人付き合いが苦手な人へ、「無茶ぶられ人生」と「生存戦略としてのコミュニティ」のススメ

 岩切晃子

2019年開催のラグビーワールドカップ会場に近い、故郷釜石の根浜海岸。
2019年開催のラグビーワールドカップ会場に近い、故郷釜石の根浜海岸。

こんにちは。翔泳社という出版社で働いている、岩切と申します。

春は別れと出会いの時期。そんなワクワクハラハラな3月・4月を終えて、5月になって少しお疲れモードになったかもしれないあなたに、私が30年ほど過ごしてきた社会人人生の紹介がお役に立てばと思い、手紙を書くような気持ちでコンピュータに向かっています。

昔から人付き合いが苦手で、自分のことを自分では決められなかった私が、新卒入社時に考えていたのは「自分の酒代や洋服代くらいは、自分で払いたい! そのためにはできるだけ長く働きたい! そうすれば、自分の欲しいものを気兼ねなく選べるはず!」でした。志が低いですね。

そんな私でも、「無茶ぶられたことに応え続ける」「コミュニティのつながりの中を生きる」の2つのおかげで、今まで働いてくることができています。そのことを今回お伝えしたいと思います。

昔を振り返るよりも「今、仕事で無茶ぶられる環境」の方がずっと良いと思った

私が生まれ育ったのは岩手県釜石市。鉄鋼メーカー・新日鉄(現:日本製鉄)の企業城下町でした。鉄鉱石が江戸末期に見つかり、1880年(明治13年)官営釜石製鉄所が操業を開始して以降、近代製鉄業の発祥地として繁栄していました。

しかし、1970年代から1990年代にかけて本格化した新日鉄のリストラにより、人口が減少しました。私が子どもの頃、事あるごとに大人たちが「昔は良かった」とつぶやいていた覚えがあります。

日本製鉄釜石製鉄所内にある火力発電所。発電した電力を東北電力に供給しています。
日本製鉄釜石製鉄所内にある火力発電所。発電した電力を東北電力に供給しています。

1989年に大学を卒業し、東京の小さな出版社に入社した時は、バブル景気の真っ最中だったこともあり、周囲には昔を振り返る人は全くいませんでした。会社ではいろいろなことをやらされ、まさに「無茶ぶりのオンパレード」でしたが、私は心底「『手を貸してくれ』と求められるのはありがたいことだ」と思いました。私の中で、過去のことを思い出して「昔は良かった」と言われる環境よりも、「無茶ぶられる」環境の方が良いという考えが生まれた瞬間でもありました。

なぜなら、そういう環境は、「新しいことが起きている環境」だから……。

誰も手にしようとしないボールをあえて拾い、自分の居場所を作る

バブル崩壊後、とても仕事が好きだった母が、52歳でリストラの憂き目に遭いました。当時20代の私はといえば、地方出身者で東京での人脈ナシ、これといった特技ナシ。母のリストラをきっかけに、私は「どうすれば定年まで働けるのか」について考え始めました。

なるべく長く働き続けるために、私は社会人になってから経験した「得意とする仕事の領域」を振り返りました。そして、「誰もやりたがらないけれど、会社にとっては『重要なボール』と思う仕事を拾っていけば、自分の居場所を作れるのではないか」、つまり「周囲からの無茶ぶりに対して応え続ければよいのではないか」と考えました。

私は、ゼロから新しいプロダクトを生み出す「0→1」タイプの人間ではありません。誰かが立ち上げて火を付けたものに薪をくべ、「1→10」にした上で、「10→100」へと爆発させられる人に託す役割が向いていると気づきました。

“新規事業におけるリベロ(サッカーで、ゴール前の守備を主にしつつ、攻撃にも自由に参加する選手)”のような役目といえば聞こえがいいかもしれませんが、なり手の少ない分野でもあります。その働き方を選択した私が実際にどう振る舞い、どのように応えていったかを挙げてみます。

