「誘われ待ち」をやめてみた|吉玉サキ

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誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、元山小屋スタッフのフリーライター、吉玉サキさんに寄稿いただきました。

人を誘うのが苦手で、人間関係は基本“受け身”という吉玉さん。しかしその姿勢で過ごす日々は、バイトや劇団などさまざまな場所に出入りしていた高校時代や、毎年新しい出会いがあった山小屋スタッフ時代と比べて圧倒的に人との出会いが少ないと気づき、危機感を覚えたといいます。

「自分から人を誘う」を目標に掲げ、どんな行動を起こしたのか。それによってどんな変化が生まれたのか。「誘われ待ち」をやめて起きたことを書いていただきました。

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今年の目標は「自分から人を誘う」

人をお茶やごはんに誘うのが苦手だ。相手が気心知れた友人であっても、お誘いのLINEを送るときはやや緊張する。

ましてや仕事で知り合った人とかネットで知り合った人とか、「二人きりで会ったことのない相手」を誘うとなると尚更。誘うことの高い高いハードルを前に呆然と立ちすくんでしまう。勇気を出してお誘いのメールを書いたものの、どうしても送信できなくてそのまま削除……なんて経験もたくさんある(メールを書くだけで緊張して手のひらに汗をかく)。

どうしてこんなにも、人を誘うことに苦手意識があるのか。その理由はたぶん、自信のなさゆえに「私は友達になりたいと思っているけど、相手はそう思っていないかも……」と思うからだ。まだ友達と呼べるほどでもない微妙な距離感だけに、その距離をこちらから縮めてしまっていいものか悩む。

この気持ちは「断られるのが怖い」とは少し違う。そうではなくて、相手に「断りたいのに断れない」と思わせてしまうことが嫌だ。想像しただけで申し訳なくなってくる。

……とまぁ、そんなことを考えるから誘えないわけで、私は人間関係がすこぶる受け身だ。人と仲良くなるのは好きなのに、どうにも自分から距離を縮められない。相手から来てくれるのを待ってしまう。

このままでは人間関係がどんどん狭まっていくだろう。それはよくない気がして、今年の目標のひとつに「会ってみたい人に自分から声をかける」を掲げた。

さまざまなタイプの人と友達付き合いしたい理由

私はフリーランスのライターなのだが、数年前までは北アルプスの山小屋で働いていた。登山者を受け入れる宿泊施設だ。

山小屋の仕事はワンシーズンごとの契約で、何年も続けて来る人もいれば、一年で去っていく人もいる。毎年メンバーが入れ替わるので、何もしなくても毎年出会いがあり、続けるごとに知り合いが増えていく。

しかし山小屋スタッフからライターに転身し、出会いの総数が減った。もちろん編集者やカメラマンとは出会うのだが、毎日顔を合わせるわけではないので、「仕事の付き合いの人」の域を越えて仲良くなるのは難しい。また、もともと在宅で仕事をしている上に、コロナ禍以降は必要最低限しか人と会わなくなったので、気づけばどんどん人間関係が狭まっていた。そのことに危機感を覚える。

そもそも、なぜ人間関係が狭まることに危機感を覚えるのか。

「人間関係は狭くていい」と言う人もいるだろう。「友達が多くなくても、本当に親しい相手が数人いればそれでいい」とも聞く。私も、そのスタンスで満ち足りているならそれでいいと思う。

ただ、幼い頃から「我が強い」と言われてきた私は、さまざまな価値観に触れていないと自分の濃度が高くなり過ぎそうで怖いのだ。物事を一面からしか見られない、人の意見を聞き入れない頑なな人間になってしまいそう。たくさんの人と出会って、さまざまな言葉を浴びることで自分を薄めたい。

だから、若い頃から意識的にさまざまな人と付き合うようにしてきた。「食わず嫌い」ならぬ「付き合わず嫌い」をしないのがモットー。その甲斐あって、友達はそう多くないものの、友達のバリエーションは幅広い。

振り返れば、高校生のときからそうだ。通信制の高校だったため、昼はバイト、夜は劇団という生活をしていたのだが、行く先々でさまざまな人と出会った。劇団の40代フリーターの先輩とも、同じクラスの70代のおじいちゃんとも、バイト先のギャルとも友達になった。

その経験は思いがけず就活で生きた。就活がうまくいったのではなく、うまくいかなくてもさほど思いつめずに済んだのだ。周りの友人たちは「就活で躓いたら人生詰む」と思いつめていたが、私は就活以外のルートで就職した人や、就職しなくても幸せに暮らしている人が身近にいたので、レールから外れることへの恐怖心が少なかった。もちろん、思いつめるほど真剣に就活に取り組んでいる友人たちのことは尊敬しているが、あまりに思いつめていたら心配になる。やっぱり知っている人生のサンプルは多いに越したことがないかもな、と実感した。

私がさまざまな人と出会いたい理由はもうひとつある。母だ。

彼女は交友関係が狭く、周りもみんな自分と似たタイプだ。そのせいか、昔は母の発言から無知ゆえの偏見を感じることがたびたびあり、「私はママみたいになりたくない。いろんな人と出会っていろんな価値観に触れよう」と思うようになった。そして実際、劇団や山小屋、夫と旅した国々でさまざまな人に出会ってきた。

