Photo by Kyohei Yanashita
「無人島に持っていくなら何にしますか?」
就職活動中、ある会社の面接でそう聞かれた。面接官は2名で、学生は3名。わたしはいちばん左の席で、いちばん初めに答える学生だった。
わたしはとっさに「辞書です」と答えた。
「辞書?」
面接官が目を丸くする。
「はい、できるだけ分厚い辞書を……読み終えるのにすごく時間がかかりそうな」
わたしはしどろもどろになりながら答えた。
「それだけ言葉があれば、そこに無人島で暮らす自分の感情を表す言葉が、どこかに載っているかもしれないので」
答えながら、真っ黒なリクルートスーツの袖を握る。手のひらがじっとり汗ばんでいた。面接官はにっこり笑って、隣の人に目線を移した。
§
幼い頃から、本が好きだった。読んだり書いたりしながら、これまでのたくさんの時間を過ごした。
昔から、自分は「生きる」ことが少し苦手なのではないかというような気がしていた。毎日、何だか不安なのだ。何がというのはわからない。どの場所にもどの人にも、いつまでたってもなかなか慣れない。おっかなびっくり生きている感じ。
これは何だろう、どうすればなくなるのだろう。そう思いながら、わたしは本を読むようになった。本の中には、自分の感情を表す言葉や、わたしと同じようなことを感じ考えている人がいた。生きにくさはなくなることはなくても、この感情を持つ人がわたしだけではないと知るだけで、ほっとした気持ちになった。そして、わたしも文章を書くようになった。
わたしにとって本や文章は、日々の生活に絶対に欠かすことのできないものだった。だから自然と、自分は本をつくったり文章を書いたりすることを仕事にするのだと思っていた。
それなら勤め先は出版社だろうと安直な考えで、就職活動では出版社ばかり受けていた。たいてい履歴書で落とされる中、運良く面接まで進むことができたその出版社で、無人島の質問は発せられた。
わたしの次に答えた隣の学生は、「鏡です」と答えていた。
「太陽にあてたらSOSのサインにもなるし、火を起こすこともできます。割ればナイフ代わりにもなりますから」
その答えを横で聞きながら、本当に感心してしまった。この人は、きっと生き残るだろうな。
結局、その会社からは断りの手紙が来た。
「貴殿のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます」
好きなことに携わっているのに、どうしてこんなにしんどいのだろう
Photo by Kyohei Yanashita
大学4年の夏、ある出版社に内定をもらった。
子供の頃からずっと好きだったことを仕事にできる。そう思って、とてもうれしかった。友達が「蘭が本を出したら読むね」と言ってくれた。
「うん、がんばるね」
そう言って、わたしは学生時代住んでいた京都をあとに上京した。
編集部を志望していたけれど、1年目の社員は全員営業部に配属された。その会社は「本を売ることを覚えてから本をつくる」という考え方だった。確かにそれは大事なことだとわたしも思って、毎日外回りに出た。仕事の内容は、本屋さんから注文をもらって自社の本を置いてもらうというものだった。
本に囲まれたり、本屋さんをまわりながら仕事をするのはうれしいことだった。でも働いてみて知ったのは、自分は営業がとても苦手だということだ。相手がみんな忙しそうに見えて、いつまでたっても声がかけられない。話している間も、相手が機嫌を悪くしていないか気になってしかたがない。気にしすぎだとわかっているのに、気にしないことができなかった。1日が終わるたび、自分のエネルギーがぎりぎりまでなくなっているのを感じ、毎日へとへとに疲れ果てていた。
好きなことに携わっているのに、どうしてこんなにしんどいのだろう。
きっと自分が力不足だからだ。そう思い、どうにかせねばと必死だった。毎朝とても不安な気持ちで起きながらも、お守りのように文庫本を2冊鞄に入れ、満員電車に乗った。
2年目の春、配属先が発表された。同期が何人か編集部に異動したが、わたしはその年も営業部だった。
同期が初めての新刊を出して、営業先の書店でその注文をとった。同期に「がんばって売るね」と笑いながら、彼女がとてもうらやましかった。
