こわがり屋の絵本編集者が、産後うつの末にようやく見つけた“不安と上手につきあう方法”


仕事上だけでなく、生活しているとさまざまな場面で「不安」を感じることはありませんか? 不安がちであるがゆえについ過剰な心配をしてしまったり、なかなか一歩が踏み出せなかったり……。そんなとき、つい不安がちな気質を「克服」しないと……と考える人もいるかもしれません。

「だるまさん」シリーズなどの編集を手がけ、現在はフリーランスで絵本の編集者として働く沖本敦子さんも、生粋の「こわがり」。産後は、不安がちな性格が要因の一つとなり産後うつも経験されたそうです。

長く不安に悩まされるうちに、「創造性」がうまく発揮されていないと精神的な健やかさが保てないと気がついた沖本さん。生きていく上で、「不安」と「創造性」どちらもが自分にとって必要なもの、自分の味方になりうるものだということに気付きます。

そうして「不安」と「創造性」をチームメイトのように捉えフリーランスになった沖本さんは、自身の経験を生かし「不安」をテーマにした絵本の編集を担当することとなります。今回、自身にとっての「不安」との向き合い方について、寄稿いただきました。

***

15年間勤めた出版社を辞め、フリーの子どもの本の編集者になって2年半が経つ。会社という客船から降り、気心知れた同僚たちとも離れ、見るからに心細いゴムボート的な何かにのり、大海にひとり漕ぎ出す……。

生粋のおびえ系であるわたしが、大それた決断をしたものだと思う。しかし、40代の入り口で、フリーランスという働き方に舵を切ってみて、今のところ、わたしは非常に幸せでいる。そこに至るまでの、わたしと不安の物語を、今日は少しだけ書いてみようと思います。

いきなり登場する不安

「……でも、それさ、需要なくない? 唐突にそんな自分語りされてもって、思われちゃうかもよ」

こんな具合に、不安はわたしの生活に日常的に出現する。わたしの不安は、極度の心配性で、何か新しいことをするときは、浮かない顔で毎回律儀に現れる。今もわたしの肩にちょこんとのり、心配そうにモニターを覗きこむ。

「まあね。でもさ、最近は価値ある情報を提供することにみんなが夢中になりすぎだし、いびつで無価値なものが、すました顔で堂々と存在することで、何かのバランスが取れるかもしれないよ。役に立つことを言える人、全然役に立たないことを言い続ける人、両方いなきゃ世も末だよ」。そう言うと、不安は小刻みに頷いて、少しだけ微笑む。

不安とわたしは、こんな風に頻繁に雑談する。

わたしの不安は、考え方がやや極端で、登場過多ではあるものの、案外もっともなことを言うし、心配性なだけあって物事を深く考えているので、尊重して耳を傾け、対話ができると、結果的に良きものをもたらしてくれるのだ。

とはいえ、わたしと不安の関係が昔からこんな風に良好だったわけではない。正直、不安には、ずいぶん振り回されてきた。精神的にタフな人と臆病な自分をくらべ、長年ため息をついてきた。

しかし、不安にとことん付き合ううちに、不安はわたしの人生を、より魅力的な方向へ導こうと不器用に手を引く、憎めない存在だということがわかってきた。ちなみに現実世界でも、スマートで合理的な人よりも、不器用で効率の悪い、ちょっと変わった人に、断然わたしは惹かれてしまう。

産後うつを通じて、不安がわたしに伝えてきたこと

子供と一緒に過ごす様子

不安とわたしが、最も敵対したのは産後うつ時代だ。当時のわたしは、不安を嫌悪し、恐れていたので、大変に苦しんだ。でもまあ、この時期があるから、我々の今がある。産後うつは、想像を絶するほど苦しいものだったが、我々にとっては記念碑的な出来事となった。産後うつの詳細については、ここでは書かない。誠実に書こうと思うと、字数が足りない。

でも、これだけは書いておこう。当時、産後うつのわたしを極限まで苦しめた最大の不安と恐怖は、「今のわたしの存在が、子どもに悪影響を与えたらどうしよう。将来、取り返しがつかないことになるかもしれない」というものだった。

