分担から「共有」へ。父として二度の育休を取得して感じた、夫婦が共に育児や家事を担うために必要なこと

育児の分担から「共有」へ

共働き世帯において、子どもが産まれると女性側が仕事を辞めたりセーブしたりして、育児や家事の負担を多く担っているケースは少なくないはず。その背景には、なかなか当事者意識を持てない男性がいる一方で、女性側がこういった状況を「仕方がない」と半ば諦めて受け入れている場合もあるのかもしれません。あるいは夫婦で話し合うこともなく、女性側が無意識のうちに自分が多く負担する選択をしている事情もあるのではないでしょうか。

ブロガーのパパ頭さんは、専業主婦の妻を持ち、第一子、第二子の誕生時に、いずれも育休を取得した経験があります。その背景には、共働きかどうかにかかわらず、夫婦が共に子育てに関わっていくことは当たり前であり、さらには「共に育てるからこそ得られるものがある」という強い思いがあったといいます。

今回はそんなパパ頭さんの経験から、夫婦が性別の壁を越えて共に育児・家事に取り組んでいくために大切な視点についてつづっていただきました。

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「パパ頭さんの奥さんって専業主婦ですよね、なんで育休取ったんですか?」

これは、長男と次男の誕生時にそれぞれ育休を取得した私が、ある日同僚から投げかけられた質問だ。私はこの何気ない質問の背景に、彼と自分との「育児に対する捉え方の違い」を見た。

昨今、男性の育児参加の必要性が叫ばれる一方(個人的には「育児参加」という言葉に対しても、もっといい表現があるのではないかと感じている)、未だそれが十分に進まない状況がある。子供の誕生に際し、働き方や生活に大きな変化を強いられるのは、まだまだ女性に偏る傾向が強い。

私の職場では、育休を取得する男性は少数派だ。おそらく世の中のさまざまな職場でも、こうした状況はまだまだ多いだろう。先のような質問を投げかけられるのも、仕方ないのかもしれない。

どうしたら、男性も女性も関係なく、育児に主体的に関わることがもっと自然なこととして受け入れてもらえるのだろうか。先述した捉え方の違いに着目しながら考えてみた。

専業主婦(夫)なら、育児の負担を一人で担える?

質問を通じて見つけた、同僚と私との育児に対する捉え方の違いを端的に表現するのであれば、前者は「分担」であり、後者は「共有」である。

同僚は、おそらく育児を一種の「負担」として捉えていたのではないだろうか。

負担に対して必要なのは「分担」だ。しかしパートナーが専業主婦(夫)であれば負担を一手に請け負うことができそうだから、働いている側が育休を取得して分担する必要性は薄い、と考えたようである。

ただこれは、妥当な考え方ではないと思う。仕事をしながらの育児は、もちろん大変だ。しかし、仕事をしておらず育児に専念できる環境だったとしても、家庭全体として生活が楽になることはないだろう。

仮に、専業主婦(夫)が育児を全て一人でやろうものならどうなるか。特に目が離せない乳児期などは、四六時中子供に付きっきりになる。極端な話、トイレに行く自由すらも失いかねない。育児以外の家事に手を回す余裕も相当削られてしまう。

共働きの家庭であれば、保育園を利用するなど、プロに頼る選択肢もあるだろう。これは実質的に、育児を外部のリソースと分担しているのである。

育児を担う人の不自由さを緩和するためには、誰に頼るかはケースによるとしても、やはり分担は欠かせない。そもそも育児は、一人でできるようには設計されていないのだ。

「働きながら」と「専業」それぞれの育児のイメージ

育児の「分担」のみを考えると、苦労の押し付け合いが生まれる


育児をする上で「分担」は必要不可欠だ。しかしあえて挑戦的な言い方をするならば、子供を持つ誰もが育児に取り組む社会にシフトしていくためには、分担だけでは不十分だと感じる。

