなみに、主婦の友社さんの出版物はかなりの種類があると思いますが、営業の方が担当する書籍や雑誌はそれぞれ違うんですか?

北村 出版社にもよると思いますが、主婦の友社では、出している刊行物は全て担当することになっています。

全部ですか!? 毎月かなりの点数の新刊も出ていますし、覚えるのはすごく大変そうです……。情報を自分の中に落としこむコツはあるんでしょうか。

北村 書籍やムックの入れ替わりや新刊の情報は、毎週行われる課のミーティングで共有するようにしています。けれども、ここで共有した書籍全てをご案内したり、ご注文いただくというのは非常に難しいことです。ですから、社内で決まった注力すべき書籍の中から、さらに自分が担当している地域や書店の顧客特性に合わせたものを頭の中で整理して、本当に薦めるべき書籍を選択し、その情報をメインに覚えていきます。地方の特性をつかむことは、こういう部分でも役に立っていますね。

憧れ続けていた出版業界に29歳で転職

大学時代はどんなことを学んでいたんですか?

北村 実はもともと本が好きで、文学部の文芸専修というところに所属していました。課題の本が設定されて、それをいろんな方向から読み解くという、文学講読のような授業が多かったですね。一冊の本でも、さまざまな角度から魅力を紹介できるようになったので、ここで学んだことは現職でも大いに役に立っていると思います。

現在主婦の友社で活躍している北村さんですが、もともと違う業界の仕事をされていたんですよね。

北村 そうなんです。新卒では、空調製品を扱う会社に入社して、法人営業を担当していました。学生のころから、ざっくりと「衣食住」に関わる、生活に密着した仕事がしたいなと思っていたんです。それで、縁あってその会社に就職しました。

新卒で就職されたときは、本に関わる仕事をしたいという気持ちはなかったのでしょうか。

北村 ありましたが、そういう企業の新卒採用となると、非常に狭き門でして……。なのでいったん気持ちを切り替えて、就職しました。

どうして転職をしようと考えられたんですか?

北村 前職に不満があったわけではないのですが、社会に出て5年が経ち、「私は社会人としてどのような生き方ができるだろう」と真剣に考えるようになって。憧れの仕事のひとつである出版業界を、新卒のときは簡単に諦めてしまったことがなんとなく心に残っていたんですよね。そのときたまたま主婦の友社の「未経験OK」の求人を見て、出版業界に挑戦するならこれが最後のチャンスかもしれないと思い、勇気を持って受けてみました。

出版業界への憧れを持ち続けていらしたんですね。

北村 そうですね。

異業種への転職は勇気が必要だったと思うのですが、転職を決めるポイントはあったのでしょうか?

北村 マスコミの仕事というのは敷居が高いなというイメージもありましたし、「自分に務まるのかな?」という不安はありました。でも、前職の営業の経験や成績を主婦の友社の採用試験で評価してもらえたので、期待に応えたいなと。あと、たまたまなんですが、採用担当の方と出身地が同じだったり、これもなにかの縁かなと思うところもありました。

そしてなにより、主婦の友社の特徴は、女性に関わる書籍をメインに扱っているということ。私は本以外に、洋服や料理も好きなので、そういった部分でも自分の趣味嗜好を役立てられるんじゃないかなと思ったんです。

「安定」が北村さんの強み。長所を伸ばして、取引先からの信頼を勝ち取る

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日ごろ働く上で、常に気を付けていることがあれば教えてください。

北村 テレアポのアルバイトをしていた大学生のころ、社員の方に「一定のペースで電話をかけることができて、安定してアポイントが取れているね」と言われたことがあったんです。そのときに、「安定」が私の強みなんだと気付くことができて。それがきっかけで、今でも「安定した仕事」を常に心がけています。

というのも、営業特有の悩みに「数字」と「モチベーションを保つ」という2つの問題があると思うのですが、この「安定」こそが、悩みを解決してくれるすべになると思うんです。

この数字やモチベーションを保っていくには、単純な話、分母を大きくしていくしかないと思っています。もともとセンスがあってホームランを打てる人はいいんですが、私のような普通の人間がそれをキープするためには、打席に立つ回数をひたすら増やすしかないんですね。

ですから、取引先への訪問頻度や接触する回数は、絶対に落としたくないと思っています。他の人が2回行くのなら、私は3回行く。顔を覚えてもらって、主婦の友社の商品をご案内できる回数を増やすようにしています。

また、担当エリアや訪問する法人は決まっていますが、大手の書店をメインに営業しているので、訪問しきれていない書店というのは実はたくさんあるんです。だから、他社の営業担当者がその県の上位3店舗を回っているとしたら、私は上位10店舗を回る。そうやって分母を増やしています。

実際に足を運ぶ回数を増やすと、手応えを感じた、売り上げが変わったと実感するものなのでしょうか。

北村 以前、これまで前任者が訪問できていなかったロードサイドのお店に伺ったときに、お客様の目に留まりやすいよう、ページの端にインデックス(見出し)をつけて本を開かずに内容がひと目でわかるような見本誌を置いて、書籍の展開をしてもらったことがありました。そうしたら、平積みした分がその店で完売したんです! 書店の担当者が本部の方に報告してくださって、他の店舗でもやってみようということになり、まとまった部数を発注していただいたことがありました。

見本誌を置くという提案が功を奏したのですが、今まで伺えなかったお店でもこのようなチャンスがあるんだと実感しましたね。

担当書店の売り上げ貢献がなによりの喜び! 仕事で落ち込んだときは、仕事でリカバリー

仕事のやりがいはどんなときに感じますか?

北村 仕事を通じて書店の方と仲良くなったりと、やっていてよかったと感じることはたくさんあります。なによりのやりがいというと、自分のちょっとした提案が担当する書店の売り上げに貢献できたときでしょうか。巷でいわれているように出版不況ではありますが、その中で主婦の友社の書籍が少しでも売り上げアップにつながると、非常に嬉しく思います。

取引先の喜びが、自分のやりがいにつながっているんですね。特に印象的なエピソードはありますか?

北村 ある書店では、約2年という長いスパンをかけて1冊の本を大きく展開していただいたことがありました。

「この書店にはこの書籍が合う」と思って提案しても、毎月たくさんの出版社からたくさんの新刊が出ているので、すぐには展開いただけないということも多いんです。

その書店には、自己啓発系の本をおすすめしていましたが、「うちではいいです」というやりとりが2〜3回ありまして。一度保留にし、春先に「フレッシャーズ向けにどうですか」と改めてお話しいたしました。それでようやく、“棚差し”(背表紙を見せるようにして棚に並べること)で1冊置いていただいていたのを、“面陳”という本棚に表紙を正面に見せる置き方に変えてくださったんです。

ようやく表紙が見えるようになって嬉しかったのですが、次は年末のタイミングで「プレゼントとしてどうですか」とさらに提案をしたところ、みなさんの目に届きやすい場所に平積みにする“平台”で置いていただけるようになりました。

そうして次の年には、「今度はワゴンでやりたい」とおっしゃっていただいて! このように、本棚に1冊置いてあった書籍が、最終的にワゴンで100冊展開をしていただけたという大きな実績が出たのは嬉しかったですね。

コツコツと営業を続けた成果ですね! このようにワゴンで展開されることはよくあることなのですか?

北村 通常、ワゴンで紹介されるものは、ほとんどが読み物系の新刊です。主婦の友社の本は、料理や育児、園芸などの実用書が多いので、自らチャンスを作っていかないとなかなかワゴンで展開していただけることはないんです。

そのため、ワゴンで展開するイメージを持ってもらいやすいようにシーンを限定して提案をしてみたり、インデックスをつけた見本誌を置いてもらったりなど、お客様に手に取ってもらえるような工夫をすることが大事なんです。いかに目に付きやすいところに置いてもらえるかにかかってるんですよね。

腕の見せどころですね。他にも、北村さんが工夫して、実践したことがあれば教えていただきたいです。

北村 バレンタインデー向けにお菓子の本の採用を検討しているチェーンがあったとき、著者の料理研究家にチェーン限定の新レシピを考案していただき、そのレシピカードを付けることを提案しました。やはりちょっとしたことでも特典があるとお客様も嬉しいようで、反響がありましたね。その書店で購入するメリットを訴えられるような仕掛けは、いつも考えるようにしています。

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仕事で気持ちが沈むときもあると思いますが、そんなときはどのように気持ちを切り替えているんですか?

北村 先ほど、お客様(書店)との接点を減らさないようにしているとお話しましたが、落ち込んでいるときこそ、それをキープしたいと思っています。

仕事とは全く関係ないことをして気分をまぎらわす人もいますが、私は、仕事で落ち込んだときは仕事でリカバリーしたいんです。仕事で良いニュースがあったり、お世話になっている担当者から声をかけてもらえると、やる気が湧いてきて前向きな気持ちにいつの間にかシフトできているんですよね。

お客様からパワーをもらうことも多いんですね。

そうですね。それともうひとつ、最後は“やっぱり本が好き”という気持ちが救ってくれているように感じます。扱っているもの自体が好きだからこそ、多少つらいことがあっても乗り越えられるんだと思います。

最後に、今後のキャリアについてどのように考えているか教えてください。

北村 書店を担当する販売促進課で入社して4年目になりますので、機会があれば、これまでの経験を生かして別のチャンネルへの営業もしてみたいと思っています。例えば、「販売会社」と呼ばれる、書店と出版社の間をつないでいる窓口への営業にも挑戦してみたいです。

また、商品の売り伸ばし方法や重版計画などを考える、販売促進と編集をつなぐ「MD」というセクションがあるのですが、そういった仕事でも今の経験やノウハウを生かせるのではないかと思っています。現状に満足せずに、今まで培ったものをさらに役立たせる仕事をしていきたいですね。

ありがとうございました!

取材・文/石部千晶(六識)
撮影/小高雅也

お話を伺った人:北村智佳(株式会社主婦の友社 販売部販売促進課)

北村智佳

主婦の友社に入社して4年目。中堅として期待され、上司から厚い信頼を受けている。昔から本好きということもあり、休日は本屋に行くことが多いのだとか。また、洋服も好きなので、ウィンドウショッピングもリフレッシュ方法のひとつ。北村さんが手にしているのは、世界的瞑想の師と言われる高僧が「人生の視点の変え方」をユーモラスに説いた『バナナを逆からむいてみたら』(主婦の友社)。

次回の更新は、7月19日(水)の予定です。

“おいしい”の笑顔が活力になる――「さかづきBrewing」オーナー、金山さんの働き方

金山尚子さん

ブルーパブ「さかづきBrewing」を東京・北千住で運営されている、女性醸造家の金山尚子さん。大手ビールメーカーで商品開発、醸造技術開発に携わっていた金山さんですが、9年間勤めたのちに独立。なぜ独立して醸造家の道を選んだのか、今の仕事への思いとは……? 詳しい話を伺いました。

ビール好きが高じて、大手ビールメーカーに勤務

金山さんは、現在はブルーパブ(醸造所が併設され、その場で作られたビールを提供する店舗のこと)「さかづきBrewing」を運営されていますが、以前は大手ビールメーカーに勤められていたんですよね。

金山さん(以下、金山) はい、約9年間働いていました。最初の4年は、いわゆるビール工場で醸造の管理をして、その後5年は研究所に勤務し、ビール類の新商品開発や、ビールの香りや味を制御するための醸造技術の開発をしていました。

会社員時代に、ビールの作り方などを一通り覚えることができたんですね。

金山 そうですね。仕事は楽しかったですし、確実にそのときの経験が今につながっていると思います。

お酒にかかわる仕事に就きたいと思い始めたのはいつからだったんですか?

金山 私は、大学では農学部、大学院では農学研究科を専攻していました。そのころから「食にかかわる仕事に就きたい」という思いはあったんですが、特にお酒とは絞っていなくて。ただ、就活を始めるころには、お酒を第一にしていました。

なにかきっかけがあったのでしょうか。

金山 ビールが好きになったからですね(笑)。ビール好きになった理由としては、鮮明に覚えていることが2つあります。

ひとつは、学生時代の居酒屋バイト。実はそれまではビールは全然飲めなかったんですが、サラリーマンの方たちが仕事終わりにゴクゴク飲んでいる姿が、純粋においしそうに見えたんです。そんな姿を毎日見ていたら、いつの間にか私も「ビールを飲みたい」と思うようになっていて。しかも、サラリーマンの飲み方を真似してみたら、苦手だったビールがおいしく飲めたんです。「今まで、口に含んで味を感じていたからおいしくなかったんだ。喉で味わうようにしたら、ビールってこんなにおいしいんだ!」ということに気がつけたのは、ビール好きになる大きなきっかけでした。

もうひとつは、ベルギーのチェリービールとの出会い。当時は海外のビールはあまり出回っていない時代だったので、珍しかったんですよね。酒屋で見つけて、興味本位で飲んだときに、「こんなビールがあるのか!」と衝撃を受けました(笑)。チェリーの香りがして、甘酸っぱくて、今までのビール概念が覆されましたね。これを機に、ビールの奥深さやおもしろさにはまってしまいました。

奮闘した会社員時代。30歳を過ぎ、独立を決断

金山尚子さん

醸造家と聞くと、なんとなく男性が多いイメージがあるのですが、実際はどうなのでしょうか。

金山 会社員時代に仕事をしていた醸造に関わるセクションは、圧倒的に男性の多い職場でした。入社から退職するまで、醸造場で一緒に働いていた女性は、かなり少数でした。独立してからも、知り合う醸造家さんはほとんどが男性で、女性の醸造家さんはまだまだ多いとは言えず、全国でも数えるくらいではないでしょうか。

そんなに少ないんですね! 正直なところ、やりづらいことも多かったのではないでしょうか?

金山 仕事はたしかにハードでしたが、体力面でつらすぎると感じたことはほとんどありませんでした。というのも、会社のサポートがあったからなんです。

現場はどうしても男性目線の仕様なので、大きな20kg容量の樽に麦芽が入っていたりするんですよ。さすがにそれを抱えるのは困難なので、樽を全部10kgのものに変えてもらったりするなど、女性の私でもできる仕様に変えていきました。

現場をカスタムしていったんですね。自ら意見を出せるところがかっこいいです!

金山 会社からしたら厄介だったと思いますが(笑)。上司も協力してくれましたし、ありがたいですよね。

それと、数少ない女性として、勝手に気が張っていたのかもしれないです。私ができないままにしてしまうと、他の女性が入ってきたときに「やっぱり女性じゃ難しい」と言われてしまう可能性があるのかな、と。そういうのもなくしたかったんです。

女性が働ける環境を作っていったんですね。ところで客観的に見ると、大手メーカーで働くことは安定していたり環境が整っていたりと魅力がたくさんあると思うのですが、それを手放しても独立を選んだ理由はなんだったのでしょうか?

金山 実は、独立してビールを作りたいという気持ちより先に、“会社を辞めよう”という思いがあったんです。会社の人たちはいい方ばかりでしたし、仕事も楽しかったんですが、30歳を超えたときに、会社人として限界を感じたといいますか……。企業というのは、ある目的のためにみんなで動く必要があるので、どうしても会社の物差しに合わせなければいけない部分がありますよね。そこが私には合わなかったようで。同調していくのは得意な方だと思っていたんですけど、30歳過ぎたら自我が出てきちゃったんです。

辞めると決めてから退職までの期間はどれくらいあったんですか?

