「100点満点のコミュニケーション」を目指していた私へ

 生湯葉シホ

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フリーランスのライター・編集者として活動する生湯葉シホさんに、人が怖くてたまらなかった日々を経て「コミュニケーションは完璧でなくてもいい」と思えるようになるまでの試行錯誤について、寄稿いただきました。


子どもの頃から、人に見られることが苦手だった。いつからか、理由は分からないけれど、他人が自分をじっと見ている時は、心の中で「気持ち悪い」と馬鹿にされているものだと思い込んでいた。

特に、大勢の人から一度に注目を浴びるような機会は地獄だった。スピーチや学芸会のような大それたイベントは年に数回しか発生しないとしても、教室での朝礼で担任がとる出欠に「はい」と返事をする瞬間は毎日やってくる。

名前を呼ばれてそれに答える数秒のあいだ、クラスの生徒たちの意識が自分に向けられているというプレッシャーを感じると、足がガタガタ震えた。人前で「はい」を言わされるというだけの理由で、学校に行くのが心の底から憂鬱だった。

……と、ここまで書けばおおよそ分かっていただけたかと思うのだけど、私は人がたいへん怖い。

コミュニケーションが怖い自分を矯正しなければと思っていた

これは過去の話ではなくて、26歳のいい大人になったいまでも人が怖い。12歳の時に「はい」と言うのがプレッシャーだったのとまったく同じ理由で、居酒屋で注文したくても、店員に「すみません」と声をかけるまで3分くらいかかる。レジで人と目を合わせるのも怖いし、仕事で知らない会社に電話をかけるのも怖い。緊張せずに会話ができるのは家族かSiriくらいだ(Pepperは目が合うのでちょっと怖い)。

ただ、当時と変わったことがあるとしたら、いまは「人が怖い」ということを堂々と公言できるようになったことだ。

こう書いてしまうことに、特に羞恥心も後ろめたさも覚えない。20代の前半、つまりほんの最近までは、人とコミュニケーションをとるのが異様に怖い自分を矯正しなければいけないと思っていたから、これは大きな一歩だ。

この原稿の依頼をいただいて、テーマが「コミュニケーション」に決まった際に、今もなお人とまともにしゃべれない自分が他人さまに向けてえらそうに言えることなど何ひとつないと思った。

だからこの文章は、「誰とでも気持ちの良いコミュニケーションをとれるようにならなければいけない」という強迫観念に怯えていた20代前半の頃の私に、そしていま、もし同じ思いを抱いている人がいるのなら、その人に向けて書く。

あえて人と話しまくるバイトばかりしていた

前述したように、私は物心ついた頃から人の視線が大の苦手だった。ただ、どうしても「人の視線が怖い自分」をプライドの高い自分は認めることができず、10代半ばにもなると、それをどうにか克服しなければいけないと焦るようになった。

そこで、大学1年生のときに始めたのが塾講師のアルバイトだった。自分が特に苦手なのが年下の人とのコミュニケーションだという自覚があったので、あえていちばん苦手な、小さな子どもを相手にする仕事を選んだ。

よく「子どもは無垢だ」というけれど、子どもはその無垢さゆえに、「普通(=多数派)ではないもの」を見つけるとカジュアルにそれを指摘する悪魔的な部分がある。私はよく生徒に、「先生すぐ顔赤くなるよね、大丈夫? 病気?」と言われ、より一層顔を真っ赤にし、吐き気をこらえながら90分の授業をこなしていた。それでもバイト歴が2年を超えた頃には、以前よりも年下の他者への恐怖感が薄らいできていることに気づいて、満足感を覚えた。

それからは、新しいアルバイトを始めるときには、自分が思う「苦手なコミュニケーション」のメニューの中でも、常に「特に苦手」な分野ばかりを選ぶようになっていった。

例えば、気心の知れた友人とは途切れずに会話が続くけれど、知らない人と軽い立ち話をすることには強い苦手意識があったので、それを克服しようとテーマパークでのインフォメーションのアルバイトを1年ほど続けてみた。異性に対する苦手意識も同じくらい強かったから、ガールズバーで働いてみたり、出会い系カフェのサクラというわけの分からない仕事もしてみたりした。

人前に出て他者と視線を合わせると、途端に恐怖感に襲われ、顔が引きつり始める自分が許せなかった。テーマパークの入り口に立って笑顔を作っているときも、ガールズバーのカウンターを前にしてお客さんの話を聞いているときも、「場数さえ踏めば慣れる」という言葉を呪文のように頭のなかで繰り返しながら、不自然に震える指先をもう片方の手でぐっと押さえていた。