頼まれごとを切り出されたら、期待されているサイン

上司や同僚から頼まれごとを切り出された時は、期待されているサインだと思っています。しかし、あまり納得できない場合は、率直に自分へ頼む理由を聞いてみます。それを聞き出せれば、その人が「自分の成長や貢献をイメージしてくれている」のか、「単に仕事を押し付けたい」のか分かります。自分が貢献できそうだと納得した時には、覚悟を決めて取り組みました。覚悟を決めた仕事が終わった後には、仲間と共に大きな喜びを得て、自分自身の成長を実感できたからです。

絵本『ルビィのぼうけん こんにちは!プログラミング(2016年刊、翔泳社)の著者、リンダ・リウカスさんとの出会いは、そんな仕事の一つです。リンダさんが絵本を出版するためにクラウドファンディング用として作ったYouTubeの動画を2014年に見ていた私は、彼女の華やかさ・美しさに圧倒され、住む世界が違う……とまで感じていました。弊社からその日本語版を刊行することが決まり、腰が引けていた私に、同僚が「あなたがプロモートをやらなくてどうするの?」と発破を掛けてくれました。

2016年に日本で開催されたイベント「新経済サミット2016」で、来日したリンダさんが登壇するパネルディスカッションを聞きにいったところ、彼女はモデレーターから投げ掛けられるどんな質問に対しても、誰にでもできる例に置き換えて前向きに回答していました。それを見て「この人は本物だ」と雷に打たれた気持ちになりました。カタコトの英語でビクビクしながら彼女と話をしてみると、頭が良く、タフで深い優しさに満ちた人であることがビンビン伝わってきました。

『ルビィのぼうけん』特設サイト(翔泳社)より
『ルビィのぼうけん』特設サイト(翔泳社)より

『ルビィのぼうけん』の刊行をきっかけに、私は小学校の授業への参加や、プログラミング教育をどうやって授業に取り入れていくか学校の先生と議論する機会を得ました。リンダさんの来日に合わせてツアーを組み、親子でプログラミングを学ぶワークショップも実施しました。私と子ども向けプログラミング教育との関わりは今後も続いていきそうです。きっと生涯、リンダさんとの出会いに感謝すると思います。

2016年、第1回『ルビィのぼうけんワークショップ』にて
2016年、第1回『ルビィのぼうけんワークショップ』にて

必死で取り組み、工夫を重ねて後進に引き継いだイベント運営

プロジェクトを丸ごと無茶振りされて、全部引き受けるのが無理なケースもありました。その時は、先述した「1→10」にした上で、「10→100」へと爆発させてくれる人に託すべく、「自分が結果を出せる部分」を限定してゴールを明確にしました。仕事と並行して、本当にそこに適した人を見つけてバトンタッチしたこともあります。

私がこれまでに体験した最大の無茶ぶりは、ITエンジニア向けのイベント「Developers Summit(通称「デブサミ」)の初代運営責任者を任せられたことです。2002年8月、35歳の時でした。結果からいえば、事業コンセプトを作り出した先輩や「手伝って」と無茶ぶりしてきた同僚のおかげで、運営を卒業している現在でも、仲間と一緒に楽しい思い出を作り続けられています。「0→1」のタイプではなく、ITエンジニアでもない私は、自分から「大規模なイベントをやろう」とは言い出すことはきっとなかったと思います。

「10年続ける」と宣言。しかしプレッシャーが……

デブサミの第1回は、2003年2月に開催されました。当時はインターネット技術が大きく変革し、ネットベンチャーが次々に生まれた時期でもありました。今でこそ、オープンな勉強会やカンファレンスが日本全国で開催されていますが、当時はほぼITベンダー主催によるイベントしかない状態。そんな中で立ち上げられたデブサミの企画は、当初のスタッフだけでは手が回らなくなり、運営メンバーから「手伝ってください」と言われ、運営責任者に任命されてしまいました。

社外の方からの企画に関するヒアリング結果を聞いたところ、私には、デブサミに求められているイベント像と当初の骨子との間に乖離(かいり)があるように思えました。そこでイベントの立て付けを一から考え直すことにして、「どうしたら『Summit』という言葉にふさわしい場になるのだろう」と試行錯誤しました。

