はたらく女性の深呼吸マガジン

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普通の会社員生活を変えたのは、大好きな「純喫茶」だった

 難波里奈
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初めまして。東京喫茶店研究所二代目所長の難波里奈と申します。全国の純喫茶を巡り、これまで1,700軒以上のお店に出会ってきました。

記事をご覧の皆さまは、昔ながらの喫茶店である「純喫茶」を訪れたことがありますか? 私はSNSなどの自己紹介欄に「日中は会社員、日暮れから東京喫茶店研究所二代目所長」と記している通り、生活の大半を会社員として過ごし、残った時間を純喫茶にまつわる活動のために使う日々を送っています。

今回は、純喫茶に魅了された普通の会社員である私が、時間の隙間を見つけてはひたすらに純喫茶を巡り、自分のための記録をまるでひとり言のようにブログに書き続けたことから、ひょんな方向へ人生が変わった話をしたいと思います。

純喫茶が持つ「魅力」

そもそも純喫茶への想いが急加速したのは大学生の頃でした。当時は、珈琲自体に特別な興味はなく、砂糖やミルクを入れないと飲めなかったほどです。ただ「ひと休みするのが大好き」というだけで純喫茶やカフェに足しげく通っていました。

夢中になったきっかけは、社会人になり会社員としての生活にも慣れてきて、日々のサイクルをどこか退屈に思ってしまうようになってしまったことでした。なんとなくやる気のない日々が続き、その気持ちの空白を埋めるべく、これまで以上にひたすらに純喫茶の扉を開けるようになったのです。

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純喫茶の魅力はいろいろなところにありますが、まず言えるのは、個人経営の店ですので一つとして同じ空間はないということ。入口に吊るされたベルの音、椅子やテーブルの素材・形・背もたれの高さ、照明の明暗・デザイン・個数、コーヒーカップの好み、メニュー表の作り方、また、2階席があるならば階段途中に飾られた置物たち……。

その場所を作った店主が何に憧れていたのか、何を大切にしているのか、それをひもとくように店内をじっくり眺めるのがひたすらに楽しかったのです。帰り際、店主に尋ねた答え合わせが私の見当違いだったとしても、新しい視点の回答にわくわくする日々。いつしか、純喫茶で過ごす未知の時間を何よりも楽しみとする自分がいました。

仕事帰りに毎日違った純喫茶を巡ることで、自分の部屋と会社の往復だけではない楽しみができて、日に日に自分の心が満たされていくのが分かりました。純喫茶訪問記録をつづったブログ「純喫茶コレクション」を始めたのも、ちょうどこの頃でした。

元々、レトロなものを集めること自体が好きだったのも、純喫茶にのめり込んだ理由の一つです。昭和の香りのする雑貨たちを自分の部屋に閉じ込めて愛でなくとも、純喫茶へ行けば日替わりの部屋として楽しむことができる。そのことに気付いてから、現在に至るまでずっと純喫茶に夢中なのです。

その想いをさらに加速させたのは、私が現在肩書として名乗っている「東京喫茶店研究所」の初代所長であった芸術家の沼田元氣さんの存在です。

沼田さんは今から10年以上前に、純喫茶の魅力を余すことなく伝えてうっとりさせる素晴らしい装丁の本を何冊も出版していて、その作品たちは、多くの乙女たちの心をつかみ、私もその中の一人でした。しかし、そこから時が流れて、思いがけず感動的な未来が待っているとは夢にも思っていませんでした。

「こうなったらいいのに」が実現した冬

ブログを始めてから3年後の冬、「ブログを書籍にしませんか?」と一通のメールが私の元に寄せられました。書き始めた頃から、何となくそうなったらいいなと頭のどこかに浮かんでいた願望。それがぽんと飛び出してきたかのような文字が並んでいるPCの画面はあまりにも現実感がなく、しばらくの間「きっと一時喜んでも叶わずに消えてしまう案件だろう」なんて思ったりもしたほどです。

そして、本の装丁をしてくださることになったのが、純喫茶に夢中になった原点の「沼田元氣」さんだというのですから、「これもまた夢かもしれない」と気持ちが揺さぶられました。

実際にはオファーはトントン拍子に進んでいき、憧れの沼田さんとも直接お会いできることに。雪がちらほらと舞う、寒い2月の鎌倉駅で編集担当者を待っている間、「今日が何事もなく無事終わりますように」と何度も心の中で繰り返す私。

ほどなくして待ち合わせ先の純喫茶「浮(ぶい)」にいらした沼田さんを前にして、ありきたりな表現になりますが「本当に存在するんだ……」と胸がいっぱいになったのを今でも覚えています。

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思い出の純喫茶「浮」

「ここはバナナジュースがおいしいよ」と沼田さんが笑いかけてくださったので、少し前に珈琲を飲んだことも忘れてバナナジュースも追加注文。「この世で一番おいしいバナナジュースだ!」と立ち上がって叫びたいほどに高まった時間を過ごしました。(その後何度も再訪しバナナジュースを飲んだのですが、夢の日々から数年たっても本当においしいのです)

さらにうれしかったのは、打ち合わせも終わり、雑談をしていた時のこと。どんなに沼田さんのことを尊敬しているか、また自分がどんなに純喫茶を愛しているかを熱弁していた最中に、ふと沼田さんからこぼれたのは「二代目所長を任せますよ」という信じられないせりふでした。

またもや「夢なのではないか」と、しばしぼんやり考えてしまいそうになるのをこらえて、「本当ですか! それでは気の変わらないうちに名刺を作って肩書にそう書いてもよろしいでしょうか?」と若干おどけてみせるも、私の本気には1ミリの揺らぎもありませんでした(翌日にはPARCO出版の方が名刺の手配をしてくれました)。それから数年。今も私の名刺の肩書には「東京喫茶店研究所二代目所長」という光栄な13文字が光っているのです。