分担ばかりを考えると、育児の「負担としての側面」ばかりが強調され、重たく苦しい印象が残りがちだ。そうすると、育児の本質を見落としてしまうように思う。

そこで、分担にのみ留まることなく、もう一歩踏み込んだ捉え方を示したい。それが「共有」である。

「分担」と「共有」は似ているようで逆の性質を含む。分担は孤立を深めがちだが、共有は連帯を深めやすい。分担の前提には負担がありネガティブな傾向があるが、共有の前提には喜びがありポジティブな傾向があるためである。

「分担」と「共有」の違い

捉え方の違いを示すために、まず「分担」のみで育児を行うとどうなるかを考えてみたい。

育児漫画を読んでいると、育児のつらさや苦しさが前面に表現されているものをしばしば見かける。作者にとって、パートナーの無理解や無配慮が育児・家事をつらく苦しいものにしてしまっているのだろうと推察する。

表現によって気持ちを整理したり発散したりすることは、とても大切だ。私自身、読者として漫画を読むことで、共感したり慰められたりすることは多い。

しかし、このロジックのみで話を進めてしまうと「私はこんなに苦労しているんだから、あなただってもっと苦労すべきだ!」という展開になりがちで、下手をすると相手に「苦労だったら自分だってしている!」と言わせる結果になってしまいかねない。

「分担」の捉え方は、ともすると苦労の押し付け合いになり、本質的な解決につながりづらいと思う。

そこで強調したいのが「共有」という捉え方である。

「共有」が家族の連帯を深め、選択肢を増やす

育児には、確かに大きな負担がある。しかし同時に、多くの「喜び」があるはずだ。

子供が見せてくれるふとした瞬間のあどけない笑顔や、少しずつながらも着実な成長、不安を感じたときにこちらに身を寄せる仕草など、挙げればきりがない。これまでの苦労も一瞬のうちに溶かしてしまうような喜びの瞬間が、確かにあると感じる。

育児の喜びを感じる瞬間

子供を持つ人が当たり前に育児に関わる社会を目指していく中で、私が伝えたいのはこの点である。

「家族サービスは大事だと思ってるんだけどさ」

育児参加に消極的なパートナーの方から、こんな言葉を聞いたことがある。この言葉から私は「育児や家事はサービス業」というニュアンスを感じた。「育児は大事だと思うけど、日中仕事をして、帰宅後もまた仕事をしないといけないのか」といった気持ちが吐露されているように思う。

こういった捉え方では、育児の必要性を理解していても、参加するのに腰が重くなってしまうのは無理もない。そうこうしているうちに、育児をメインで担っているパートナーにとっても、育児がつらく苦しいものになってしまいかねない。「分担」の捉え方でいくなら、「あなたももっと負担してほしい」「もう十分(仕事を)負担している」といった論調になってしまう。負担にフォーカスした捉え方は苦しい。

だからこそ「共有」へと捉え方を広げてみてほしいのだ。

共有するために、具体的に何をすればいいか。例えば、料理をしてみるのはどうだろう。仕事じゃないから自由にやっていいし、凝ったものでなくていい。

休日に、いっそ子供を巻き込んで一緒に作ってみるのもありだ。普段料理をしているパートナーの方は、チャレンジを見守りつつ、余裕があればアドバイスをすると、より充実した時間になるだろう。

子供たちはなかなかのグルメだったりするので、思うように食べてくれないかもしれない。うまくいかないこともあるだろうが、試行錯誤していれば、いずれはヒットが出るはずだ。そうすればあっという間に皿は空っぽ、また作ってくれと頼まれる。

子供たちは笑顔だ。でもその瞬間、一番笑顔になるのは誰だろう? きっとあなただ。

共有の捉え方は、育児のポジティブな側面を、関わるもの全てに与えてくれる。分担は負担を減らしてくれるが、共有は喜びを増やしてくれるのだ。

「分担」は負担を減らす。「共有」は喜びを増やす。

精神的な側面にピンと来ないならば、物理的な側面から、その利点を指摘することもできる。

「共有」の捉え方は家族という組織を強くする。分かりやすく言うと「家族としての選択肢を増やすこと」に貢献してくれるのだ。

例えば、夫婦のうち片方が育児に専念し、片方は仕事に専念しているような家庭の場合、育児者は全く休めない。自分の代わりに子供の弁当を作る人も、送り迎えをする人も、掃除洗濯をする人もいない状況では、例え風邪を引いたとしても休めないだろう。