金山 1年ぐらい悩みながら働いて、辞めるという決断をしました。退職すると決めてからも、さらに1年ほど勤めながら次のことを考えていたのですが、結局「私にはビールしかない!」という結論に行きついて、独立の道を選びました。組織に所属するというのは、私には無理だというのがわかったので(笑)。とにかく、自分で自分が思うような職場を作るということを目指していましたね。

「ビールを作ろう」というのは、最後になって出てきたんですね! ちなみに、独立は勇気がいることだと思うのですが、後押ししてくれたことはあったのでしょうか?

金山 夫が応援してくれていたのは大きかったです。実は、夫もビールメーカーに勤めていた時期があったんですが、私よりも早々に辞めていて(笑)。今は別の仕事をしていますが、当時から自分の生き方を追求するようなバイタリティーあふれる人だったので、その姿にも勇気をもらいました。今も仕込みなど、お店のことをいろいろ手伝ってくれています。

自分で作ったビールへのリアクションを見届けたい

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ビール醸造のみに注力できる「メーカー」のスタイルではなく、醸造所とレストランが併設した「ブルーパブスタイル」にして独立したのはどんな理由があったんですか?

金山 教科書的ではありますが、自分で作って、出すところまで見届けたいと思ったからですかね。メーカーにいると、どうしてもお客様との距離がかなり離れているので、商品開発をしていても、売上とか数字でしかお客様のリアクションが見えなかったんです。それを寂しく感じていて。なので、“自分で出してお客様の反応をこの目で見る”という部分まで一貫したかったんです。

退職されてからすぐに独立の準備に入ったんですか?

金山 どういうことをしていきたいかという構想は固まっていたので、退職してからの半年間は、主に物件探しをしていました。2015年1月に退職をして、7月に物件を契約して会社を作り、それから2016年3月のオープンまでは、お酒を製造するための免許を取得して、開店の準備に追われていたという感じです。

物件を北千住に決めたポイントはどこにあったのですか?

金山 物件選びにはけっこうこだわって、23区をメインに、西東京とか大宮とか、いろんなエリアを回りました。その中でも、北千住が一番しっくりきて。北千住は、若い世代も年配の方もいろんな方が住んでいて、活気があるんですよね。さらに下町のよさというか、温かい雰囲気もあって。求めていた土地柄にぴったりだったので、物件探しの後半は北千住に絞っていました。

もともと北千住になじみはあったのでしょうか。

金山 会社員時代の飲み会は、北千住でやることが多かったんです。なので10年ぐらい前から、実は北千住に飲みに来ていて、愛着もありましたね。ここで店を開きたいと思った街で、今実際に地元の方にたくさん来ていただけているというのは、嬉しく感じます。

誰でもおいしく飲めるビール作りがモットー

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「さかづきBrewing」で提供されるビール。写真左から「煙月ブラウン」「秘密基地」「月の杯ヴァイツェン」

今作っているビールは何種類ぐらいあるのでしょうか。

金山 お店で出しているのは常時6種類前後です。「ペールエール」や「ヴァイツェン」などの定番もありますが、半分以上は時期ごとに変わるフレーバーを作っています。1回仕込むと、開栓してからだいたい3週間ぐらいでなくなるので、その次に作るものは、お店に出るときの季節や旬を考えながら、それに合った素材を使って仕込むようにしています。2016年3月のオープンから現在までトータルすると、約50種類ぐらいは作ってますね。

約1年で50種類はすごい数ですよね! ビールの味を作るときのこだわりがあれば教えてください。

金山 ドリンカビリティ……簡単に言うと、バランスよく飲み続けられるかですかね。例えば、飲みづらいほど苦いとか、突拍子のない原料のビールとか、今は変わったビールが注目を浴びがちです。でも私は、ビールが不慣れな人でも飲みやすいビールを作りたいと思っています。

あとは、ご飯とのペアリングも意識しています。ビールが主役というよりは、ビールと料理、お互いが高め合えるようなものを提供したいと思っています。

誰が飲んでもおいしいビールを目指しているんですね。ビール作りには、どれぐらい時間がかかるものなのでしょうか。

金山 仕込みを開始してから酵母を添加して、発酵の準備OKになるまでが約10時間、そこから、発酵と熟成を経て、最短で約10日間でお店に並びます。火力の調整なども人の手でやっているので、火をかけているときはつきっきりで仕込みをしています。

本当は、さらに2週間ぐらい寝かしたいんですけど、今は予想以上にお客様が来てくださっているので、その余裕がなくて。1回で150リットル作れる器材を使っているのですが、もっと大きいのにすればよかったと思ってます。

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嬉しい悩みですね。金山さんイチオシのビールはありますか?

金山 シーズンものなんですが、今出している「秘密基地」という、ヨモギを使ったビールがイチオシです。ベルギーでは、ハーブやスパイスを入れた爽やかなビールを夏に飲むというスタイルがあって、そこからヒントを得て作りました。後味がほのかにヨモギで、ほかではなかなか飲めないおもしろい味だと思います。

お客様の笑顔がなによりの活力。作り手と飲み手が気軽に話せるお店であり続けたい

働く上で常に考えていることはありますか?

金山 自分がビールを作って、その対価としてお客様がお金をくださって、生活しているという、お金の流れはやはり意識していますね。お客様とは、対等な立場でありながらも、謙虚に、目の前のことに誠実でいたいと思っています。

醸造家や職人さんの中には「自分の好きなものにこだわる」という方もいるかと思います。もちろんそれも重要なんですが、私は飲んでもらう人のことを一番に考えて、「おいしい」と言ってもらえるビール作りを目指しています。

お客様と意見の交換をすることもあるんですか?

金山 たくさん意見をくださいますよ(笑)。店の定番のビール「風月ペールエール」も、実は麦芽配合を変えたり、仕込み工程を変えたり、何回もマイナーチェンジして、今の味にたどり着いたんです。その度にFacebookで案内するんですが、そうするとお客様が「じゃあ飲みに来るか」と、新しい味を試しに来てくださったりして。そんなふうに、作る側とお客様側が気軽に会話ができる店って、あんまりないかもしれないですね。

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お客様との距離が近いんですね。仕事をしていく上で、一番のやりがいはなんですか?

金山 やっぱり、ビールを飲んでいただいて「おいしい」と言っていただくことですね。私は淡々とした性格なので、そこまで喜びを感じないのかな?とも思っていたのですが、目の前で「おいしい」と笑顔で言ってもらえると、想像以上に嬉しいし、活力になりますね。

レシピを作って醸造して、メニュー名をつけて、お店に出して、お客様のリアクションまで見届けるという一連の流れ、全てが楽しいです。その分、「いまいちだ」と言われたときはへこみますけど(笑)。

嬉しかったことで、印象的なエピソードはありますか?

金山 私にとっては意外なことだったので印象に残っているという話になるんですが……。先ほどお話ししたように、うちのビールは開栓してから約3週間でなくなるんですが、実はその3週間の間にも、味が徐々に変化しているんです。

ビールは熟成させるほど味が整っていくのですが、うちのような小さな店では、提供するビールが足りなくなるので、熟成に最低限の時間しかかけられない場合が多くて。開栓後も熟成は徐々にしているので、開栓直後と、なくなるギリギリとでは、渋みや深みなどが変わっています。

大手のビールメーカーでは「完全にあるべき風味を確定させた」という段階になってから市場に出すので、いつ飲んでも同じ味が楽しめます。それが正しいことだと思っていたので、メーカー出身の私の中では、「味が変わってしまう=いけないこと」だったんですね。

なので、お客様に「この前と味が違うね」と言われると、怒られているんだと思っていつも謝っていました。ですが、「それ(変化があること)が、ブルーパブの楽しいところでしょ」と言ってくださるお客様が多くいらっしゃって。思いもよらない言葉でびっくりしましたね。これもいいんだなと嬉しかったですし、ビールの楽しみ方をまたひとつ知ることができました。

金山尚子さん

嬉しいことがある反面、大変なこともあるかと思いますが……。

金山 オープン当時がとにかく大変でした。作っても作ってもビールが足りないので、焦がしてしまったビールを出したこともありました。プロとしてこれでいいのか悩みましたし、そのときはつらさのピークでしたね。ちょうど1年前のメニューを見ていたんですが、ビールが2種類しかなかったんですよ。ビールが“売り”のブルーパブに来て、2種類しかビールがないなんて、お客様もびっくりだよな……と。予想外にお客様が来てくださったのはとてもありがたいことなんですが、その分、せっかく来てくださったのに飲んでいただくビールが少ないというのは、とってもつらかったです。

このオープン当初の時期は、起きたらすぐお店に来て、営業が終わったら帰って寝るだけという感じで、ごはんを作る時間もないし、休みもないし、ぐちゃぐちゃな生活をしていました。定休日でもビールの仕込みをしたり、器材の消毒をしたりとなにかしら作業をしているので、今も完全な休みはないですが。それでも、夫やスタッフのサポートもあり、生活スタイルも落ち着いて、人並みの生活は送れるようになりましたね。

つらくなったときは、どのように対処したのでしょうか。

金山 対処法というより予防策になりますが、最近では、意識して肩の力を抜くようにしていますね。というのも、以前、レシピを作るのが苦痛でしかたない時期があったんです。忙しすぎて、頭がいっぱいいっぱいになって、なにもアイデアが浮かばなくなってしまって。ほかにも、「ビールとはこういうものだ」と熱く語っているプロの方を見ると、自分もしっかりしなきゃいけないと思ってしんどくなったり……。

だけど、自分自身も楽しみながら、とにかくビール作りに集中しようと思い直して。「失敗してもいいや」ぐらい気軽な気持ちでできるようになったら、精神的にすごく楽になりましたね。適当に仕事をしているわけではないのですが、私の場合は、それぐらい力を抜いてやった方が、おいしいものができるということに気がつきました(笑)。

今では柔軟にアイデアが浮かぶようになって、作りたいビールをメモしたアイデアノートも、来年の冬まで埋まっている状態です。

肩の力を抜くことは、好循環につながったんですね。最後に、今後の目標があれば教えてください。

金山 まだ決まったことではないんですが、今はお客様の数に対して施設が小さすぎるという悩みがあるので、お店以外にも、ビール作りができる専用の場所を作っていきたいですね。施設が整えば、もっと時間をかけて熟成させることもできるので、さらにおいしいビールが作れると思っています。

といっても、お店を大きくしたいわけではありません。今の店のスタイルを原点に、作り手とお客様の距離を大切にしつつ、よりビールの種類を増やしたり、ビールの質を高めていきたいなと思っています。

ありがとうございました!

※文章中の「ビール」は現行酒税法上発泡酒に分類されるものも含みます

取材・文/石部千晶(六識)

お話を伺った人:金山尚子

金山尚子

大手ビールメーカーで勤めたのち独立し、ブルーパブ「さかづきBrewing」をオープン。1日休みというのはなかなかとれないけれど、定休日の月・火曜日はビアバー巡りを楽しむ。趣味は、7年前に始めたトライアスロン。時間を見つけてはランニングをして体を鍛えている。

店舗情報:「さかづきBrewing」

さかづきBrewing

北千住の住宅街にかまえる醸造所が併設されたレストラン(ブルーパブ)。常時数種類のビールが、料理とともに楽しめる。現在仕込み真っただ中という2017年夏の新作は、レモンを使ったビールを提供予定とのこと。

〒120-0026 東京都足立区千住旭町11-10コルディアーレ1F
TEL:03-5284-9432
営業時間:(水・木・金曜日)16:00〜22:30(22:00LO)、(土曜日)13:00〜22:30(22:00LO)、(日曜日)13:00〜21:30(21:00LO)
定休日:月・火曜日
https://www.facebook.com/sakaduki/

次回の更新は、7月5日(水)の予定です。

タニタ食堂・甲阪さんの視点「健康を気にしていない人を食で健康に」【おしごとりっすん】

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『りっすん』が「企業の中で働く女性」にフォーカスするシリーズ「おしごとりっすん」の第2回は、株式会社タニタ食堂の営業本部に所属する甲阪絢佳さんです。管理栄養士の資格を持つ甲阪さんは、レシピ本で話題になった1食あたり500kcal前後のヘルシーな食事を提供する「タニタ食堂」出店に関する問い合わせなどの一次対応を担当。健康に関するセミナーの講師も務めています。「管理栄養士」と「営業」、一見結び付かない仕事に普段どのように取り組んでいるかについてお聞きしました。

管理栄養士として健康に寄与したかったのに、1年目は営業へ

今の仕事について教えてください。

甲阪さん(以下、甲阪) タニタに入社して4年目になります。現在はタニタのグループ会社である株式会社タニタ食堂の営業本部に出向して、2012年にオープンした「丸の内タニタ食堂」をはじめ、全国のタニタ食堂の企画・運営を担当しています。タニタ食堂はレストランですが、タニタの健康計測機器も販売しているので、タニタ本体の販促担当者や営業担当者と連携しながら、機器と食事をつなげるような企画を考えています。

管理栄養士の資格をお持ちとのことですが、どうしてこの資格を選んだのですか?

甲阪 私はもともと、高校時代に薬剤師を目指していました。祖母をがんで亡くしたので、がんに効くような薬を作れればと思って薬学部を目指したのですが、大学入試センター試験で大失敗をしてしまって……。近い職種に就ければと考えて、管理栄養士の道に進みました。管理栄養士として病院で働き、食の面から患者さんの健康に寄与できればいいなと考えていました。

大学3年次、病院で実習をした際に、「食を通じて人々を健康にしたい」という気持ちが強くなりました。そこで、病気を予防するために活躍できる管理栄養士になりたいと考えました。健康な人たちをもっと健康に、健康ではなくなりそうな人たちを健康にする、そんな思いを実現できる企業の候補の一つとして考えたのがタニタだったんです。

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タニタに入ろうと思った理由はそこなんですね。

甲阪 “健康をはかる”計測機器が主力の商品ですし、グループ会社では地方自治体や企業に対して健康増進のためのプログラムやセミナーを提供しているところに注目しました。ちょうどその頃、タニタの社員食堂が有名になり始めて、レシピ本『体脂肪計タニタの社員食堂』(大和書房)が出たり、丸の内タニタ食堂がオープンしたりと、食の方面にも力を入れていました。自分がやりたいことと会社の取り組みが合致していたんですね。

会社に管理栄養士はどれくらいいるのでしょうか?

甲阪 タニタグループ全体で35人くらいです。栄養指導や食関連を扱う部署の人もいれば、研究開発部門にいる人もいて、割とばらばらですね。

私がタニタの入社試験を受けた時、募集職種は技術職と経理職しかありませんでした。「どちらかといえば管理栄養士は技術職だろうけど、管理栄養士として働けるのかどうか受けてみないと分からないし、落ちたら落ちたでいいや」と思っていたのですが、運良く入社できて、今に至ります(笑)。

「技術職か経理職」というと現在の仕事とは違いますが、どういういきさつで……?

甲阪 当初は、タニタ本体の営業職として配属されました。タニタでは例年、「技術職」「営業職」を募集することが多かったのです。入社2年目の夏くらいまでは、ノベルティ案件やカタログギフトの商品提案などを担当していました。

最初の職種が「営業」では、当初の「管理栄養士として健康に寄与したい」という志と離れているんじゃないかと思いましたが、率直な心境はいかがでしたか?