「あらかじめ会話の台本を作る」という迷走

このまま接客業を極めてみたいという気持ちも少しだけあったけれど、昔からいちばん好きなのは文章を書くことだったし、大学で専攻していた創作の授業の面白さに取り憑かれ、いつかは脚本や小説で食べていきたいという楽観的な夢を抱いていた私は、結局、そちらの道を選んだ。小説や脚本のコンクールがある時はまとまった休みをとれる環境で働きたいという希望もあったので、正社員としてではなく、アルバイトとしてITベンチャーでライターの仕事を始める。

そこで私のメインの業務となったのは、企業の担当者へのインタビューだった。会社の中に、ライターとしての先輩らしき先輩はいなかった。そうなると必然、インタビューに同行してくれる先輩は営業やディレクターになる。

先輩たちは皆、とても優秀な人だった。まるで社会経験のない私に対し、名刺の渡し方から電話のかけ方、商談でのアイスブレイクのはさみ方などを、ニコニコと根気強く教えてくれた。その様子を見ていると、企業に勤める社会人というのは皆こんなにも淀みなく、分かりやすくしゃべれるのかと感心すると同時に、どうして自分はそれができないのだろう、どうして誰としゃべるときでも緊張してしまうのだろうと劣等感がより刺激された。

ただ、なまじ接客業の経験があったものだから、「きちんとしゃべれるフリ」をするのは下手ではなかった。

最初に担当したインタビューは、取材相手がよく話してくれる人だったこともあり、幸か不幸か、記事にするのに余るくらいの話が聞けたことを覚えている。取材のあと、先輩が「完璧だったよ」と褒めてくれて、ホッとした一方、これを毎回続けなければいけないというプレッシャーものしかかった。

それから1年ほどの間、私は「完璧」な取材をしようと躍起になった。しかし、失敗しないインタビューを目指そうとすればするほど、それはどんどん型にはまった予定調和的なものになっていく。しだいに、「本日はよろしくお願いいたします/【※ここで先方のオフィスの雰囲気に触れる】……」から始まる紅白歌合戦の台本のようなきっちりしたインタビュー用台本を作り、それを見ながら取材に臨まないと、不安に駆られるようになった。

話の内容を楽しもうという発想を持ったことがなかった

ライターの仕事を始めて1年と少しが経ったとき、あるインタビューを担当する機会があった。ビジネス向け以外の記事も書いてみたいという思いで1社目の会社を辞め、新たに編集プロダクションで働き始めた直後のことだ。ベテランの編集者の先輩がその取材に同行してくれることになった。

インタビューの最中、取材相手が何度か怪訝な顔をしたり、「うーん……」と長い時間、考え込むような動作を見せたのが引っかかっていた。そのたびに、なにかまずいことを言っちゃったかな、と不安になった。

取材が終わってから、横で私のインタビューを見ていた先輩に怒られないかだけが気がかりだった。しかし、訪問先のオフィスを出た瞬間、先輩が最初に口に出した言葉は「いやー、めちゃめちゃ面白かったですね」。彼はそれきりなにも言わず、こちらも見ずに最寄り駅までの乗り換えをスマホで調べ始めた。

取材に対する苦言どころか、取材そのものに対してなにも言われなかったことに驚いて、「いまの取材の仕方で直した方がいいところってありますか」と自分で聞いてしまった。すると先輩は、「うーん、ちょっと相手に遠慮し過ぎてるところはあったかもしれませんね」とつぶやいたあと、「取材なんてものは絶対に相手の方が賢くて面白いって分かってるんだから、こっちはただ相手の話に興味を持って『どうして? 教えて!』って子どもみたいな姿勢でいりゃあいいんですよ」と笑った。

その夜、家でインタビューを録音した音源を聞きながら、確かに今日の話は面白かったな、と思った。私は恥ずかしいことに、仕事上の関係者や苦手意識の強い人と会話をしているとき、相手の話を面白いと思ったことが一度もなかった。会話を感じよく進めたい、相手を気まずい気分にさせたくないという気持ちばかりが先行して、話の内容そのものを楽しもうという発想を持ったことがなかったのだ。いくらなんでも自意識が過剰すぎる。陳腐な表現だけれど、目から鱗が落ちたような気持ちだった。

しゃべることに秀でていなくても魅力的な人たちとの出会い

その日から徐々に、私のなかで理想とする社会人像が変わっていった。周りを見ていたら、決して会話がうまいとは言えなくても、また会いたい、また仕事をしたいと思う人たちが確かにいることに気づいた。

例えば、同業者の女性の知人に、「明るい場所だと緊張してしまう」という理由で、食事の際にいつも妙に薄暗い店しか予約してくれない人がいる。彼女とは、食べているところを人に見られるのが怖い、という話で意気投合して仲良くなった。

