起こってもいないことに不安を感じたら、まずは客観視。「最悪の結果」は妄想しない|小沼 理

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誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、ライターの小沼理さんにご寄稿いただきました。

まだ起きてもいないことを想像し、心配で何も手につかなくなってしまう……。そんな不安との付き合い方に悩んでいる人も少なくないのではないでしょうか。

小沼さん自身も「最悪の結果」を想像するあまり、身動きが取れなくなった経験があるといいます。しかし、それまで付けていた日記をブログで公開し、過去の自分と向き合うことを通じて、徐々に「悪い妄想」に取り憑かれることが少なくなったそう。小沼さんに訪れた変化とは?

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「絶対に最悪の結果になる」という妄想にはまり込む

今日が締め切りの原稿をようやく送信した。昨日のうちに書き終えていたのに、送る直前で時間がかかってしまった。提出前に念のため見直していたら、ふと不安になってしまったのだ。
 
企画書を開いて、必要な要素が入っているかを確かめる。取材を経て変わったところもあるけれど、基本は網羅してあるから大丈夫だと思う。メールを読み返し、取材後に交わした編集者とのやりとりを思い出す。その時の微妙なニュアンスも、なるべく反映するようにしている。問題はないように見える。

とはいえ、死角は気づかないから死角なのだ。それは見落としがないことを意味しないのではないか。全てに対して疑心暗鬼になる。要素は足りているけれど、クオリティがまったく足りない可能性もある。

「書き出しに魅力がありません。中盤は理解できますが後半にかけて論理の飛躍が見られますね。終盤はもっと盛り上げてほしいです。明日までに全て書き直してください」

原稿を送った途端、すぐさまそんな返信が届く想像が膨らむ。考えうる最悪のパターンが頭にこびりついて離れない。そんなはずはないと思っても、Gmailの「送信」を押すのが怖い。青いボタンが、期待して仕事を依頼してくれた人を落胆させるスイッチに思えてくる。そうして、どっちでもいいような「てにをは」を頭から直しはじめてしまう。

「どうして」を「なぜ」に、「私は」を「私が」に修正したところで我に帰った。クオリティを高めるためにやっているふりをしているけれど、こんなの事態を先送りしているだけだ。そもそもどんな反応が返ってくるかは提出してみなければ分からないのに、どうして必ず悪いことが起きると思い込んでいるんだろう

これはただの空想の不安で、一人で考えていてもどうしようもない。不安だから送れずにいるけれど、さっさと送った方が不安から解放されるんじゃないか……。
 
急速に膨らんでいった不安が、今度は穴の空いた風船のようにあっという間に萎んでいく。送信ボタンはただの送信ボタンに戻っている。でも、まだ少し怖い。こういう時はなぜか送信予約機能を使うと気持ちの負担が軽く済むので、適当に数分後に設定してパソコンの前を離れる。夕飯の支度でもして気を紛らわそうとキッチンへ向かう。
 
絶対に最悪の結果になる。その妄想に、よくこうしてはまり込む。だけど今日は比較的素早くやめられたと、片手鍋に湯を沸かしながら思う。昔はもっと、一度はじまると長いこと囚われていた。

「転ばない」ことばかり考えるようになった理由

心配性で臆病。一言で言えばそういう性格なのだと思う。幼い頃、空き地で自転車の練習をしていた私はなかなか漕ぎ出すことができず、どうしたのかと話しかけてくる母に「いま漕ぎ方を考えてるから待って」と言ったという。隣では、膝にすり傷を作った双子の姉が再び果敢に漕ぎ出そうとしていた。

お姉ちゃんみたいに体で感覚を掴まなくちゃ。今ならそれも分かるのだけど、十分なシミュレーションができてからでないと動けないのが自分だった。

昔から「転ばない」ことばかり考えている気がする。待ち合わせにはだいたい早過ぎるくらい早く着くし、出かける時はあれもこれも必要な気がしていつも荷物が多くなる。それは悪いだけではなくて、余裕を持って家を出たから電車が遅れても大事な予定に間に合ったことや、突然の雨でも傘を持っていて濡れずに済んだこともある。

