華やかに見える女性アーティストたちも、ひとりの女性として悩みながら働いている

 上野三樹

はじめまして。音楽ライターの上野三樹です。『ROCKIN'ON JAPAN』や『音楽と人』などの雑誌やWebメディアでさまざまなアーティストへのインタビュー記事を執筆しつつ、一児の母として4歳の娘を育てています。

福岡のごく普通の家庭で生まれ育った私は、思春期のころ、よくある中高一貫教育の女子校に通っていました。そこは地方のいわゆるお嬢様学校で、地元の有名企業や開業医の娘たちがこぞって通っていたりして、入試の時にギリギリの補欠で合格した私には、地元の小学校時代には絶対にいなかった、何もかもハイレベルな女子たちが異様に輝いて見えました。6年間、「私は何も持っていない」というコンプレックスを鍋で煮詰めるような日々を支えてくれたのが「音楽」でした。

通学時にヘッドフォンをしてバスに揺られながら聴いていたのは、ユニコーン、尾崎豊、スピッツ、フリッパーズ・ギター、ビートルズ、セックス・ピストルズ、スパイラル・ライフなど。時代もジャンルもバラバラに片っ端からレンタルCDショップで借りた音楽を聴く毎日。中でもリンドバーグやプリンセス・プリンセス、ジッタリンジンといったバンドの女性ボーカルや女性シンガーソングライターには強い影響を受けました。

音楽を聴きながら心の中で一緒に熱唱する時間は、私をあらゆる劣等感から解放してくれ、こんな私にも何かできるんじゃないか、と思わせてくれるほどのパワーがあり、自然と「音楽に関わる仕事に就きたい」と思うようになりました。

放課後、ひとりでタワーレコードに通い始めるようになったころに出会ったのが、JUDY AND MARYのアルバム『J・A・M』でした。ボーカルの、パンクにとんがっているのにやたら可愛い雰囲気がやさぐれた私の心を惹きつけました。特に「SLAP DASH!」という曲で、「全て手に入れよう」とハイパーボイスで歌うYUKIさんに衝撃を受けたのです。何も持っていない私も、いつか全てを手に入れたいという、そんな欲望を持って生きてもいいんじゃないか。それはまだ高校生だった私を大きく勇気づけました。

J・A・M

J・A・M

  • アーティスト:JUDY AND MARY
  • 出版社/メーカー: エピックレコードジャパン
  • 発売日:1994/1/21
  • メディア: CD

同じ時期に、強烈に私の心を動かしたのは橘いずみさんの『どんなに打ちのめされても』というアルバムで。彼女の歌を聴きながら「いつか這い上がるためには、こんなぬるま湯に浸かっていてはダメだ、一度どん底に落ちないといけない」と思うようになりました。それが一体どういうことなのかもわからないまま。自分のやりたいことをやるには、ひとりを恐れちゃいけない、強く生きなきゃいけない、と。とにかく東京に出ようと思ったのです。

運命を変えた1本の電話

1999年、音楽の仕事をするために福岡から上京した私は、昼間は阿佐谷の八百屋でバイトをし、夜はライブハウスに通う生活をしていました。知人の紹介により、某大手レコード会社の新人開発部で、観たライブのレポートを提出するアルバイトをさせてもらえることになったのです。

月に20本のライブを観て、週に1回レポートを提出する。ライブハウスが平日の夜にブッキングした、一度に4〜5バンド出演する対バンライブが主で、月に80〜100組くらいのバンドを観ていました。報酬はライブのチケット代込みだったから、ほとんど手元には残りません。「これが望んでいたどん底だ!」と思っていたのかは今となってはわかりませんが、まさに下積みの時代。

この経験は音楽ライターとして仕事をする上で、とても大切なものになりました。取材するアーティストたち自身もまた同じような経験をして、夢を掴む人が多いから。もちろんそれぞれの状況や成功の規模は違えど、いつかの自分を懐かしむように、相手に心を寄り添わせることができるのです。

【家入レオ】
中学校が女子校だったんですけど、あの子は明るいしおもしろいからランクが上とか、あの子はいつも本を読んでて地味だから下とか、クラスの中で、みんな言葉には出さないんだけど、そんな風にランク付けしてるような雰囲気があって。“そんなことなんでしてるの?”って思う自分と“低いランクに見られたくない”っていう自分がいて、すごく葛藤してました。(中略)そんなある日、家にあった母のCD棚から尾崎豊さんの『15の夜』という曲を聴いたんです。そしたら涙が止まらなくなって。自分が言えなかった感情がすべて代弁されている気がしました
ーー『月刊ピアノ』2012年3月号