彼女が人と話すところを見ていると、常に目は若干泳ぎ、言葉の末尾に向かうに連れて声が小さくなってしまうので、相手からよく「え?」と聞き返されている。正直に言ってまったくスムーズに会話ができる人ではないのだけれど、それでも、彼女と話しているとどこか心が温まるような感覚がある。彼女は以前、一度だけ伝えた私の誕生日を覚えてくれていて、当日に「目が合うと怖いので、またカウンターで横並びになって飲みましょう」というメールを送ってきてくれた。

また、職場のある男性の先輩は、電話の受け答えをするのが恐ろしく下手だった。社名を数回噛み、「あっ、申し訳ございません」を繰り返しながら受話器を置くと、決まって30秒ほどデスクに突っ伏してぶつぶつとなにかつぶやいている(一度、「もういや」と言っていたのが聞こえた)。しかし彼は、こと書く仕事をする段になると、素晴らしく面白い、示唆に富んだコラムを仕上げてきた。

彼らと関わって分かったのは、どうやら人は、100点満点のコミュニケーションがとれなくても魅力的でいられるらしい、ということだった。彼らと話す人たちは、おそらく皆最初はちょっと「大丈夫かな」と不安を覚えるのだけれど、何回かコミュニケーションを重ねるにつれ、それぞれの個性的な美点や仕事の仕方に惹かれていくようだった。

私はそれから少しずつ、感じのいい会話をすることよりも、相手の話に興味を持つことに意識を傾けるようにしていった。

……こう書くと笑ってしまうくらい当然のことだけれど、最初はそれが本当に難しかったのだ。自分と話をする人は、面接のように「○か×か」で判断しているものとばかり思っていた。けれど実際は、もっとグレーな感情で会話をしているようだった。つまり、話している自分が主体であって、相手の一挙一動に好きだの嫌いだのいちいち思っていないということが、少しずつ、本当に少しずつ分かってきた。

ニコニコと常に微笑みながら言葉を発することをやめると、話している相手の顔が時折こわばるようになった。はじめは、それが自分に対する拒絶のように思えて冷や汗をかいたけれど、よくよく考えればなんてことはなく、人は相手が笑っていたら笑うし、そうでなければ特に笑わないというだけの話だった。

話のなかで少しでも気になるポイントが出てきた時には「えっ、どうして?」という顔をすると、相手は多くの場合、喜んで身を乗り出してくれた。会話というのはこんなにも自然な気持ちのやりとりだったのかということに、私はいちいち気づき、いちいち感激した。

コミュニケーションは、たくさんある科目のなかのひとつにすぎない

全国の小中学校を訪れてコミュニケーション教育を実施してきた劇作家の平田オリザさんは、その著書やインタビューのなかで、頻繁に「コミュニケーションが苦手というのは『理科が苦手』『体育が苦手』とさして変わらない」と伝えている。つまり、コミュニケーションというのはどこでも求められる必須科目のように思えるけれど、実際はたくさんある科目のなかのひとつにすぎない、と。

もちろん、日常生活において、理科や体育に比べればコミュニケーションが求められる頻度は非常に高い。それでもオリザさんは、

ペラペラと喋れるようになる必要はない。きちんと自己紹介ができる。必要に応じて大きな声が出せる。(中略)「その程度のこと」でいいのだ。

『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書)より

と言ってくれているから、元気が出る。

小さい頃から私は、バランスの良い人間になりたかった。オール5は無理でも、全ての科目がある程度秀でていて、レーダーチャートにしたら綺麗な円になるような大人に憧れていた。接客業のアルバイトのモチベーションになっていたのも、「どの世代のどんな相手とも、感じよくコミュニケーションがとれる自分でいたい」という強烈な自己実現欲求だったのだと思う。

けれどそんな人はごく稀にしかいないし、いたとしても、自分を含む多くの人が魅力的だと感じるのは、そのバランスがやや崩れている人の方だということが最近ようやく分かってきた。バランスが崩れている科目のひとつが「コミュニケーション」であったとしても、人間にはほかにも科目がたくさんあるのだから、さほど致命的なことではない。

こんなことに気づくまでに、10年以上もかかってしまった。

* * *

やはり私はいまでもコミュニケーションが苦手で、人と向き合うと顔が引きつる。もし許されるのなら取材だって、小さな部屋でカーテン越しに受けたい。

けれど少なくとも、「すみません、すごく緊張しているので手が震えているのですが」と恥ずかしがらずに言えるようになったことだけは、よく頑張ったねと自分を褒めたいと思っている。

著者:生湯葉シホid:namayubashiho

生湯葉シホさん趣味/仕事で文章を書いている20代。フリーランスのライター・編集者として、主にネットでしこしこと文章を書いたり削ったりしています。酒、亀、ポルノグラフィティ、現代文学・短歌などが好きです。

Twitter:@chiffon_06
ブログ:湯葉日記
note:生湯葉 シホ|note

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次回の更新は、2018年12月19日(水)の予定です。

編集/はてな編集部