私たちが生きていくために必要な関係性にはまだ名前がない――家族と社会の新しいあり方について

あるNPOがつくり出そうとしている、子どもとの関係性

はじめまして。望月です。スマートニュースで子どもや家族といった領域を中心に非営利団体の支援プログラム(SmartNews ATLAS Program)を運営しています。これからの家族や社会のあり方を考えるにあたって、このプログラムで支援している「PIECES」(ピーシーズ)というNPO団体の話から始められたらと思います。

PIECESは児童精神科医の小澤いぶきさんが代表を務めるNPOで、虐待や貧困といった問題を抱える子どもたちに寄り添い、そうした子どもたちが普段の生活ではなかなか得ることができない「大人との信頼感を伴った継続的な関係性」を一つずつ構築しようとしています。

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PIECESのメンバーに聞くと、その関係性は「家族」でも「友だち」でもなく、そして「先生」でも「アドバイザー」でもない。いま存在する言葉ではなかなか表現しづらい関係性だけれど、この関係性こそが、子どもたちが自分の困難とうまく付き合って生きていくために必要であるような、そういう関係性。いまはうんうん唸りながらも「伴走者」という言葉をひねり出して使ったりしているようです。

この「伴走者」が子どもと一緒に何をするかといえば、日常のたわいもない話をすること、スポーツや料理をしたり遊びに行ったりすること、勉強や恋愛の相談に乗ること、そして、こうした積み重ねを通じて困ったときに相談してもらえる関係性をつくること。困ったことというのは、勉強や恋愛のことかもしれないし、いじめのことかもしれない。妊娠のこと、親からの虐待のことなのかもしれない。自傷のこと、学校に行けないこと、家に居場所がないことかもしれません。

こうした困難に直面したとき、心を許して相談できる関係性がどんな子どもにもあるわけではありません。そして、たくさんの子どもがそうした関係性を持てないことによって、袋小路(と感じられる状況)から抜け出すことが難しくなっています。親との関係、先生との関係、友だちとの関係、それらがうまくいっていなくても、「伴走者」がいればなんとかなるという関係性をつくれるかどうかが大事なのだと思います。

さて、一人の子ども、そして一人の人間が生きていくうえで必要な関係性を適切に表現する「言葉」がない、このことを知って私はとても面白いと思いました。PIECESがつくろうとしている関係性のことは直感的に理解できるし、その重要性もよくわかる。だけれど、確かにそれを表すうまい言葉が思いつかないのです。

近代社会と親密性の領域――家族が直面する二重の要請

ハンナ・アーレントという20世紀の思想家による「親密性の領域(the sphere of intimacy)」という言葉があります。「親密圏」とも訳されるこの言葉は、アーレントが『人間の条件』(1958年)という本で展開したものです。それは、近代社会がもたらす画一主義に対する抵抗の拠点として、近代人が発見したものであるとアーレントは言います。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

親密さの最初の明晰な探究者であり、ある程度までその理論家でさえあったのは、ジャン=ジャック・ルソーである。(中略)彼が自分の発見に到達したのは、国家の抑圧にたいする反抗を通してではない。むしろ、人間の魂をねじまげる社会の耐え難い力にたいする反抗や、それまで特別の保護を必要としなかった人間の内奥の地帯にたいする社会の侵入にたいする反抗を通してであった。(ちくま学芸文庫『人間の条件』61頁 「第二章 公的領域と私的領域」より)


近代になって発生した人間と社会の関係はとても複雑なものです。近代社会にはいくつかの特徴があります。身分制度が解体し、人々が同じ公教育を受ける機会を持つようになります。資本主義的に組織された市場社会で賃金労働者として働く人たちが増え、それに伴って自分が生まれた土地を離れる人が急増します。

こうした近代社会のあり方が人々に大きな恩恵をもたらしたのは事実です。社会的流動性が増し、生まれた環境がその後の人生をすべて決めてしまうわけではなくなりました。全体的な生活水準も向上し、その積み重ねのうえにいまの私たちの暮らしぶりがあります。

しかし、同時に忘れてはならないのは、多様な背景を持った人々を一つの大きな社会のなかに取り込んでいく近代化の運動によって、アーレントが言う「画一主義」と、私たちは付き合っていかなくてはならなくなったということです。

この大きな影響を受けたのが「家族のあり方」だと私は思います。家族における画一主義、それは社会が求める「理想的な家族のあり方」を忠実に実行しようとする家族の姿です。「家族」が「学校における良い子」や「社会における良き働き手」を育成するための機関とみなされ、その成功や失敗が語られるようになりました。

それは親にとって潜在的に大きなプレッシャーとなって現れます。もし子育てに「失敗」すれば、子どもの人生にとってのリスクを抱えるだけではなく、社会的に失敗の烙印を押されてしまう。親たちは常にその恐怖と戦わなくてはならなくなりました。もちろん教育や子育てには一定の費用もかかりますから、経済的に「失敗」できないというプレッシャーもかかってきます。

こうした家族のあり方に対する社会的プレッシャーの存在が、具体的な親子関係を通じて、子どもたちに困難を与えてしまうということが多いのではないかと私は思います。受験や就職の問題、セクシュアリティの問題、そしてもちろん虐待の問題。子どもを取り巻くさまざまな社会問題を知ると、その核心に家族の問題があるケースが非常に多いことがわかってきます。

アーレントの問題意識に即せば、個人にとって社会からの画一主義に抗するための足場が必要になったちょうどそのときに、家族が画一主義の出先機関のような形で編成されてしまったといえると思います。そこでは親密性の足場は誰にとっても自明なもの、安定的に供給されて当たり前のものではないのです。

近代社会においては、社会のあり方そのものからある種の画一主義が要請され、同時にその画一主義に対抗して自分らしい生き方を選び取るために親密圏の構築が要請されます。そして、家族はその両方の要請を真正面から受け止める存在となり、その2つの折り合いをつけることの難しさに常に直面しているのです。画一主義と親密性という二重の要請が家族を押しつぶしているケースがあると私は思います。

「家族」と「親密圏」はずれることがあるし、ずれていてもいい

こうした二重の要請の間で折り合いをつけることが難しいからこそ、「家族」と「親密圏」の間にはずれが生じることがあるし、そしてそれは仕方のないこと、ずれが生じて当然のことだと考える必要があると思います。その時々の状況によって、「家族関係が親密性の領域ではない」という状況はあり得ます。私たちはまずこのことが現実にあり得るということを深く理解するところからスタートすべきだと思うのです。

理解して何になるか。一つには、家族以外の「誰か」が「親密圏」の担い手として存在している必要があるということを私たちが理解することにつながります。冒頭に紹介したPIECESが追求していることが、まさにこの担い手の育成、彼らの言葉では「コミュニティユースワーカー」の育成、ということになるのではないかと私は思っています。

そして、もう一つには、家族が家族の外に助けを求めてよいという理解が広がることにつながってほしいと私は願っています。家族の問題は家族が解決しなければならないという思い込みから親を解放することで、子どもが親密圏を新たに回復するチャンスにつながる場合も多くあると思うからです。

大阪の釜ヶ崎に「こどもの里」というNPO法人の施設があります。地域の子どもたちを無料で24時間預かってくれる施設で、大阪市からの補助金やバザーの売上、そして賛助会費や寄付金などさまざまな支援によって成り立っているそうです。私は先日、“さと”と呼ばれるこの施設を舞台にした『さとにきたらええやん』というドキュメンタリー映画の上映会を開きました。

映画には小さな子どもから18歳の子どもまで、さまざまな子どもたちが登場します。そして、子どもたちの親も登場します。あるシーンでは、5歳の男の子の母親が子どもを叩いてしまいそうになって“さと”に電話をかけ、結果として夜遅くに子どもを“さと”に預けに来る様子が映されていました。このシーンを観て私が考えたのは、もし“さと”がなかったらこの親子はどうなっていたのだろうということです。

“さと”以外に電話をかける先があれば大丈夫だったかもしれません。でも、もしそうした先がなかったら叩いていたのかもしれません。それは、誰にもわかりません。ただ、家族に対する「画一主義と親密性」の二重の要請から解放される必要があるのは子どもだけではなく、親もまたその重圧からの逃げ場を必要としているということを、このシーンであらためて考えさせられました。これまでの社会のなかで当たり前とされてきた「家族に対する期待」のあり方を、私たち自身がこれから見つめ直していく必要があると思っています。