甲阪 今でも社内でよく言われるんですが……営業への配属直後は、本当にもうどうしていいか分からなくて、戸惑いました。栄養のプロとして活躍している管理栄養士の人のもとで働けるとなんとなく思っていて、そういう気持ちで仮配属の前まで過ごしていたので。想定外の配属結果発表で「どうしよう、私にできるかな」というのが率直な感想でした。

その状態を乗り越えられたんですね。

甲阪 振り返ってみると、最初に営業職をやったのは自分にとってプラスだったと思っています。今の仕事では、セミナーの講師として大勢の前で話すことがあるんですが、人前で話すということへの場慣れはもちろん、タニタの名前で話すとなるとタニタ全体の商品やサービスの話もしなければなりません。「会社の代表として話す」素養が培われたと思います。

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管理栄養士という視点はうまく活かされたんでしょうか?

甲阪 営業の現場では、自分が管理栄養士であることが役に立ちました。「タニタの管理栄養士」としてお客様に覚えていただいたり、小ネタとして話すことでお客様との距離感が縮まったり……そういうところで栄養の知識を持っていて良かったと思うことが多々ありました。

今の仕事でもこれを活かした提案をしています。キッチングッズの販促の提案であれば、減塩というテーマで血圧計と塩分計を活用するなどですね。「管理栄養士が言っているなら」と説得力を持って受け止めていただけています。

健康を気にしていない人でも「気づいたら健康になる」ようなおいしいメニューを

今出向されているタニタ食堂と、その業務内容について教えてください。

甲阪 タニタ食堂に異動してから1年間は「丸の内タニタ食堂」の現場に立ちました。接客をしたり、厨房で料理をしたり。

料理も! タニタ食堂に配属された方は全員現場を経験するんでしょうか。

甲阪 そうですね。直営店は「丸の内タニタ食堂」だけなので、現場で経験を積んで、その経験を他の仕事で展開していきます。フランチャイズで出店される方もここでの研修を受けています。

店舗一覧|タニタ食堂

甲阪 「丸の内タニタ食堂」の成り立ちは、先ほど少しご説明したようにタニタの社員食堂がベースなんです。社員食堂で出していた、栄養バランスやカロリー、塩分量などに考慮したメニューが話題になって、レシピ本も非常にヒットしました。レシピ本は今ではシリーズが4冊、全部で542万部売れています。

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甲阪 すると、「実際にタニタで作られている本物が食べたい」というお客様の声をいただくようになったんです。タニタの本社を訪れる方がいたり、お客様のお問い合わせ窓口に「どこに行けば食べられるのか」という質問が来たり。

レシピ本パワー、すごいですね。

甲阪 「実際に食べられる場所を作らなければならないのではないか」ということで、「丸の内タニタ食堂」をオープンしました。でも、1店舗作ると、次は「うちの県に作ってくれないか」などのご意見が増えたんです。タニタのメニューをもっと広める仕組みを作らなければならないと考えたのですが、実は料理の作り方に結構コツが要るんですね。単に店舗のマニュアルと料理のレシピを渡せば作れるというわけじゃないんです。

そこで、服部栄養専門学校と連携して、「タニタシェフ育成コース」という育成プログラムを作りました。タニタメニューを提供するためのライセンスを取得していただく仕組みができて、ようやく多店舗展開ができるようになりました。私はその取りまとめやサポートなどを一括で対応しています。

ヘルシーなメニューを出すお店が増えていくんですね。

甲阪 タニタ食堂は全国に広がっており、現在27店舗あります。しかし、課題もあります。和食の伝統的な定食スタイルとか、野菜をたっぷり使っているとか、健康面だけを謳っても、一般的な外食のお店と比べて「味が薄いんじゃないか」「同じお金を使うなら豪華なものを食べたい」と思われてしまうんですね。そういう意味では、リピーターを増やすのが難しいのです。

そこで近くの会社のお客様からお声掛けがあったのをきっかけに、私が社内を説得して「1ヶ月タニタ食堂のメニューを食べて、健康的にやせるかどうか検証する」という企画を実施しました。そうしたら、参加された数十名の方が実際に平均2kgくらいやせられたんです。

1ヶ月で2kg体重を減らすのは無理のないやせ方ですね……!

甲阪 自分が起案したプロジェクトに上司から二つ返事で「やってみて」と言われましたし、その会社さんは非常に積極的で「もっと健康増進に取り組まなければならない」と考えてくださいました。プロジェクトが終わってからもタニタ食堂へ食事をしに来てくださる方がいまして……。タニタ食堂を広げる以外にも、新たな顧客に対して既存のものだけではなく、工夫したパッケージとして提供することを発見できて、健康づくりの啓発とタニタファンを増やすこと、両方に寄与できる仕事になりました。

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タニタ食堂で今後考えている取り組みがあれば教えてください。

甲阪 タニタ食堂では、1定食あたり500kcal前後にカロリーを抑えてタニタの社員食堂を忠実に再現した「日替わり定食」と「週替わり定食」の2種類を提供しています。週替わり定食は基本的には和食で、“野菜を350g摂れる”“アスリート向け”など、さまざまなコンセプトを設定してメニュー開発を進めています。その新しい取り組みとして「洋食シェフシリーズ」を5月末から始めました。洋食レストラン出身のシェフの社員による発案なんです。第1弾は「ビーフハンバーグ定食」でした。

1食500kcalだとだいぶ小さいハンバーグになってしまうのでは……。

甲阪 そんなことはないです(笑)。ただ、やはり難題でしたので、シェフと栄養士で塩分やカロリーを調整して、タニタ風にアレンジするためにかなりの数の試作を重ねました。タニタがアレンジすればボリューム感のある洋食をおいしく食べられる、タニタ食堂で食べてみよう、というきっかけにしてもらえたらと考えています。

「カロリーが少なくて野菜がたくさん食べられるメニュー」は、健康に対する意識の高い方は注目してくださるのですが、健康を気にしていない方には響きにくいと感じています。こうした方々が「おいしく食べて気づいたら自然と健康になる」、そんなメニューを提供していきたいと考えています。ボリューム、彩りなどの見た目を重視し、おいしさという面からも追求したメニューで、幅広いお客様を健康にしていくのが使命だと思っています。

「健康作りを支援する会社」であれば、その手段は何でも構わない

「会社に提案したら二つ返事で」というお話がありましたが、会社の雰囲気はいかがでしょうか。

甲阪 風通しは良いですね。タニタ本体は、社員食堂のおかげで名前が有名になり、大企業をイメージされる方が多くなってきたのですが、実際には社員250人くらいの中小企業です。今の社長(代表取締役社長 谷田千里さん)は創業から3代目で、45歳というとても若い社長なんですよ。社長が就任した時にどんどん新しいことにチャレンジしようという方向性になって、新しい提案も筋が通っていれば通りやすい風土になっています。

確かに「タニタといえば体重計」というイメージは強いですが、Twitter公式アカウントははじけたキャラクターですし、それがpixivで漫画化されるなど、不思議なこともされていますね。

甲阪 そもそも「なぜうちの会社がレシピ本を出版?」という話はあったようです(笑)。Twitterも、社員が社長に「やりたい」と言ったのがスタートでした。そういう意味ではタニタ食堂も「新しいことに取り組む」というチャレンジだったんです。

(2011年にスタートしたタニタのTwitter公式アカウントの最初のツイート)

甲阪 もちろん今までやってきた体組成計などの計測機器の製造・販売は注力するけれど、それだけではだめだと。ぶれてはいけないのは「皆さんの健康作りを支援する会社」ということであって、その手段は何でも構わないと言っていました。例えば「30年後にタニタが食堂の会社になっていてもいいじゃないか」なんて。

食は健康と密接につながっていますしね。

甲阪 私は昨年、タニタ食堂の管理栄養士として、環境省が開催した「熱中症対策シンポジウム」というイベントで「熱中症と食事」に関する講演をしました。タニタでは「熱中症指数計」という機器を作っていて、そのプロジェクトリーダーをやっている先輩から「食の面で熱中症予防に関する講演をやってみないか」と声を掛けてもらって。大学教授の中に混じって「こんなところにいていいのかな?」と思いつつ、40分ほどの講演をさせていただきました。

熱中症対策もそういえば健康支援ですね。

甲阪 「食」の観点で講演内容を作るのは結構大変だったのですが、熱中症に関する知識が増えましたし、そのイベントの前後でタニタ食堂でも「熱中症対策フェア」を実施して、栄養素を考慮したメニューを開発しまして。熱中症指数計との連動もできましたし、これまで「食と熱中症」はなかなか取り上げられてこなかったので、新しい視点という意味では貢献できたかなと考えています。

毎年気温が上がると熱中症対策の話題が増えますが、食事面ではどんなところに気を付ければいいのでしょうか?

甲阪 特定の食べ物というよりはバランスの良い食事を摂るのが基本で、ポイントは「疲れにくいからだをつくる」ことです。そこでよく「ビタミンB1を摂りましょう」といわれます。ビタミンB1は糖質のエネルギー代謝に必要な栄養素です。間接的なメカニズムではありますが、疲れやすいということは、その分エネルギーを消耗しているので、ビタミンB1が不足しがちになるといわれています。

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甲阪 また、カリウムもしっかり摂ってください。日本人の食事は塩分が多めで、どうしてもナトリウムを摂りがちになってしまいます。熱中症対策として塩分の補給は必要ですが、もともと摂り過ぎていると、余分なナトリウムを排出する必要があります。そこに必要なのがカリウムです。カリウムが不足してしまうと、血液などの細胞外液のナトリウムバランスが崩れて、脱水症状が起こってしまいます。

エネルギー代謝の点で特に注意していただきたいと考えたのはこれらの2つ、あとはクエン酸ですので、講演では「その3つをしっかり摂りましょう」というお話をさせていただきました。

健康と食の関わりでは「特定の食品を食べ続ければいい」という話がありがちですが、その辺りへのお考えをお聞かせください。

甲阪 タニタ食堂は食を扱う会社ですし、セミナーやイベントの講師もしている以上、管理栄養士としてしっかり正しい知識を身に付けることが必要で、安易に不確かな情報を発信してはいけないと気を配っています。タニタの管理栄養士が間違った情報を発信してしまうと、タニタ全体の信頼にも傷を付けることになりますし、何よりお客様にご迷惑をかけてしまいます。情報については、国の機関がしっかり認めている資料を参考にしています。

自分が考えたことが受け入れられるとやりがいにつながる

今の仕事のやりがいについて教えていただけますか?

甲阪 まだキャリアを多く積んだと言えるほどではありませんが、自分が考えたことを「やってみたい」と提案すると、「やってみれば」と受け入れられることが多いです。それが成功体験につながることで、自信が付いていると感じますし、やりがいにもつながっています。

1年目の営業の頃は、右も左も分からず、教わることがとても多くて、やれることを一生懸命やることで必死だったのですが、必死にやっている中で少しずつ余裕が出てきて、改善点が見えてきたということもありました。タニタ食堂に出向した時も、3~4ヶ月くらい経った頃からちょっとずつ仕事に慣れてきて、「こう変えたらうまくいくかも」と考えられるようになった気がしますね。

仕事をしていて良かったことを教えてください。

甲阪 小さいことの積み重ねが大きいですね。自分が提案した企画を世の中へ広めていこうという本格的な動きになった時や、タニタ食堂の出店に関わって実際に店舗のオープンへと実を結んでいく瞬間は、すごくうれしかったですね。

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逆に、落ち込んだり、正直つらかったと思ったりした出来事は?

甲阪 やっぱり営業に配属されたことです(笑)。「何のためにこの会社に入ったんだろう」と思うこともありました。入社から2ヶ月間でいろいろな部署を回って研修をして、一番自分にできないだろうと思ったのが営業だったので……。

あとは、初めて物販と食をつなげるための企画を考えて実現するまで、実際にやりたかった時期から遅れてしまったことがあったんですね。企画から実施まで落とし込む難しさにすごく苦労しました。

落ち込んだ際の対処法などはありますか?

甲阪 休日に友達とごはんを食べに行くとか、おいしいものを食べるとかですね。私は結構単純で、たくさん寝ることでストレスが発散できて、だいたい忘れるタイプなんです。なので、土日のどちらか1日は思う存分寝る、なんていうこともしています。

働く中で、ロールモデルにしている人がいれば教えてください。

甲阪 最初に営業へ配属された時の教育係の先輩と、今の直属の上司に対して、「この人についていこう」と尊敬する気持ちを持っています。周りの人に恵まれたこともあり、その人たちを目指そうと思うことが多いです。

1年目は商談へ同行させてもらうことが多かったのですが、営業職に対する先入観もあったせいか、お客様との関係性の良さに衝撃を受けました。お客様の要望もうまく取り入れながら提案したり、レスポンスもとても速かったりして、私もこんなふうになりたい!と思ったことを覚えています。時には厳しく叱られ、落ち込むこともありましたが(笑)、指導してもらったことが今の仕事にも活きているなと感じています。

今後のキャリアについてはどのように考えていますか?

甲阪 今はたくさんある仕事をとにかくこなしていく日々ですが、自分の中の引き出しがだいぶ増え、よりスムーズに業務を行えるようになったと思っています。今後は、一歩引いてもっと全体を見回して、改善すべき点を拾っていき、今までにない新しいサービスや商品を発信していければと思っています。

つい先日、タニタ本体の社長と話す機会がありました。自分では今まで頑張ってきたとなんとなく思っていた部分について、まだまだ勉強が足りないなって実感させられたんですね。たくさんの人と会っている社長の視点から「これがやりたい」と言っている内容が、やっぱりすごいなと思いますし、自分が見ている世界はまだまだ狭いなと思います。専門性を上げていくことももちろんですが、社会の動きを見て何にチャレンジしていくかについても考え、実行していかなければならないと思っています。

ありがとうございました!

