『母親になって後悔してる』翻訳の裏側。後悔してる=子どもを憎んでいる、ではない

『母親になって後悔してる』日本語版の翻訳を担当した鹿田昌美さん

泣き止まない我が子をあやしながら夫が言う「やっぱりママがいいんだよね」
親から何気なく投げかけられる「もうお母さんなんだから、しっかりしなさいよ」

周囲から悪気なく“お母さん”のレッテルを貼られることに気疲れし、「子どもはかわいいけれど、母であることがつらい」「自分は育児に向いていないのかもしれない」と感じながらも、誰にも言えずその思いを心のなかに閉じ込めている人は少なくないはず。

こうした母親たちの後悔と、社会が彼女たちに背負わせている重荷について書かれた『母親になって後悔してる』は、2017年にドイツで刊行されて以降世界中で翻訳出版され、各国で大きな議論を起こしてきました。

2022年春に出版された日本語版の翻訳を担当したのは、数々の訳書を手がけてきた鹿田昌美さん。翻訳を通じて「母親たちの後悔」と向き合った鹿田さんに、これまで語られてこなかった“母親”という役割のつらさについて聞きました。

* * *

『母親になって後悔してる』

母親になって後悔してる

著者はイスラエルの社会学者、オルナ・ドーナト。「今の知識をもって過去に戻れるとしたら、また母親になりたいか」という質問にノーと答えた23人の女性のインタビューから構成され、これまでタブー視されてきた「母の後悔」にフォーカスした本として、欧米を中心にSNSなどでも大きな論争を巻き起こした。日本語版も各界から注目され、多くの著名人によって書評が書かれるなど、話題を呼んでいる。

▶『母親になって後悔してる』(オルナ・ドーナト/著 、鹿田昌美/訳) - 新潮社

「母親の役割を担うこと」のつらさはもっと語られるべき

『母親になって後悔してる』というタイトルは、とても衝撃的ですよね。この本の翻訳を打診されたときのことを教えてください。

鹿田昌美さん(以下、鹿田) 「母親」をテーマとした本なのに、担当が男性編集者さんだったのが意外でした。以前、インターネットの記事でこの本の原著が話題にのぼっていたことから、日本語版の刊行を検討し始めたそうです。

担当編集さん曰く、周囲にいる女性を見ても「結婚して子どもがいて、それだけでハッピー!」という人はあまりいない。またご本人も「結婚しろ」「妻と子どもがいて一人前」という男性だからこその圧力を感じる場面が多かったことから、「母親」や「子を持つこと」に目が向きはじめ、この本を日本でも読んでもらいたい、と私に翻訳の相談を持ちかけてくれました。

鹿田昌美さん

先に出版されていた国々では「“母親になって後悔している”とは何事か」という議論や、著者への強い批判も起きたそうですね。そうした本に関わることに、不安はありませんでしたか。

鹿田 私も最初はタイトルに驚きました。でも読み進めていくと、全編を通して「愛情と希望」にあふれた本だと感じたんです。子どもへの愛情にあふれているし、女性が自分自身の人生をしっかりと歩みたいという希望も感じられる。

著者のオルナ・ドーナトさんの誠実な目線と、誠実に言葉をつむぐ女性たち。タイトルだけで拒絶されてしまうのはもったいない、素晴らしい本であることを伝えられたらと思い、引き受けました

この本を日本で出版することに、どのような意味を感じていましたか。

鹿田 日本でこの本を出すこと自体に意義がありますし、それ以上に、本を手にした人が何かを感じ取ったり誰かと意見を述べ合ったり……。そんなふうに受け入れてもらいたいですね、と担当編集さんと話していました。

日本語版はレイアウトやデザインもすごく凝っていて、インタビュー部分は枠で囲み、フォントも変えているんです。担当編集さんが社内で「忙しくて本を読む時間がない育児中の人にも読んでもらうためにはどうしたらいいか」と意見を募ったところ、育児中の女性から「より共感しやすいインタビュー部分だけを拾い読みできるようにしては」という声があったそうです。

『母親になって後悔してる』電子版 日本語版はインタビューパートが一目でわかるよう枠で囲まれている(『母親になって後悔してる』電子版 )

翻訳にあたり、著者のオルナ・ドーナトさんから何か要望はありましたか。

鹿田 本でも再三触れられていることではあるのですが、「母親になったことに対する後悔」と「子どもを産んだことに対する後悔」を混同して訳さないでほしいと依頼がありました。

とてもセンシティブな内容なので、「誤解が生まれないように」にはかなり心を砕きましたね。例えばインタビューに答える「23人の女性」は、全員が仮名でおおよその年齢と子どもの数、子どもの年代しか情報がないんです。

そんななかで色をつけることなく、息遣いやリズムを誠実に訳しつつ、まるで本人がそう語っているかのように表現し、後悔を語る母親たちの声を日本語に置き換えていくにはどうすればいいのかを考えながら翻訳しました。

「後悔してる=子どもを憎んでいる」ではない

そうして刊行された日本語版も、これまで刊行されてきたその他の国と同様に、大きな話題を集めています。「母親になったことへの後悔」というテーマが、なぜこれほどまでに議論を呼ぶのだと思いますか。

鹿田 母親という存在はある種の「聖域」のように捉えられがちで、そこへ斬り込んだことが大きいのではないでしょうか。当事者である母親以外の人の感情も揺さぶるテーマだと思います。