この名もなき関係性を私たちはつくっていく、さまざまな形で

もう1本だけ映画の話を。昨年公開された西川美和監督の『永い言い訳』という映画についてです。

こちらの予告篇にも登場しますが、中学受験を間近に控えた小学校6年生の男子の葛藤を描く場面があります。筋書きはこうです。主人公である作家の男がバスの事故で妻を失います。妻と一緒にいた妻の友人も同時に亡くなります。そして、その妻の友人には2人の子どもがいて、長男は小6で中学受験を控えている。妹はまだ保育園に通っています。父親は長距離トラックの運転手だからなかなか帰ってこないし、あまり頭が良いほうでもない。

妻の死をきっかけに、主人公はこの父親と再会します。そして、これまで母親が担ってきた家事の負担を長男がせざるを得ず、中学受験をあきらめようとしていることを知ります。そして、介入する。定期的にこの家に通って妹の世話をし、それによって彼が塾に行くための時間を確保しようとします。

映画で描かれる家庭への介入の具体的なあり方が「正しい」かどうかということをここで言いたいわけではありません。この映画自体もそういうことを言おうとしているわけではないと思います。ただ、「家族」ではなくても、「他人」であっても、脆弱な状況にいる子どもや人間に対してできることがあるということをこの映画はとても美しく描いていると思いました。

「他人」であっても、と言いましたが、「他人」が「家族」になるケースもあります。そして、その関係性のうちに親密圏が形成されることもあると思います。

アメリカの歌手Alicia Keysが昨年発表した曲「Blended Family」で、客演したA$AP Rockyというラッパーが「9歳の頃4人も継母がいた」という自分の少年時代について歌っています。この曲ではAlicia Keysが夫のSwizz Beatzの子どもたちに向けたメッセージを歌っていて(Swizz Beatzには、Alicia Keysと結婚する前にすでに3人の子どもがいました)、「I remember having...」から始まるA$AP Rockyの歌詞もその文脈に沿ったものになっています。

(歌詞はこちら ▶ Google Play Music

そもそも「9歳の頃4人も継母がいた」ということ自体に驚きますが、彼がそのことを肯定的に歌い上げているということにもまた大きな衝撃を受けました。もちろん実際にはこの歌に歌われていないいろいろな出来事があったでしょう。でも、いま28歳の彼が当時のことをこうした形で歌詞に昇華できているということに感動を覚えましたし、昇華できるだけの関係性が実際にそこにはあったのではないかと思います。

私たち人間には多様な家族のあり方があり得るし、家族以外の人々ができることもたくさんある、このことをむしろ困難ではなく可能性だと捉えることができるのではないかと私は思います。その可能性の受け皿は必ずしも血のつながった家族に限られる必要はないし、家族である必要もない。A$AP Rockyが歌うように、振り返って大事だったと肯定できる他人との関係性を私たちはいろいろなやり方でつくっていく必要があるし、つくっていくことができるはずだと私は考えています。

これまでPIECESがつくろうとしている「しっくり来る名前がまだ存在しない関係性」について考えてきました。アーレントの「親密圏」という概念を補助線に引きましたが、まだその関係性に名前をつけることまではできていません。「家族」でもなく、「友だち」でもなく、単なる「他人」でもなく、「先生」でもない、この関係性。私たちがこの関係性の大切さをもっとよく理解して、その多様なあり方をさまざまな工夫を通じてつくりだしたとき、もしかしたら新しい言葉が、そこに生まれているかもしれません。


著者:望月優大(id:hirokim21

望月優大

経済産業省やGoogleを経て現在スマートニュースでNPO支援などを担当(SmartNews ATLAS Program)。個人としても様々な非営利団体の広報支援に携わりつつ、国内外の社会的テーマに関する文章を書いています。特に貧困・社会保障、移民・難民、ナショナリズム・国家論など。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(後期フーコーの統治性論/新自由主義論)。1985年生まれ。

ブログ:HIROKIM BLOG / 望月優大の日記
Twitter:@hirokim21
Facebook:hiroki.mochizuki

「地方移住はもっと“ゆるやか”でいい」居心地のよさを求めた3人の選択

 佐々木ののかさん

東京が好きだ。
欲望とエネルギーで滾り、現在を更新し続けていく街。

一方、わたしは北海道の田舎町出身。
地元のことは好きだけど、決して住みたい場所ではない。

同窓会で交わされる「いつ結婚するの話」にうんざりし、
自分の職業含めたステータスを説明するだけで骨が折れる。

わたしにとっての“地方”には“そういうもの”が含まれている。
しかし、気の置けないわたしの友人の多くは“地方”に移住してしまった。

本当は今すぐにだって帰ってきてほしい。
どうして地方に行っちゃったの。

ずっと言えずにいた気持ちを、せっかくなので伝えてみた。

「福祉の“師”を追って福岡へ」Tちゃんのケース

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最初に話を聞いたのは、福岡でホームレス支援の仕事に携わるTちゃん(26歳)。もともと関東に実家があるTちゃんが福岡に移住をしたのは、2016年4月のことだった。

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ねぇTちゃん、どうして福岡に行っちゃったの?

T もともとね、福岡にもホームレス支援にもこだわっていたわけではないの。話は学生時代の留学先での出来事にまで遡るんだけど。

留学先の国が貧しくて、生活が大変な国だったの。だけど、みんな明るく幸せに暮らしていて。その理由を考えてみたら「家族を大切にしているから」だなって気づいてね。「家族」を人生の指標にすれば幸せに暮らせるんじゃないかなって思って。

人生の指標が、家族。

T そう。だから帰国して留学先で見た家族的なコミュニティを実現しようとしたの。その方法がわたしにとっては「シェアハウス」で、実際に、家族的な存在にもなれたんだけど、心に何か引っかかりがあって。そんなとき、今の“師匠”に出会ったの。

師匠?

T うん。今思えばわたしはシェアハウスに自ら飛び込んでこれる人ではなくて、その“外側にいる人”の家族的な存在になることに関心があったんだよね。そういうわたしの実現したい理想に近いものを、ホームレス支援の分野で形にしている人が、今の師匠だったの。強く共感できたから、その人のもとで働かせてもらいたいと思って福岡への移住を決めたし、福祉の道に進んだのも結果論というか。

場所よりも人ありき、ってことか。今はどんな毎日を過ごしてるの?

T 通信の福祉系の専門学校に通いながら、師匠のもとで働いてる。専門知識と資格の勉強をしながら、現場を知れる環境がすごくいいんだよね。

楽しそうでよかった。でも、いくら師匠がいるからって、縁もゆかりもない土地に移住をしちゃうのってすごい勇気だなって。

T うーん、「移住するんだ!」って力んでいるわけではないからかな。経験を積んだら関東に戻ることも選択肢としてあるよ。

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えっ、そうなの!?

T うん。わたしは関東出身だから、東京のほうが友達もいっぱいいるし、仕事もあるからいつでも戻れるじゃない? だからこそ、若いうちに自分の納得できる環境でキャリアを積んでおこうと思ったの。

わたし、キャリアを積む場所は東京だけだって思い込んでしまっていたなぁ。

T あとは、わたしがもともと留学したことや、シェアハウスが長かったことが「どこでも生きていける」っていう自信につながったのかも。思い立ったら移動できる自由なスタイルを経験して、場所を移動すること自体がそんなに大きな障壁に感じなくなったのかもしれない。

“場所”ではなく、“人”ありきで移住をしたTちゃん。移住したら最後、その土地に骨を埋めなければいけないと考えていた自分の視野の狭さに気づかせてもらった気がした。

「自分の優先順位がわかる環境が心地よい」札幌に移住した三和さんのケース

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次にお話を聞いたのは、北海道札幌市に移住し、現在、合同会社Staylinkで2つのゲストハウスGuest House waya / Guest House 雪結運営に携わる北川三和(きたがわみわ)さん(26歳)。わたしの大学の同期である三和は、静岡県出身。ゲストハウス運営経験もないのに、札幌に移り住んだのは一体どうして?

北海道に行った決定的な理由は何だったの?