しかし、私が出会った人たちの話をするうちに、母も変わってきた。言葉の端々に滲んでいた偏見が減り、他者に対しておおらかになったのだ。

「あなたのおかげで、世の中にはいろんな価値観があることを知ったわ。あなたは広い世界を見ているのね」

母から何度か言われた言葉だ。そう言われるとうれしいし、これからもさまざまな人と出会っていきたいと思う。

思い切って自分から誘ってみた結果は……

そんなわけで意識的にさまざまな人と友達付き合いをしてきた私だが、出会いがない状況では当然、友達付き合いもできない。

この先いつまでも「誘うのが苦手」と待ちの姿勢でいれば、ますます声がかからなくなるだろう。ここは壁を打ち破る必要がある。

私は、「Twitterでは何度もやり取りしているが実際に会ったことはない人たち」を誘うことを自分に課した。最終的にはいろいろな属性の人と出会いたいが、そのための一歩として、まずは近い世界の人に声をかけてみようではないか。

しかし、DM(ダイレクトメッセージ)を送るにしてもなんて書けばいいのだろう。

「前から会ってみたいと思っていました。こんなご時世ではありますが、よろしければお茶でもしませんか? なんならリモートごはんでもいいですし……」

そんなふうに書いたら、実際の気持ち以上に重く受け止められやしないか? もし相手が「えー、別に吉玉さんに会いたくないんだけどなぁ」と思った場合、断りづらいかも……? などと気を揉んでしまい、一向にDMを送れない。

そんなとき、チャンスが訪れた。誘ってみたいと思っていた中のひとりに、仕事関係の用事でDMを送る機会ができたのだ。用事があればメールも気負わず送れる。用件のついでにしれっとお茶に誘うことができた。するとあっさり「ぜひぜひ!」とのお返事。

あら、まぁ。

あんなにも人を誘うのが怖かったのに、やってみたら拍子抜けするくらい簡単だった。そういうことってあるよなぁ。

当日は、クラシックが流れる昔ながらの喫茶店でその人と待ち合わせた。会うまでは緊張したが、会ってしまえばそうでもない。同業ということで話題は尽きず、3時間くらい楽しくお喋りした。マスク越しに窺えたその表情から、きっと相手も楽しんでいたと思う。

その体験で調子づいた私は、他の会ってみたい方にも自分からDMを送った。すると、全員からこころよいお返事をいただけた。「社交辞令かも」と考えることもできるが、相手が言っていないことまで推測しはじめたらキリがない。本心なんて答え合わせのしようがないのだから、言葉は額面どおりに受け取っておこう。

人を誘うようにしてから、楽しい時間が増えた。初対面の方とジャニーズの話で盛り上がったり、ランチに誘ったら話の流れでショッピングに行くことになったり、面倒な作業を一緒におこなうことになったり。日程が合わなくて会えていない方もいるが、そういう方とも、誘う前より気軽にコミュニケーションが取れるようになった。

また、なぜか人から誘われる機会が増えた。Twitterで繋がっているけど話したことがない人たちから、立て続けに「Zoomでお話しませんか?」とお誘いいただいたのだ。こう書くと自分でもうさん臭いなぁと思うけれど、人を誘いはじめてからいいことが続く。

それは、誘うことへの苦手意識が払拭されて自信がつき、文章から滲む「私なんか」という卑屈さが消えたせいかもしれない。

一歩を踏み出した経験は自信になる

思えば、私が人を誘えなかったのは「誘わなかったから」じゃないだろうか。

「やろうとしたけど、どうしてもできなかった」のではなく、そこまで切実には「やろうとしなかった」のだ。自分から誘わなくてもなんとかなるから、その状態に甘えきっていたのだと思う。

確かに、社会人として最低限のコミュニケーションをしていれば、自分から人を誘わなくても困ることはない。しかし、「困らない」と「理想どおりになる」の差は大きい。私の理想は、さまざまな人たちと友達になることなのだから。以前の私は、その差を埋めるための行動をとっていなかった。

待っていても、会いたい人から声がかかるとは限らない。月並みな言葉だけれど、行動を起こさなければなにもはじまらないのだ。自分が望む状況を作り出すのは、自分自身の行動でしかない。

もしもあなたに「誘いたいけれどなかなか誘えずにいる相手」がいるのなら、この記事のブラウザを閉じた勢いでお誘いしてみてはどうだろう?

「絶対にうまくいくよ!」とは言えないけれど、少なくとも、勇気を出して自分から誘ってみたその経験はあなたの自信になると思う。

私のこの体験談が、殻を打ち破るきっかけとなりますように。


編集:はてな編集部

著者:吉玉サキ

吉玉サキ

ライター兼エッセイスト。北アルプスの山小屋で10年間働いたのち、2018年からライターに。著書に『山小屋ガールの癒されない日々』『方向音痴って、なおるんですか?』がある。東京郊外の団地でイラストレーターの夫と暮らす30代。犬を家族に迎えるのが夢。

Twitter:@saki_yoshidama

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