自分の中の完璧な存在としての「母親」が脅かされる不安、を感じている人もいそうです。

鹿田 それもおおいにあると思います。でもこの本で「後悔」を告白をしている女性たちは、自分の子どもを憎んだり、暴力をふるったり、虐待をしている人ではない。むしろ、すごく子どもを愛していて、責任と愛情をもって育てている。ただ、母親になったことで担わねばならなくなった「母という役割」がつらいんです

鹿田昌美さん

子どもを愛しく思うのと同時に憎らしくも感じる「相反する感情を同時にもつこと」と、母になったことへの後悔は別のものであると、本の中でも明言されていますよね。しかし他者のこういった気持ちを理解したり、受け止めたりすることは非常に難しいことなのではとも感じます。

鹿田 そうですね。「母親になって後悔してる=ひどい母親に違いない」などと他者のことを決めつけるのは、その人の気持ちが理解できなくて戸惑う自分の心を守る手段としてとても楽ですから。特に今の時代は情報が多過ぎるので、SNSなどで流れてきた都合よく切り取られた情報だけを鵜呑みにしやすいですし。この本も「母親になって後悔してる」という言葉だけが切り取られがちです。

でも同時に、いまは「多様性を受け入れる」方向に少しずつ進んでいる世の中だとも感じています。「こういう人もいるんだ」「そういう価値観もあるんだ」と、その人を排除するのではなく、寄り添いながら共存する道がないかを模索できるといいのではないでしょうか。

確かに。5年前に発売された原書の反応と比較すると、日本では肯定的に受け入れられていることも多いように感じます。

『母親になって後悔してる』原書と日本語版 原書(左)と日本語版(右)


鹿田 この本の発売を告知をしたときには、「これはわが家の本棚には置けない」と言われるなど、タイトルへの反応が多かったんです。ですが、出版後には多くの方が書評を書いてくださり、そのどれもがあたたかい言葉にあふれていたのが印象的でした。

もちろん、タイトルだけで拒絶してしまう方もいると思いますが、読み進めてくれた方からは「共感しました」「感じていたことを言葉にしてもらえてよかった」といった好意的な感想がとても多いと感じています

「母親になって後悔してる」なんて、なかなか口にできない言葉ですよね。でも、こうした本が出たことで「それもありなんだ」「そう思ってもいいんだ」と、気持ちの居場所のようなものが一つ増えたというのも、この本の画期的なところだと思います。

「お母さん」ではない一人の人間として、主体的に生きるということ

鹿田さん自身もお子さんをもつ「母親」ですが、社会が母親に背負わせている重荷を感じたことはありますか。

鹿田 私は子どもが0歳のときから、保育園の助けを借りながら育児と翻訳を両立してきましたが、マイペースな性格だからか、母親としての重圧や社会からのプレッシャーを感じることは少なかったと思います。

ただ『母親になって後悔してる』に登場する女性や、いま多くの女性が感じている「生きづらさ」のようなものは少なからず理解できます。こういった感情は主体的に生きられていないと感じたときに生まれるように思うんです。

主体的に生きる、ですか。

鹿田 かつての女性は何かを「する側」である「主体」ではなく、「される側」の「客体」だった。例えば昔のハリウッド映画では女性が主人公のものは少なく、常に主人公の男性から「見られる」「求められる」「選ばれる」存在として描かれたものが多かったんです。しかし、時代の移り変わりとともに女性が主体的に活躍する作品も増えましたよね。

確かに、自分の足で力強く歩んでいる女性を描く物語も多いですね。

鹿田 そうなると今度は「もっと頑張らなきゃいけないの?」とプレッシャーを感じてしまうかもしれない。

女性に求められることって、年々増えているように感じませんか? 働く、結婚する、出産する。仕事をしながら家事や育児もこなして、服装やお化粧など見た目も気遣い、向上心があり自分磨きも怠らない……。どんどん項目が追加されていて、息苦しさを覚える女性が増えているのではと感じています。

さらにいえば、女性だけではなく男性も「出世しろ」「家庭を持て」といったプレッシャーをかけられ、そうではない人生を選び取りにくくなっている気がして。この本では「母親」に焦点が当てられていますが、「価値観の押しつけ」は誰しも経験したことがあるのではないでしょうか

映画の世界の女性のように、現実の社会でも「多様性」を認める動きが高まっています。誰もが「自分は自分らしく」と主体的に生きられる社会になればいいなと願っています。

鹿田昌美さん

「お母さん」という役割につらさを感じている人が、「私」という主体で生きていけるようになるといいですよね。私自身、大人になって母と対話するようになってから、「お母さんってこういう人だったんだ」と感じることが増えました。お母さんも一人の人間だったんだ、みたいな。

鹿田 子どもの立場からすると、「お母さんも人間だったんだ」ってすごい気づきなんですよね。それを、自分が母親になったときに娘や息子にも伝えていければいいのかなって。「母親」の神聖な部分を否定する必要はないと思うんです。ただ、そうでありながら、やっぱり「母親も人間である」ことも忘れずにいられたら、子どもも親も、もっと楽に生きられるのではないでしょうか。

取材・執筆:藤堂真衣
撮影:小野奈那子
編集:はてな編集部

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お話を伺った方:鹿田昌美さん

鹿田昌美

翻訳者・著者。国際基督教大学卒。小説、ビジネス書、絵本、子育て本など、70冊以上の翻訳を手掛ける。近年の担当書に『フランスの子どもは夜泣きをしない』(パメラ・ドラッカーマン著、集英社)、『世界を知る101の言葉』(Dr.マンディープ・ライ著、飛鳥新社)、『人生を変えるモーニングメソッド』(ハル・エルロッド著、大和書房)などがあるほか、著書に『「自宅だけ」でここまでできる!「子ども英語」超自習法』がある。