世界に通用する日本のITエンジニアが、技術について互いにシェアし、話し合い、刺激し合う場を作る……それが「Developers Summit」というタイトルを名乗るのにふさわしい場になるのではないか? そして、ITエンジニアたちが自分の作り出すシステムやサービスを通じて、「社会善」を日本へ、そして世界へともたらしてくれるのではないか? という仮説を立てました。

こんな大それた、妄想といってもいいくらいの仮説を、ITエンジニアでもない私が口にしたところで誰が信じてくれるだろうか……と、心底心細かった自分を思い出します。また、当時は運営のシステムが確立しておらず、イベントのオペレーションも難しいものでした。

でも、社内外の人たちに「どうせ儲け話だろう」と思われたくなくて、精いっぱい強がり、「日本のITエンジニアのために10年本気で続けるので、力を貸してください!」と関係者、スピーカー、スポンサーを引き受けていただいた方々にお話しして回りました。日本で活躍するすごいエンジニアの方に登壇していただくためには、当時の私には、それしかできることがなかったのです。同時に「10年続ける」という自分へのプレッシャーも生まれました。

自分の後を引き継いでくれる人が現れた

デブサミに関わって5年を越えたころ、やっとイベント全体のフォーマットがなんとなく見えてきました。そして「自分だけが旗振り役をしていてはいけない、後進にどう引き継いでいけばよいのだろう」と考え始めました。

事業として成功させながら、来場者に「良いイベントだと人に紹介したい」「来年も参加したい」と思っていただけるよう企画・運営するためには、技術トレンドへのキャッチアップはもちろんのこと、方向性を細かく調整しながら、運営にまつわる細々とした仕事も並行してやらなければなりません。そこに関心を持って引き受けてくれる人を社内できちんと見つけられるか、とても心配でした。

そう考えていた2009年、当時デブサミで別の役回りをしていた鍋島理人くん*1が全体の企画にも加わり、イベントの規模を大きくしてくれただけでなく、2014年に私が異動でデブサミを離れることが決まった時、オーガナイザー役を買って出てくれました。またその後、彼が辞める時に、近藤佑子さん(翔泳社)が「絶対に自分がやりたい」と言ってくれました。そういう人たちが現れてくれて、本当にうれしかったです。

現在のデブサミのオーガナイザーの一人、近藤佑子(@kondoyuko)さん!現在のデブサミのオーガナイザーの一人、近藤佑子(@kondoyuko)さん!

2011年3月に東日本大震災が起き、故郷の釜石を思って心が荒れ狂っていた時も、「10年続ける」と皆さんと約束した最後の年が残っていたから、私は正気を取り戻すことができました

今年(2019年2月)は、イベントの中で枠をもらい、日本出版販売さんと一緒に企画した「『こどもプログラミング本 大賞』投票会&品評会」で参加する側に回り、初めて参加者として楽しく過ごさせてもらいました。

私は今、真剣に開発者の役に立つことと向き合い、進化させようとしているデブサミチームの様子を感じながら、全く別の部署で働いています。こんなにありがたい、プライスレスな経験が待っているとは、2002年の自分には全く考えられませんでした。そして、このイベントを経験したおかげで、素晴らしいエンジニアの方のお話を13年間たくさん聞くことができました。それらは今の私の血肉となっています。

他の会社からも無茶ぶられ、そして助けてもらった

自社だけでなく、他社からも無茶ぶられたこともありました。

2019年度で31期目を迎える「コンピュータ出版販売研究機構(CPU)」は、コンピュータ書籍の版元6社で構成されている業界団体です。コンピュータに詳しくない書店員さんでもコンピュータ書の棚がうまく作れる仕組みを、会社を超えて実現するために運営されています。私は2016年春、その会長職に就きました。

