「65点の退屈な日々」を見つめ直す、海外一人旅のすすめ(寄稿:チェコ好き)

 チェコ好き

旅や読書、アートについてつづるブログ「チェコ好きの日記」のチェコ好きさんの趣味は、海外を一人で旅すること。“なんとなく退屈な日々”を過ごしている人たちにこそおすすめだという、海外への一人旅の魅力について、寄稿いただきました。


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「65点」の日々に、どうしようもなく退屈している

他人の人間関係のトラブルに、芸能人の不倫報道に、Twitterの炎上事件。そういったものに夢中になっている人たちを、涼しい顔でちょっと見下している。でも実は視界の端できちんと捉えていて、経緯をばっちり追っている自分がいたりする。

「事前にトラブルを回避するためにも、周囲の人間関係はできる限り把握しておく必要があるでしょ」「時代の潮流を追うことも、仕事のうちじゃん」なんて言い訳をついしてしまうけれど、私も含め、みんな退屈なんだろうなと思う。iPhoneに導入された機能「スクリーンタイム」の表示を確認するたび、スマホやPCと向き合っている時間があまりにも長いことに愕然(がくぜん)とする。

決して、大きな不満を抱えているわけではない。来月の家賃が払えないほど経済的に困窮しているわけでも、夫婦・恋人関係に問題があるわけでもない。仕事も、順調とは言い難くてもおおむねやりがいを持って進めている。

それなのに、いや、だからこそ、なんとなく退屈。そんな「65点の日々」を送りながら、頭の奥がカッと熱くなるような刺激を、心のどこかで渇望していないだろうか。

こんな状態にある人のことを、もしかしたら、寂しいやつだとか、教養がなくて人間的に薄っぺらいやつだとかって、考える人もいるかもしれない。でも、精神科医・エッセイストの神谷美恵子さんは、著書『生きがいについて』(みすず書房)の中で、「生活に変化がなくなると人間は退屈する。それは精神が健康である証拠なのであって、心が病むと退屈は感じられなくなることが多い」と書いている。

退屈を感じるのは心が健康な証。そう考えればこの「65点の日々」もちょっとだけポジティブに捉えられるようになるけれど、それにしたって刺激のない毎日は、目の前に靄のように覆いかかってくる。

だからといって多くの人は、禁断の恋に溺れてみるわけにも、全財産を投げ打ってラスベガスへ飛び、一世一代の大勝負をしかけてみるわけにもいかないだろう。もうちょっと手近で、倫理に反することなく、合法的に靄を晴らす方法はないか。

私は一人で海外に旅行に行くのが好きで、20代の前半から、1年に1回以上は必ずどこかの国へ出かけている。これは退屈しやすい人間である私が、「手近に・倫理に反することなく・合法的に」目の前を覆う靄を晴らすための、苦肉の策だったのかもしれないと思う。今振り返れば、だけど。

私があえて「海外」に行く理由

ところで、あなたが「退屈な毎日を打開するために、一人旅を」というアイデアにしぶしぶ賛成してくれたとして、同時に疑問にも思うだろう。「国内でもいいのに、わざわざ海外をすすめるのはなぜ?」と。

これには一応、私なりの理由がある。 海外をすすめる動機の1つは、まず「日本語が通じない」ということだ。(そのため、場合によっては日本語が通じることもある韓国・ハワイなどは私の「海外旅行」の定義から外れる。まあ、韓国もハワイも好きだけど!)

私の語学力は決して褒められたものじゃなく、英語も他の言語に関しても、お世辞にも堪能とは言い難い。でも、普段使っている慣れた言語の使用を禁じられると、縛りプレイの遊びができるというか、頭の中が強制的にリセットされるような爽快感を覚えることがある。

旅行前に聞き慣れない言語を勉強していくのは、たとえカタコト程度しか分かるようにならなくても楽しい。どうせほとんどは帰ってきたら綺麗さっぱり忘れてしまうんだけど、「トダ(ヘブライ語)」「シュクラン(アラビア語)」「テリマカシ(インドネシア語)」「デクイー(チェコ語)」とか、「ありがとう」の言葉だけ無駄に、無数に覚えていたりする。

行った先でなるべく現地の言葉を使うように努力すると、会話の最中に地元の人の顔がふっとほころぶ瞬間があって、それがとても嬉しかったりするのだ。カタコトでもいいから旅行先の国の言語を勉強していくことは、私にとって訪れる場所へのリスペクトである。

また、外国で自分が心許ない「異邦人」になることも、日本にいてはなかなかできない体験だ。2013年のイギリス旅行では、一人でロンドンの地下鉄に乗ったとき、白人の若者に笑いながら「チャイナ? ジャップ?」と話しかけられて、アジア人であることをからかわれた。これは、日本ではなかなかない体験だろう。もちろん気分のいい話ではない。だけど、自分の人種に差別的な視線を投げかけられるというのも、この世界の現実を知るための手段として、遺跡や絶景を巡って感動することと同等の得難い経験だと、私は考えている。

初心者におすすめなのは、何といってもヨーロッパ

とはいえ、英語もロクにしゃべれない人間が、まして女性が、たった一人で海外を旅することはなかなかハードルが高いだろう。今となっては慣れてしまったけど、私もやっぱり、最初の頃はおっかなびっくりだった。それでも、言葉が通じない中で、誰かに頼ることもできない、自分の力でどうにかするしかないという経験は、海外一人旅以外ではなかなか得られない。「怖い」と思うこともあるかもしれないが、それだけいろいろな刺激を直接受けられるのだ。気も使わず、予定変更も自由自在。本当に自分の心が反応するものだけに、集中できる。

