第57次南極地域観測隊の調理隊員として2015年12月から約1年4カ月、南極・昭和基地で生活した渡貫淳子さん。調理専門学校を卒業後、同校の日本料理技術職員としてキャリアをスタートさせ、退職後もさまざまな飲食店で料理の仕事を続けてきました。
出産後は家事と育児に勤しんでいたところ、新聞記事がきっかけで調理隊員という仕事に焦がれるように。粘り強く挑戦を重ね、40歳のとき*1、ついに選考に合格。女性としては2人目、お子さんがいる女性では史上初の調理隊員となります。
氷点下45.3℃、日本からの距離1万4,000kmという南極・昭和基地での単身赴任を選んだ理由、南極での生活、隊員の心とお腹を満たした「悪魔のおにぎり」誕生の背景などについて教えてもらいました。
「私、この人たちにご飯を作りたい」という思いでの挑戦
渡貫淳子さん(以下、渡貫) 一番は、南極に集う人たちの魅力ですね。堺雅人さんが演じた役の調理隊員になりたいというより、「隊員の皆さんと一緒に働きたい」「この人たちにご飯を作りたいな」って猛烈に思ったんです。
渡貫 そうですね。料理人として経験を積んでいくうちに、自分は星付きレストランのシェフになりたいわけではなくて、寮母さんや大家族のお母さんみたいな……日常に密接した料理を作る環境が向いているし、やりがいを感じるなって悟ったんです。南極観測隊の世界はまさに理想の職場そのものだったんです。なので、南極に憧れたというよりは、「職場」として考えていましたね。
渡貫 はい。南極に行くにあたっては、きちんと正直な気持ちを伝えました。ダメと言わずに認めてくれたことに感謝していますね。
3度目の正直で、念願だった南極地域観測隊の調理隊員に
渡貫 それはなかったです。まず狭き門だというのは分かっていたので、1度目で受かるとは思っていませんでした。それと、むしろ2度目に落とされた時に、エンジンがかかりましたね。諦めが悪い性格も相まって、逆に悔しさをバネにモチベーションが高まりました。
渡貫 少なくとも試験を受けている間は、そういったことはありませんでした。でも、性別について言えば、後になって知ったことですが、ある男性隊員の方が「女性が多いと自分たちの負担が増える」とおっしゃっていたそうなんですね。
渡貫 ただ、それも一理あるんですよ。南極での生活はどうしても力仕事と無縁ではいられません。確かに同じ力仕事をしても明らかな差があり、努力でカバーできることでもないですから、現実問題として、女性であることがウィークポイントになってしまうのかなとは思いました。そこで張り合っても仕方がないことなので、合格するために自分ができることを模索し続けました。
渡貫 1度目は書類審査で落ちたのですが、何がいけなかったのか分析したところ、履歴書に実務経験しか書いていなかったんです。それで、2度目以降は「隊員にこんなご飯を食べさせてあげたい」といった、「自分が南極で何ができるのか」を書き足しました。3度目の挑戦でなぜ合格できたかは、本当のところは分かりません。
ただ、面接で必ず聞かれる「今回落ちたらどうしますか?」という質問に対して、間髪入れずに「来年もまたこの場に来ます」って答えていました。そう考えると、粘り強さが功を奏したのかもしれませんね。
「お腹を満たす」ではなく、「心を満たす」ことが大切
渡貫 いえ、調理自体への不安は一切なかったですね。社会人になってからほぼ調理の仕事をしていましたし、一箇所じゃなくて業種にこだわらずに興味のあるお店で働いていましたから、バリエーションにも自信がありました。
唯一の懸念点は、南極では食材の補給ができないこと。食材を運べるのは日本を出国する前、南極観測船「しらせ」に物資を積み込むときの1回だけ。そこで、越冬する30人ほどの食事を1年分まかなえる食材を全て持ち込まなくてはいけなかったんです。
渡貫 本当に。なので、一度作ったカレーをドリアやスープにアレンジして飽きないようにしたり、見た目を変えたりする工夫が必要。そこは主婦としてのスキルが生きたかもしれません。
渡貫 調理隊員は1度に2人派遣されるのですが、私の相方さんはフレンチの料理人でした。基本的に、南極に派遣されるのは専門性を持った料理人ばかりです。ちなみに、観測隊は誕生日や季節の行事をしっかり祝う慣例があり、相方さんはパーティ料理を大きなお皿に盛り付けるのが抜群に上手で、勉強になりました。私は和食が専門なので、日本の家庭料理が得意でしたね。
南極・昭和基地の厨房で調理をする渡貫さん
渡貫 実は「悪魔のおにぎり」って、もとを正すと、天つゆや天かすを混ぜ込んだ「たぬきむすび」という静岡で親しまれていた食べ物なんです。ただ、SNSなどを通じてたくさんの人に受け入れられたのは、同僚の隊員が「悪魔のおにぎり」と名付けてくれたからだと思っています。同僚に感謝ですね(笑)。
渡貫 食事って、単にお腹を満たせばいいわけではなく、心を満たすことが大切だと思うんです。夜、孤独な作業にあたる隊員さんに対して、「夜食に何か食べてもらいたい」という作り手の思いが伝わったからこそ、幸せな気持ちになってもらえたんじゃないかなと。それは、南極だからということだけではないですし、高級食材や贅沢な料理でなくてもいいんです。
悪魔のおにぎり
渡貫 そう思います。私はどちらかというと何を食べるかよりも、みんなで同じ食事を、同じ時間に、同じ場所で食べることの方が重要だと思うんです。「同じ釜の飯を食う」じゃないですけど、仲間同士でしょうもない話をしながら食卓を囲む時間が必要です。実際、隊員たちもアイドルの話とか、帰還後の生活を妄想したトークとか、他愛もない会話ばかりしていました。