その頃にはホームシックもひどくなっていた。営業という仕事だけではなく、東京という街にも自分は合っていないことに気がついていて、とにかく京都の街に帰りたかった。
いつか慣れる。
そう言い聞かせながらも、今日の自分が昨日の自分と何か変わることはなかった。
本をつくりたい。文章を書きたい。
そう思うだけで何もできないまま、毎日が過ぎていった。
もっと長く生きていくための努力もしたほうがいい
「辞めます」
我慢弱いわたしは、すぐに音を上げた。
上司は当然、あともう少し頑張ってみろと言った。
まだ2年目で、営業のことが何もわかっていない。必ずいつかこの仕事が楽しくなるからそのときまでがんばれ。営業ができれば、自分がつくり手になったときにも役立つから。
彼の言うことは本当にその通りで、わたしは自分の堪え性のなさにうなだれた。
「土門は少し刹那的なところがあるからなあ」
と彼は言った。
「明日死んでもいい生き方じゃなくて、もっと長く生きていくための努力もしたほうがいい」
それを聞いてわたしは「鏡だ」と思った。彼はわたしに、無人島で生きていくための鏡を持たせようとしてくれている。
会社からは、関西支社への異動を提案してもらった。関西支社には営業部しかなく、編集部で働く望みは一切絶たれる。それでも、会社や上司の厚意には応えたかった。というより、もうすっかり自信をなくしていたのだと思う。目の前の仕事を楽しめない自分は、きっとどこにいってもだめなんだと思い込んでいた。自分がどうしたいのか、何ができるのか、よくわからなくなっていた。
わたしは翌年から、関西支社で営業を続けた。それから結婚をし、出産をした。営業職について、4年がたっていた。
その間も、本をつくりたい、文章を書きたいという気持ちは消えることがなかった。
「フリーペーパーつくらへん?」
昔からわたしの夢を知っていた友人がそう声をかけてくれて、わたしは営業の仕事を続けながら、彼女とフリーペーパーを創刊した。友人がデザインをして、わたしが文章を書く。ふたりでつくったそのフリーペーパーは、小さいながらに反響があり、感想のメールをいただいたり、ラジオや雑誌の取材を受けることもあった。
自分たちのつくったものが人に喜ばれるというのはとてもうれしいことだった。
「いいフリーペーパーやな」
よく自分たちでそう言い合った。
初めて小説を書き、新人賞に応募したのもこの頃だ。会社から帰ってきては、夜遅くまで書いた。ようやく仕上げた小説は最終選考まで残ったけれど、評価は散々で受賞することはできなかった。それでも書かなきゃ、と必死だった。
今の自分にできることを、必死でやっていた。
そうして生まれるフリーペーパーや作品が、その頃の心のよりどころだった。
安定した収入もあって、理解のある職場で、趣味も充実している。だけど、自分の仕事が楽しいと思うことはやっぱりできなかった。
同期がどんどん新刊を出す。友達が楽しそうに自分の仕事について語っている。それを見ながら、焦る気持ちだけがあった。
学生時代に描いていた、好きなことを仕事にして一所懸命働いている自分の姿はここにはない。
次第に、そういうものなのかな、と思うようになった。わたしはきっと、どんな仕事についたとしても、楽しいと思うことはないのだろう。
完全に自信をなくしていた。わたしは自分が嫌いだった。
自分は一生、仕事を楽しいと思うことなんてないのだろうな
Photo by Kyohei Yanashita
営業職でのワーキングマザーはわたしが初めてで、育児休暇からの復帰後、職場では「無理をするな」と温かく出迎えてもらった。
「がんばります」
とわたしは言った。
でもすぐに、夜に眠れなくなった。
子供の夜泣きがひどいのだ。慣れない保育園生活で息子も情緒が不安定になっていたのだろう。乳離れもうまくできていなくて、毎晩何度も起きるようになった。それからすぐに不眠になった。疲れているのに、全然眠れない。毎朝ふらふらになりながら、家を出た。
「休め」と夫に言われていたけれど、休むことができなかった。まわりに迷惑をかけてはいけない、慣れれば大丈夫だから。ずっとそう言い聞かせてきた。
そのうちじんましんが出るようになって、めまいと吐き気がするようになった。胃痛がし、食欲もなくなった。内科、耳鼻科、皮膚科に行って、薬でなんとかごまかした。そうしているうち、今度は涙が止まらなくなった。ふとしたときに泣いてしまう。風邪や花粉症のふりをして、マスクをして毎日出かけた。