三和さん(以下、三和) 1つは東京に疲れたからかな。

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東京に疲れたっていう人、多いよね。

三和 遊ぶには最高な都市だと思うよ。ただ、働くにはしんどかった。疲れた人の顔を見て通勤していると、「自分だけがつらいわけじゃないんだから、我慢しなきゃ」っていう無言の圧力みたいなものを感じてしまって……。

ちょっとわかるかも。でも、それだけが理由じゃないんだよね?

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▲合同会社Staylinkは20代の若者9人で構成される

三和 うん。もう1つは合同会社Staylinkの代表3人と働いてみたかったのもある。大学卒業後に起業して、心健やかに働いている彼らを見て「あぁ、こんな風に生きてもいいんだ」って思えてラクになれたというか。

もともと教員志望なんだけど、ユニークな体験をして人間磨きをしたい気持ちもあったから、ゲストハウス運営はピッタリだったの。だから彼らが北海道じゃなくて、他の場所にいたら、その土地に行ったと思う。

人や働く環境が魅力だったんだね。実際、北海道に越してみて、どう?

三和 すっごくいいよ。まずね、東京に比べて選択肢が少ない(笑)。

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あははっ(笑)。でも、それっていいことなの?

三和 うん。例えば、わたしはミュージカルが好きなんだけど、東京はいろいろやってるからいくら行っても満足しないし、お金が足りない。でも、今は遠すぎて行きたいものを必然的に絞る必要がある。ミュージカルに限らず、何事も東京よりは限られてるから諦めがついて、一番大事なことに時間とお金を潔くかけられる。自分にとって何が一番大事なのかの優先順位を楽につけられるようになったから、ストレスフリーなんだよね。

東京の選択肢の多さがときにつらくなることもある。漫然と過ごす毎日の中で見落としてきたことを彼女に気づかせてもらった。

「“将来”のための忍耐より、“今”やりたいことを」沖縄移住した真崎睦美さんのケース

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最後に話を聞いたのは、ライター仲間の真崎睦美さん(27歳)@masaki_desuyo_ / ブログ。2016年6月に突如として沖縄に移住し、現在は仕事の関係で3月末までフィリピンに住んでいるというが、どうしてそんなに身軽なのか。改めてその理由を聞いてみた。

どうして沖縄に行ったんだっけ?

真崎さん(以下、真崎) 東京にいるのが苦しくなっちゃったんだよね。もちろん東京にいる人は好きだし、みんなが頑張っている街の空気感も好きなんだけど「自分も頑張らなきゃ」って思い続けた結果、心がパッキリ折れてしまって。ちょうど1年くらい前かな。

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同じ仕事だし、気持ちはわかるよ。でも、何でまた沖縄だったわけ?

真崎 沖縄に移住した友達と電話をしていて、現地の話を聞いたの。そしたら「19時からの飲み会なのに22時くらいにみんなそろう」とか笑いながら言っていて。その“ゆるさ”がいいなぁって。

なるほど。実際、移住して楽しそうだしね。

真崎 最初は知人がいないから寂しかったけど、沖縄はITのスタートアップが多くて地元メディアも多かったから、ライターの仕事には困らなかったかも。今は友達も増えたし。あと、あったかい場所のほうが病みにくいっていう自分的仮説もあった。

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今いるフィリピンもあったかいしね(笑)。でも、よくそんな身軽に居住地ごと移動できるね。わたし、月に2~3回地方出張あるけど、家は東京にないと嫌なんだよなぁ。

真崎 性格の問題だと思うよ。わたしは前から“変化する瞬間”が一番ワクワクするタイプの人間だから、逆にずっと同じ環境にいれないんだよね。

うーん、仲がいいからあえて意地悪なこと聞くけどさ、ライターの仕事は、東京のほうがキャリアを積みやすいと思っているんだけど、その点はどう考えているの?

真崎 確かにその通りだなと思うけど、わたしは“今後のキャリアを考えて”働くのは結局しんどかったんだよね。「未来を積み立てる“保険”」のために今を犠牲にする感覚で、「“今”やりたくないことを“将来のために”」頑張ろうとすると、本当に身体にガタが来ちゃうっていうか。

なるほどね。わたしはある程度、将来を見て動いていないと不安になるから、もう人それぞれってことなのかも。

フリーライターという同じ立場上、彼女の考えに共感しつつも相いれないと感じるのは、もはや性格や体質の問題というのに尽きるし、結局「他人の芝は青く見える」のだなと思うに至った。

おわりに

移住の理由は3人3様だったものの、話を聞いてみて感じたのは、3人にとって地方移住は大げさなことではなく、自分の生き方に素直に進んだ結果ということだった。

家のちょっとした段差を跨ぐように、彼女たちは軽やかに拠点を変え、
地方移住の文脈で語られる「都会VS地方」の文脈を優に超えていく。

わたしは、住む土地には何か特別な愛情や決意がなくてはならないと、必要以上に決め込んでいたのかもしれない。

東京も好きだし、地方も好きだ。
そこに1つも矛盾などない。

もっと肩の力を抜いて生きていいのだと、気の置けない友人たちに教えてもらって、
それでもなお、わたしはやっぱり東京に住む。


著者:佐々木ののか

佐々木ののか

1990年北海道生まれのライター・文筆家。

新卒で入社したメーカーを1年で退職し、現在に至る。自分の経験をベースにした共感性の高いエッセイを書くのが得意。

Twitter:@sasakinonoka
note: https://note.mu/sasakinonoka

我慢癖は妖怪女への花道である。好き嫌いを自覚して自分の輪郭をくっきりさせよう

 ぱぷりこさん

我慢する癖がついている女たち

私のところにはオンライン・オフラインともに、さまざまなタイプの女性から相談が寄せられます。相談を受けているうち、恋愛やキャリアにずっと悩んでいる人、職場や人間関係にストレスを抱えているけれど打開策が見つからず閉塞感に悩まされている人には、「自分の意見を言わずにいつも我慢する癖」がついていることが多いと気がつきました。

「仕事だから我慢しなきゃ」
「上司だから我慢しなきゃ」
「場の空気を壊したくない」
「自分が我慢すれば丸く収まる」
「相手の気持ちを考えすぎて我慢してしまう」

彼女たちはこう言いながら、セクハラを笑顔で流し、モラハラを深刻に受けとめて、「つらい」と思いながらも我慢してその場にとどまり続けようとします。

我慢の短期的メリットと長期的デメリット

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我慢する女性たちに「なぜそんなにつらいと思っているのに我慢するの?」と聞くと、「争いをしたくないから、自分が我慢することで丸く収まるならいい」「わがままな女だと思われるよりはマシ」といった答えが返ってきます。また「嫌なことでも我慢すれば成長できる」「我慢すればいつか報われる」「つらいことの先には報酬が待っている」といった“我慢神話”も根強いです。

確かに、人間関係で我慢をすると

  • 相手の気分を害するリスクを回避できる
  • 相手に気に入られる確率を上げられる
  • 意思決定の時間を短縮できる

といったメリットがあります。が! 我慢とハサミは使いよう。目的を達成するために必要に応じて我慢したりしなかったりする人はいいですが、いつ、どんなときでも、どんな状況でも我慢してしまう「我慢癖」がある人の場合、メリットよりもデメリットの方が上回ります。理由は以下の3つ。

1. 妖怪男のターゲットになる

妖怪男とは、「自分の利益のために他人を利用したり搾取したりする男」のことです。「俺の時間単価、いくらだと思ってんの?(君にそんな価値ないんだよ?)」という見下しマウンテンの頂から見下してきて相手をコントロールしようとするモラハラ男。「本当に馬鹿だよね(笑)。だから彼氏できないんじゃない?(笑) あ、真に受けちゃった? ウケるんだけど(笑)」と冗談風にディスることで自分より目下の人間を作って精神的安定を得たいディスり芸人。「君は本当の愛を知らないだけだ」などのロマンポエムを穴という穴から噴射して口説きにかかる不倫おじさん。このような妖怪男は、「ノー」と言えない女性=我慢癖がついている女性をターゲットに選びます。

なぜなら、我慢癖がある人は不平や不満を言わず、自分が不利な立場にあってもその場にとどまり続けるから。逃げずにいてくれる極上のエサを、妖怪男が見逃すはずがありません。

彼らは自分たちにとって都合がいい「我慢して逃げない女」を見分ける術に長けています。我慢癖をつけることはすなわち、妖怪男ホイホイになることと言っても過言ではありません。ついでに詐欺師にもモテモテになるという、いらんオマケがついてきます。