無知というのは恐ろしいもので、当時異動で書店営業の担当になったばかりの私は、団体の志には共感していたものの、当時の活動の骨子が分かっていませんでした。そこで、所属していないにもかかわらずいきなり会合に参加し、団体を潰さんばかりの勢いで行事の断捨離を提案し始めたところ、別の会社にいる前会長からの指名で会長に推薦され、弊社社長が受理。経験ゼロの状態からいきなり会長職を引き受けることに……。今考えてもお腹の痛くなるような経験でした。

おそるおそる書店さんへの調査を始めたところ、一番求められていることは、コンピュータ書の棚分類コードの使い勝手向上だと分かりました。これを形にできるのは、編集者から書店営業になった経歴を持つ技術評論社の野口隆史さん(現:CPU青年団団長)しかいないと思い、掛け合ってプロジェクトのリーダーを引き受けていただき、さらに会員各社からコンピュータ書の棚作りのエキスパートを出していただきました。棚を作りやすくなるようなコード体系の全面的見直し、裏表紙へのコードの記載などを進め、書店さんに感謝していただけた仕事となりました。他社からの無茶ぶりではあったけれど、他社から助けられもしたのです。打ち上げで関係者と一緒に飲んだお酒は、本当においしかったです。

コンピュータ書の棚分類の成果。裏表紙にコードを記載しています
コンピュータ書の棚分類の成果。裏表紙にコードを記載しています

また、長く働いていると「とっさに即答できないほどの無茶ぶり」も受けることがあります。そういう時はすぐには返事せず、「自分が貢献できるイメージができるようになるまで待ってください」と告げ、じっくり考える時間をもらいました。

最終的には「会社と対等な立場である」という前提で、断る勇気も持ちつつ、「自分が加わることでプロジェクトが良くなることがイメージできるか」「社会的意義があるかどうか」を軸にして、引き受けるかどうかを決めてきました。その方法がフィットしていると認識してからは、ずっと「新しいことが起きている環境」に身を置き続けています

本当は人付き合いが苦手だった私は、コミュニティで再起動できた

こうして振り返ると私の「無茶ぶりに応え続ける」歴史は、イベントにしろプロジェクトにしろ、人が集まって形成される「コミュニティ」の中で居場所を作ることだったと感じます。

「コミュニティで活動する」と表現すると、私のことを「人付き合いが得意そう」と思うかもしれません。人付き合いが苦手な方にとっては、きっとコミュニティに参加するハードルは非常に高いことでしょう。しかし実際の私は、昔からずっと、人付き合いも集団行動も苦手でした。

でも、人と関わらずに生きていくのは大変難しいことです。人付き合いが苦手だからこそ、生存戦略として「コミュニティを通じて緩やかに社会とつながる」ということを、皆さんにお伝えしておきたいです。

コミュニティに飛び込み、助けてもらえる場所を作る

もともと体が弱かった私は、中学時代はほぼ毎日授業中に体調を崩し、保健室にお世話になっていました。検査をしても異常なし。当時は校内暴力が多い時代で、おそらく学校の雰囲気が合わなかったのでしょう。閉塞感に押しつぶされそうになっていたように思います。

居場所がなかった私は、「自分がいてもいい場所」を探して、ベートーベンの「第九」を歌う釜石の大人の合唱団に入りました。この時に、自分からコミュニティに飛び込むことで、「助けて」と言えなくても助けてもらえる場所ができることを学びました。

合唱団では、数々の素敵な楽曲や、私が今も生涯の師と仰ぐ渡邊顯麿(わたなべ・あきまろ)先生*2に出会いました。誰に対しても機会を平等に与え、体験させることを信条にしていた渡邊先生は、「あなたが今この集団の中で最善だと思うことをやりなさい」といつも言っていました。そして、釜石へ世界の合唱団の演奏会を招聘(しょうへい)したり、東京の一流の音楽家の方々と練習する機会を作ったりすることで、「世の中にはこんなにもすごい人がいる」と私の目を開かせてくれました。