お話を伺った人:甲阪絢佳(株式会社タニタ食堂 営業本部)

甲阪絢佳

全国のタニタ食堂を統括する営業本部は、わずか数名の少人数体制。「名前は大きいのですが小部隊です」。趣味は幅広いジャンルの音楽を聴くことで、たまにライブに行って楽しんでいるとのこと。やせるためのコツを聞いたところ「体組成計で毎日はかってください! それから、活動量計を持って毎日たくさん歩く!」という回答が。

次回の更新は、6月21日(水)の予定です。

「誰も助けてくれない」という絶望感から「誰かの手助けに時間を費やす」まで。“プロ外資系OL”ずんずんさんが考えてきたこと

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シンガポールでグローバルIT企業に勤める“プロ外資系OL”としてブログ「ずんずんのずんずん行こう!改!」を書くほか、外資系企業の実態を描くエッセイや仕事術に関するビジネス書などの書籍、Webメディアの記事を執筆するずんずんさん。普段はシンガポールに在住のずんずんさんに、大変運良く、日本でお話を伺う機会がありました。著書のサブタイトルにある「超ブラック企業の元OLが、世界一の外資系企業で活躍するまで」についてお聞きしました。

「プロ外資系OL」への第一歩は新卒入社時の激務だった

「プロ外資系OL」になるまでの経歴について教えていただけますか。

大学を卒業後、日系企業に経理として就職しました。当時は手に職を付けなきゃいけないという焦りがありました。最初の会社がとにかく激務で苦しくて、心身の調子を崩しまして、「丸の内OLになりたい!」という夢を叶えるべく転職活動をしたところ運良く外資系投資銀行に入りました。そこから何回か転職をして、今はシンガポールのグローバルIT企業で財務・税務を担当してます。

著書で外資系企業を題材にしているように、最初の会社と外資系企業ではだいぶカルチャーなど違うのではないかと思いますが、転職先はどう探したのでしょうか。

転職サイトを使っていました。転職先を探していたらなぜか外資系の面接に呼ばれたという感じです。たぶん、最初の会社で年齢の割にたくさん働かされたので、その分の経歴が強かったんじゃないですかね。新卒1年目でどんどん上司が辞めていっちゃって、入社して半年でマネージャーになって……。

新卒でマネージャー……どうしてそうなっちゃったんでしょう……。

何も知らずにピュアなハートで就職したんです。そうしたら本当にどんどん人が辞めていきまして……。

部下はどのくらいいたのでしょうか。

誰もいません。“一人マネージャー”です。責任だけ大きくなって給料は初任給でして(笑)。管理職手当も付かなかったです。誰も何も教えてくれないので、いっぱい失敗して、怒られまして。今思えば「ひどいことするなぁ」って思いますね……。自分だったら絶対にそんなことさせないのに……。

ずんずんさんの上司に当たる人は入社してこなかったんでしょうか。

人員が充当される前に、私が1年で辞めちゃいました。

1年で転職されたんですね。転職後のギャップはありませんでしたか?

最初の会社での激務とは全く違いましたが、精神的にすごく苦しかったです。お局様だらけで、日本人同士のやりとりなのになぜか英語を使うし、メールもExcelも英語になりました。しかも、また誰も何も教えてくれない。採用時には実務の経験があればいいということだったはずなんですが、それまで全然英語を勉強していなかったのですごくばかにされました。今思えばよく入れたもんだなと思います……。会社の期待している「英語ができない」と私の「英語ができない」のレベルが違っていたんだと思います。私だったら雇いません(笑)。

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今のシンガポールでの生活はいつからですか?

4年くらい前ですね。当時勤めていた外資系の企業でまた体調を崩してしまい、ちょっと遊びたいなぁと思いました。シンガポールには友達も住んでいましたし、英語の勉強をしがてら行ってみたんです。

シンガポールに移ってから就職活動をしたんですね。

はい。本当は日本に帰ってくるつもりだったんですが、そこでアベノミクスが起こりまして、自分の財産がきゅーんと減ってしまい、しょうがないから働くか、どうせだったら海外で働いてみようか……と。

「誰にも頼っちゃいけないから自立しなきゃ」という恐怖心でのモチベーション

1社目も2社目も仕事を教えてくれる人がいなかったということですが、どのように仕事を覚えていったのでしょうか。

盗むしかないですね! 教えてくれる人がいなければ背中を見て盗むしかない。

なんだか職人の世界ですね。

最初の上司のやり方を盗んで、転職して、転職先でもやっぱり上司のやり方を盗んで……。上司のお気に入りの人のしゃべり方や態度を見てどうしたらいいか考えたりもしました。自己啓発の本も読みました。

誰も指導する人がいないという状況からのスタートで、仕事への熱意やモチベーションを保ち続けられる理由について教えてください。

「なんでこんなに仕事を頑張っているのか?」について自分でも最近考えていたんですよ。やっぱり学生時代にモテなかったのが一番強かったですね!

モテ!

悲惨ですよね……。そのせいだけではありませんが、結婚について夢を持つことはありませんでした。自分の母親が、結婚していて幸せそうには見えなかったんです。母親はよく「自立していないと人生がつまらない」と言っていて、「お母さんみたいになりたくないな、手に職を付けて働きたいな」と思ったのが最初のモチベーションだったと思います。

「母親が娘に与える影響」は大きいように感じますね。

「専業主婦」か「手に職を付けて自立」かといった考えはいったい誰が刷り込んでるんでしょう。何か大きい力による陰謀では……!?

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私の場合は生きるために働いています。「働いていないと自立できない」という考え方が強くて。経済的に自立しないと、自由がなくて、他人に人生を操られちゃう感じがしますからね。基本的には「この厳しい世界で、サバイバルして生きていかなければならない」「誰にも頼ってはいけない」という気持ちが強いです。

その気持ちのきっかけは、家族との関係性だったのでしょうか。シンガポールで受けたコーチングに関する記事(2014年11月)でも書かれていましたね。

お父さんに「私の事愛してますか」と聞けますか? - ずんずんのずんずん行こう!改!

ええ、「頼っちゃいけないから自立しなきゃ」というある種の恐怖心ですね。悲しいですよねぇ……。うっうっ。恐怖心にドライブされていたように思いますね。

「誰かが都合よく助けてくれる世界はない」と思っているんですね。

でも、心の奥底で、待っているんですよね。自分は自立しなければならないと思い込んでいつつも、どこかで誰かが助けてくれるんじゃないかなって思っていて。それに気づいた時、自分自身に絶望しました。でも気づけたことによって「そんな都合のいいことはあるわけないじゃん」と本当に自覚できたと思います。

いろいろあって最終的に今の仕事のモチベーションがどうなっているかというと「責任感」ですかね。あとは「チームメイトに失望されたくない」というのもあります。

同僚の期待を裏切りたくないということでしょうか。

「自分の果たすべき役割がある」とか「チームに貢献する」とか、言葉に出すと恥ずかしいですね(笑)。

「誰も都合よく助けてくれない」という絶望感から、現在のお友達や同僚との関係性が生まれていったのがすごいですね。

自分が考えていた「助けてくれる」というのは、ファンタジーの世界のようなものだったんですよね。「絶対的な救世主が現れて、いつか自分を救ってくれる」というような。現実にそんなことは起きないですし、自分ができることをやっていくのが一番良いかな、と思うようになりました。近くの人の幸せだけを考えていく。

現実性のない、すごく大きなことを考えるのではなく、自分ができることを考えれば、誰かを助けることができて、幸福感を得られる。そういうことが人生の幸せの一つなんじゃないかなって思います。

シンガポールで受けたコーチングで「人生悪くないな」と思えた経験からコーチングを趣味に

「誰かを助ける」というのは、趣味であるコーチングと通じるものがありそうですね。

コーチングは直接誰かを助けるものではないんです。その人が気づいて立ち上がれるための手助けをすることがコーチングです。ファンタジーの世界のような絶対的な存在は訪れないけれど、自分自身に立ち上がる力があるということを知ってもらえれば、人生変わってきますよね。こうしてインタビューを受けられるようにもなります(笑)。

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絶望して一人きりでいるよりも、見方を変え、行動を変えていけば、楽しいことがあるんじゃないかと思います。人生で変えられるのは、未来のビジョンと、今の行動と、考え方だけなので。

シンガポールで受けたコーチングというのはどのようなものなのでしょうか。

「自分の認知を変える」ことです。課題の解決がうまくいっていないところを整理していきます。カウンセリングやセラピーのような「癒やす」ものとは性質が違いますね。マイナスからゼロにするのが癒やしだとすると、ゼロからプラスにするのがコーチングです。

例えば、「道を歩いていたら変質者に遭った」という嫌な経験をするとします。変質者は怖い。嫌な経験は記憶になりますよね。「あの道を歩くと変質者が出る」という思い込みが発生します。その思い込みで、行動が変わってくるんです。「その道を歩かない」。

実はその道に変質者が出たのは何十年に1回だけだったかもしれなくて、自分はたまたまそれに遭ってしまっただけかもしれない。空手を習うなどしてものすごく強くなったとしても、「ここは歩かない」と決めてしまうんです。その認知のゆがみを解消すれば、その道を歩けるようになります。これは分かりやすい例えですが、似たようないろいろなことが人生で起きているんですね。

コーチとマンツーマンで行うんですか?

はい。コーチングでは、先ほどの例えでいえば、

  • 「どうしてその道が怖いの?」「変質者が出るからですよ」
  • 「今もその道に変質者は出るの?」「それは知らないです」

という会話をしていきます。コーチはその人が見えていない「ブラインドスポット」を客観的に見て、そこを突いていくんです。

コーチングはみんながみんな受けるようなものではないと思いますが、私の場合は、人生の謎を解きたくて受けていた感じですね。

趣味としてのコーチングでは、見知らぬ人からの問い合わせを受けるなどしていますよね。海外からどう対応しているのでしょうか。

Skypeを使っています。人によってはビデオチャットで話すこともあります。私のブログの読者さんは真面目で、将来のキャリア設計の話を聞いてくる人もいますね。「自分は嫌なのに繰り返してしまうこと」を解き明かしていくのは非常に面白いですよ。恋愛でいえば、「恋愛でいつもダメ男に引っかかってしまうのはなぜ?」のようなことですね。

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ネット上では素顔を出していないですが、ネット経由で問い合わせをしてきた方に対して顔を見せてしまうことに抵抗はありませんか?

全然知らない人からコーチングを受けるためにメールを送るって、すごく勇気が要る行動じゃないですか。仕事や家族の話をすることだってありますし……。「その誠意には応えなければならない!」と思いますね。

ずんずんさんにとって、そういう方はいたのでしょうか。

ううう、全然いなかったですね……誰かいてくれればよかったのに……。

自分自身は誰かから助けられなかったのに、誰かを手助けするコーチングを趣味にされたのはなぜですか?

なんででしょう……自分はそれまでの人生がすごく苦しかったんですね。実家は貧乏だし、両親はひどいし、友達はいないし……みたいな、結構つらい人生だったんですね。でも、コーチングを受けて自分の人生の見方が変わって、悲観的な物事の見方だけじゃなくなって、「そんなに悪くないな」って気づいたんですね。

見方を変えることによってもっと生きやすくなるなら、周りの親しい人やブログを読んでくださる方にも知ってほしいと思ったんですね。「世界はもっとよくなるんだ!」みたいな(笑)。そこに自分の時間を費やすのもいいんじゃないかなって思うんですよね。

日本ではコーチングを受けることはあまりポピュラーではなさそうですよね。

ビジネスチャンスかな? 起業しちゃおっかな?(笑)

自分の人生の優先順位を付ければ少し楽に生きられる

最近「英語ができるようになるために会社を辞めよう!」という記事がブログにありました。最初の転職時にどうやって英語に取り組んだのか教えてください。

3か月でTOEICで700点以上取る方法 - ずんずんのずんずん行こう!改!

そうですねぇ、やっぱり人間「命をかけないといけないタイミング」ってあるじゃないですか。

命……。

外資系企業に入ってみたら、会社のメールも英語、Excelも何もかも英語なんですよ。そこで何もできないということは、「命がかかってる」ということでして、英文法もメールの書き方も分からなかったので、英語を書けてる人のコピー&ペーストから始めました。

「英語は筋トレ」という言葉もありましたね。

英語って、階段状にスキルが上がっていくんです。「しばらく勉強してふっとレベルが上がる」の繰り返しです。上がらないときの絶望感がすごいんです。そこでやめるとそのレベルで終わってしまうんですが、続けると上がるんです。これを一生繰り返すのが英語の勉強なんじゃないかと思います。

日本で生まれ、日本の学校を出ていると、もう積み重ねていくしかないんです。吸収しているインプットの量が違うネイティブの人や帰国子女のレベルに、ドメスティックな日本人がなるのは無理なので、あきらめた方がいい! 無理をするなと言いたい!

効率良く学ぶ方法はやはりないんですね……。

「ネイティブみたいに英語を話したい」というのを目標にしちゃうと、そこにエネルギーをすべて使っちゃうじゃないですか。でもそれってあまり意味がない。「ビジネスで通じればいい」くらいでいいと思います。

失敗するのが怖い人はあまり上達しないですね。「文法を間違えた」「恥ずかしい」と思うともうしゃべれなくなっちゃうので。もし相手から「は?」というような「お前の言ってること分からないぞ」といった感じのリアクションがが来ても、「私の英語は頭の良い人なら分かるの、なんであなたは分からないの?」くらいの勢いで話していけば、相手もだんだん「この子は英語ができないんだ」ってあきらめるんですよ。でも相手も命がけで「私がこの子の話を聞いてあげないと仕事が進まない」と思って聞いてくれる。恐れずにいっぱい話して、いっぱいインプットとアウトプットを増やすしかないです。学問には本当に王道がないですね。

英語の他に何か取り組んでいることはありますか? 特に心身のケアで気を付けていることがあれば教えてください。

今はジョギングと筋トレをしています。ロッククライミングもやります。面白いですよ。

スポーツが好きなんですか?

昔は全然好きじゃなかったし苦手だったんですけど、労働時間が長いと、体力を付けないと苦しいじゃないですか。「死にたくない」っていう気持ちですね。なんで私の話はいつも悲惨な話になるんでしょう(笑)。このままだと死ぬぞ、生き抜きたい、って思っていますね。筋トレをして筋肉が付いて体力も付いて、この体力を何に使えばいいんだ? スポーツをするか、と。

最初は仕事のために体力が必要だと考えたんですね。

ロジカルに考えた結果です。最初はパーソナルトレーナーからやり方を学びました。結果としてスポーツがだんだん好きになりましたし、一時的なストレス発散にもなっています。

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今働いている中で、ずんずんさんが憧れるような人、こうなりたいと思う人はいますか?

これまでいなかったし、今もいないです。切ないですよねぇ。適切なロールモデルは欲しいですし、いたらもっと人生楽なんですが……。会社では上司にも同僚にも頭が良い人がたくさんいて、すごいとは思いますが、その人のようになりたいと思ったことはないです。「頑張って媚びていくぞ!」という気持ちです。

スーパーな人が多いんですね……。

うっうっ(泣)。自分がロールモデルになればいいんですよ! 私たちの世代にはいなかったんだから、自分がなるしかないんですよ! 自分がそうなって下の世代の者に見せていくしかないんですよ! それが新しい生き方なんじゃないですかねぇ。

働き方に迷っている人に向けてずんずんさんが声を掛けるとしたら、何をアドバイスするでしょうか。

さっきから「死にたくない」「生き抜きたい」とか物騒なことばかり言ってますが、「人生の優先順位を決める」のが大事なんじゃないでしょうか。仕事を一番にするのか、家族を一番にするのか、友達関係を一番にするのか。決めたことに対して心のエネルギーの分配方法を決めればいいと思うんです。

仕事を優先順位1位にして、全身全霊、100%の力でやると、仕事がうまくいかなかったときにすごく苦しいですよね。「家庭をナンバーワンにする、仕事は3割」というふうに決めておけば、少し楽になります。自分の人生で何が大切なのかを考えればいいんじゃないかなって思います。

ありがとうございました!