でも、それもほどほどを心がけておかないと、高過ぎる保険料みたいに毎日を圧迫していくし、転ばないことが最優先になり「漕ぎ出す」ことがどんどんできなくなってしまう

小沼理さん記事中写真

特に私は一人の時よりも、誰かとのコミュニケーションにおいて「転ばない」を優先してしまう傾向があった。今日の原稿の提出にしても、編集者からの(妄想の)激詰めが頭に浮かんでから、一気に身動きが取れなくなっていった感じがある。相手を自分に対して極端に攻撃的な存在として「悪魔化」してしまうのだ。勝手な空想で遠ざけるのだから相手からすればこんなに失礼なこともないと思うのだけど、どうしても時々こうなってしまう。

それがどうしてなのか考えてみる。もともとの性格もあるだろうけれど、ある時期「突然怒る人」の近くで生活していたことが影響しているのかもしれない。その人は常に不機嫌そうにしていて、こちらが何か気に入らない言動を取るとすぐに怒鳴った。機嫌がよさそうに見える時でも、ちょっとしたきっかけであっという間に態度が豹変した。対応を誤ると一触即発という空気の中で、私は常に最悪のパターンを想定するようになり、間違えない選択ばかりを無意識のうちに選ぶようになった。

あの環境から離れて数年がたっても、頭が真っ白になる感覚を身体が覚えている。いまだにその人の存在が自分に暗い影を落としている。あまり認めたくないことなのだけど、私の心配性が歪みながら強化されていった原因の一つだと思う。

ブログを書き、公開することで思考の癖に気づいた

悪い妄想が厄介なのは、渦中にいるとまともに思考が働かないことだ。それ以外の考えが思い浮かばなくなって、自分が堂々巡りしていることに気づけない。抜け出すためには、外から自分を眺める必要がある。
 
私の場合、その助けになったのが日記だった
 
15歳から日記をつけている。自分用に書くだけでほとんど読み返しもしなかったのだけど、2020年からブログで公開するようになった。コロナの流行が拡大した時期で、この前代未聞の状況をもっとちゃんと記録しておこうと考えたのだ。その日記はまとめてZINEにして、それがきっかけでやがて書籍にもなった。

『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』(タバブックス)

新型コロナウイルスの流行や元首相銃撃事件など、変化の激しい社会の中で生きる3年間の日記をまとめた1冊

日記では、自分の心の動きや、その日一日の行動を書く。なんとなく腑に落ちなかった体験や、モヤモヤしていたことを振り返って言語化することもある。

言語化と言っても、最初は「こんなことがあって、なんかモヤッとした」だけでもいい。一言でも書いておくと、一週間、一カ月と続けるうちに、「このモヤッとした感覚、前にも書いたかも」と気づく日が訪れる。

生活しているだけでは見落としていたであろう既視感によって、ばらばらの点がじつは線として結べることを発見する。そうすると、問題の輪郭が浮かび上がってくる。「モヤッとした」の一言を、さまざまな角度から見つめるきっかけが生まれる。

日記をつける中で既視感を覚えて、遡って読み返してみる。すると状況は違えど、何かが起きる前から過剰に不安がっている自分が記録されている。その日はずいぶん深刻なトーンで書かれていて、なんかお腹が痛くなったりとかもしていたようだ。
 
少し前の自分と今の自分は連続しながら同じではないので、距離をとって冷静に眺めることができる。そして「この人(自分)、いつもひとりで不安がって苦しんでるな……」と気づく。半ば呆れて苦笑しながらだけど、それも悪い妄想の渦中にいたらできないことだ。渦に巻き込まれている時はいつも、真顔で眉間にシワが寄っている。
 