そんなふうにして世に出た初めての書籍『純喫茶コレクション』(PARCO出版)。何も分からないなりにがむしゃらに作業し、発売日を迎えて書店にずらりと並んでいるのを見た時は「夢が叶った。お疲れさま、私」と、最初で最後の経験だと思っていました。しかし本当にありがたいことに、その数年後じわじわと純喫茶にまつわる依頼を頂くようになり、2冊目、3冊目と出版することになったのです。

純喫茶コレクション

『純喫茶コレクション』(PARCO出版)


新しい本を発売する度、雑誌やラジオ、テレビなどからのお誘いも増え、いろいろな場所で純喫茶に対する想いを語る機会はますます活発になっていきました。純喫茶を愛するさまざまな方たちとのご縁もあり、得意ではないと思っていたSNSも、今では更新が毎日の楽しみとなっているほどです。2018年7月には4冊目の著書『純喫茶とあまいもの』(誠文堂新光社)が発売され、この後も数冊の本を出版予定です。

会社員を辞めない理由は純喫茶への「愛」

このような経緯を知りあって間もない人たちに話した時、ほぼ100%の確率で返ってくる言葉は「それ(純喫茶)だけでやっていけば良いのにどうして会社員を辞めないの?」です。

私は大学を卒業して以来ずっと会社員をしており、月曜から金曜の朝9時から17時半まで都内の企業で働いています。そのため、純喫茶にまつわる活動に割ける時間は、平日の夕方以降か週末。「それではあまりにも時間が足りないではないか」「会社を辞めたらもっと時間を自由に使えるのではないか」といったアドバイスという意味でも先ほどの質問が頻繁に投げかけられるのです。おっしゃることはもっともだと思うのですが、私が会社を辞めずにいるのにはいくつかの理由があるのです。

10年以上通い続ける、神田にある純喫茶「珈琲専門店 エース」

それは、第一に、企業での給与が生活を支えていれば、純喫茶に惜しみなくお金を使えること(他にあまりお金のかかる趣味がないゆえにできることかもしれません)。次に、本来怠け者の気質であるゆえ、会社員という規則正しい生活をしていなければ、早寝早起きはおろかきっと外出すら面倒になってしまうであろうという危惧からです。

もう一つ、人によっては「本当に?」と首をかしげるかもしれませんが、今働いている会社での仕事もとても充実しているからです。周囲に居る方たちは皆優しく、全社員に対して表立って明言しているわけではありませんが、会長を含む社内の人たちはこの活動を見守ってくださっていて、あたたかい環境で活動を続けていけるということも大きく、多大なる感謝をしています。

日中は取材や執筆とは全く違った業種に従事し、夕方以降や休日は思いっきり純喫茶のことだけを考えていられるというバランスも、私にはちょうど良いのです。いくら好きといっても、365日24時間純喫茶のことに携わっていたら、疲れてしまうことや嫌なこともあって、今より夢中ではなかったかもしれません。

「今日も仕事が終われば純喫茶で珈琲が飲める。あるいはプリンもつけてしまおうか」

そう思うことによって日中を頑張ることができるのです。生活におけるメリハリは誰しも大切なのではないかと思っています。

また、興味のない方からしたら、少し異常なほどに純喫茶という存在を愛しているので、純喫茶にまつわることで得た報酬は、余すことなく純喫茶で使用したいのです。もし会社員を辞めてしまったら、「生活のため」に純喫茶について考えたり訪れたりしなくてはならなくなってしまいます。それがとても怖く、今後も可能な限りは会社員を続けていきたいと思っています。

好きなものがあれば、励みになる

ただ大好きだった「純喫茶」によって、未来は想像もしない楽しい方向へと導かれました。書籍の出版や、憧れの人にお会いできたなど、普通の会社員として生活していただけでは経験できなかったことが、数多くできていると感じます。週末に遠方への取材が続き、部屋でのんびりする時間もない、などと贅沢な悩みはたまにありますが、好きだったことへの関わりが強くなるのはこれ以上にない幸せです。それはこれからも変わらず、もしメディアで発表する機会がなくなったとしても、ずっと純喫茶を探しては訪問する日々を送っていくのだと強く思っています。

そして純喫茶でなくとも、これは!と思うほど好きなものがあるのなら、絶対にやめないでこつこつと続けていくのは大事なことではないかな、と思います。そのうちに、周囲と比べて自分が持つ情報量が多くなったり、古くて貴重な資料を所有する結果となったりするので、マイペースに好きでいることをおすすめします。好きなものが一日のどこかにある生活。それはきっとどんな時も励みになり、楽しく過ごせる秘訣になるのではないでしょうか。

著者:難波里奈

書影

東京喫茶店研究所二代目所長。日中は会社員、仕事帰りや休日にひたすら純喫茶を訪ねる日々。「昭和」の影響を色濃く感じるものたちに夢中になり、当時の文化遺産でもある純喫茶の空間を、日替わりの自分の部屋として楽しむようになる。ブログ「純喫茶コレクション」、著書『純喫茶コレクション』、『純喫茶へ、1000軒』、『純喫茶、あの味』、2018年7月には4冊目の著書となる『純喫茶とあまいもの』、8月には『クリームソーダ 純喫茶めぐり』を上梓。純喫茶の魅力を広めるためマイペースに活動中。
Twitter:@retrokissa

次回の更新は、2018年8月15日(水)の予定です。

編集/はてな編集部