お話を伺った人:ずんずんid:zunzun428blog

ずんずん

グローバルIT企業に勤める、公私ともにプロ外資系OL。趣味はコーチング。著書に『外資系OLは見た! 世界一タフな職場を生き抜く人たちの仕事の習慣』(KADOKAWA)、『エリートに負けない仕事術』(大和書房)がある。自称ツイッターの天使(@zunzun428)。

次回の更新は、6月14日(水)の予定です。

仮面ライダーを好きな人がその生き方を真似できないなら、何の説得力もない――読売新聞専門委員・鈴木美潮さんの「仕事と特撮」

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読売新聞東京本社で政治記者を経て専門委員を務め、「よみうり大手町ホール」の企画プロデューサーとしても活躍する鈴木美潮さんは、“大の特撮ファン”として知られる存在です。記事を執筆し、コメンテーターとしてテレビ番組にも出演する一方で、自ら特撮ヒーロー番組に出演した俳優やアニソン歌手をゲストに招くトークイベントを企画・開催。精力的に仕事と趣味の両方に取り組み続ける鈴木さんに、その経緯や情熱についてお話を伺いました。

「どこまで食らいついてくるのか」試された

鈴木さんの今のお仕事について教えてください。

社長直属教育ネットワーク事務局の専門委員として、「読売教育ネットワーク」が開催する「出前授業」で講師をしています。いろいろな学校に出向いて、新聞の読み方、メディアリテラシー、18歳選挙権や主権者教育の話をします。ホール企画部の企画プロデューサーも兼務していて、東京・大手町の読売新聞ビルの中にある「よみうり大手町ホール」の企画運営にも携わっています。といっても私はアニソンライブしか担当しないんですが。他には、ほぼ週1回、「YOMIURI ONLINE」で「日本特撮党 党首の活動報告」という記事、そして隔週で英字新聞「The Japan News」でコラムを書いています。

【特集】:日本特撮党 党首の活動報告:カルチャー:読売新聞

なぜ新聞記者を目指したのですか?

私は小さい頃から政治に興味がありました。きっかけは小学校4年生のときに親が買ってくれた朝日新聞出版の「少年朝日年鑑」に、金大中事件*1が載っていたことです。それを読んで、民主化のために戦う金大中が社会のヒーローだと思いました。政治というものに興味を持ってから、ずっと政治に関わる仕事がしたいと思っていました。

父の仕事の都合で大学生の時にアメリカに渡り、アメリカの大学と大学院で政治学を専攻して修士号を取得しました。日本に帰国して就職しようとした時に、渡米前に在籍していた大学の後輩から「読売新聞のエントリーシートの締め切りが明後日ですよ。一部余ってるからあげます」と言われまして。小さい頃から漠然と書くことも好きでしたし、マスコミの仕事であれば政治に多少関わることができると考えました。幸いトントン拍子に採用試験を突破して、最初に内定をもらった読売新聞に入社を決めちゃいました。

そして新聞記者として仕事を始めたんですね。

入社すると、最初は地方支局に配属されました。私は第一志望であった横浜支局に行くことになり、事件記者からスタートして、高校野球、市役所、県庁などを担当しました。当時、横浜は事件が多いことで有名で、すごく忙しかったんですね。会社から「なぜ横浜を志望するのか?」と聞かれた時に「事件が多い所で自分を鍛えたいと思います」なんて真面目に答えたんですが、実はたまたまその時に夢中になっていたのが、横浜を舞台にしたドラマ『あぶない刑事』だっただけなんです……。もう時効だろうと思いますけど(笑)。

約4年後に本社に戻りました。同期入社はだいたい同じような時期に本社に戻ってきて、記事に見出しを付けたり、紙面のレイアウトを行ったりする「地方部整理」という部署に行きます。私はそこに1年半くらいいて、1994年10月に、政治部に配属されました。

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入社された1989年ごろは、マスコミで活躍する女性は少なかったように思います。

記者以外の職種を含めると全体の採用数は多くて、同期の記者は65人いました。そのうち7人が女性でしたね。当時は女性を全体の1割採用するって、結構すごいことだったんですよ。それでも女性の記者に対して、まだ腫れ物に触るようなところはありましたね。男女雇用機会均等法は施行された後なので無論差別はないのですが、「記者という仕事に果たしてどこまで食らいついてくるのか」ということが、採用する側もまだよく見えない時代だったのではないかと思います。

女性が少ない中で、大変だった思い出を教えてください。

政治部に配属されると、まず総理番*2から始めるんですが、総理番ってとにかく1日中総理の後をついて回るんですよ。男性でも体が弱い人は大変だと思います。朝、総理は首相官邸から隣の国会まで車で移動するんですが、記者たちは総理が官邸から出たら、走って国会の入り口で待ち構えなくちゃいけない。官邸まで全力疾走する「番ダッシュ」というものをしていました。まずこれで初日に息が上がりました。

国会内でも総理の動きを追い掛け続けるわけですよね。

総理番をやっていた頃はヒールの高い靴だとつらいので、ローヒールを履いていました。総理番を外れた後も、国会内のどこかで秘密の会合が開かれていたりすると、終わるまでずっと待っていないといけない。政局の読みが鋭ければ、前もってローヒールにしますけど、だいたい突然の出来事で、そういうときに限ってヒールの高い靴を履いてたりして。もう大変ですよ。

ある衆議院議員の秘書給与流用疑惑があった時、議員の自宅前でずっと張り番*3をしたこともありました。真夏で気温が35度を超えていて、記者仲間で協力し合って近くのコンビニに行き、議員宅前でアイスキャンディーを食べました。あんなにおいしいアイスキャンディーは後にも先にもないですね。

政治部以外での印象的なエピソードはありますか?

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記者1年生の時、高校野球を担当したんですが、本当にひどいものでした。野球に興味が全くなかったので、学ぼうという意欲はあっても、世間の常識と私の持っている常識が全然違っていてですね……。かろうじて「ヒットを打ったら一塁側に走る」は分かるんですが、「一塁ゴロ」の意味が分からなかったり、「シュート」と「ショート」を間違えたり。

高校野球の地区大会を取材して、次にちびっこサッカーの取材があったんです。私はサッカーも分からない。でも野球でちょっとは慣れたと思っているから、野球のノウハウを使えばいいんだと考えました。野球の記事に「カキーン」「鋭い打球音を残して球がフェンスの向こうへ消えていった」みたいな文章があるじゃないですか。これを応用して「バスッ」「鈍い音をさせて白黒の球が網の中に消えていった」って書いたら、「お前これ真面目にやってんの?」ってものすごく怒られました。

現職に至るまではどんな仕事があったのでしょうか。

1999年夏に、『週刊読売』という週刊誌の編集部に行って『読売ウイークリー』にリニューアルする仕事に携わりました。その頃、日本テレビの情報番組に読売新聞の記者を出すという話があったので、自分から手を挙げて、週1回出演することになりました。

この情報番組が終了するまでは『読売ウイークリー』にいて、その後政治部に戻ったんですが、2003年に読売新聞が日本テレビと「イブニングプレス donna」という情報番組を立ち上げることになり、それにも手を挙げて出演者になりました。平日の月曜日から木曜日まで約10年、2013年の暮れまで続けました。テレビ番組があると政治部の仕事はできないので、途中で文化部に移り、文化面のコラムを書きつつテレビの仕事をメインで。その間にも「PON!」などの情報番組にコメンテーターとして出ていました。よくアナウンサーと間違えられることがありましたね。

ホームシックから立ち直る原動力となったのは、仮面ライダーの存在だった

ここまでは読売新聞でのお話でしたが、次は「特撮」を好きになった経緯について教えていただけますか。

うちはすごく厳しい家庭で、母がテレビを制限していてなかなか見せてくれなかったんですよ。ところが、7歳のときに始まった特撮ドラマ『ミラーマン』だけ気まぐれで見せてくれました。それにものすごくはまって、「鏡京太郎(演・石田信之)のお嫁さんになる!」となってしまって。でも毎回は見せてくれないんです。「テストで100点取ったら見てもいい」なんて言われたので、その通り100点を取って見ていました。ミラーマンの最終回が本当に悲しくて、小学校2年生の作文で「日曜日にあった悲しい出来事」として「ミラーマン、あなたは鏡の国に帰っていくのね、さようなら、ミラーマン、ミラーマン」なんて書いたんですよ、小学2年生なのに。

ミラーマンが終了したことで、特撮を見る機会がなくなったと思うのですが、その後どのように興味を広げていったのでしょうか。

毎年夏に、青森県八戸市の、ほぼ同年代のいとこ3人兄弟の家に遊びに行くんですね。そのとき一緒に特撮ドラマ『仮面ライダー』の放送を見たり、ライダーごっこをしたりして、今度は仮面ライダーにはまるわけですよ。当時「仮面ライダースナック」のおまけの「仮面ライダーカード」というものが大いに流行っていましたが、うちでは当然買ってもらえませんでした。ところがいとこの家はスーパーマーケットを経営していて、「ひとり1個ずつライダースナックを買っていいぞ」って言われて、そのとき初めて手に入れて。「何が出るかな、本郷猛か、1号か2号か、滝和也でもいいな」とわくわくしながら開けたら、ミミズ男(敵の怪人)が出てきた。

オチが(笑)。

私が唯一リアルタイムで買ってもらえたカードが、ミミズ男なんです。唯一です! だからもう、満たされない気持ちをずっと引きずっていて、政治部記者時代に仮面ライダーカードが復刻された時には、段ボールで30箱買いました。

大人買い!!

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大人買いにもほどがある感じですよね。近所のお菓子屋のおじさんが軽トラに乗せて運んできました。段ボール1箱にスナックが28袋入っていたんです。お菓子はあんまり食べたくなくて、別梱包になっているカードを抜いて、お菓子は持てるだけ持って少しずつ会社に持ち込みました。

話は子供の頃に戻ります。そこから先の特撮番組の開拓はどうされたんでしょうか。

中学生になると、特撮よりもっと「見てはいけない」ような番組があるから、特撮については母からそんなに厳しくは言われなくなりました。そこでいろいろ見るようになって、お小遣いを貯めて超合金(ロボットアニメ・特撮作品のキャラクター玩具シリーズ)を買ったりして。そのうち『宇宙船』(SF・特撮作品の専門誌)という雑誌が創刊され、その時に初めて、自分の好きなものが「特撮」というジャンルであることを知りました。

みんなは小学校高学年ぐらいで徐々に特撮番組を卒業していくんです。でも私はずっと好きで、ずっとずっと好きで、子供心に「もしかしたら私は変態なんじゃないか」と悩みました。「私が好きなこれは何なんだろう?」ってずっと思っていましたね。

やっと自分の心が引かれるものの定義ができたんですね。

14歳の秋に村上弘明さんが出演されていた『スカイライダー』(仮面ライダーシリーズ第6作)が始まって、学校の創立記念日に、突然「今行かなかったら一生後悔する」と思って、東映の撮影所に乗り込んだんです。そしたらたまたま、ちょうどアフレコが終わった村上さんと東映テレビ部の平山亨プロデューサーが出てきた。お二人は近くの喫茶店で、私と、一緒に行った友人に付き合ってくれました。村上さんはまたアフレコがあると途中で戻ったんですが、平山さんは3~4時間、ちょっとませた14歳の話をずっと聞いてくれたんです。そこからですよ、沼にずぶずぶと沈んでいったのは。

ファンの中学生に何時間も付き合ってくれるというのはすごいですね。

平山さんのほかにもう1人、『スーパー戦隊シリーズ』の脚本を多く担当した曽田博久さんというシナリオライターさんとも交流がありました。私はこの方の作品が本当に好きで、シナリオの勉強をしたいと思って、シナリオに関する講座を受けていたことがあります。講座の主催元の協会から手帳が出ているんですが、まだ個人情報もへったくれもない時代で、手帳の巻末に協会の会員名簿が載っていました。そこで曽田さんについて調べて、番組の感想を書いて送って……。そこからしばらく曽田さんと文通が続いていたんですね。曽田さんは、私の名前を『大戦隊ゴーグルファイブ』(スーパー戦隊シリーズ第6作)の中で使ってくれたんです。

えっ!

第30回「猪苗代の黄金魔剣」で。ゲストは俳優の田崎潤さんで、田崎さん演じる道場主が、孫娘の婿をゴーグルファイブのメンバーの中から選ぼうとする話でした。その孫娘の名前が「鈴木美潮」なんです。高校3年生のときに「使いましたよ」って連絡が来ました。OAもしっかり見ました。

憎い演出ですね。

私の特撮ライフを支えてくれたのはそのお二人ですね。平山さんとは本当にずっと関係性が途切れず、アメリカ留学中にはたぶん200通以上書簡を交わしています。

当時はエアメールですよね。アメリカに行った後も連絡を取っていたのはなぜなんでしょうか。

私はもともと英語が苦手で、洋画は見なかったし、洋楽も聴かなかったし、どちらかというと演歌が好きで……。サンフランシスコ国際空港に降り立った瞬間に「これはカルチャー的に無理だ」って気づきました。当時は日本と簡単にはつながれないから、「わー、あれきれいだね」って言おうとしても、周囲はみんな外国人。ホームシックになってしまって、すごく落ち込んだんですよ。その気持ちを手紙に書いて平山さん宛てに出したら、平山さんは中学生と4時間話すくらいすごく優しい方だったから、お返事が来ました。

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でも落ち込んだ気持ちについてはまともに取り合わず、「全く大げさなことを言ってるもんだ」みたいな内容だったんです。それで頭をがーんと殴られたくらいの衝撃を受けました。仮面ライダーは、もしかしたら自分が死ぬかもしれないのに、あんな巨大なゴキブリや巨大なムカデと戦っている。それに比べたら、私が今ここでいくら大変な目に遭っても、命を取られるわけじゃない。私は何を甘ったれたことを言っているんだろうと。それまで「仮面ライダーに学んだ」なんて言っていたのに、いったい何を学んだのかと、自分が許せなくなって、その日を境に1日16時間勉強するようになりました。

仮面ライダーによる立ち直りとは……!

私は日本の大学に1年半通った後にアメリカの大学に編入したんですが、他の人より毎学期1科目多く取って、2年で卒業しているんですね。在学中にアメリカ連邦議会のインターンの選抜に日本人で初めて受かって、インターンをやって、その勢いで大学院に進んで、1年で修士号を取って帰ってくるんですが、その全ての原動力、心の支えとなったのは仮面ライダーです。

「勉強の原動力が仮面ライダー」だったんですね……。

仮面ライダーを好きな人が、仮面ライダーの生き方を真似できなかったら、何の説得力もない。甘えてはいけないと思ったんですよ。

大学を卒業したときに「特撮のために日本に帰りたい」とは思わなかったのでしょうか。

私がそのタイミングで帰国しても何の足しにもならないと思いました。仮面ライダーが好きな子が、アメリカで大学院まで行って修士号を取得すれば、平山さんは絶対に喜ぶだろうし、仮面ライダーに夢中になって「テレビばかり見てないで勉強しなさい」と言われるような子供たちにも手本を見せられると思ったんです。事実、平山さんはすごく喜んでくれて。1986年に出版された『仮面ライダー大全集』(講談社)という本の中で、「ファンの中にアメリカに留学した人がいて」と話してくれているんですよ。

仕事と趣味、両立の秘訣は「とにかく思い立ったらすぐやる」

主宰されている「日本特撮党」の活動内容について教えてください。

「340(みしお) presents」という名前の、特撮・アニソンのイベントを開催しています。活動のスタートは2003年8月、スーパー戦隊シリーズのレッド役2人を呼んで実施した「赤祭」。その少し前の読売ウイークリー時代に、平成仮面ライダーシリーズ第1作の『仮面ライダークウガ』が約11年ぶりのテレビシリーズとして始まって、うれしくて取材に行って、特撮の取材をぽちぽちするようになっていったんです。大人向け雑誌で最初にヒーローものを取り上げたのは、たぶん私がクウガについて書いた読売ウイークリーの記事なんですよ。

そうだったんですか!

