「思い出を後生大事に抱えこむ」のをやめた

ムラキ

誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、UIデザイナー&ライターの伊美沙智穂(ハンドルネーム:ムラキ)さんに寄稿いただきました。

子どもが生まれてから、捨てられないものが増えたという伊美さん。他人から見ればごみ同然でも、自分にとっては大切な思い出……とはいえ、思い出の品が増えていくほど収納場所も時間も切迫されていくことに気づいて一大決心をします。

思い出を抱え込むのをやめた過程、そして大事だったものを手放すにあたっての気持ちの変化を書いていただきました。

***

曽祖母が亡くなった時、彼女の持ち物のほとんどは既に当人によって処分されていて、残されていたのは友人への宛名が貼られた数箱の段ボール、そして彼女が毎日付けていた数冊の日記だけだったらしい。

幼少の頃に母から聞いたエピソードだが、私も大人と呼べる歳になったいま、改めてその潔さに憧憬を抱かざるを得ない。歳を取れば取るほど、大事なものは増えて手放し難くなる。卒業アルバム、前職の同僚の寄せ書き、賞をとった絵、遠方の友人からの手紙、子供の臍の緒ーー。

他人から見れば価値がなくとも、そこには自分の「思い出」があるからだ。

ごみ同然でも捨てられない、それが人生そのものだから

かく言う私も、子供が産まれて以降、捨てられない物が極端に増えた。

息子が乳児の頃に使用していたよだれかけは、誰がどう見てもほとんど「ごみ」だ。4歳になった息子はもう使わないし、よだれで黄ばんで布もほつれて、誰かにあげるなんてもってのほか。これが自分のハンカチなら、迷わず布ごみに出すところだが、なぜだかまだ家にある。

つまるところ、捨てられないのはそれ自体の価値によるものではなく、そこに付随した記憶に価値を見出しているからだ。「このシミはあの時のものだな」、「この絵は今よりもへたくそだな」、そういう愛しい記憶の積み重ねは、私の人生そのものでもある。

ーーなんて言い訳めいた綺麗ごとを言いながら、ごみ同然のものをあれもこれもと抱え込んでいた私であったが、子供が4歳近くなってくると、いよいよ思い出が今の生活を圧迫し始めた

悲しいかな、拙宅の納戸は数畳程度の小部屋であり、私の人生全てを抱え込めるほどの収容力はない。何か欲しいものを買う時、高揚感と共に頭の片隅に鎮座する、収納への一抹の不安。

「今」欲しい物を「昔」の思い出のせいで躊躇(ちゅうちょ)した時、ついに決心がついた。

過去の思い出の品を、捨てるしかない。

思い出を整理して、新しいものが入るようになった

覚悟を決めて大掃除に取り掛かることにしたが、掃除が比較的得意な私も、思い出の掃除となるとそうはいかない。なにせ一つ捨てようとするたび、思い出が走馬灯のように蘇る。

「ああ、この頃は授乳するだけでも一苦労だったな」「こんなに靴下小さかった?」「あ、ちょっと息子呼んできて、並べて写真撮ってみようよ」「わあ見て小さい!かわいい!」

一つ捨てるのに30分。このままでは貴重な休日が、思い出に呑まれて消えてしまう。心を鬼にして、ひたすら思い出の品の写真を撮ってGoogle Photosにアップロードすることにした。使えないものは捨て、まだ使えるものは友人に譲る。物だって納戸で腐るより、使われた方がうれしいだろう。

そうしてなんとか収納場所を確保して、新しい思い出をしまう場所を確保できたのだ。

あれもこれも「思い出だから」と抱え込んでいては、ごみみたいなものであっという間に家が埋まってしまう。大富豪でもない限り、全てをいつまでも持つことはできないのだ。

ーーいや、そもそも、仮に私がAmazon並みの倉庫を所有していたとして、そこに黄ばんでボロボロになった衣服を収納できれば幸せなのだろうか? 美術館を開いて、子供の0歳から大人になるまでの絵を展覧できれば、満足するのだろうか?