【MIWA】
高校2年生の夏に、インターネットでライヴハウスを検索するところから始めました。下北沢にはライヴハウスがたくさんあるので、いくつか自分でまわりました。持っていったのは、アコギ1本で弾き語ったデモCDと、簡単なプロフィール。一番最初にライヴをやらせていただいたのは下北沢ロフトで(中略)最初は演奏もたどたどしくて、コードや歌詞がわからなくなっちゃったり、MCも何を話したらいいのかわからなくて。お客さんもあんまりいない中で歌うことは、ほんとに修行みたいな感じでした(苦笑)
ーー『月刊ピアノ』2012年9月号

朝は八百屋、夜は情報誌『ぴあ』のライブスケジュール欄に載っている小さな地図を片手にライブハウス巡り。そんな生活を9カ月ほど続けていたある日の夕方、1本の電話がかかってきました。それは、数々の音楽雑誌を手がける出版社であり憧れのロッキング・オン社からの「採用連絡」でした。

ロッキング・オンで働いたハードな日々

雑誌で契約社員の募集を知り応募したところ、何も持っていない、それこそ学歴も経験もない自分がうっかり、当時、約740人が受けたというロッキング・オンの契約社員の面接に合格してしまったのです。しかし、一般常識すらなく、電話の受け応えさえできない私が急に人気の出版社で編集部員として働くというのは、生半可なことではありませんでした。編集部員は原稿執筆に加えて広告営業の仕事もあり、帰宅は明け方で、翌朝10時から編集会議なんてこともざら。

一方で、当時BUMP OF CHICKENをはじめとする下北沢系ギターロックが盛り上がっており、その流れとは別に息の長い人気バンドとなっていくGOING UNDER GROUNDやTHE BACK HORN、GO!GO!7188といったニューカマーのバンドたちにもたくさん出会うことができました。日本を代表する夏フェスへと発展していく「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」も始まりハードで寝不足な2年間だったけど、世間知らずの私が必死で駆け抜けた、かけがえのない宝物のような日々でした。

特に記憶に残っているのが、YUKIさんのソロ・デビュー時の取材に同行させてもらったこと。私が編集部に入りたてのころに『ROCKIN'ON JAPAN』に書いたJUDY AND MARYの解散ライブのレポートをご本人が覚えていてくださって「よく私のことを理解してくださっている」と褒めていただき、冥土の土産にしたいほど感激しました。

「生活」よりも「仕事」の比重が重くなっていった

契約社員として働いた2年間が終わり、『ROCKIN'ON JAPAN』誌での執筆を中心に、フリーライターとして食べていけるようになったのが25歳の時。編集部員時代にいろんなレコード会社やマネジメントの方たちとお仕事させていただいたおかげで、フリーの音楽ライターになってからも仕事には恵まれていました。

今思えば90年代のCDバブルの余波を引きずってか、レコード会社も雑誌などの媒体もまだまだ活気に満ちていて、月に40〜50本の原稿を書き、1日3本の取材が3日続くようなこともしばしば。取材の合間のタクシー移動の際にお昼ごはんのパンをかじり、深夜に生放送のラジオに毎月レギュラー出演して、朝まで原稿を書く、そんな毎日。少し時間ができると走ってファッションビルに駆け込んで洋服を買い、ストレス発散。何万円もするカーディガンの色が選べないから両方とも買って、家に帰ったらその袋を開けずにそのへんに転がしておくような……ああ、こうして思い出すだけで息切れしそう。

そんな日々が続いていたある日、駅のホームで仕事の電話がかかってきて、慌てて床にスケジュール帳を開き、しゃがんだまま何かを書き込んでいた時、ハッとわれに返りました。仕事に夢中になり過ぎて自分のことが全く客観視できてないことに気付いたのです。

当時は、「生活」よりも「仕事」の比重が大きくなり過ぎて、家の中の電球を付け替えることさえできなくなっていました。ひとつひとつ家の中の灯りが消えていった時、私は病んでいるのかもしれない、と怖くなったのです。母親が福岡から上京してくれて、全ての電球を付け替えてくれました。あの時私、ちゃんと「ありがとう」って言ったかな。