渡貫 そんなもんですよ(笑)。でも、自然体でいられるのは、やはり食事を囲んで生まれるコミュニケーションがあるからこそだと思います。「少なくとも私たちは同じ時間を共有している」という気持ちが一体感を生むのかなと。
大の大人でも、喧嘩はします
渡貫 私は喧嘩しましたよ(笑)。
渡貫 最初はみんな遠慮しているんですけど、慣れてくると言いたいことを遠慮なく言うようになってくるんです。あの人のあそこが許せないとか、いろいろと出てくるわけです。
渡貫 ええ。ただ、私と一緒に滞在した越冬隊の平均年齢は大体40歳くらい。日本での職場だったら、すでに一定の地位を確立されている方もいるような年代です。そりゃぁ、プライドもあります。幼稚園児の喧嘩みたいに「ごめんねー!」「いいよー!」では済まないのが大変なところで(笑)。
渡貫 確かに大人ならではの面倒くささはあります。ただ、やはり30人で助け合いながら毎日生活していると、やがて相手を理解してリスペクトする姿勢が大事だと悟っていくんです。ですから、お互いにいろいろと思うところはあっても、意識的に「ありがとう」や「助かった」は、きちんと言葉にして伝え合うようにしていましたね。
渡貫 成長したかというと……してないかも(笑)。ただ分かったのは、日本での日常が無駄じゃなかったこと。職場での人間関係や家族との関係を大切に築いていくために自分が意識してきたこと、行動してきたことを生かせたとは思います。
南極生活とのギャップで、帰還後しばらくは苦しんだ
渡貫 かなり苦しかったですね。体調がとにかく悪くて、南極にいた頃は一定だった生理周期も不順になったり、身体のあちこち痛かったり、暑くもないのに汗をかいたり。いま振り返ると、身体の不調というよりも、どちらかというとメンタルがやられたんだろうなと。
渡貫 少しずつ現実を認めるというか、時間をかけて日本での日常に慣れていった感じですね。例えば、南極だと生活排水はルールに基づき処理するようになっていて、日本のように排水できないんです。そうした細かい生活方式ひとつとってもまったく違うことが、知らず知らずのうちに気持ちを苦しくしていたのかもしれません。
渡貫 なので、自分の中で「南極と同じように暮らせない現実」を消化するまで時間がかかりましたが、「同じように暮らせない」と諦めたことで気持ちが楽になり、いつの間にか体調も回復しました。
渡貫 ここまで南極に思い入れを持つ理由は、ペンギンでもなければアザラシでもなく、雄大な自然でもありません。やはり観測隊のメンバーとの毎日があったからこそ。それは人間関係の煩わしさも含めてです。もし、皆で同じ目標に向かって品行方正に頑張っていただけだったら、こんなにも思い出には残らなかったかもしれません。
渡貫 いや、南極地域観測隊を知るまではモヤモヤフワフワしてましたよ。料理は好きでしたが30歳を過ぎてからようやく「きっとずっと料理で食べていくんだろうな」と思ったくらい。それまでは、是が非でもやりたいようなことも特にありませんでした。それなのに、南極はのめりこんじゃったんですよね。南極に関してはなりふり構わず、すごいエネルギーを発揮できた。自分でも不思議なんです。
渡貫 私は理論的に考えるタイプではないので、「後悔するかしないか」で決めただけなんです。後悔したくないから南極に行く、以上! みたいな(笑)。
渡貫 もし迷いがあるなら、何もしなくていいと思うんですよ。無理にことを運ぼうとしてもいいことはないし、変に頑張って逆にストレスになるのは本末転倒なので。迷ったときはペンディング、でいいんじゃないかな。
渡貫 いまはご縁があった企業で、商品開発に従事しています。昨日はいろいろなタイプの卵焼きを焼いていましたね。私は料理のスキルでは一流のシェフに敵いません。なので「渡貫と一緒に仕事をしたい」と、人間として一緒に仕事をしたいと思ってもらえる人になりたいです。
ただ、南極にまつわるお仕事も引き続きやっていきたくて……。実のところ私のわがままで正社員ではなく準社員で働かせてもらっています。しばらくは商品開発をしながら、南極ではたらく素晴らしさを伝える人として活動したいですね。50歳を超えたら寮母さんにもチャレンジしてみようかな、なんて思っています。
著書『南極ではたらく かあちゃん、調理隊員になる』発売中
第57次南極地域観測隊の調理隊員として過ごした南極での暮らしのことをつづった本著。南極へ向かうまでの準備や訓練のこと、限られた食料や設備の中で料理をする上でのポイント、南極生活で発見したエコロジカル&サスティナブルな料理術、南極生活の中で印象的だったできごとのほか、普段はなかなか知ることができない昭和基地の交通事情、建築物の様子なども紹介しています。
撮影/松倉広治
お話を伺った方:渡貫淳子さん
1973年生まれ。伊藤ハム株式会社商品開発研究室所属。「エコール辻東京」卒業後、同校日本料理技術職員に。出産後は一児の母として家事・育児に奮闘する日々を送ってきたが、一念発起して南極地域観測隊を目指す。3度目の挑戦で合格を果たし、2015年12月から2017年3月までの間を南極・昭和基地で過ごす。2018年6月に放映されたテレビ番組で、南極生活の中で生み出した「悪魔のおにぎり」が反響を呼ぶ。2019年1月には南極での生活をつづった『南極ではたらく かあちゃん、調理隊員になる』(平凡社)が発売された。