パートナーは「たまのピンチヒッターくらいならできる!」と思うかもしれないが、日頃全く育児・家事に関わっていないとしたら、保育園の準備一つでさえ「何を入れたらいい? それどこにあるの?」となり、かえって相手の負担になってしまう可能性すらある。

片方が倒れただけでシステムダウンしてしまう状況は、仮にこれが企業であればかなり危ない。組織として弱いのは明白だ。しかし日頃から共有できていれば、片方が倒れても復旧がしやすい。

また、夫婦間で育児・家事の比重に偏りが生じていたとしても、共有というスタンスがあれば互いの状況を把握しやすく、負担の偏りにも自然と目がいきやすくなるだろう。

将来、夫婦のいずれかが「仕事を増やしたい」「働き方を変えたい」などと思ったときも、家庭の体制を見直しやすいのではないだろうか。わが家では妻が専業主婦、私が就業するという選択肢を取っているが、この先妻が「仕事に就きたい」と考えるようになっても、新しい家族の体制を柔軟に考えることができる。

「共有」というスタンスは結果として家族としての選択肢を増やし、心豊かな暮らしを支えてくれる。

共有の考え方は、婚姻関係を結ばないパートナー同士の家族にも、もちろん当てはまる。またシングルマザー・シングルファザーの家庭であっても、周囲の人たちにこの考え方があれば、皆で子供を育てていくことができるのではないだろうか。

育児の「喜び」は、共有しないともったいない

「共有」の捉え方が精神的な面と物理的な面の双方から利点があることを踏まえた上で、冒頭の同僚の質問に答えたい。

子供の誕生に際し、私はその体験を妻と「共有」したいと願った。そのためには何よりもまず、家族と一緒に過ごす時間が必要だったのだ。

妻には苦労をしてほしくないから、負担を「分担」するのは当然だと思った。しかし私にとってより重要だったのは、育児という体験を「共有」することであった。

私が育休を取得するにあたって「妻が仕事をしているかどうか」は、さして重要なことではなかった。

育休取得中の夜、子供が夜泣きする中でも、私はよく眠らせてもらっていた。私は頭痛持ちであり、睡眠不足は体調不良に直結しやすかったため、妻と相談の上、休ませてもらっていたのだ。

しかしどうにも息子の寝付きが悪い日には、私が夜間の寝かしつけをすることもあった。抱っこして歩いたり、歌ったり、飲み物を与えたり。しかしそれでも、寝ない日はある。

気が滅入りつつも手を尽くし、ようやく寝息をたて始めた息子を布団に寝かしつつふと横を見ると、妻が寝ている。普段は妻がこれをやり、私は寝かせてもらっているのだと思うと、胸に込み上げてくるものがあった。

それは感謝であり、敬意である。

子供が生まれてからというもの、妻に対する愛情は一段と深まったように思う。

「共有」してきたからこそ、思い出の中にいつも夫婦がいる。「分担」しているだけだったら、それぞれの思い出が別々にあっただけではないだろうか。

眠る妻を見守る

私たち夫婦がなぜ子供を望んだのか、あらためて考えてみる。

難しく答えることもできる。しかしあえてシンプルに言うならば、時につらいことがあったとしても、人生は決して悪くないものだと知っていたからだろう。愛する誰かとのつながりの中で、私たちはそれを見つけてきたのだ。

だからこそ前向きに答えたい。

育児には苦しみが絶えない。だから分担しないといけないのか?

いいや違う。

育児には喜びがあふれている。だから共有しないともったいないのだ、と。

編集:はてな編集部

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著者:パパ頭

パパ頭

妻子との生活の中で得た気づきを漫画にしています。大変なことも嬉しいことも、たくさんありすぎてあっという間に過ぎ去ってしまいかねない育児の日々を少しでも残しておきたい、そんな気持ちで描いています。

Twitter:@nonnyakonyako
ブログ:パパ頭の日々のつぶやき

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