思い出が記憶そのものなら、時間を経るにつれてどんどん増えていくはずだ。たった数年の思い出の品を整理するのにもあれだけ苦労したのだ。数十年の思い出をぜんぶ抱え込んでいたら、きっと見返す間も無く死ぬか、思い出に呑まれて死ぬか、どちらかになるのは自明だろう。

必要なものを持ち続けるためには、それ以外を手放す必要がある

数年前に話題になった、掃除の極意を説く「こんまりメソッド」。こんまり氏はときめきと称して、「これを持っていることが自分の幸せなのか? 自分にとって幸せな状態とは何なのか?」と問いかけていたが、これは掃除に限ったことではなく、人生の全てに言えることのように思える。

持てるものが限られているからこそ、慎重に大切なものを選び取らなければならない。

何を持ち続け、何を捨てるのか。結婚するのかしないのか、子供を産むのか産まないのか。家を買うか買わないか、車を持つか持たないか。正社員か契約社員か、昼に働くか夜に働くか。今の環境で選択肢が少ないなら、他の環境では広がるのか。

私は子供が産まれた後、出社の多い総合職から、自宅でも業務ができるシステム開発系の専門職へと職業を変え、さらにフルリモートの会社へ転職した。異業種の転職となったため不安も大きかったが、仕事も育児も大切にしたいと考えた時、会社と職種にこだわらなければ、私の場合はどちらも実現することができたからだ。もし産前の働き方を続けていたとしたら、大切にしたいものは収容可能なキャパシティを超えて溢れ出し、いくつかを取りこぼしてしまっていただろう。

さまざまなものを手放す中で、本当に大切にしたいものは何か?

結局のところ、どれだけ後生大事に抱え込んでいたとしても、全てはいつか手放さなければならない。

今回、思い出の一時退避場所としてGoogle Photosのクラウドに写真データをアップロードしたが、このデータも最終的には物理的なGoogleのサーバーに保管されている。契約を解除したり、サーバーが壊れればデータは消える。

「思い出」「記憶」と私が呼んでいるものの正体も、突き詰めれば神経物質の伝達によるものだと言われている。人間の脳の仕組みは未だ定かではないが、記憶は140億個のニューロンからなる大脳皮質を主として保管されているらしい*1。頭の中の思い出や記憶すらも有形で、いずれはニューロンの死滅で失われていくのだ。

とはいえ、今すぐ全てを捨てろと言っているわけではない。今回私は子供の品を手放せたが、3年前の私なら難しかった。欲しいものが納戸に入らなかったというのはあくまできっかけで、さまざまな状況が積み重なって「手放せるタイミングが来た」にすぎない。

まだ捨てられないものがあるなら、今はその時ではないというだけの話なのだ。どうせ死ぬ時には全部手放さなければいけないのだし、それまで持ち続けるというのも一つの手だろう。

死に際してほとんどものを処分していた私の曽祖母は、きっと葛藤の中でさまざまなものを手放したはずだ。それでも最後の最期まで手放せなかった「思い出」が日記だった。

私もこれから、たくさんのものを手に入れて、同じだけ手放していくのだろう。

一番大切にしたいものはなにか、最期まで持っていたいものはなにか。これからも考えながら、選び取っていきたいと思う。


著者:伊美沙智穂(ハンドルネーム:ムラキ)

伊美沙智穂

立教大学卒業、1993年生まれ。現在はTHECOO株式会社のシニアデザイナー、Business Insider Japanの記者のほか、フリーランスのデザイナーとしても活動するフルリモート・パラレルワーカー。1児の母。新しい仕組みやテクノロジーが大好きで、日々の生活や仕事に積極的に取り入れている。
Twitter:@u_vf3

りっすん by イーアイデム Twitterも更新中!
<Facebookページも更新中> @shinkokyulisten

編集:はてな編集部

*1:2019年発行 Newton別冊「脳とは何か」参照