ある日、読売新聞の本社近くでクウガのロケをやっていたので行ってみたら、主演のオダギリジョーさんがいて、名刺交換をしました。そこで「今度は取材でお会いしましょう」って先方から言われたので、「ライダーと約束したんだから取材しないといけない」と思って。まずはカラーで2ページの企画をやろうと考えました。当時のデスクに「どうしても仮面ライダーの原稿書きたいんですけど」って話し掛けてみたら、「そんなの子供が見るもんだろう、子供が!」と言われまして。そこですかさず雑誌『宇宙船』を見せて「ほら、ルビのない雑誌が出てるでしょう、子供だけじゃないですよ」ってアピールしたらOKをもらえたので、彼の気が変わる前にすぐテレビ朝日に電話しました。

さすが、ライダーとの約束の効果は違いますね。

その辺りから特撮に関する活動が始まりました。読売ウイークリーに「男の隠し味」という、男性が料理をするカラーのグラビアページがあって、1年かけてそこをじわじわと乗っ取りました。年間で約40週のうちなぜか20人くらいは特撮関係者という異様な状況を作り出しまして。

そのうち、もともと仮面ライダーファンつながりで交流のあった竹本昇監督(特撮ドラマを主に手掛ける監督・演出家)、『超力戦隊オーレンジャー』(スーパー戦隊シリーズ第19作)のレッド役の宍戸マサルさん、『超電子バイオマン』(スーパー戦隊シリーズ第8作)のレッド役の坂元亮介さんと飲む機会があって、深酒をしているうちに「せっかく仲良くなったし何かできないかな?」という話になりました。そこで私が突然「イベントやりましょう、イベント!」なんて言い出して、午前2時過ぎに帰りのタクシーの中で、新宿ロフトプラスワン(トークライブハウス)のプロデューサーに電話して、「戦隊もののイベントをやらせてもらえないか」と言ったところ、すぐOKが出て日程が決まりました。翌日レッドの2人に電話して「決まりました」って伝えたら驚かれましたね。

ずいぶん急に決めたんですね!

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イベントをやりたいと思った理由は、スーパー戦隊シリーズに関する当時の情報量が少なすぎたからです。スーパー戦隊シリーズは、長く続いている分、世代によって見る作品がすごく限られるんですね。例えば『太陽戦隊サンバルカン』(スーパー戦隊シリーズ第5作)は、再放送の機会が多かったので見る世代が幅広い方だと思います。でも、それより後になると、バイオマンを見ていた人はたぶんオーレンジャーを見ていないし、オーレンジャー世代はバイオマンを知らないんですよ。とてももったいないと思っていました。

昔からずっと仮面ライダーシリーズの制作に携わっていた渡邊亮徳さん(元東映副社長)という方がいるんですが、この方は若いころ、名うての映画のセールスマンだったんですよ。映画館の館主に映画を売り込みに行く際に「あなたも得をする、私も得をする、両方の得でリョウトクが私の名前です」と言ったそうです。そのフレーズが頭のどこかにあって、各戦隊のファンが別の戦隊の作品を知ってそれぞれ得をして、さらに仕掛ける私も楽しいということから始めたんです。

イベントをコンスタントに続けるのは大変だったのではないでしょうか。

始めた当時のスーパー戦隊シリーズ関係者って、みんな縦のつながりも横のつながりも切れていたんです。放送当時はメールなんてないし、携帯電話もないから、引っ越したら終わりなんですよ。それをイベントで文化財修復のようにつなげていった。同窓会みたいな感じです。今は皆さんがいろいろな場所で一緒に活動をされていますが、だいたい「340 presents」のイベントで会った人が多いんじゃないかな。

読売新聞の仕事と特撮のイベント運営、どちらもパワーを使うと思うのですが、両立の工夫はどうされているのでしょう?

どちらも好きだから、配分は考えないです。決めちゃえば何とかなるものです。「どうしよう、どうしよう」と言っていると、いつまでたっても始まらないですね。あとは「すぐやる」。とにかく思い立ったらすぐやる。仕事もイベントも後回しにして重ねていっちゃうと、無理になりますから。人間って意外と無駄にしている時間がいっぱいあるので、私は隙間時間でいろいろなことをやっています。電車に乗っているときにイベントの告知文を作ってブログにアップしちゃうとか。

政治記者として朝から晩まで仕事をしたお話もありましたが、もともと体力があるのでしょうか?

いえ、子供の頃は体が弱かったし、基本的にはそんなに強い方ではないです。だから無謀な徹夜は絶対と言っていいくらいしない。体調管理の方法は「とにかく寝る」で、6時間は寝るようにしています。書籍『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』(集英社クリエイティブ)を書いていたとき、最後の方は徹夜に近い状態だったんですが、1時間半でも寝るようにしていました。

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予定がたくさんあると思いますが、スケジュール管理の方法を教えていただけますか?

手帳です、手帳。イベントの内容も手書きでメモしてます。全部手書きでひどく汚い! 私、字がヒエログリフだって言われちゃうくらい汚いんですよ。酔っ払いながら予定を決めたときに「忘れてはいけない!」と思いながら書いたものが全然読めないこともあります。さすがにイベントの進行表はパソコンで打ったものを印刷しますけど……。

基本的には手書きなんですね。

ずっとアナログで、目で見ないとだめなんです。スマホは水没したら終わりだから情報を入れているのが心配で……。もしご興味があればお見せしますよ。ひどいですよ。落としても何の心配もない。絶対に読めない。いろんな色でぐちゃぐちゃ書いているんですけど、色には何も意味がないんです。その場にあったペンで書いているだけで。

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鈴木さんの昨年の手帳を見せていただきました。予定がびっしりと書き込まれています。そして確かにぱっと見では読めません。

イベントの開催は特撮ヒーローたちへの恩返し、仕事では「社会に対する義務」を果たしていく

「りっすん」では女性の働き方を主なテーマにしているのですが、親交の深かった平山さんや仮面ライダー以外、かつ女性で、影響を受けた方はいますか?

うーん、女性と言われると難しいですね。もちろん素晴らしい女性にはいっぱい会ってきましたけど、私のようにバツイチでお気楽に生きている女からすると皆さん素晴らしすぎて、仰ぎ見るような存在ですね……。

私たちの世代ってゴレンジャーの紅一点、モモレンジャーに、良くも悪くもすごく影響を受けていると思います。モモレンジャーにしても『ウルトラマン』のフジ・アキコ隊員にしても『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員にしても、紅一点でしょう? 紅一点の功罪ともいえる「紅一点主義」については、ぜひ私の著書を読んでいただきたいです。やっぱりふと「あっ、ロールモデルっていないな」とは思いましたね。ヒーローものが好きで、ヒーローものにロールモデルを求めた結果、どうしても「男性が求める女性の働き方」である紅一点の影響を受けて育ってきたかなと思います。スーパー戦隊だって、女性が2人になったのはバイオマンからですし。

今後の特撮活動の展望について教えてください!

できればまた本を書きたいと思っています。1冊本を書いた後、1年くらいは満足していたんですが、「自分の好きな世界とは違う」と思う方が多かったのが残念でした。だからもう少し一般の人にも読んでもらえる、違う角度のものを書けないかなと考えています。

イベントについては引き続き開催していきたいんですが、もともと規模を大きくしようとは考えていないんですよ。特撮ヒーローたちへの恩返しとしてやっています。身の程にあったキャパシティーでやっていけたらと思います。

司会業が多いのでしょうか。

司会の依頼があったイベントについてはほとんど引き受けています。よみうりランドのマスコットキャラクター「グッド&ラッキー」の新しいテーマソングをアニソン歌手のうちやえゆかさんに歌ってもらうミニライブのプロデュースをしました。イベントをやる場合は、ブッキングも企画もギャラ交渉もちらし作成も、全部自分で担当することが多いですね。

http://www.yomiuri.co.jp/culture/special/tokusatsu/20170509-OYT8T50065.html

読売新聞の専門委員としてはいかがでしょうか。

最近は「教えること」を求められるようになりました。私は自分のことを、未完成で「人に教えるほどのもんじゃなかろうよ」と思っているんですけれど、この年次になってくると、社会に対する義務を果たさなくてはならないという気持ちで取り組んでいます。

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新聞に関する啓発活動も多くなっています。どんなに良い記事を書いても、新聞を手に取ってくれない若い人が増えています。それはとても悲しいことです。「みんなが思っているほど新聞って悪くないんだよ」「きちんと作られているし、良い文章も載っていますよ」「特撮やアニメが好きな人にとっては意外とうちの紙面アツいですよ!」という話をしていかないと、新聞を触らない人はたぶん一生触らないから。読売教育ネットワークの「出前授業」にしても、まずは新聞を知ってもらう、手に取ってもらうことが重要だと思っています。

ありがとうございました!

お話を伺った人:鈴木美潮(すずき・みしお)

鈴木美潮

読売新聞東京本社 社長直属 教育ネットワーク事務局 専門委員。ホール企画部の企画プロデューサーも兼務。「よみラジ」(ラジオ日本)キャスター。1989年に入社し、横浜支局、政治部、文化部、メディア局などを経て現職。日本テレビの情報番組「イブニングプレス donna」「ラジかるッ」「PON!」などに出演。特撮ファンとして知られており、特撮番組出演俳優や制作スタッフ、スーツアクター、特撮・アニソン歌手との親交が深い。「日本特撮党」の党首として「340 presents」をはじめとする特撮・アニソン関連イベントを主催している。著書に『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』(集英社クリエイティブ)がある。隔週刊『仮面ライダー フィギュアコレクション』(朝日新聞出版)内の「ライダー交友録」では、ホストとして各号のライダーにまつわるゲストを迎え、対談を行っている。

ブログ:340.340340.net
Twitter:@340age26

次回の更新は、5月31日(水)の予定です。

*1:1973年8月8日、韓国の政治家・金大中氏が、東京のホテル滞在中に拉致され、船で連れ去られた後にソウルで軟禁されて、5日後にソウル市内の自宅に戻った事件。全容は分からないままとなっている。

*2:総理担当の記者のこと。総理の動向を追い掛け、動静取材や政治課題に関する質問をする。

*3:特定の人物に張り込みをして取材すること。

“働き方を選択できる社会づくり”に取り組む一般社団法人「at Will Work」の藤本あゆみさんに聞く、選択肢の考え方

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今回お話を伺った藤本あゆみさんは、“働き方を選択できる社会づくり”をミッションとする一般社団法人at Will Workの代表理事を務め、働く人それぞれの「理想的な働き方」を実現するための課題に取り組んでいます。2017年2月には「働き方」を幅広い論点から議論するカンファレンス「働き方を考えるカンファレンス2017」を開催。実は株式会社お金のデザインの広報としても並行して働く藤本さんに、より女性が働きやすくなるためのヒントやご自身のパラレルキャリアへの考え方をお聞きしました。

より働きやすくするためには「自分の半径5メートル以外について知る」

「一般社団法人at Will Work」が2月に開催したカンファレンスは、働き方の事例を抽出してノウハウの研究と体系化・共有する場の構築を目指すものとのことですが、どのようなことに取り組んでいるか教えてください。

at Will Workでは、普段は5人の理事がそれぞれ“働き方を選択できる社会づくり”というミッションに沿うネタをあちこちで展開しています。ですが、2月のカンファレンスでは行政・企業・研究者・個人と多くの方々に登場いただいて、ワークスタイルはもちろん採用や生産性、心身の健康、環境づくりなどについてディスカッションしました。冒頭の挨拶では「この場にはヒントはあるけど事例はないです。事例はあくまでもどこかの会社の結果であって、それをそのまま実行したからといってあなたの会社の『良い事例』にはならない」というお話をしました。今年は他にもいろいろな企業さんとの共同企画の構想があります。

「りっすん」では女性の働き方にフォーカスしています。「女性がより働きやすくなるには」という課題へのお考えをお聞かせください。

大事なのは、「自分の半径5メートル以外にも、自分と同じことを思う人がいる」という事実を知ることだと思っています。人はどうしても、自分の近くにいる人の影響をすごく受けるんですよね。本当は変わりたくないと思っているのに、周りの人が「このままじゃだめだ、変わらなきゃ」なんて言っていたら、そこに同調してなんとなく「変わらなきゃいけないかも……」という気持ちにどうしてもなってしまうんですよ。

影響力が大きい人の近くだとなおさらかもしれないですね。

でも、人間そこまで強くないです。自分の考えはきちんと守らないとつらいし、そういう状況で自分が1人だと思ってしまうとさらに身動きが取れなくなってしまう。そこに「自分は1人じゃない」と認識できるきっかけを提供できれば、「意外と自分の考え方も良いんじゃない?」と思えるようになるんじゃないかと考えています。

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今まさに、そのために何ができるのか、いろいろやっているところです。開催したカンファレンスもその1つです。今後は人の事例をたくさん集められるような仕組みや仕掛けを作っていきたいと思っています。単なる成功体験だけが集まっては面白くない。イメージしているのは「1億2千万人の図鑑」なんです。もちろんその中には子供もお年寄りも含まれるので、全員が働いているわけではないんですが、ざっくり1億人くらいの働き方や考え方が集まる「図鑑」があればいいなと考えています。

それが「半径5メートル以外」という言葉に含まれているんですね。

自分に似た働き方や考え方を持つ人が、もしかしたら全然違う土地にいるかもしれないですよね。自分に少しでも近い人を見つけて「そういうのもありなんだ」と感じられれば、納得できると思います。

at Will Workで“働き方を選択できる社会づくり”という言葉を決めた際に、「選択できることが人にとって一番の幸せなんじゃないか」と考えました。実は、変わらないということも選択肢の1つなんです。「変えたくないのに変わらなきゃいけない」という状況はストレスになって、そのマイナスのパワーの影響力は、プラスに変化することよりも多大です。例えば「日々流されていて、こんなんじゃいけないな」と思っていても、そのせいで焦る必要はないし、無理矢理変わる必要もない。

自分の納得できる働き方をする、ということですね。

at Will Workの活動でも「みんながみんな働き方を変える必要はない」という話をずっとしています。変わりたくない人は変わらなくていいんですよ。今働きづらいと思っている人やもっと良い働き方をしたいと思っている人は、環境が変わることでパフォーマンスがもっと上がるし、変化は良いことなんですよね。

「変わりたくない人が変わらないという選択肢を選び取る」というのも難しいことのように思えますね。

今はみんなが変化について考えなければならない、世知辛い時代になっていますね。これは本当に大変なんですよ。たぶん女性の場合、親の価値観や周りの人の価値観に縛られることが多いと思いますし、その価値観から抜け出すためには選択肢を知っていないといけない。分かりやすくメディアに登場するような人って「超頑張ってます!」みたいな人が多いんですよね。ストーリーは素晴らしいけど「そこじゃない!」って思う(笑)。選択肢を知らないから動けない、できないという人が多いのであれば、それを知るきっかけをたくさん増やそう!というのが、私たちがやっていることです。

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「変わらなきゃいけない」「変わっちゃいけない」のどちらかしかないのは強制であって選択ではない。人は自分で選択ができるとその結果に納得もできますし、それを信じていけます。それは自分の意思だから。「変えたいと思うことも、変わらないということも、あなたにとっては選択肢なんですよ」と言い続けるようにしています。

「法人の代表理事」「企業の広報」2つの“本業”での働き方

藤本さんの2つの仕事、「一般社団法人at Will Work」「株式会社お金のデザイン」それぞれでの業務を教えてください。

働き方の情報が集まるプラットフォームを作りたくて前職であるGoogleを辞め、法人設立に向けて動く中で、「お金のデザイン」にいる元Googleの同僚の話を聞く機会がありました。自分とは縁遠いところにあった「ファイナンス」というものがとても面白そうに思えたので、「手伝わせてください!」と言って、今年の3月から広報として働いています。

雇用形態はどのようになっていますか?