会社勤めではなく、フリーで生きていくって、やっぱり不安がつきものです。このお仕事を断ったら、二度とお仕事をもらえないかもしれない……そんな強迫観念が、私のスケジュール帳を真っ黒に埋めていたのかもしれません。それでも、憧れのアーティストたちと貴重なお仕事をさせていただいて、インタビューで語ってくれた言葉やステージで観せてくれた感動を、多くの人にしっかり届けたいという思いから、がむしゃらに仕事を続けました。

個人的には20代の終わりに差し掛かり、「30代を迎える準備をしなきゃ!」という焦りが出始めた時期でもありました。ファッション誌などの取材では、先輩アーティストたちに「読者代表」のような顔をしてアドバイスをもらうようなことも。記憶に残っているのは、PUFFYの2人にインタビューしたときの言葉です。

由美「もし、もうすぐ30歳を迎えようとする人が“20代でやり残したことはないかな?”とか焦ったとしても、それは30代でやればいいだけのことじゃないですか。わたしたちも今、もちろん30代を過ごすなかで色んな社会経験を積んでいて。年齢を重ねるというよりも経験を重ねるという感覚なんです」
亜美「うん。今はこうして30代の女子に優しい雑誌も出てるしね」
由美「ちょっとちやほやされ始めてるよね(笑)」
亜美「そうそう。“30代ってなんかイイ”みたいなことになってる(笑)。それだけ社会もついてきてるというか。だから居心地は悪くないですし、20代では通らなかった意見も30代になると通ったり、そういう意味で非常に過ごしやすいですね。20代の人は何をそんなに不安になったり焦ったりしてるんだろう?って思います。“早く来いよ!”って感じ(笑)」
ーー『Soup. CRUISE』2008年春夏号

失うものが多い日々 坂本真綾さんに力をもらう

坂本真綾

坂本真綾 1st&Last 写真集 "You can't catch me" ドキュメント 2011.3.5-6.15

  • アーティスト:坂本真綾
  • 出版社/メーカー:角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日:2011/10/17
  • メディア:単行本

仕事にがむしゃらなままアラサーに突入したころ。2008年のリーマン・ショックの影響をゆっくりと受け、2009〜2011年にかけて時代はCD不況に陥り、エンターテインメント業界全体が様変わりしていきました。出版社から原稿料カットのお知らせが次々と届き、レコード会社はプロモーションの予算を大幅に削減し、当然、私の音楽ライターとしての売り上げも減少しました。

そして、実家では父が経営していた小さな会社が倒産するなどの一大事もありました。いろんなことを失うばかりの日々の中でひとつだけ良いことがあって、それは後の夫になる人と付き合い始めたことでした。東京でひとりで生きていくことが少ししんどくなってきていた30代の始まりに、その出会いは私の気持ちをとても安定させてくれました。

しかし2011年の秋に突発性難聴を発症し、入院を余儀なくされました。左耳があまり聴こえないため全身のバランスがおかしくなったような感覚に陥り、街中の騒音が怖いから外に出掛けられず、ライブに行けないばかりか音楽を聴くこと自体が怖くなるなど、精神的にもかなり不安定に。連載などの仕事を続ける一方で、一時期は本気で転職を考えていました。

ちょうどこのころ、坂本真綾さんの写真集『You can't catch me ドキュメント2011.3.5-6.15』の制作で全国ツアーを一緒に回り、各地のドキュメント&ライブレポートを書かせてもらうというお仕事をしていました。東日本大震災が起こった3月11日は、福岡公演の日でしたが、予定通り幕が上がりました。

坂本真綾さんはとても聡明かつ勇敢な方で、震災直後ほとんどのエンターテインメントが自粛ムードの中、物理的に現地に行けない場合などの中止や延期を除いてツアー続行を決断し、まさに全身全霊のライブを各地で繰り広げたのです。写真集の制作は突発性難聴と闘いながらの執筆だったけど、震災後の混乱の中で「日常を取り戻そう、できる人はそれぞれの仕事をしよう。そしてそれは私にとって歌い続けること」という彼女の働く人としての在り方に大きな力をもらいました