光のかたまりのような、無垢な子どもの隣で心を病み、十分な愛情が注げない。そのことが、あまりにつらく恐ろしく、肥大化した罪悪感が、回復に向かおうとする僅かな気力を、根こそぎ奪っていく。ネット上には、愛情の欠如が、子どもに与える恐ろしい影響を記した情報が無限にあり、虫の息の母親を、容赦なく追いつめる。

さらに、わたしには、夫や家族サポートも十分にあった。なので、そもそもわたしという人間が、母親に不適格なのではないか、間違った人間が子どもを産んだのではないかという、今思うと不可解なほどネガティブな自分の声にも、容赦無く攻撃された。これは、産後うつになったお母さんが、多かれ少なかれ経験する苦しさではないかと思う。

「でもさ」

専門家でもないわたしが、適当なことを言うべきではないかもしれない。けれどもわたしは、小声で言う。未来につながる朝が怖くて、夜明け前にがたがたと震えていた、かつてのわたしのようなお母さんに向けて。「子どもはきっと大丈夫。あとさ、わたしたちも大丈夫。一人でそう思えなかったら、まずわたしたちが、今から一緒にそう思い合うことにしない?」

うつは、自分で自分を責め苛(さいな)む不思議な病気だ。将来は、現在の先に永遠に存在し続けるのだから、未来に怯えていると、あの奇妙な自責の森から抜け出せない。

子どもには、自分自身で伸び、生きようとする力が、想像以上に備わっている。取り返しがつかないことが起きたとしても、そこから大切なものを取り返していく強靭さが、人間には宿っているのだ。無理矢理にでもそう信じることで、気持ちの消耗を防ぎ、呼吸を整える。そのうちに、少しずつ思考が戻り、森を抜けだす小道が、目の前に現れる。

この時期、不安が大暴れしながらわたしに伝えようとしてきたのは、「子どもは子ども。わたしはわたし。自分の不安を解消するために、子どもの失敗や困難といった成長の機会を、あらかじめ奪ってはいけない」ということだと思う。人間に備わる力を信じ、困った時はフォローしあう。でも、心配のあまり、他人の人生のハンドルを奪い、勝手に運転してはだめ。

天職だと思っていた仕事に翳り

産後うつから回復してからは、穏やかな日々が続いた。凪いだ心で子どもと夫と笑い合う日々は幸せだった。頭がまるで働かず、たった数行のメールを何時間かけても書けなかった、産後うつの時のあの恐ろしい焦燥感と絶望はどこにもなかった。仕事仲間も、以前と変わらぬ自然な態度とあたたかい笑顔で、わたしを受け入れてくれた。「ああ、よかった」。わたしは心底安堵して、なんてことのない日常の美しさを愛で、日いちにちと変化する子どもの成長を慈しんだ。

けれども、数年前から、不安がたびたびわたしに寄りかかってくるようになった。産後うつの時のような強烈な存在感ではないが、いつもなんとなくそこにいる。「なに?」と聞いても、不安は浮かない顔をするばかり。むーむむ、と思いながらも、わたしはお弁当をつくり、地下鉄に揺られ、会社に行って仕事をし、保育園に子どもを迎えに行き、食事をしてお風呂に入れ、絵本を読んで寝かしつけた。

わたしは、子どもの本の編集者という自分の仕事が好きだ。自分の持ち場で作品に関わり、愛情を注いだ本はひたすらに愛おしい。手がけた本を書店で見ると、その輝きに惚れ惚れする。こんなに楽しいことをしてお給料をもらえるなんて最高。30代半ばまでは、そんな風に思っていた。

しかし、34歳で流産を、35歳で出産を、その後、産後うつという過酷な経験をし、わたしは変化したのだと思う。楽しいだけでは、嫌になった。もがいて掴んだ、おぼろげな自分の考えを、著者の土俵である創作物に重ねようとすることも、我ながら無礼で浅ましく、そんな自分を疎ましく感じるようになった。

要は、当時のわたしは、回復を経て、成長した自分の思考や創造性を、もてあましていたのだろう。お皿のない場所に、いきなり自分の創造性を盛りつけては、困惑される。そんな具合だったのかもしれない。仕事では、求められていない動きばかりした。自分の創造性が乗りすぎた企画は落とされ、戸惑うわたしが次に出すのは、さらに己の創造性が色濃く出た企画で、それはもちろん、会社が望んでいるものではないのだった。