2. 同じ我慢を後輩や部下・子供に強いるようになる

我慢をし続けることは、ずっとストレスを感じ続けているということ。ストレスフルな状況にずっといると、人は心の余裕を失い、「私はこんなに自分の望みを諦めているのに、他の人は諦めていなくてずるい」「私はこんなに他の人のことを考えているのに、誰も私のことを考えてくれない」という怒りを覚えるようになります。この怒りはやがて、後輩や部下や子供といった「自分よりも弱い立場の人間」に向かいます。

「私がこれだけ我慢したのだから、あなただってやるべき」
「自分の意見を通そうとするなんてわがままの極み」

上記のような「自分は大きな犠牲を払った犠牲者である」「他の人も自分と同じぐらい犠牲を払うべき」という被害者意識から、かつて自分がやられて嫌だったことを他者に強要するようになります。

我慢癖がついている人は、自分より立場が強い人間には反抗しませんが、自分より弱い立場の人間には横柄に振る舞いがちです。「若いから」「経験が浅いから」「うちの会社のことをわかっていないから」と一見正当に見える理由を口にしながら、「私がこれだけ我慢したんだから、あなたたちも我慢すべき」と長年蓄積した怒りを晴らそうとするようになります。

3. 自分で選択したり決めたりできなくなる

我慢癖の最大のデメリットは「自分で選択して決める力、自分の意見を通す力を失う」ことです。

ビジネスでも人生でも、誰もが満場一致で同じ意見を持つことなどなく、ほとんどの場合は誰かと誰かの利害が衝突します。こういう時、我慢癖がついている人は「自分以外の誰か」の意見を聞いて従いますが、これは「自分で選択したり決定したりする行動を放棄する」ことに他なりません。

我慢し続けていると、「自分で決められず、常に他人に流される人間」が出来上がります。

「そんなことはない。本当に大事な時には決められるはず。まだ本気を出していないだけ」って思いますか? ですが残念! それは幻想です。なぜなら「意思決定」と「意思を通すこと」は、日常での訓練が必要だから。

1日20時間ぐらいベッドでごろごろしている人間が突然フルマラソンを完走しようと思っても無理オブ無理なのと同じように、日頃から自分で意思決定していない人が突然何かを決めようとしても決められません。誰かにちょっとでも反対されたりしたら、戦わずに「我慢」してしまうでしょう。そして「私は自分以外の人を優先しているから」「チームのことを考えているから」と、献身の美談で自分を納得させようとするでしょう。

でもそれはキラキラ粉飾です。自分で決められないのは、謙虚だからでもなく、利他主義だからでもなく、相手のことを思いやっているからでもなく、「自分で決める力がなく、自分の意思を他人に伝える訓練を怠けている」からに過ぎません。訓練をしないと意思決定ができず、いざやろうとしてもできないのでストレスを覚えて、意思決定を避けて、さらに意思決定の力が弱まる……という無限ループに陥ります。

我慢癖は妖怪女への花道である。我慢癖を手放すには

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我慢癖が恐ろしいのは、5年10年という長い年月をかけて、人間の自立する力をそぎ、妖怪男のサンドバッグになるリスクを増やし、ストレスを与え続けて心の余裕を失わせ、他者に不満と恨みを抱える「妖怪女」を作り出すところ。そして、これだけのデメリットがあるにもかかわらず、「コミュニケーションの衝突を避ける」「我慢すれば報われる」というメリットがあるように見えるためについ選びたくなってしまうところ。精神のリボ払いみたいなものです。短期的メリットがあるように見えるけれど、長期的に見たらデメリットが多すぎる。

このように、我慢癖は妖怪女を養成する花道なのです

よって、我慢癖は手放した方がいいと私は思います。とはいうものの、「そうね! 私は自分の言いたいことを言う! レリゴーする!」「もう我慢なんかしない! 断れるものはばっさばっさ断る!」といきなり行動に移せるかというと、これがなかなか難しい。「自分の意見を言うことはわがままではないかと引け目を感じる」「そもそも自分が何をしたいかわからない」と悩む女性たちを何度も見てきました。

「じゃあどうすればいいの?」ってことなんですが、おすすめしたいのが「自分の感情を知り、表出しする」こと。なぜなら、我慢癖がついている人は、そもそも自分が「何を欲していて、何を優先したいのか」を把握していないことが多いから。

主語を「He/She/They」にせずに「I」にしてみる

我慢癖がついている人に「我慢していることで不満をためているけれど、あなたはどうしたいの?」と質問すると、考え込んで黙ってしまったり、「上司・チーム・会社・親・社会がそれを求めているから」と自分以外の他者を主語にして語り出すことがとても多いです。

ここから、相手のことを思いやって優先しているのではなく、自分の感情を把握していなくて判断もしていないから、決定権を他者に明け渡して、言語化できていない自分の希望に沿わないと不満をためる……という構造が見えてきます。

我慢する人たちは「世間的に正しいかどうか」「周りから求められているかどうか」というように「他人」を主語にして物事を考えて、「自分が好きか嫌いか」という「自分」が主語のことを「わがまま」「自分勝手」と下位に置こうとしがちです。しかし、好きか嫌いかってすごく大事なことだと思うんですよね。

だって、周りのことをいくら考えたところで、結果としてストレスを感じて怒りっぽくなったり不安になったりするのは、他人ではなく自分だから。「上司・チーム・親・彼氏・世間」をベースに判断しても、その判断の結果を引き受けるのは自分です。だったら、自分の感情を判断軸にした方がずっといい。自分で判断すると、「周りが言ったから」と他責にして言い訳できなくなりますが、他人の判断に愚痴を言うだけbotになったり日常的な不安にさいなまれるよりは、ずっと建設的だと私は思います。

自分の感情や好き嫌いを表出ししてみる

なので、主語を「自分以外」から「自分」に置き換えて、「自分の感情や好き嫌いを把握」することが重要です。難しそうに思えるけれど、簡単です。紙とペン、あるいはパソコンと電力さえあればできますから。私がやっていることはだいたいこんな感じ。

1. データの収集

自分の感情をとにかく書き出す。どんなことを言われた時にモヤモヤし、誰と話す時に疲れるのか、何を考えている時に不安になるのか、何を言われたらうれしいのか、ストレスから解放されるのか、感情の流れを思いつく限りまるっと表出しする。「上司のばーかばーか」レベルのことでもOK。重複があっても気にしない。この作業を2週間~1ヶ月ほど続ける。

2. データの整理・重みづけ

書き出した長文を箇条書きや短い文章にして見やすくする。重複しているものはまとめて、重複がない箇条書きリストを作る。この時、重複しているものは登場した回数をカウントしておく。何度も出てきているキーワード(人の名前や仕事内容など)は問題のコアになっていることが多い。登場回数が多い事柄を上に持ってきて、リストを再整理する。

3. データの意味づけ

リストの上から見ていき、「自分はこれを好きか嫌いか」で振り分ける。この時「正しいか正しくないか」「他人からどう思われるか」といった「他人ベース」では絶対に考えないこと。あくまで「自分」を主語にして「好きか嫌いか」のみで判断する。「どちらでもない」は、判断を放棄している言葉なので使わない。「好き」か「嫌い」のどちらかに振り分ける。

4. データの取捨選択

「嫌いなこと」のうち、「自分にとって必要か不必要か」で振り分ける。「嫌いだけど自分にとって必要なこと」は、なぜそれが必要なのか、目的は何か、いつ目的が達成されるのかを書き出す。「嫌いで不必要なこと」についてはいま自分が何をしているかを書き、それが必要かどうかをもう一度考え、不必要だと判断したら「断る、逃げる、戦う」といった、「我慢する」以外の選択肢がないかを考える。

人によって書き方や整理の仕方は異なると思いますが、「ぐちゃぐちゃな感情や思考の流れをどかっと全部出してすっきりする」「後でゆっくり整理する」のはコスパが良くておすすめです。最初に整理してきれいに書こうとすると面倒くさすぎてやめちゃうし、問題を見落としがちになってしまいます。些細なレベルのことでも全部書いてすっきりさせておくと、他の課題にも目が向くようになります。

【結論】自分の輪郭をくっきりはっきりさせて、我慢癖をリリースしよう

我慢癖とは「自分を主語にして語らず、自分の好き嫌いや感情を把握しないまま、“自分”という存在の輪郭をぼやけさせる」ことだと思っています。だから自分で判断できずに他人に同調しがちになり、他人を自分の思いどおりに動かそうとする妖怪がわんさかと寄ってくることになる。妖怪はグレーであいまいなところを好みますからね。