もうだめだと思ったのは、息子を抱っこすることができなくなったときだった。家に帰ったあるとき、床に座り込んでしまって、泣いている息子をただぼうっと見ている自分に気がついた。
そのときやっと、「もうだめなんだな」とわかった。このままだと育児もできなくなる。いちばん大事なはずの目の前の息子を、泣き止ますこともできなくなる。
それで次の日会社を休んで、心療内科に行った。
お医者さんは
「すぐに休んでください」
と言った。
「まずは、自分をしっかり休ませて。とにかく寝てください。育児も仕事もそれからです」
会社に提出する診断書には「うつ病」と書かれていた。
休職をしてからの3カ月間のことは、ほとんど覚えていない。あんなに好きだった本も読めなくなっていた。文字が全然頭に入ってこなくて、脳が拒否している感じなのだ。テレビも観られないし、音楽も聴けない。文章を書くことも、一切できなくなっていた。
息子を保育園に送り迎えする以外は一切外に出ず、家の中でただぼうっとしていた。その間ずっと自分を責める言葉が頭に浮かんでいた。
まわりに迷惑だけかけて、結局何も残らなかった。
これまでのこと全部、無駄にしてしまった。
「自分は一生、仕事を楽しいと思うことなんてないのだろうな」
§
ある日、保育園で園長先生に呼び止められた。わたしは働いてもいないのに保育園に預けていることを申し訳なく思っていたので、声をかけられてどぎまぎしてしまった。
園長先生はそれを察したのか、とても優しい声で、
「えらかったですね。早く病院に行って」
と言った。
「会社を休むのは、とても勇気がいったでしょう? でも、子供さんのために、早く治そうと思ったんでしょう?」
わたしはびっくりして声が出なかった。うなずくと、涙が出た。
「自分の仕事がわかっている、立派なお母さんですよ」
そのあとに、お医者さんに点滴を受けてみませんかと言われた。
授乳中だったので、あまり強い薬を使えなかったのだけど、早く治すためにはこれがいちばん効率的だから、断乳も考えてみてくださいと。
わたしは「お願いします」と言った。断乳をして、薬をちゃんと飲んで、早く治そうと思った。
わたしは、会社を辞めることを決めた。
治ったらもう一度、「自分の仕事」を探してみようと思った。今度は本当に仕事を好きになれるように。
もう一度見つけた自分の「仕事」
お医者さんから「もう働いても大丈夫ですよ」と言われた日、帰りにコンビニエンスストアで履歴書を買った。
これまでは、好きなことを仕事にしようと思っていたけれど、園長先生と話をしてから、好きな人と仕事をするというやり方もあるのかもしれない、と思うようになった。子供のために今何ができるのかを考え動くこと。それを「母親の仕事」と言うならば、「子供」を「好きな人」に置き換えれば、「自分の仕事」はきっと見つけられる。そして、それなら今のわたしにもできるかもしれないと。
わたしはフリーペーパーを一緒につくってきた友人に連絡をとった。
彼女はWeb制作会社を立ち上げたところだった。その会社は彼女含み当時3人でやっていて、メンバーはみんな学生時代からの友達。彼女とフリーペーパーをつくっているときも、他の2人がずっと応援してくれたり、一緒に配布をしてくれたりしていて、わたしにとって彼らは大事な仲間だった。「好きな人」と考えて、彼らのことが思いついたのだ。
「Webのことは何もわからないし、何ができるのかよくわからないのだけど、よかったら雇ってくれないかな」
とはいえ彼女は会社を立ち上げたばかりで、初心者を入れる余裕もなかったはずだ。断られるだろうと思っていたら、「いいよ」と彼女は言った。自分から言ったにもかかわらず、わたしは拍子抜けした。転職活動は一瞬で終わった。
Web制作に関する作業はおろか、書店営業は対面とFAXがメインだったので、ビジネスメールでのやりとりすらしたことがない。そんなわたしを何で雇ってくれたのか、今でもよくわからない。
だけど、ここにいる人たちのためにできることをしようと思った。それが自分の「仕事」だと。
コーヒーを淹れる、そうじをする、電話に出る、来客対応をする、資料をつくる。