初期の作品を、試行錯誤しながら一緒に作ってきた作家さん達は、年月と共に表現に磨きをかけ、進化していく。その創造性は、美しく逞しく成長し、眩しいほどだ。その成長を誇らしく思う一方で、わたし自身の創造性は、迷走して場ちがいな場所に顔を出しては、眉をひそめられている。わたしは、自分だけが成長できないまま、かつて賑わっていた場所にぽつんと佇み、取り残されていくような寂しさを感じていた。

次第に、天職だと思っていたわたしの仕事に、いやな翳(かげ)りが差すようになった。機嫌よくそよいでいた心が萎び、愚痴が増え、自分のことが嫌いになった。うつはすっかり治り、体力も戻っていたので、当時は代替行為みたいなものをよくやった。子どもと絵を描き、工作をし、料理にも凝った。美容院を変え、ネイルサロンに足を踏み入れ、今まで着なかったタイプの服を買った。どれも、楽しかったけど、楽しくなかった。特に子どもに関わることは、自分のくすぶる創造性を、子どもの舞台で身勝手に消化しているような、後味の悪さが残った。

夜の日比谷公園で嗚咽して気づいたこと

そしてついに、感情が暴発した。帰宅途中に寄った夜中の日比谷公園で、わたしは泣いた。嗚咽とともに、内からの言葉が、か細く漏れる。

「……かわいそうだよ。わたしの創造性がかわいそう。どこに行っても、気のいいわたしの創造性が、場違いで、疎まれているように感じてさ。いつもおずおずと遠慮させられて。そんなの、断然かわいそうじゃん」

改めて目をやると、わたしの創造性は不憫なほどやせ細り、おどおどと怯えていた。

「あんた……こんな姿になって。窮屈な思いをさせてごめんよ」

この子が萎縮せず、のびのび過ごせる場所が必要だ。会社を辞め、新しい場所で、自分の力と責任で仕事をしよう、それがいいとわたしは思った。その瞬間、涙はぐんと勢いを増し、つめたく湿った夜中のベンチで、40オーバーの中年女は声をあげて泣いた。それは、蔑ろにされていたわたしの創造性が、「やっと気づいてくれた」と安堵して流す涙。苦しい涙ではない、あたたかいよい涙だった。

この時期不安が、じっとりと居座りつづけ、わたしに伝えようとしたことは、自分自身の創造性を疎み、押し殺して働き続けることの危険性だった。生きていく上で、不安と創造性は、わたしにとって大切な両輪なのだと、この夜改めて理解した。

こうしてわたしは、2019年の秋に会社を辞め、フリーランスとしてスタートを切った。創業メンバーは、不安と創造性、それからわたし。この3人となら、きっとうまくやれる。そして実際、新たな挑戦に怯えつつ、3人でこわがりながら挑んでいく変化の日々は、最高なのだった。

自由になった創造性が、気ままにそよぎ、くるくるとアイデアを出す。危なっかしい部分を不安がホールドし、計画が進行する。不安と創造性の両輪がうまく回りだすと、わたし本来の持ち味である楽観性と不謹慎さが戻ってきて、「失敗しても大丈夫。とりあえずやってみてさ、怒られたら全力で謝ろう」と、次第に肩の力が抜け、深く呼吸ができるようになった。

こわがり作家と編集者で、キャリアを生かした絵本づくり

そんなある日、絵本作家の新井洋行さんが、絵本のラフを見せてくれた。『かいじゅうたちはこうやってピンチをのりきった』というその本のテーマは「不安」。読んですぐ「この本の編集者は、わたしだと思います。絶対担当させて下さい」と、前のめりにお願いした。

新井さんは新井さんで、長年独自の工夫を重ね、自らの不安や恐怖との付き合い方を模索しつづけてきた人だ。我々は、お互いの不安の歴史を熱く語り合った。カフェを出た後も別れがたく、真夏の炎天下の道を、本郷から神保町まで、不安トークをしながら歩き続けた。新井さんは、わたしの熱量に若干引いていたかもしれない。でも、心が動いた企画に出会った時の編集者なんて、多かれ少なかれ、こんなものだとわたしは思う。

精神科医・森野先生の言葉に出会う

『かいじゅうたちはこうやってピンチをのりきった』は、強力な仲間を得て、快調に進んでいった。子どものメンタルヘルスの絵本なので、精神科医の森野百合子先生にもチームに入っていただいた。