自分の感情を把握して、自分の輪郭をくっきりはっきりさせることは、自分を守る「結界」になります。

そして、自分の感情や好き嫌いを自覚していることと「わがまま・自己中」はまったく別のものです。自分の意見を自覚していると、考え方の違う他者と折り合いをつけて落としどころを見つけようとするようになります。

自分の意見を意思決定に反映できるようになることは、自分の操縦権を自分で持つということです。操縦権を自分で持てば、「え、どこに連れていかれるの?」という不安や「私はそっちに行きたいんじゃないんだけど!」という不満を減らしていけます。だから安心して、くっきりはっきりさせましょう。

年末年始はぜひ筆圧を上げに上げて、自分の感情を棚卸ししてみるとよいと思います。


著者:ぱぷりこ (id:papuriko)

ぱぷりこ

ブログ『妖怪男ウォッチ』を書く、筆圧の谷の妖精。たまに外資OL。ブログで妖怪男女を供養し、noteの『ぱぷりこの恋愛お焚き上げ相談』で百鬼夜行な相談をお焚き上げしている。チャームポイントは筆圧。
ブログと同名の書籍『妖怪男ウォッチ』(宝島社)は、9割が描き下ろし。

ブログ:妖怪男ウォッチ
書籍:妖怪男ウォッチ | ぱぷりこ |本 | 通販 | Amazon
Twitter:@papupapuriko
note:https://note.mu/papuriko

実録! 職場で出会ったおもろい女

皆様こんにちは。はじめましての方も多いと思います。桜島ニニコと申します。

20代の半ばまでアルバイトかけもちしまくりのフリーター生活を送ってきた私は、36歳の現在に至るまで、職種にして約10種(ほとんどの職場に4年以上在籍)という具合に、さまざまな職場を渡り歩いて参りました。
学歴はけして誇れたものではありませんが「多種多様な職場に身を置いた」という一点のみでは、そんじょそこらのお嬢さんには引けを取らないつもりであります。もう「職場グレートジャーニー」と呼んでくださって構いません。

さて今回は、そんな私がこれまでの職場で出会って特に印象的だった「愛すべきユニークな女性たち」の姿を書かせていただこうと思います。どうか皆様におかれましてはお忙しいお勤めの合間、ひとときの気分転換にお読みいただければと思います。

私が出会ったおもろい女・その1 「歯科医師ナツコ先生」

ナツコ先生(仮名)は私が20歳のときから7年間勤めていた歯科医院の先生です。

歳は私より7つ上、男性患者さんのうち2人に1人は、初診時の診察終わりに受付で「先生、綺麗な方っすねぇ……」と、ため息交じりの感想を漏らしていくような美しい方でした。
しかも見た目が良いだけではなく性格も優しいんです。治療の話には懇切丁寧に時間をかけ、世間話や患者さん自身の内輪話にも菩薩のような笑みでずっと対応してくれます。

歯医者がおっくうな方は多いと思いますが、恐る恐る行った歯科医院でそんな先生がいたら、大体の方はうれしいことでしょう。そんなわけでナツコ先生は男女問わず患者さんから人気があり、とりわけ男性患者さんに好かれやすいようでした。

男性患者さんの中には時々ナツコ先生のプライベート領域に踏み込んだ質問をする人もいました。

しかしナツコ先生は既婚者であったためか、はたまた元来のポリシーか、ご自分の素性については「患者さんに話さない主義」をお持ちの方でした。

なので「先生は休みの日、何されてるんですか?」などと個人的なことを聞かれたときの先生は、表情筋のみで笑顔を形作ったままクルリと椅子ごと後ろを向いて「あっ桜島さーん、さっきの〇〇の件、急ぎだって言ってたよね!」と毎回ごく自然に忙しいふりをして逃げるんです。まぁこれが毎回上手いのなんの。

おそらく美人ゆえに身についた「かわし技」なのだと思いますが、これを何回かされると大抵の男性患者さんはちゃんと「察してくれて」、先生自身の素性を探るのはやめてくれていました。小娘だった私はいつも先生のかわしっぷりに「さすがだのう」と感心したものです。

しかし、そんなナツコ先生の華麗な「かわし技」の中で、私が唯一「それアリか!?」と思った技がありましたので、お話しいたします。

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Aさんは「ナツコ先生と話すのが楽しくて仕方ない!」という様子の男性患者さんでした。3~4回目の受診まではご自分のことをしきりに話されていたのですが、この日は思い切ってナツコ先生に一歩踏み込んでみたかったようです。私はそばで聞いていて「また先生は上手くかわすんだろうな」と思っていました。

しかし先生の答えは……

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このときのナツコ先生には、なにか猟奇的なものを感じました……。

後から先生に「先生、あれはさすがに……」と聞いてみると、先生は笑顔で言いました。

「男の人で年齢のこと聞いてくる人って、想定よりはるか上の数字を女が言うと絶対固まるんだよね。だから年齢のことを言いたくないときはコレに限るの! 使っていいよ!」

なんという初耳学。

しかし、にわかに信じがたかったこのライフハックも、その後ナツコ先生がこの技を繰り出し成功しているのを私は何度も目撃したので、最終的には「ナツコ先生のかわし技はさすがだなぁ」とさらに感服いたしました。

ナツコ先生は医師としての知的な部分と、人としての天然ぽさを兼ね備えていて、本当に楽しい方でした。私が一緒に仕事をした日々からもう10年近く経ちますがとてもよい思い出です。

私が出会ったおもろい女・その2 「コンビニパートの石田さん」

2人目のおもろい女は、私が最近までパートをしていたコンビニに後から入ってこられたパートの石田さん(仮名)です。

彼女は私と同い年だったのですが、なんと若い頃から30代前半の当時までただの一度も仕事に就いたことがなく、そのコンビニが人生初仕事だったそうで、これまで雑草のような仕事人生だった私は出会ったことのないタイプの方でした。

そんな彼女と初めて一緒に働いたときの印象を一言で言うと「公家か!」です。

どういうことかと言いますと、石田さんは話し方から動作からそのすべてがとにかくゆーーっくりなんです。テンポとしては「花の色は~うつりにけりないたずらに~」レベル(百人一首の札を読み上げるような抑揚をイメージしてください)

そんなスロー&マイペースな彼女に、思わず私は平安時代の公家を連想してしまったのですが、皆様にも石田さんのスロー度合いを分かっていただけるよう、まずは彼女と初めて一緒に働いたときの様子をちょっとお見せします。

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超スローな動きでやっと水を出してくれたかと思ったら、なぜかチョロチョロとしか水を出さない石田さん。あまり待ってもいられないので、私は「もっとバーっと出しちゃっていいですよ」と、横から蛇口をひねるとすぐ後ろに下がりました。

てっきり石田さんがすぐ水を止めると思っていたら……

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まさか、振り返ってゆっくりと尋ねられるとは思いませんでした。水あふれまくりです。

こんな石田さんに私は心の中で「いや、公家だって蹴鞠の時はもうちょっとアクティブだったろ!」と軽くツッコむと同時に、「こんなんでちゃんと仕事が務まるんだろうか……」と心配になりました。
その後、彼女とはシフトが違って会えずにいると、上の方が「石田さん確かに動き遅いけどそれなりにがんばってるよ」と教えてくれたので私は一安心しました。

でも半年ほど経った頃、たまたま彼女とシフトが重なり、私はまたも彼女の独特なマイペースっぷりを目の当たりにすることになりました。

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ちょっと分かりにくい話で申し訳ないのですが、ようは「補充」に関しては、売り場で足りない数量を見て在庫棚にその分を取りに行くだけでいいので、在庫数を把握する必要はないんですよね。つまり、まったく意味のないことを、石田さんは20分もかけてやっている可能性があるんです。

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この出来事の後、私はじわじわと怒りが込み上げてきたんですね。

その怒りは彼女に対してではなく、「入ってから半年も経ってんだから、その間一緒に働いたスタッフが誰か教えたれよ!」という怒り。

なので私は「石田さんの今後の為にも自分が今日真実を告げよう!」と思い、なるべく彼女のしてきたことを強く否定する言い方にならないようにと思って「私は先に売り場に行って足りない分メモしてから在庫取りに行ってるよ~。その方が早く終わるからね~」と言いました。