どちらも正社員なんです。「お金のデザイン」では当初、業務委託契約でいいと思っていました。そしたら「お金のデザイン」会長の谷家(谷家衛さん)が、「君が作りたいのは『選択肢のある働き方』なのに、複数の仕事を業務委託でしかできないという選択肢を作ってしまうのは良くないんじゃないか。2つとも正社員でやるということを、自ら選択肢として示せたらいいんじゃないか」と言ってくれました。

at Will Workでは「代表理事」という名前は付いてはいますが、たまたまです(笑)。拠点は全員ばらばらで、隔週1回の理事会や普段のやりとりは全部オンラインで行っています。

最近では政府や企業で副業や兼業を推進する流れもできつつありますね。2つの仕事、それぞれどれくらいのウェイトで働いているのでしょうか。

最初は時間で区切ることを考えて試したんですが、なんだかあんまりうまくいかない。というのは、お金の話と仕事の話ってすごく密接な関係があるので、「お金のデザイン」の広報としてメディアの方と話しているうちにだんだん働き方の話になっていき、「実はこういうことをやっていて……」とat Will Workの名刺を出すと、両方の話ができるというケースが結構あるんです。今は、時間ではなくてそれぞれのミッションで決めています。

「ミッションで決める」とはどういうことでしょう?

at Will Workの代表理事として、「お金のデザイン」の広報として、何をすべきかというミッションをそれぞれ明らかにします。その中身について分かりやすいように周囲に説明しながら仕事をします。

忙しい時期もあるかと思いますが、時間のやりくりはどうされているのでしょうか?

もちろん時間のかけ方にばらつきはあります。例えば「お金のデザイン」でリリースラッシュがあるときはそちらに寄せて仕事していますし、at Will Workのカンファレンスのときには関連業務がとても多かったので時間をかけていました。それぞれ、どちらにもきちんと説明しながら進めます。1人だけではあまり仕事は進まないけれど、「こういうことをしています!」とどんどん公開していくと、自分が何をやっていて何が大変なのか、上司も含めみんな知っている状態になります。それぞれの仕事に対するアドバイスをもらうこともありますよ。

2つの“本業”をやっていく中で、大変な点を教えてください。

人によって可能な範囲でやり方を模索していく。副業や兼業については、大手の会社がそういう話を踏まえて「あれ、こっちの方が人が辞めない気がする?」という雰囲気になってきている気はします。とはいえ、制度面がまだ全然追いついていないです。例えば、労災ってどっちが払うの? 社会保険は2社で折半するんだっけ? 全然違う健康保険組合だったらどうするの?とか。

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ケースが集まって増えていけば「こんなことが起きる」「あのときはこうで」と話すことができます。前に進んでいかないと分からないことが多いので、自分の働き方のことは積極的に話しています。

判断基準もまだなかなか整っていない状態ですね。

どうしても時間で計るので、私が「どちらも正社員です」と言うと、1日16時間働いていることになるんですよ。今の法律上そういうふうに見えているけど、じゃあ本当に半々かというとそうでもない……。働き方の未来を考える上で、法律で決められないこともたくさんあるし、それをどのようにカバーしていくかが課題だという話はよく出ます。

もちろん労働基準法自体は、労働者の安全を守り、事業者による搾取を防ぐために作られているものです。でも意外とつぎはぎで決まったこと、前例が引き継がれていること、よくよく考えるとおかしいことはたくさんあります。事例が先行している現状で、そこが足かせになっているなら見直さないといけないけれど、例えば労災の例のように事故が起きた場合などで「やっぱりまずい」と変化が阻害されてしまうのは怖いですね。副業や兼業を先行してやっている人たちもその辺りはすごく慎重で、ノリだけでやっているわけじゃないということはとてもよく分かります。

「自分らしさを持つ」というのは幻想。人の良いところはピンポイントで取り入れる

藤本さんが前職のGoogleを辞めてat Will Workを起ち上げた経緯について教えていただけますか?

大学時代から「人と向き合うこと」が面白いと思っていました。新卒時には人材紹介事業とメディア事業をやっている人材紹介会社に入りました。人材紹介で人と向き合うような仕事をしたいと思っていたのに、私はメディアの方へ。しかもやりたくなかった営業に配属されまして……。でもそれが結構面白くて! 当時はまだ紙の求人誌がたくさんあるころで、その会社のストーリー、なぜ採用するのか、採用する人にどんな期待をしているのか、全部が真っ白なページの上で形になっていくのが楽しかったです。

5年目のときに1つ下の後輩と結婚することになったとき「辞めるか、異動か」と言われました。では念願の人材紹介事業に異動だ!と思ったんですけど、ふとそのとき「この先、私自身が転職することってそんなにないんじゃないか」と考えて。どうせだったら何か違うことをしてみようと思って転職活動をして、縁があってGoogleに転職しました。

当時のGoogleの雰囲気はどのようなものでしたか?

Google マップはありましたけどまだストリートビューはない時代でしたね。就職人気企業ランキングの上位に入っているのを見ると感慨深いですね。

2年そこそこ働くくらいで良いかなと思っていたんですが、結局9年も在籍しました。普通の企業がおそらく100年くらいかけてやることを、短期間でやっている最中にいられたのは、とても良かったと思っています。

そんなGoogleを離れたのは法人設立のためということでしたが、法人を作ろうとした動機は?

長くいると一通りいろいろなことができてしまって、7年目くらいから何か新しいことをしたくなりました。いろいろ試行錯誤をしていく中で、当時は「働くお母さん」を支援するプロジェクトだった「Womenwill Project」の手伝い募集を社内で見つけたのがきっかけといえばきっかけかもしれません。「人と向き合うこと」をしたくて人材紹介会社に入ったら広告が面白くなってそこから広告にどっぷりはまって、人と向き合いたいということを一切忘れていたんですけど、「あっ、そうか、これやりたかったやつだ」とそのときに思い出しました。

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当時のプロジェクトを経て知り合った何人かと「もっと対象を広げられたらいいよね」「じゃあ協会を作ります?」という話をしたのが、実はat Will Workを作るきっかけです。独立した組織の方がやりたいことのゴールに近いということが分かったので、Googleを辞めることにしました。

「新しいことをしたかった」と「人と向き合いたいということを思い出した」は、リンクしてはいなかった?

直接リンクはしていないですね。でもたぶん、そのときが、思い出さないといけない時期だったんじゃないかなと思います。ラッキーでした。Googleを辞めるのも「強い意思を持って決めた」という感じではなかったです。葛藤はもちろんありましたし、後から振り返って「当時そのように決断した」ということは言えるんですが、当時の自分が心からそう思ったのではないと思います。そのときに良いと思うことをやっていればいいんじゃないか、やらずに後悔するようなことはしないくらいでいいんじゃないかと。

結婚してからGoogleに入社、そして次のステップに移るなど忙しい中で、プライベートへの影響はありませんでしたか?

あんまりなかったような気がします。私の仕事は自分で時間をコントロールできるので、バランスは取れていたと思いますね。向こうが結婚から5年くらいして会社を辞め、自分で会社を経営するようになってからは、一緒に海外に行くことが増えました。

考え方が似ているんですね。

そうですねー。でも実は私、今年離婚したんですよ。

えっ!? いつですか?

1月です。

つい数ヶ月前……。

はい(笑)。結婚式の記念日に離婚届を出しました。離婚届も婚姻届と同じで証人が2人いるんですけど、婚姻届と同じ証人2人に来てもらってサインしてもらい、4人そろって提出しに行きました。区役所の時間外担当の人が「こういう雰囲気で受け取ったことないんで……」ってすごく戸惑ってました(笑)。

仕事の方向性が変わったことが生活に影響したのでしょうか。

私が2つの仕事を始めて、向こうもまた違う仕事を始めて、2人とも価値観が変わってきまして。結果的にそれぞれのやりたいことを一緒にはできないという話になり、「結婚して10年経ったし、まあいっか」みたいな感じでした。「ライフスタイルとワークスタイルが変化すると、ファミリーのスタイルも変わっていくのは当たり前なんだね、こういうこともあるんだね」って話してます。

今でも彼とは仲良しですし、一番の親友です。周囲からは「どっちかが折れればいいじゃない」と言われましたが、そういうことでもないんですよね。お互いを一番分かっているからこそ、お互いが決めているライフスタイルが違うということも分かっています。なので、今の私たちの最高の選択肢ですね。なかなか理解されていないんですけど。親が未だに戸惑っています(笑)。

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それはさすがに戸惑うかもしれませんね。

周囲の人には「……とはいえ、何があったの?」と聞かれますね。社会的・世間的には「もったいない」と言われますし、なんとなく「うまくいっていることを変えるのは違う」という雰囲気があります。Googleを辞めたときにも「もったいない」って言われました。でもそれらは私が変化を起こした結果の選択肢の1つで、それ以上でもそれ以下でもないです。ワークスタイルがどんどん多様化しているのと同じくらい、今後はライフスタイルも変化していくんじゃないかと思います。たまたま私たちが早かったくらいで。

藤本さんは、働き始めてからずっと今のような考え方をしていたのでしょうか?

昔からではなかったと思いますが、真似をしていてもあんまり面白くないということはずっと感じていました。かといって、すごくオリジナリティを追求したいというタイプでもなく……。ダイバーシティに関する話をしているとロールモデルの話題も出てくるんですが、誰にどんなロールモデルを示したとしても、どうしてもちょっとずつ違うんです。私の場合を考えても、仲の良い先輩やかっこいいと思う先輩はいますけど、やっぱり私とは違う。

at Will Workの理事の1人である猪熊(株式会社OMOYA代表取締役社長の猪熊真理子さん)と頻繁に、「よく女性が『私らしさ』って使うよね、男性はあまり『自分らしさ』『僕らしさ』『俺らしさ』とは言わないよね」と話しています。女性は理想の人を見ると「ああいう人の真似はできない、あんなふうにはちゃんとできない」って比べて考えがちだと思うんです。でも「自分らしさを持つ」って幻想です。理想は理想で、そこにはあくまでもヒントしかないと客観的に割り切って、そして自分がどうするのか考えるくせをつけないと、幸せになりづらいんじゃないかと思います。

理想通りにならなくても自分はこうしていこう、という考え方ですね。

「あの人のああいうところが面白い」と思ったポイントはピックアップして自分の中に取り入れればいいですよね。とにかくいったん「あんなふうにしないといけない!」と考えるのをやめてみれば、実はどうしたらいいのか見えてくるんじゃないかと思っています。同じ人なんて誰もいないし、前提条件もみんな違うし。

幸せのバリエーションは結構多いし、その中のどれかはたぶん自分に合うものがあるだろう、って適当に考える(笑)。人生なんてそんなもんじゃないかな。「あんなふうにならなくてもいい」と分かった瞬間に、結構楽になると思いますよ。

ありがとうございました!

お話を伺った人:藤本あゆみ

藤本あゆみ

一般社団法人at Will Work代表理事 / 株式会社お金のデザイン シニアコミュニケーションズマネージャー。1979年生まれ。大学卒業後、株式会社キャリアデザインセンターに入社。求人媒体の営業職を経て、入社3年目に当時唯一の女性マネージャーに最年少で就任。結婚を機に退職し、2007年4月にグーグル株式会社(現グーグル合同会社)に転職。デジタルマーケティング導入支援、広告営業チームの立ち上げに参画し、営業マネージャー、人材業界担当統括部長を歴任。女性支援プロジェクト「Womenwill Project」パートナー担当を経て、2015年12月にグーグルを退職。2016年5月に一般社団法人at Will Workを設立し、代表理事として活動するとともに、株式会社お金のデザインで広報・マーケティングマネージャーとしても従事している。

次回の更新は、5月24日(水)の予定です。

ニフティの営業担当・橋本さんが大学で専攻していたのはデザイン。営業職との向き合い方は?【おしごとりっすん】

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はたらく女性の深呼吸マガジン『りっすん』では、「企業の中で働く女性」にフォーカスする新シリーズ「おしごとりっすん」を始めます。最初にお話を伺ったのは、ニフティ株式会社でコラムサイト「デイリーポータルZ」などの営業を担当している橋本静香さんです。

美術大学を卒業し、デザイナーという職も視野に入れて就職活動していた橋本さんが、新卒入社した会社で配属されたのは営業。専門分野とかけ離れた職種に、橋本さんはどう向き合い、どう仕事に取り組んでいったのかについてお聞きしました。

デイリーポータルZでは営業と編集部が一体となって仕事をしている

橋本さんは現在「デイリーポータルZ」の営業を担当されているそうですが、今のお仕事について教えていただけますか?

橋本さん(以下、橋本) 営業企画本部の中のコンシューマー営業部という部署にいます。広告周りを見ているチームで、「@nifty」のトップページや「@niftyニュース」などのディスプレイ広告を管理するメンバーが3人、タイアップをメインとするメンバーが私1人です。もともとはアドテク(アドテクノロジーの略。広告の配信や流通の技術・システム全般を指す)とタイアップ記事を両方担当していたんですが、「デイリーポータルZ」(以下、DPZ)のタイアップが売れちゃうから誰か行って!みたいな感じでタイアップがメインになりました。

「売れちゃうから」かっこいいですね!

橋本 一昨年くらいからコンテンツマーケティングが時流に乗ったこともあって引き合いをいただくことが非常に増えたので、担当を1人つけようということに。DPZ以外にも、主婦向けチラシ情報サービス「シュフモ」など、ニフティが提供するサービスのタイアップ案件を全部担当しています。

タイアップ全般を1人で担当されているんですか?

橋本 営業としては1人ですね。

規模の大きい案件があったり、案件が並行したりで、結構大変なのでは……?

橋本 大変だと思うことはそんなに多くはないですね。休むときはチームリーダーに全部やりとりをお願いして平気で1週間休みますし。営業に関係する案件は編集部の安藤昌教さんや他の人がフォローしてくれることもありますね。

DPZ全体がチームになっているんですね。

橋本 編集部との一体感はすごくあります。私は安藤さんと一緒に動くことが多いんですが、安藤さんはすごく仕事ができる人なので、「これお願いします!」って言ったら出来上がって返ってくるし、「面白いこと考えてください!」って言ったら面白い企画が返ってきちゃうし……。

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デザイナー一筋よりは、いろいろな可能性があるニフティを選んだ

ニフティさんに入社された経緯を教えていただけますか?

橋本 大学は美大で、武蔵野美術大学の造形学部視覚伝達デザイン学科というところで情報デザインの勉強を主にしていました。タイポグラフィを学んだり、ポスターを作ったり、Webの企画やユーザーインターフェース(UI)を作ったり……。

デザインを学んだけれど営業をやっているというのは結構珍しいのでは……。そもそも美大出身でニフティさんを選ばれるのもなかなか連想しにくいですね。

橋本 実はニフティには武蔵野美術大学OBが多いんです。私が入社した当時は営業に1人いましたし、エンジニアもいますし、もちろんデザインの部署にもいます。OBが当時のクリエイティブチームのトップで、大学の就職説明会にも来ていました。

デザイナーでの採用があるということですか?