そして、森野先生と話す中で、心の底から納得する言葉にわたしは出会う。それは、精神治療のひとつの定義で、「その人が持って生まれた能力が、100%発揮できているのが、精神的に健康な状態である」というもの。

わたしが持って生まれた能力。それは「不安を抱き、こわがる力」と「それを慰め、元気づけるための創造性」のふたつだ。両者の相関関係は面白く、不安がなければ創造性は発揮されないし、創造性が消えると、不安が暴走し、わたしの心は均衡を失う。要は、不安と創造性が交互に顔を出し、ちょこまか動き回る今のわたしの状態こそが、100%精神的に充足して、健やかであるということなのだ。つまり、不安を追放しちゃったら、わたしの心は幸福ではないのだ。

かつて、自分の臆病さを恥じ、不安克服本を読み漁った時期がある。根が素直なわたしは、書かれたことを真に受けて、あさっての方向に努力を重ねた。ちなみに、どのメソッドも見事に効果ゼロだった。神様は、さぞかし気を揉んだことだろう。「ちがうちがう。お前が行くのはそっちじゃない。せっかく授けたものを、なぜ捨てようとするんだ……」と。

おびただしいトライ&エラーののちに、ようやく体ごと理解した「不安こそが、わたしに与えられた天賦の才能」という考え方。これ以降、不安はわたしの中にはっきりと居場所を確保し、その部屋で堂々とくつろげるようになった。

不安と対等につきあうための基礎訓練

調子にのってぺらぺらと、わたしと不安の物語を語りすぎた。我ながらおなかいっぱいだ。最後に、不安と良好な関係を築くわたしなりの心得を綴り、いい加減終わりにしよう。
 
わたしの不安は、個性的で魅力的な分、対等に付き合うためには、こちらもそれなりにトレーニングする必要がある。これは不安に限らず、人と萎縮せずに向き合い、対等な関係を結ぶためにも有効な、日々の基礎訓練だと思う。

毎晩きちんと眠ること。部屋をきれいに保つこと。食事をとること。ちょっとした運動を、細く長くつづけること。他者と適度に交わること。情報は、時に意識して遮断すること。ネットの細切れな情報ではなく、本からまとまった知識を吸収すること。緑に触れること。心がはずむ、面白いものや、美しいものに触れること。新しい風を入れ続けること。そして、これが難しくはあるのだが、できる限り、人に対するナイスさを失わないこと。ナイスなわたしでいる限り、不安も創造性も、わたしのそばにいてくれる。

当然全て完璧にはできない。でも、不安との関係が乱れてきた時には、このどれかをやるといい。コンディションが乱れると、せっかく不安が雑談しにやってきても「消えろ。お前なんか大嫌いだ!」等暴言を吐いてしまい、傷ついて巨大化した不安に報復される。その迫力に、創造性は怯えて姿を消す。この悪循環はもったいない。だって、我々3人チームで進む先には、信じられないほど素晴らしい景色が待っているかもしれないのだ。

あのふたりが、愛想を尽かしてわたしの元を去ってしまったら、その喪失感は絶対に埋められない。彼らのいない空疎な日々など、わたしは到底耐えることができないだろう。不安と創造性と共に、わいわいがちゃがちゃやりながら、不器用に紡ぐ日々を、今のわたしは、心の底から愛しているのだ。


著者提供画像



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著者:沖本敦子

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1978年生まれ。子どもの本の編集者。ブロンズ新社勤務を経てフリー編集者となる。 編集を手がけた絵本に「だるまさん」シリーズ(かがくいひろし)、ヨシタケシンスケの発想えほんシリーズ、『たまごのはなし』(しおたにまみこ 以上全てブロンズ新社)、『かいじゅうたちはこうやってピンチをのりきった かいじゅうとドクターと取り組む1 不安・こわい気持ち』(作/新井洋行 森野百合子監修 パイインターナショナル)他多数。麦田あつこの名前で文章の仕事も手がける。作品に『ねむねむこうさぎ』、『こうさぎぽーん』(絵/森山標子 ブロンズ新社)、『どんな おべんとう?』(絵/いわきあやこ 小学館)他。日本大学芸術学部非常勤講師。9歳男児と夫の3人暮らし。
連載:ひとりがわそろこ絵本相談室
Twitter:@AtsukoOkimoto