さて、この時点でもしも石田さんがちゃんと事態が呑み込めたとしたら彼女は「あっヤダ、私ずっと無駄なやり方してたんだ!」みたいな反応をするはずなんですが、石田さんの反応はというと……

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結局石田さんとは3年ほど一緒に仕事をしたのですが、最後までスローさはほぼ変わりませんでした。でもどこか憎めないマイペースな彼女に私の方がだんだんハマってしまって、私が辞める時は最後に連絡先を交換して今でもときどき連絡してます。

ちなみに驚くことに彼女、LINEの既読後にものすごい速さで返信してきます。つくづく面白い人ですね。

私が出会ったおもろい女・その3 「柏餅売り場のおばちゃん」

さて最後は私がまだいたいけな18歳の頃の話です。

よくスーパーなんかで試食販売をやっている店員さんっていますよね。知っている方は知っていると思いますが、ああいう仕事を「マネキン」と言うんですね。これは私がそのマネキンを1日だけやった日のことです。

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しかし、世の中どんな仕事だってナメてかかったらいけません。

まるで神さまがそう言ってるかのように、「簡単な仕事です」なんてナメた私にはこの後まんまとバチが当たりました。

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そう、納品された柏餅は3種類あって、外側は「白・ピンク・黄色」の3色でした。そしてあんこも「つぶあん・こしあん・みそあん」の3種類だとは聞いていました。

しかし、おそらく私が着替えをしている間に台に出してくれたスタッフの方が、あんこの種類が書かれたメモを剥がしてしまったようなんです!

メモがなきゃ、どれが何あんだかサッパリ分からない!

遠くに見えるスーパーの店員さんはみんな忙しそうで話しかけにくい!

というかそうこうしている間に店が開いてお客さんが目の前にチラホラ来てる!

やばい! 今注文されても私できないよ!! 神さま簡単な仕事とか言ってごめんなさい! わーん! おかあさーん!!

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このときのおばちゃんはすごい剣幕だったのですが、正直私は怒られたことよりも「たすけておかあさん!!」としか思わず、すぐにおばちゃんに「あんこの種類が分かんないんです!!」とすがりつきました。

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これは今思い出しても衝撃的な瞬間でした。

おばちゃんにしてみれば「中身が分からなければ見ればいいじゃろ」というシンプルな回答だと思うのですが、まだ若かった私は「仕事中」であり「売り物」である、というくくりのせいで、そのシンプルな回答を見失っていたようです。頭が固くて青二才な証拠ですね。

それに比べておばちゃんの「ぱくっ」という一口の悠然とした貫禄。年長者の余裕と、臨機応変のすごさを見せつけられたというか、さすが人生経験豊富なおばちゃんだからこそなせる業だと思いました。

今考えると「食べなくても割って中を見るだけで良かったんじゃ……?」という気はしないでもないですが、そこはおばちゃんのご愛嬌で許せてしまう感じです。

ちなみにこの時のおばちゃんはお怒りモードで、売り場から去る時も「しっかりやんなさいよ!」と強めに言い放っていたので「助かったけど、怖い人だな」と私は思ったのですが、昼休憩の時にまたおばちゃんに声をかけられて「あたし、医者から甘いもの止められてんのよぅ! でもさっきのは仕方ないやね! ナイショナイショ!」と明るく言われたので、本当は優しくてお客様思いの良い店員さんだったんでしょうね。1日だけのバイトでしたが、人生の先輩に臨機応変を学ばせてもらった良い体験でした。

個性豊かな3人の女性たちの話、いかがだったでしょうか。

まだまだ他の職場でもそれぞれに面白い人がたくさんいたのですが、書ききれないのでこのへんにしておきますね。

皆様の職場にもいろんな方がいると思いますが、「仕事場だからこそ出会える縁」を大事に楽しみつつ、日々のお仕事がんばってくださいませ。


著者:桜島ニニコ (id:ninicosachico)

桜島ニニコ

80年生まれ。既婚。介護士(現在は休職中)。性格は極めて温厚。
よろしくお願いします。

はてなブログ「限りなく透明に近いふつう
Twitter @sakurajimanini

「結婚してアガリ」なんてない。手からこぼれていく仕事にしがみつくために、私が選択したこと

文とイラスト 水谷さるころさん

ふわふわとした結婚願望と30歳での結婚

私が結婚したのは30歳のときでした。

20歳からフリーランスのイラストレーター・グラフィックデザイナーをやっていた私は、仕事も暮らしも独りきり。そんな生活が続けば続くほど結婚がしたくてたまりませんでした。

誰かのために頑張ったり、誰かに頑張っていることを褒められたりしたい。人間らしい生活がしたい。と毎日願っていたのです。

そんな中、出会いがあり、私の希望通りに30歳で同い年の彼氏と結婚することができました。


私たちはいわゆるロスジェネ世代(1993年~2005年の就職氷河期に学校を卒業した人たち)で「専業主婦」なんて現実的ではなくて、みんな共働きが当たり前の世代だと思っていました。


ところが、フリーランスの私の仕事が結婚を機に、徐々に減っていきます。

30歳になって、職歴10年……新鮮味が薄れたかな?とか、企画を出していた会社が倒産したりとか、そういう話も少なくなかったので「不況だなあ、厳しいなあ」と思っていました。



しかし、それだけでない気になる出来事がいくつか起こります。

取引先からの支払いが遅れたり、ギャラの交渉の場で「まあ、結婚したからいいじゃないですか」と言われることがあったのです。

「結婚できたんだから、お金には困ってませんよね」ということです。

いやいやいや???

私が働かなかったらやっていけないですよ? 都内で大人ふたり暮らしていけないですよ?

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世間知らずの自分と世間の保守的な結婚観とのズレ

世の中的に結婚は「稼ぎのある男とするもの」という固定観念がある、そして説明しなければそう思われるのだ、ということに、そのときやっと気が付きました。

周りの友達は同業者や職種の近いフリーランスと結婚したりしていたのですが、私は普通の「お勤めの人」と結婚したのもあって、誤解をさらに拡大させていたようなのです。

更に言うと

「30歳ぴったりに、駆け込むように結婚した」

「盛大に結婚式をした」(親族との神前式の後、150人ほど呼んでパーティーをした)

ことも重なって「保守的な結婚」というイメージも大きく付いたようでした。

フリーランスがお勤めの人と結婚することで「身の保障を確保するための、後ろ向きの選択」だと思われてしまったのです。勝手に「しっかりもののあの人のことだから、かなり手堅い男を手に入れたに違いない」と思われ「競争から一抜けした」と受け取っていた人もいたと後からわかりました。

主に結婚している女性、働く妻を持つ男性は引き続き仕事をくれましたが、独身の仕事関係の人からは結婚した直後に「いいですね、もう好きな仕事だけ選んでやっていけますね」みたいなことも言われました。

もちろんそんなつもりはなかったので必死に否定したのですが、その人からもう仕事を頼まれることはありませんでした。


女が結婚した後も仕事をしていくためには、セルフブランディングをしていかないといけなかった。

就職したことのない私は世の中の女性の賃金が男性より低いことも、女性が年齢と共に働きにくくなることも全く知りませんでした。

無知だったゆえに、自分が小さいころから目指し10年やってきた「絵を描く仕事」は気が付いたら「主婦の趣味」に成り下がってしまったかのような感覚になりました。

もちろん、結婚をしたころに仕事が減ったのは自分が「その程度」と思われていた、というのもあります。代表作もヒット作もなく、たいした看板もない自分は「既婚者」の看板に負けたのです。

私の仕事は技術職・専門職ではありますが、資格職ではないので、人の紹介や、業界で名をあげたり評判になったりして仕事がくるケースが多いです。

盤石な仕事の基盤があって、人気も名声もあればもっと違っただろう……と悔しい思いもしました。

だからなおさら「自分は仕事をずっと続けていくのだ」ということを気をつけなければいけなかったのです。



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私の周りでも30歳で結婚して仕事を辞め、子育てが落ち着いてから復職したいと考えていても、なかなか難しい……という話を聞いたりしました。

「ずっと同じ場所で戦ってる」意識のある人たちは、一度その場所を放棄した人に対してとても冷たいように感じます。私は「働くのは当然」と思い過ぎていて「これからもずっと戦い続ける」というポーズをとり忘れていたのです。