専門知識や技術がないので、誰でもできる簡単なことしかできない。だけど、そういったことをわたしが一手に引き受けると、彼らが少し楽になるのがわかった。
もっと何かできないだろうか? わたしは彼らから自分ができる仕事をもらっていった。経理、広報、ディレクション、コピーライティング。仕事は少しずつ増えていった。わたしにできることが増えるほど、まわりの人が自分の仕事に集中できたり、余裕ができたりするのがうれしかった。
「土門さんは、この会社に必要な人だよ」
1年ほどたったころだろうか、わたしを雇ってくれた彼女から、ふとそう言われたことがある。わたしはその言葉を聞いて、自分がいつの間にか、毎日「仕事が楽しい」と思っていることに気がついた。すっかりなくしていた自信を、わたしはまったく違うかたちで取り戻していた。
この人に喜んでもらいたいと思い、動くこと。「仕事」というのはそんなシンプルなことだった。そのことがようやく理解できた。
好きなことを仕事にしたいと思いながら営業をしていたときには、「この人のために」という気持ちがすっかり抜けていた。そこには自分しかなかった。だからわたしは、わたしを見失っていたのだ。
わたしはまた、文章を書き出した。
それから書く文章は、自分でもかなり変わったと思う。わたしは「この人」に読んでほしいと考えながら、文章を書くようになった。フリーペーパーで、Webで、コラムやインタビュー記事や、いろいろな文章を書いた。
だんだん、その文章が「この人」に届いたり、「この人」以外にも届くことが増えていった。そのたび心からうれしくなり、自分がずっとしたかったことはきっとこういうことだったのだ、と知った。
わたしはまた、新しく夢を持つことができた。
「文章を書いて生きていきたい」
人の心に届く文章が書きたい。もっともっと、良いものを書きたい。それがわたしの「仕事」なんだとわかった。
この本を読んで、1日1日を大事に生きていこうと思いました
Photo by Kyohei Yanashita
31歳。友人の会社に勤めて4年がたっていた。
わたしの「仕事」を読んだある人が、「土門さんの小説を読んでみたい」と言った。
「僕、編集につきます。土門さんの小説を読んでみたいから」
わたしはとてもうれしかった。この人と一所懸命「仕事」をしようと思った。喫茶店のテーブルに両手をついて、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
その1年後、わたしは独立することを決めた。
「文章を書いて生きていきたい」
友人の会社で見つけた夢は、いつの間にか少しずつ現実になっていた。退職するとき、会社のみんなから大きな花束をもらった。その花束には、わたしと同じ名前の花があった。
現在わたしは小説を書きながら、その編集者とともに「文鳥社」という小さな出版社をやっている。
そこで昨年1冊本を出した。『100年後あなたもわたしもいない日に』という、短歌とイラストの本だ。わたしが短歌を詠み、イラストレーターの寺田マユミさんが絵を描いている。
注文が来ると、家の在庫から一冊一冊自分で発送する。このあいだ営業も初めてした。やはりまだ営業は苦手で、全然うまくいかなくて、店を出ながら苦笑してしまったけれど。
それでも、読者の方や書店の方から時折メールが届いて、わたしは自分の言葉が誰かの心に届いたことを知る。
「この本を読んで、1日1日を大事に生きていこうと思いました」
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「無人島に持っていくなら何にしますか?」
わたしは、やっぱり「辞書です」と答えるだろう。
分厚い辞書をめくりながら、感情を表す言葉を探しながら、わたしは無人島で書き続ける。いつか誰かに、読まれることを思いながら。
それがわたしにとっての「仕事」であり、生きるということだから。
著者:土門 蘭
1985年広島生。小説家。京都在住。ウェブ制作会社でライター・ディレクターとして勤務後、2017年、出版業・執筆業を行う合同会社文鳥社を設立。インタビュー記事のライティングやコピーライティングなど行う傍ら、小説・短歌等の文芸作品を執筆する。共著に『100年後あなたもわたしもいない日に』(文鳥社刊)。
編集/はてな編集部