橋本 いえ、ニフティは新卒時は全員「総合職」としての採用なんです。小さいころからインターネットばかりしていたので、「とりあえずインターネット関連のサービスが作れる会社に入ろう、デザイナーだったら何かできることがあるんじゃないか」という気持ちでいくつか会社をピックアップして就職活動をしていました。

 実際にいろいろな会社を見る中で、最初にニフティから内定が出たというのが大きかったんですけど、人事担当の方もものすごく良くしてくれましたし、会った人たちもなんとなく波長が合う人が多くて。

美大だからといってデザイナーにこだわっていたわけではなかったんですね。

橋本 他の会社では基本的にはデザイナー枠で就活をしていました。ニフティで総合職採用になってしまうとデザイナーになれるかどうかわからないということはその時点で教えてもらっていました。入社して1年間のうちに3ヶ所でOJTをして、グループワークなどもした上で配属されるということだったので、その上でデザイナーになれたらなるし、なれないならならないでそういう道もあるかな、と考えました。

迷いはありませんでしたか?

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橋本 多少迷いはありました。でも「ずっと働いていく」ということを勘案すると、デザイナー一筋よりはニフティの方が自分には合っているんじゃないかなと思いました。人事の方にもその点は相談していて、親身になってくれたので、選ばない理由も特にないな、というか(笑)。文系の大学出身で1年目で研修を受けてエンジニアになった人の話も聞きましたし、いろいろな可能性を感じました。

その後営業に配属されることになって、大学での専門であるデザインとはだいぶ離れたと思うのですが、そのあたりはどうお考えでしたか?

橋本 最初のうちは「会社側がデザインの能力をかってくれなかったんだな、がっかりだな、そっかそっかー」って思ったんですが(笑)、私はどちらかといえば「デザインができる! デザイン一直線!」というタイプではないと感じていました。だったらデザインの知識があって、他のこともできるようになった方が、能力を活かせるかな?と考えていて割と前向きでしたね。

焦りが強かった美大での就職活動

よく「美大生の就職活動はスタートの時期が遅い」なんていう話も聞くのですが、ニフティの内定が最初に出たということは、就職活動は順調だったのでしょうか。

橋本 私の周りでは熱心な人とそうでない人の二極化がすごかったんです。デザイン系の学科には、入学したそのときから「広告代理店に入ってアートディレクターになる!」「ゲームの会社に絶対行く!」と活動している優秀な人が一定数いました。そういう人は高校のときから関係する活動を既にしていたり、大学1年のときからインターンに行っていたり。大学に入ってから自分の知らないことが多いことにカルチャーショックを受けました。広告代理店関係の言葉も全然知らなかったし……。

 そんなに優秀な子たちですらずっと頑張っているのに、私みたいなタイプはふわふわしていたらやばい、情報をキャッチするのが遅かった、という気持ちがあったので、早い段階から就職に向けて動かないといけない!と思っていました。

橋本さんは熱心な方だったんですね。

橋本 大学3年のはじめからずっと就職に向けて活動をしていましたね。内定が出るまで1年間くらいそのことばっかり考えていました。私は割と変な負けず嫌いで、周りの目も気になるタイプだったので、周囲より先に決めておきたいという気持ちがどうしてもあって。

大学生活は焦りが強かったんですね。

橋本 方向性がない状態で大学に入っちゃったので、それですごく焦ってました。大学生に向けてこう言うと焦らせるだけになっちゃうと思うんですけど、すべて動くのは早ければ早いほど良いなって私は思いました。高校生くらいから方向性が定まっていた子は、途中で迷ったとしても確実に実力がついていくので。そんな人に大学2~3年から太刀打ちできないな、結構つらいものがあるなって……。

ニフティさんはパソコン通信サービスからスタートしてISP(インターネットサービスプロバイダー)として長く続いてきた会社ですが、社風のミスマッチのようなものはありませんでしたか?

橋本 もともとインターネットがとても好きだったんです。小学校5年生くらいのときにパソコン好きの親がパソコンを買ってくれました。まだダイヤルアップ接続のころだから、「つないだらお金がかかるよ」なんて言われましたね。PostPet(電子メールクライアント)がすごく好きでした。ダイヤルアップからADSLになった中学生のころにはマンガやアニメのサイトを見つつ、イラストサイトを作って交流したり、2ちゃんねるにすごくはまったり(笑)。

「インターネットと一緒に育った」という感じですね。

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橋本 広告系の仕事があることもろくに知らずに大学に入り、周りが広告系の会社を目指しているからなんとなくその勉強もしていて、でもやっぱり働くんだったら一番身近なものであるインターネットがメインの会社がいいなと考えていました。たいしたことはなかったかもしれないけどサイト制作もしましたし、ちょっとは活躍できるんじゃないかな? インターネット業界は若いからいわゆる“お局”もいないんじゃないかな?って。先ほど言った通り美大出身の先輩たちがいたのは大きかったですね。

どんな働き方があるかわからない状況よりはずっと心強いですよね。

橋本 美大生は社会性がないってずっと言われてきたから。私も社会性がないんだ!と思っていました(笑)。普通の企業に入ってもついていけなくなっちゃうと思っていたけれど、そこまで自分と違わない先輩たちがここで普通にやっていけているのであれば、自分もやっていけるかもしれないと思いました。あとはやはり、DPZがあったのは大きかったです。これが許されるのであれば、多少は大丈夫だろう、みたいな。

DPZの存在は大きいですね……! あのような独創性と、プロバイダーとしての運営を両立されていることについては、どう認識されているのでしょうか。

橋本 会社創立当時はベンチャーのような、新しい感覚でやっていたと聞いています。それに、パソコン通信のフォーラムのように、社内だけではなく社外の人と何かを一緒に作り上げるのが得意な会社、という性質があったんですね。DPZは林(ウェブマスターの林雄司さん)が小さなコーナーで始めたものが1つのサービスになりました。それが、どんどん認められるようになって、今は会社のブランディングという位置付けになっています。いろいろなものを受け入れられる土壌がある会社であるということに加えて、DPZがあることで「堅苦しくない部分も持っているんだよ」というイメージアップにもつながっていると思います。

デザインも数値も「人間が作ったものには理由や事情がある」と考える

営業でアドテクも一時期されていたということは、かなり幅広い内容を受け持っていたと思います。広告関連では数値管理などもするかと思いますが、それは配属先で学んで身に付けたのでしょうか?

橋本 私はとにかく数字が苦手だったので、それを克服したかったんです。営業でちゃんと数字を見られるようになった後にその先をいろいろ考えてもいいかな、という気持ちでした。やってみると意外とできるんだなって思いました。

頑張って勉強したとか……?

橋本 数字ってただの数字でしかないので、実はわからない部分にはわからない理由がちゃんと全部あるものですよね。だから、今は「なんで前はそんなに苦手だったんだろう?」くらいに思えるようになりました。慣れるまではめちゃくちゃきつかったです。CTR(クリック率)みたいな3文字のアルファベット多すぎない?とか、横文字多すぎる!とか。

 でも3~4ヶ月やって全体像が見えて「あ、もうこれ以上難しいことは出てこないんだ」って思って、そこを乗り越えてしまうと、良いソフトウェアがあるのでそれさえ見ていればいろいろわかるのが良いなぁ……って。小さいときからパソコンに接していたのも良かったのかもしれません。

「わからない理由がちゃんとある」というのは、理由の存在を見つけて、自分で問題解決していこうという考え方ですね。

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橋本 アドテクでは、数字を追っていくと「このタイミングでこうだ」というのがしっかりデータに全部出てきます。自分で計算処理をするわけでもない。データさえ見れば「じゃあこれお願いします」って調整すればいいだけなので、企画をうんうん言いながら考えるよりは答えがわかりやすい印象がありますね。

デザイナーという職種では、何かをデザインする際にただ漠然と考えるのではなく「この要素がある意味」などを緻密に考えるようですが、それが橋本さんの「理由がある」という考え方に近いのかなと感じました。デザインの知識がそのあたりに活かされているように思いますが、いかがですか?

橋本 活かされているといいですね(笑)。そういう気もします。ソフトウェアに関しては「作った人の気持ち」を考えます。使いづらいところがあっても「なんでここにこれを置いちゃったんだろう?」「作る側の事情もあったんだろうな……」なんて。

デザインを直接やっているわけではなくても、そのマインドを学生のときに培ったという印象があります。

橋本 その通りかもしれません。私は大学に入るまで「文字を作った人がいる」という認識が全然なかったんです。でもタイポグラフィの授業などで、活版印刷の活字って1つ1つ作った人がいることを知って。「人間が見ているものにはそれぞれ作った人がいる」というのは結構大きな発見で、そういう目線でものを見ると、いろんなことが許せるようになるんです。

数字やデータにも「人間が作ったものだからそこに理由がある」とつながるんですね。

橋本 「理由」と「事情」はよく考えますね。なんとなく生きていく中で、ああこういうことか、と腑に落ちた感じがあります。そこを学べただけでも美大に行った価値があったと思います。

目の前の「できないこと」を1つ1つ潰していくことしかできない

仕事のやりがいや、どんな仕事が楽しいかなどについて教えてください!

橋本 やっぱりDPZの記事に企画段階から一緒に入って、実際に記事が公開されてSNSですごく反応が良いと「やってよかった!」と思います。もちろん数値面も大事なんですが、良い記事ができるだけで本当にうれしく感じます。案件によっては調整が必要なこともあるので、そこをうまくできて良い記事になると「よかった」「ライターさんの名前に傷がつかなかった」とほっとします。

編集部との調整に際しては営業としてぶつかるケースもあるのではないかと思うのですが、どのように進めているのでしょうか?

橋本 私は立場上クライアントさんの意向を聞く側で、クライアントさんは直接編集部には言いにくいことを私に伝えてくるので、そこを一般的な観点で考えて「ここまでは大丈夫だと思います」というような話をしますね。それでも編集部のポリシーとして無理であればクライアントさんに「ごめんなさい」と言います。決定権は編集部が全部持っているので。編集部が「絶対いやだ」と言ったら無理強いはしません。それを相手側にどう納得していただくか、そこには気を遣いますね。

タイアップ記事でも編集部が最終決定をするんですね。

橋本 そうです。林はDPZをとても大事にしていて、関係するすべてのメールに目を通しています。最初に林さんから「意に反する記事を載せることで売上を達成できたとしても、サイトとして死んでしまうから、それは絶対にやりたくない」と強い意思を示されて、「わかりました!」と。

仕事で落ち込むこと、うまくいかないことなどもあると思いますが、どんなときでしょうか?

橋本 “営業あるある”ですが、クライアントにアポの打診をしてお返事が来ないとすごくへこみます。5年やっているのにへこむのか、と思うくらいへこみます。何回やっても地味に毎回つらいですね。

落ち込んだときの自分なりの対処法はありますか?

橋本 「すぐ返信をくれるクライアントに連絡する」です。仲良くしてくださるクライアントさん、気持ち良く会いに行けるクライアントさんがいるので、そういうところを大事にしていこうと思いながら連絡します。

仕事の悩みは仕事で解決する、それで癒やされるというのは、営業の鑑といいますか……。

橋本 この前もへこんだんですけど、好きなクライアントさんがメールをくださると「ああよかった……まだ私仕事してていいんだ……」って思います。

【おしごとりっすん】ニフティ株式会社・橋本静香さん

憧れの人やロールモデルのように思う人はいますか?

橋本 基本的にすべての人が憧れレベルなんです。他人の影響をすごく受けやすいので、自然と好きな人の近くにいるように動いているなというのは感じます。安藤さんをはじめDPZのチームの人が1人で海外にばんばん行ったりしている行動力を見ると憧れるし、自分でもやってみようと思います。私は1人でモロッコやキューバに行ったんですが、それはここ3年くらいの話で、DPZの影響でできるようになりました。

DPZの皆さんは、記事を拝見していてもすごく良い雰囲気に見えますね。

橋本 本当にみんな仕事ができて、人間的に穏やかで、怒られることも怒鳴られることも全然ないです。ニフティ全体でやさしいんですが。自分には厳しいけど他人に押しつけない人がすごく多いので、そういう人たちに憧れます。林さんはよく「機嫌良くいたい」と言っていて、それが周りにも影響を与えているんじゃないかと思います。

 たぶん私、この3年くらいで性格が変わってきているような気がしています。ネガティブになりがちな性格だったんですが、DPZのチームと一緒にいると「これでもいいんだ」っていう包容力に包まれるというか……。DPZの存在は大きいですね。プライベートでも見るくらい大好きです。

「これは会心の出来だった!」「最高にうまくできた!」というタイアップ記事を教えてください!

橋本 いっぱいありすぎて、今思うと「全部やってよかった!」と思います。みんなプロフェッショナルできちんと形にしてくれているので……。DPZ全体がアルバムのような感じですね。楽しくない出来事があったとしても「そんなこともあったね」と思えます。印象に残っているのは「大人のお化け屋敷」ですね! これはクライアントさんとDPZのバランスがとても良くて、ギャップをうまく生み出せてよかったです。

お化けのいっさい出てこない「大人のお化け屋敷」 :: デイリーポータルZ

今後のキャリアについてはどうお考えですか?

橋本 明確なものはないんですが、何でもできる人になりたいなって思います。PRやマーケティングの知識ももっとつけて、できることの幅を広げたい。今周りにいる人たちはみんないい人だし、能力がある人たちなのでうまく吸収していきたいです。近くにいる人5人の影響を受けて人間ってできていくと聞いたので、今はすごくいい環境だと思いますね。

 近づきたい人はいっぱいいるしイメージも持っているけれど、それと自分を比較するとどんどん卑屈になって「私はだめだ」みたいになっちゃうので、なるべくそうは思わないようにしようと思っています。まずは目の前にあることに対して自分が何ができるか、できないことを1つ1つ潰していくことしかできないなっていう気持ちですね。

「1年後や3年後はこうなっていたい」という視点も特には意識していない感じでしょうか。

橋本 漠然と「ちゃんと給料上げていかなきゃな」とは思います(笑)。目標を定めて進める方がきっと早いんだろうとは思うんですが、完成像を決めて進むのが苦手な性格だと思っているので、割と小さく小さく、そのときの気持ちが一番ポジティブになれるように生きていった方が私には向いているかなって思っています。

ありがとうございました!

お話を伺った人:橋本静香(ニフティ株式会社 営業企画本部 コンシューマー営業部)

橋本静香

ニフティ株式会社ではフレックス制を採用しており、コアタイムは10~15時。橋本さんは18時ごろには会社を出てすぐ帰宅し、犬と遊んでリフレッシュすることが多い。「お酒があまり飲めなくて、家が大好きすぎる」。一時期はゲームアプリを作ったりオリジナルキャラクターのLINEクリエイターズスタンプを作ったりしていたとのこと。

▼ 橋本さんが開発・制作したアプリ・LINEスタンプ
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次回の更新は、5月17日(水)の予定です。

文・万井綾子/写真・小高雅也