こうして苦笑いから思考がはじまる。妄想の軌道から弾き出されて、「いつも同じことで苦しんでるな」が、「それはどうしてだろう」に形を変えていく。
 
観察してみると、悪い妄想に囚われている時の私は不安への理解が漠然としていて、今ひとりで悩んで解決できることなのか、いったん動いてみないとどうしようもないことなのか、その区別がついていないようだった。そして、悩んでもどうしようもないことなのにできる範囲で手を動かし続けるという本質的ではない対策をとってしまい、逆にすり減ってますます不安になっているのだと分かった。
 
客観的に見つめて整理すると、不思議なことにそれだけで不安は扱えるくらい小さくなる。そのプロセスを、私は日記を通じて自然に繰り返していたのだった。
 
ブログとして公開していたことも役立った。私は自分のためだけに書いた粗雑な日記を、誰が読んでも分かるものに整えてから公開していた。それは書きっぱなしの文章を「じっくり読む」行為だ。「書いて、じっくり読みながら、また書く」という作業を通じ、心をつぶさに観察したことが、自分自身への理解度を高めてくれた

現実は大抵、ほどほどの結果に落ち着く

私はすぐに悪い妄想に取りつかれる。そのことに気づいたからといって、すぐに手を切れるわけではなかった。最初の頃は、生活している中では妄想に散々振り回され、日記で1日を振り返る時にようやく「あれは悪い妄想だったな……」と自覚するような感じだった。でも、繰り返す中で少しずつ、自覚するまでにかかる時間が短くなっている。
 
いがらしみきおの漫画『ぼのぼの』(竹書房)で、印象に残っている言葉がある。ある日ぼのぼのは遊びに出かけた時、持っていた貝を早い段階で全て食べてしまった。ぼのぼの(というかラッコ)はやわらかそうに見えるけれど、実は皮下脂肪がほとんどない。一般的にはとても寒い海に生息しているから、体温を保つのに多くのエネルギーを消費するため、食べ続けないとすぐ凍死してしまう。

「貝をぜんぶ食べちゃったなァ…」
「食べ物がなくて後で困ると思うなあ」

そう言うぼのぼのに、一緒にいたアライグマくんが声をかける。

「後でこまるんだったら後でこまればいいじゃねえか なんで今困るんだよ」
 
この言葉に、衝撃を受けた。私は、「後でこまればいい」ことを「今困る」ばかりだった。さらに言えば、貝が手元にあるのにそれがなくなることばかり考えて、まだ困っていないのに困った気持ちで生きていた。
 
日記を書くことが歪みを直すための日々の地道な実践だとすれば、アライグマくんのこの言葉はお守りのようなものだ。だから私はこのコマを撮影してiPhoneのホーム画面に設定している。通知が届くたびに、困っているぼのぼのと、指南するアライグマくんが表示される。

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片手鍋の火を止め、沸騰した湯に味噌を溶く。切っておいた豆腐を鍋に入れると、そばに置いていたiPhoneが光った。ぼのぼのとアライグマくんの下に、Gmailのアイコンが表示されている。さっき原稿を送った編集者からだ。悪い妄想がはじまりそうになり、(気持ち的に)薄目でメールを開く。「精読はこれからしますが、いい感じだと思います〜!」と書かれていた。

100点満点というわけではなさそう。ただそれは少なくとも、さっきまで頭にこびりついて離れなかった最悪の妄想とは似ても似つかないものだった。

現実は大抵、ほどほどの結果に落ち着く。最悪の事態はそう起こらないのだ。そしてもしも起こったら、その時に困ればいい。
 
この感覚を覚えておくようにする。もしまた囚われても、抜け出せることを思い出せるようにする。そうして積み重ねていけば、きっといずれ悪い妄想は大したことではなくなっているだろう。

編集:はてな編集部

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著者:小沼理(おぬま・おさむ)

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ライター・編集者。1992年、富山県出身、東京都在住。ウェブマガジン『アパートメント』管理人。著書に『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』(タバブックス)。
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