「色んなことを考えて、ライヴを決行して良かったなと思っています」と声を詰まらせ、「震災でたくさんの方が亡くなったこと、ほんとに悔しいです。今は出来ることがまだ少ないかもしれないけど、いずれその時が来たら、本当に大変な想いをしている人たちの力になりたい。だからこそ支える側は早く元気を取り戻して、自分自身が幸せでいることを恐れちゃいけないと思うんです」ーーこんな言葉こそが、この時期の東京には必要だった。街も節電で暗くて、みんなが何かをしようにも、楽しいことを考えようにも、気が咎めてしまうような毎日の中で、坂本のライヴに来て、こんな言葉に気持ちを切り替えたという人も、きっとたくさんいたはず。
ーー『You can't catch me ドキュメント2011.3.5-6.15』/3月31日 中野サンプラザ公演ライブレポートより

その後、何とか持ち直すような気持ちで自身が運営するWebサイト「YUMECO RECORDS」を立ち上げたり、ライブ&トークイベントの主催をしたり、音楽専門学校の講師を務めたり、新たな仕事にも挑戦していきました。仕事もプライベートも充実した30代を過ごしていたけれど、アラフォーの足音が聞こえ始めた2013年、結婚と妊娠がほぼ同時にやってきて、そこから私の人生は大きな波にのまれるように変化したのです。

華やかに見えるアーティストたちも、私たちと何も変わらない

少し体調が悪い日が続いた春。私の誕生日に話し合って4年同棲した彼との結婚を決めた翌日、病院で妊娠が発覚しました。出産や育児が“リアルなもの”として自分の身に迫ってくると、この先自由に仕事ができなくなるのかという不安や、寂しさ、恐怖にさいなまれました。

しかし、妊娠中に矢井田瞳さんにインタビューさせていただいた時に、アルバム『panodrama』の中に収録されている「ガチャリントン」という曲は、子供のおもちゃ箱をひっくり返した時に聴こえる音にインスパイアされて作った曲なのだと教えてもらいました。育児を楽しみながら、新しい表現を生み出すことをとても自然にされていて素敵だな、私もそんな風になれたらいいなと勇気づけられました。

panodrama

panodrama

  • アーティスト:矢井田瞳
  • 出版社/メーカー:ユニバーサル シグマ
  • 発売日:2012/9/26
  • メディア:CD

出産後は、母乳を飲みまくって順調に成長する娘の姿に背中を押され、生後3カ月で娘を保育園に預けて仕事を再開しました。日中は保育園に預けているし、幸い夜泣きも少ない方だったとはいえ、やっぱり育児にはエネルギーを取られます。それに加えて、出産後に自分が音楽を聴く時の感受性みたいなものが以前とはガラリと変わってしまった気がして戸惑いました。

一方で、年齢を重ねたからこそ分かる想いや、母でもある自分だから感じられることが増え、取材でお会いする女性アーティストたちと、ふとママトークになるなど、今までにない経験をするようになりました。出産後の感受性の変化のようなものは音楽をやっている人たちにもあるようで、アーティストたちはそれぞれ、「母としての自分」をどう表現活動の中に落とし込むかという課題に直面するようでした。

ライブやレコーディングなどで夜遅くなることの多いアーティストたちは、周りのスタッフや家族に協力してもらってステージに立っています。ある女性シンガーソングライターは、子供が風邪を引いた翌日にテレビ出演を控えており、自分で看病してあげられなかったと切ない気持ちを話してくれました。華やかに見えるアーティストたちも、家族のためにがんばりたいと思う気持ちは、私たちと何ら変わらない。長い全国ツアーなどで離れる時間も多く、寂しい思いをさせているのではないかと自分を責めることもきっと少なくないはず。私自身も、好きな仕事をしているだけなのに時々、子供に「ごめんね」と思う罪悪感と日々葛藤していました。

憧れの女性たちが歌い続ける限り、私は書き続けたい

WOMAN 女性アーティスト6人が語る、恋愛、家族、そして音楽

WOMAN 女性アーティスト6人が語る、恋愛、家族、そして音楽

  • 出版社/メーカー:リットーミュージック
  • 発売日:(2017/12/20)
  • メディア:単行本

昨年12月、ロッキング・オン時代の戦友でもありママ友でもあるライターの高橋美穂さんと共に『WOMAN 女性アーティスト6人が語る、恋愛、家族、そして音楽』(リットーミュージック)を制作しました。女性アーティストに「音楽と女性としての人生」をテーマにじっくり語ってもらう本書をつくりあげる中で、私自身もいろんなヒントを得ました。