志を同じくする人たちと一緒に声を合わせて歌を歌うことで、私は少しずつ心身ともに元気になっていきました。

渡邊先生の教えはずっと私の支えになってくれました。過去や未来を思うのではなく「今」できることをやること。仕事でつらいことがあった時には、自然に、渡邊先生が教えてくださった楽曲を口ずさみ、心を静めてきたように思います。

同じ興味・関心を持つ仲間たちと過ごす時間を持つ

「自分には特技がないし、居場所もない」と感じている方は、自分の好きな分野のコミュニティに、少しだけでも関わってみてはいかがでしょうか? 自分でコミュニティを作ってみてもいいと思います。自分が本当に得意としている領域が分かってくるかもしれません。そして、人生に新しい何かを取り入れることができるかもしれません

東京で関わってきた数々のコミュニティでは、ある程度人数がいる方が、1対1でのコミュニケーションよりも適度な距離感を保ちやすく関係が長続きし、新たな人とのつながりや関心事が生まれるきっかけがもらえることが分かりました。興味・関心や目的が同じ仲間たちと一緒に過ごすと安心できることにも気づきました。

私の例をお話しすると、震災をきっかけに始まった、釜石の酒蔵「浜千鳥」さんによる「浜千鳥を楽しむ会in東京」で、子どもの頃一緒に歌った「東京荒川少年少女合唱隊」の卒隊生の方々と再会。2013年、卒隊生を中心として荒川区で活動する女声合唱団「コーロ・ファンタジア」に入り、2018年には釜石の合唱団「かまいし第九の会」で歌うようになって、また一緒に声を合わせて歌える喜びを得ています。

出版社に所属する私は、言葉、書かれたもの、本でしか伝わらないことがあるとも考えています。新しいものに挑む時、あるいは困り果てた時、本は私たちのコーチや友達になってくれますよね。そのためには、普段書店に行かない人に「もっと本を見てほしい」と考え、自宅で“自称杉並区イチ小さい図書館”の「箱庭ライブラリ」や、ソフトウェア開発手法の一つ「スクラム」に関する本60冊を丸ごと貸し出す「旅するアジャイル本箱」などの個人活動をしています。“本のユーザー”である読者の本の選び方や感想を直接聞く場を持つことで、私自身もリブート(再起動)させてもらっています。

たった一度きりの人生、コミュニティを通じて「助けたり助けられたりする緩やかで安心な関係」を持つことが、皆さんの人生の彩りを豊かにしてくれると思います!

§ § §

私はこれからも、少しでも長く働き、自分自身でお金を稼ぎ、小さなことでも世の中を良くする活動に関わっていたいと思っています。そのために、いつまでも「無茶ぶられて、それに応え続ける自分」でいたいです。

記事を読んでくださったあなたへ。どこかで出会ったら、今度は、皆さんの無茶ぶられた話を聞かせてください!

良い人生を!

著者:岩切晃子id:IWAKIRI

岩切晃子

岩手県釜石市出身。クリスマス生まれ。
日本最大級のITエンジニアイベント「Developers Summit (通称:デブサミ)」を、2003年の第一回より10年以上コーディネートし、異種の技術領域に携わるエンジニアが一堂に会することのできる、中立かつオープンで多様なイベントの開催を支えたことにより、楽天テクノロジーアワード2012 ルビィ賞を、自宅の倉庫に置いた箱庭ライブラリの運営に対し、本を通じた人と人とのつながりを生み出し、地域にも貢献する活動として、大阪府立大からマイクロライブラリーアワード2018を受賞。
本、IT、コミュニティで社会をブーストする人を増やすために、日夜行脚中。
Twitter @kohsei
Blog : 江青日誌

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次回の更新は、2019年5月29日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:元翔泳社の鍋島理人さん。2019年5月現在、ITコンサルティングの「Innerstudio」代表。

*2:1965年に結成された「東京荒川少年少女合唱隊」の常任指揮者。同隊を国内有数の児童合唱団に育て上げる。1977年に故郷である釜石市に帰り、同市の「宝樹寺」の住職に。同年から「釜石混声合唱団」や「親と子の合唱団 ノイホフ・クワィアー」の指導に当たる。1996年死去。