離婚、そしてその体験から反省して選択した事実婚

そもそも自分自身の「無自覚かつ保守的な結婚観での立ち居振る舞い」があったことにも気が付き、深く深く反省しました。

私は毎日毎日夫のために食事を作り、仕事の付き合いで夜に出かけるときも、きっちり料理をしてから出ていました。

周りの既婚共働きの女性たちに「そんなことしなくていい」と言われていたのに、「結婚したのだから、家事はきちんとしなければ」と思い込んでいたんですよね。

見込みの甘さは仕事だけでなく、全てにおいて甘く、私はどんどん疲弊して、結局3年半で離婚をしてしまいました。



離婚をした後、ずっと働きたいなら結婚はあまりメリットがないのではと考えるようになりました。

それでも私が最初に結婚したかった理由である「家族を持って、自分以外の存在のために働きたい」「誰かと支え合いたい」という気持ちは変わらずありました。

36歳のときに新しくパートナーになろうという人に出会い、再婚を考えます。

でもまたうかつに「結婚」の枠にはまっていけば、仕事が手の中からポロポロとこぼれていってしまうのではないか。

仕事は、しがみつかなければ、どこかに消えていってしまう……。このときは前の失敗を踏まえて丹念に作戦を練りました。

まずは「結婚することを言わない」

離婚から3年での再婚が早いかどうかはわかりませんが、再婚することで「男に頼りたい女」というイメージが付くのを避けるために、公表はしませんでした。もちろん、結婚式も披露宴もなし。お互いバツイチ同士なこともあって式に対する未練も憧れもなく、身内と身近な友人にだけ報告してひっそりと同居をスタートさせました。

そしてなによりも大きい選択は「法律婚をしない」

事実婚という形を選択しました。

「事実婚」とただの「同居・同棲」がどう違うのかというのは結構説明が難しいのですが、「事実婚」は「籍を一緒にしてない以外は結婚しているのと同じ」状態を指します。

我々の場合は結婚式はなかったものの親同士の顔合わせもしましたし、住民票も一緒にして表記も「妻(未届)」で、自治体の行政の中では「結婚している世帯」として扱われています。



このおかげで初婚のときのようなことは誰からも言われず、ストレスなく仕事をすることができるようになった。と思っていました。

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妊娠・出産・育児という新たなハードルでのブランディング

しかし、妊娠・出産・育児が加わるとまた違ってきます。

私の仕事相手に、フリーランスの女性で「事実婚している夫の存在と子どもがいることを10年近く隠して仕事を続けていた」という方がいました。その気持ちも今なら充分理解できます。ですが、私にはそこまでの根性はないな……と思い、出産を機にパートナーがいること、子どもを産んだことを公表することにしました。


今度は、

「生後2ヵ月で認可保育園に入るためにまず認可外保育園に子どもを預けていること」

「パートナーと家事・育児をシェアしていること」

をTwitterやブログで積極的にアピールしました。

同時に「事実婚であること」「パートナーに扶養されていないこと」も全面的に打ち出していきました。

仕事相手から「いかに安心して仕事を発注してもらえるか」に細心の注意を払って生活しています。

そのおかげか「そんな小さい子どもを預けて働くなんて」「そんなに仕事にしがみつかなくても」みたいな意見は身内、知り合い、ネット等でもほぼ0。

「事実婚」をしているということで「めんどうくさい人」「やっかいなフェミニスト?」とは思われても、初婚のときによくあった「良き妻であれ」という保守的な結婚観の押し付けみたいなものが少ないほうが、私にとってはラクチンでした。



「結婚して、子どもができて、守ってくれる人もいて、もうイイ感じにアガリなのね」とか思われるより、全然いい!

本当に養われていないし、パートナーと二人三脚で生きていかないとやっていけないんです!



今は無事に認可保育園にも入れ、困らない程度に仕事の依頼が来ているし「よかった!」と思っているのですが、こんなに「ファイティングポーズ」を普段から取っていないとダメなんだな……という気持ちもあります。

結婚だって、妊娠・出産だって、浮かれて好きにみんなに話してもいいじゃなーい!

っていう気持ちもすごくあって、それが「マイナス」になるのは自分に実力がないから? そこまで人に求められてないから?と自分を責めてしまう日もあります。

でも「結婚のイメージ」は自分たちが育った環境とか世代とかの影響が大きいものなので、「そういう現状」とうまく付き合うことがまだまだ必要なんだろうな……と実感しています。



しかもこの先は、「年を取ったから」という理由でまた手から仕事がこぼれ落ちていくこととも戦っていくのだと思います。

そう思うときっと人生にはラクチンな「アガリ」なんかないんだろうと思うのです。

「ずっと働き続けたい」と思う限り「逃げず」「諦めず」、かといって「執着せず」「満足すること」も忘れず、常に気を抜かず戦い続けるしかないのかも。と思ってます。

全然スマートじゃないし、不安もいっぱいだけれど、こうやってなんとかやっていける。「前を向いて歩いている」状態が実は一番幸せなのかもしれないとも思っています。

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文とイラスト:水谷さるころ (id:salucoro)

水谷さるころ

1976年1月31日千葉県柏市生まれ。イラストレーター・マンガ家・グラフィックデザイナー。著作に『30日間世界一周!』(全3巻、イースト・プレス)、『35日間世界一周!!』(全5巻、イースト・プレス)、『世界ボンクラ2人旅! タイ・ベトナム』(前後編・全2巻、イースト・プレス)、『結婚さえできればいいと思っていたけど』(幻冬舎)がある。趣味の空手は弐段の腕前。

公式サイト:Salu-page

「短時間勤務でも正社員になりたい」。簡単です。そう、オランダならね。

こんにちは。ニャートと申します。

過労で出版社を辞めてから、引きこもりを経て派遣社員として働いており、非正規雇用の働き方や社会のあり方について思うことをはてなブログに書いています。

さて、皆さんの中には、「家庭があるから短時間で働きたい。だから、パートや派遣で働こう」と思っている方もいるのではないでしょうか。

パートや派遣などの非正規雇用を選ぶ人について、総務省統計局は、このように言っています。

統計局ホームページ/統計Today No.97

「不本意型」非正規雇用者(331万人)の非正規総数に対する割合は18.1%であり、残りの約8割は、「自分の都合のよい時間に働きたいから」、「家計の補助・学費等を得たいから」などの理由で非正規雇用を選択しています。

統計局ホームページ/統計Today No.97

これだと「非正規の人は、自分で非正規を選んでいる」と受け取れるのですが、はたして本当にそうなのでしょうか。

「自分の都合のよい時間に働きたい」「家庭と両立しやすい仕事を選びたい」と思ったときに、日本では正規雇用に比べて待遇が劣る非正規の仕事しか選べない、というのが本当ではないでしょうか?

正社員とパートタイムとの待遇差を見ると、「短時間勤務でも、安定した正社員になれたらいいのに」と思いますよね。

実は、オランダではそれが当たり前なのです。

もともとオランダは「男性は働いて、女性は家庭を守る」国だった

OECDのデータ(2013年)によると、オランダでは、女性全体の61.1%がパートタイムで働いています。

ですが、昔からそうだった訳ではなく、もともとオランダは、少し前の日本のように「男性は働いて、女性は家庭を守る」という考え方が根強い国でした。

厚生労働省「「平成16年版 働く女性の実情」のあらまし」より

資料出所:ILO“LABORSTA”、総務省統計局「労働力調査」
(注)オランダ 1977,79年は14~64歳。アメリカ 1970,82-94年は15歳以上、1975~82,95年以降は16歳以上。その他の国15歳以上。

引用:厚生労働省「「平成16年版 働く女性の実情」のあらまし」より

グラフによると、オランダでは1970年頃は、女性は全体の約30%しか働いていませんでした。専業主婦として、家庭を守っていたのです。
それが2003年には、2倍以上の約70%が働くようになっています。

不況のため、ワークシェアリングで女性を活用

では、なぜオランダの女性は働くようになったのでしょうか?
それは、「オランダ病」と呼ばれた大不況を克服するためでした。

ざっくり言うと、1960年代に発見された天然ガスの輸出で、その後オランダは景気が良くなったことから、賃金が上がり(外国では労働組合がストライキ等を行うので、賃金は基本的に上昇します)、政府も社会保障費を増やしました。