「2年ぶりのツアーだから真央ちゃんも思うこととか、たくさんあったと思いますが」なんてよく周りの人に言われたんですけど、“ただいま!”みたいな感覚はあんまりなくて(笑)。(中略)面白いなと思ったのは、ブランクがあるから緊張するのではなく、逆にステージに立つのが今までよりも怖くなくなっていたこと。もちろんキャリアを重ねたからということもあると思いますが、出産という経験を思い出すと何でも怖くない気がするんですよね。“だって超痛かったじゃん!”みたいな(笑)。
ーー『WOMAN 女性アーティスト6人が語る、恋愛、家族、そして音楽』

阿部真央さんの、こんな「母は強し!」的なエピソードに深く共感しました。そして、家で原稿を書きたくても子供といるとなかなかそうはいかないというもどかしさが常につきまとう中、子育てをしながら作詞家としての活動を本格的にスタートさせたノマアキコさんには、「工夫次第で考え方とやり方を変えれば、母親だってもっと自由になれる」という発想にさせてもらいました。

作詞をする時も、以前だったら昼でも夜でもずっとそのことばっかり、どっぷり考えている感じだったんですが、今はご飯を作りながらとりあえず曲を聴いて、歌詞を考えたりしています。もちろんまとめて仕上げる時なんかは、ちゃんとそのための時間を取るんですけど。2児の子育てをしながらですから常に何かをしながら、頭では作詞をしているようなことも最近は多々あります(笑)。そっちのほうが意外と良いイメージが浮かんだりするんじゃないかとも思えるようになってきて。
ーー『WOMAN 女性アーティスト6人が語る、恋愛、家族、そして音楽』

§ § §

女性アーティストの多くは、自らの人生と表現というものに密接なつながりを持っています。そうした女性アーティストの言葉は、その人だけにしか生み出せないものがあるし、その人が歌うからこその説得力がある。私はそういう表現をする人が大好きです。

いままで、いろんな方に取材をしてきたけれど、ステージでキラキラと輝いている女性が、実生活でも幸せそのもの、であることの方が実は少ないのかもしれないと思います。むしろ大きな悲しみや喪失を抱えていたり、満たされない何かがあるからこそ、人は歌い続ける。そして心のどこかに悲しみを抱えていたり、満たされない想いを抱えながらも前を向いて笑って生きたいと願うのは、もちろん客席にいる私たちも同じこと。私たちは「それでも歌い続ける」人のパワーをステージから受け取っているのです。

この人が歌い続ける限り私は書き続けたい、そんなふうに心底思える素晴らしい方たちと仕事をしている。その気持ちがいつだって私の大きな原動力なのです。今は子供がいるからこそ限られた時間の中で集中して仕事をすることも身についてきたし、規則正しい生活を軸に働いているからこそ、ちゃんと続いていくこれからの毎日が気持ち良くイメージできている自分もいます。

最後に、10代のころから私に勇気を与え続けてくれた、大好きなYUKIさんの言葉を紹介します。

生きる覚悟をある時から決めて、生きるぞ、絶対、何があっても笑顔でいくぞと決めた時からライヴも、なんていうんですかね、やるぞ、倒れてもやるぞ、みたいな感じ、自分でそういう責任を持つという気持ちが強くなったんですかね。今は、自分ができる限りずっとやっていきたいなと思っています。芸というのはいずれ枯れていくものだと思うんですけど、その芸が枯れていってしまっても、恥を晒していくのが芸人なのかなと思っていて。私はそういう覚悟で歌うというのはありますね。もう、修行です(笑)
ーー『ROCKIN'ON JAPAN』2014年11月号

ROCKIN'ON JAPAN  2014年 11月号

ROCKIN'ON JAPAN 2014年 11月号

  • 出版社/メーカー:ロッキングオン
  • 発売日:2014/9/30
  • メディア: 雑誌

著者:上野三樹id:miki0507

上野三樹

音楽ライター。現在は『ROCKIN'ON JAPAN』『音楽と人』『月刊ピアノ』『anan』『音楽ナタリー』などで執筆中。子供は春から幼稚園の年中さん。愛しい娘との毎日も楽しいのですが、育児と両立しながら働く中であらためて「私ってほんとに仕事が好きなんだなー!」と実感しています。ウェブサイト「YUMECO RECORDS」主宰。ブログ「愛されジョーズ」更新中。

次回の更新は、2018年4月27日(金)の予定です。

編集/はてな編集部