どうしても一人は不安だという人は、家族や恋人や友達と一緒に行って、現地で数時間〜1日だけ完全一人行動をしてみる……みたいな形でも、最初は十分だと思う。航空券も宿泊先も全て自分で手配するというのも、その手順が煩雑であればあるほど無事に計画を実行できたときの達成感が大きいのだけど、最初から全部一人でやるのはもちろん大変である。

その上で、私が海外一人旅の初心者におすすめするのは、手頃なアジアもいいけれど、費用と時間が許すならやっぱりヨーロッパだ。街にいる人々の多くが、自分とは目の色も髪の色も、まったく違う。話している言語の9割は、まったく聞き取れない。そのときに感じる、胸がきゅっとするような心細さ、そして解放感といったら、他と比べようがない。

私のハンドルネームの由来にもなっているチェコは、もちろん最低限の注意は必要だけど、実は治安が良くてヨーロッパ初心者でも安心して旅行できる国だ。しかし、初心者にも玄人にも、私がいちばんおすすめするヨーロッパの国は、独断と偏見でとにかく「イタリア」である。

多くの人が、イタリアといったらまずは首都のローマを頭に思い浮かべるだろう。だけど、ローマは治安がそこまで良くなくて、私は大好きなのだけど、わりと好き嫌いが分かれる都市でもある。私の知人には、「ローマだけは大っ嫌いだ」と公言する人も珍しくない。万人受けするのはどちらかというと、花の都・フィレンツェだと思う。

そして私が2018年に訪れて感激したのは、南イタリアの田舎町「マテーラ」だ。

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マテーラは、「サッシ」と呼ばれる廃墟みたいな洞窟住居が連なる場所として有名な観光地である。7〜8世紀ごろ、迫害から逃れたギリシャ正教の修道士たちが、この地に住み始めたのが始まりらしい。戦後しばらくはとても貧しい人たちが住む劣悪な場所だったらしく、南イタリアの恥部と思われていたのだとか。1950年代の法整備で住民を強制退去させた後に観光地として復活したという、なかなか複雑な歴史を持つ土地である。

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マテーラに連なるセピア色の住宅は、おそらく多くの人にとって、これまで見たことのあるどの風景とも異なるだろう。はっと息を呑む、脳を斜め上からぶん殴ってくる景色なのだ。

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私たちは日頃、無意識に自分の限界を作っていると思う。「何となくこれくらいだろう」「これを上回るものはない」と、知らず知らずのうちに思考が細い路地に入り込んでいく。でも、マテーラの奇想住宅と断崖絶壁の上にたたずむ教会は、そんな細い路地を粉々に破壊してしまう威力がある。

20代のときに中東にもアフリカ大陸にも足を運んだ私は正直、「もう“景色”で感動したり衝撃を受けたりすることはないかな」と高をくくっていた。だけど、マテーラにはそれでもガツンと一発、頭を殴られたのである。まだまだ、世界をナメてはいけない。マテーラは、イタリア初心者にもイタリア玄人にも、ぜひ訪れてみてほしい町の1つだ。

旅から帰ってきても、多くのことは変わらないけれど

さて、これまでの前提を覆すようだけど、実は海外一人旅を無事に終えて帰ってきても、それ以降の日常が大きく変わるわけではない。興奮が冷めやらないのもせいぜい1〜2週間で、その後はまた、退屈な「65点の日々」を繰り返すことになったりする。夢のない話だと思うだろうか。でも、ちょっと海外へ旅行に出たくらいでその後の人生が大きく変わるわけないなんてことは、おそらくそれなりの年齢の大人なら、みんな知っているはずだ。

ただ、旅行前と変わらない「65点の日々」に、もしかしたら以前より少しだけ満足できるようになるかもしれない。「ここではないどこか」へ実際に足を運んでみて、地元の人と会話をして、その土地の料理を食べて、空気を吸うと、いつか訪れることを夢見ていたあの場所も、「今、ここ」とそう大きく変わらないことに気が付く。

ずっと憧れだったあの都市で暮らしている、自分とは目の色も髪の色も違うあの人だって、たぶん私たちと同じように「なんか面白いことないかな」とため息まじりにつぶやきながら、きっと退屈しているのだ。そして彼・彼女らにとっては、私が退屈だと感じている日常が「ここではないどこか」に見えていたりもするのだろう。

どこに住んでいる誰だって、人間はそう大きく変わらない。「ここではないどこか」を夢見ることをやめた者は、「今、ここ」を精一杯、工夫しながら生きるしかなくなる。

……まあ、そのわりには何回も何回も、毎年のように繰り返しどこかを旅している私なのだけど、それはきっと記憶力がなくて懲りない性格だからだろう。

「今、ここ」で精一杯、生きるしかない。「ここではないどこか」への旅を重ねながら、私は何度だってそれを確認しているのだ。

著者:チェコ好きid:aniram-czech

著者イメージ

ブログ「チェコ好きの日記」で旅・読書・アートについて書いている、硬派な文化系ブロガー。芸術系大学院卒、専門はシュルレアリスムと1960年代のチェコ映画。文筆業を行いつつ、都内のIT企業に勤務もする。

ブログ:チェコ好きの日記 Twitter:@aniram_czech

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次回の更新は、2019年1月25日(金)の予定です。

編集/はてな編集部