しかし、そうした賃金コストと通貨高のため輸出企業の経営が悪化した結果、雇用を抑えて失業率は2ケタとなり、一転、大不況が訪れました。

高福祉国家だったオランダには、病気で退職した場合、次の仕事が見つかるまで直前の賃金100%(当時)が支給される「労働不能手当」があり、認定が甘かったため利用者が多く、国の財政を圧迫していました。

こうした状況を打開するため、企業・労働組合・政府は1982年にワッセナー合意を結び、互いに助け合うことにしました。

  • 企業は、ワークシェアリングを導入して雇用を増やすかわりに、労働組合に賃上げ要求を控えてもらう
  • 労働組合は、賃上げ要求をしないかわりに、企業に雇用を増やしてもらう
  • 政府は、減税するかわりに、企業に雇用を増やしてもらい、労働不能手当などの社会保障費を減らす

この時、今まで男性がやっていた仕事をシェアするため、家事を担う女性が短時間でも働ける環境を、法で整備したのです。

賃金を抑え、雇用を増やし、社会保障費を減らした結果、オランダの経済は再生しました。雇用者数は1.5倍になり、失業率は1983年の11.9%から2001年には2.7%にまで低下しました。

フルタイムとパートタイムはホントに平等?

では、フルタイムとパートタイムとの待遇差は、本当にないのでしょうか。

パートタイムに対する賃金や社会保障は、オランダの法律では以下のように定められています。

  • 賃金:フルタイムでもパートタイムでも、同一労働なら時給は同じ(1993年制定)
  • 有給休暇:働いた時間数に応じて取れる
  • 育児休暇:1年以上雇用されていれば、フルタイムと同じ育児休暇(無給)を取れる
  • 健康保険:フルタイムと同じ条件で加入できる
  • 年金:フルタイムと同じく、企業や労働組合の年金基金に加入できる(1994年制定)
  • 失業手当・疾病手当:フルタイムと同じ条件で、直前の賃金の70%(最低賃金水準を下回らない)が支給される
  • 雇用保険:フルタイムと同じく、1年以上継続して働き、1週間の所定労働時間が20時間以上なら適用される

1996年に労働法が改正され、労働時間による差別が禁止されました。つまり、賃金だけではなく、昇給や福利厚生など全ての面で、フルタイムと同じ権利が保障されるようになったのです。

さらに、2000年に労働時間調整法が制定され、従業員10人以上の企業で1年以上働いている人は、自分で労働時間の短縮または延長をする権利が認められるようになりました。
一般的に正社員は1日8時間労働でそれ以下は選べない日本から考えると、画期的なことです。

このように法律上は平等をうたっていますが、実際のところ、本当に給料差はないのでしょうか。

引用:経済産業研究所(権丈英子教授)「オランダにおけるワーク・ライフ・バランス―労働時間と就業場所の柔軟性が高い社会―」

引用:経済産業研究所(権丈英子教授)「オランダにおけるワーク・ライフ・バランス―労働時間と就業場所の柔軟性が高い社会―
(注:1時間当たり所定内給与額。20~24歳の男性フルタイム労働者の時間当たり賃金を100とした場合の各年齢階層における相対的賃金)

グラフを見る限り、フルタイムとパートタイムとの間には、日本ほど大きな給料差はないようです。

このように、法律がきちんと守られ、男性やフルタイムとの賃金・待遇差が比較的小さいからこそ、オランダでは女性の社会進出が成功しました。

いまの日本に住む私たちにできること

日本にも、主に女性が多く働くサービス業で、結婚・出産による離職率を低くし、優秀な人材に長く働いてもらうために「短時間正社員」制度を導入している企業があります。

例えばモロゾフ株式会社では、年間960時間以上(1日4時間程度)働く場合、待遇が正社員とほぼ同じである「ショートタイム社員制度」を早くから導入しています。フルタイムとショートタイムを何度も行き来することもできます。1960年代と早い時代から、パートでも育児休業(子どもが2歳3ヶ月になるまで)を取ることができました。

また、イケア・ジャパン株式会社は2014年に、全体の7割を占めていたパートタイマーを短時間正社員にすると同時に、同一労働同一賃金にし、労働時間数による待遇差をなくしました。

株式会社矢野調剤薬局にも、週30時間勤務でフルタイムと同条件の準社員制度があり、昼休みを12時半~15時と長めにとり、いったん帰宅して家事を片づけてから午後の勤務に戻るという働き方も可能です。

こうした企業が率先して行っているように、日本が国として女性を活用したいのなら、現在の男女間・雇用形態間の格差を法律でなくし、守らない企業には厳罰を与えることが必須だと思います。

先ほどのグラフにもあったように、例えば35~39歳のフルタイム男性とパートタイム女性とでは、賃金差は約2倍です。夫であるフルタイム男性と同じ時間働いても、妻であるパートタイム女性の給料は半分にしかなりません。

* * *

現実的に、格差が存在する今の日本で私たちにできることは、家庭と仕事を両立したいという意志を尊重してくれる企業をできるだけ探すことだと思います。

そのために必要なのは、情報収集力と交渉力です。
まだ少ないですが、リモートワークで在宅の事務職を募集している求人をちらほら見ることもあります。
また、初めはフルタイムで会社に入ったけれど、職場に必要とされる人材になってから家族の介護問題が発生し、交渉して時短勤務を認めてもらった知人もいます。

制約が少ない会社をできるだけ探して、自分の仕事を認められてから、家庭との両立を手探りで交渉していく。
高齢化による人手不足という時代の流れから、そういった試行錯誤も可能になっていくのではないかと思います。


著者:ニャート (id:nyaaat)

ニャート

出版社を過労で退職→引きこもり→派遣社員を経て、働き方や社会のあり方について思うことを書いています。
BLOGOSさんのブロガーです。

ブログ:ニャート
Twitter:@nyaaatblog

「巻き込んで子育て」で仕事と家庭を両立 働くママは冷徹な司令塔であれ

川崎貴子

私は、女性に特化した人材コンサルティング会社を経営している傍ら、他2社の社外取締役、コラムニストとしての執筆を月に数本、その他に講演や取材をガチャガチャと受けているため、人様に大変忙しそうな人だと思われております。本当はそうでもないのですが……。

また、我が家には11歳と4歳の娘がおり、その娘たちと一緒に食事をする様子や休日の様子をSNSに時折アップしているため図らずも、

「仕事と家庭の両立ができているのですね」

という壮大な誤解を友人知人に与え続けてしまっています。

「ワークライフバランスな私」はSNSを通して私が作り出した虚像です。ただ、実際のところはどうであっても、何とかかんとか仕事が回り、子供たちが元気で、幸せに毎日が送れているのにはいくつか理由があると自負しております。

ちっとも羨ましくない両立法かもしれませんが、現在子育て中の働くママや、これから結婚して出産する女性たちが「こんなんでいいんだ」と、少しでも肩の荷を下ろすことができればと思い、今回は恥を忍んで我が家の事例を書きつづりたいと思います。

まわりの協力も得ながら家事育児を回す

さて、友人知人は「ワークライフバランスな川崎貴子」と誤解してくれたりするわけですが、初対面の人の場合、何かの拍子に私に子供がいるという話になると必ずと言っていいほど一瞬絶句されます。

「お、お子さんがいるようにとても見えないですね……」

この一瞬の絶句は、私が若く見えるとか、所帯じみていないとか、そんなプラスの素敵な理由では200%ありません。

子育てに集中している母親がまとう特有のまろやかな優しさや母性的な空気が私から1ミリも感じられないことが原因と思われます。その代わり、ガンガン仕事して憂さ晴らしに梯子酒してる雰囲気は醸し出してしまっているのでしょう。そのギャップに皆さん驚かれるのです。

第一印象って怖い……。そんな洞察力に優れた「初対面の皆さま」に出会う度に私は思うのです。

ばれてるやん!
家事と子育て、
専任で従事したことがないのだだ漏れやん!

思えば長女が生まれた時、彼女の生後3週間で職場復帰した私は、私と元夫、ベビーシッター2名(8:00~15:00までの人と15:00~20:00までの人)、私の実母、妹の計6名で家事育児を回しておりました。メーリングリストを作り、娘の日々のバージョンアップを共有し、ともに喜びともに問題解決にあたったものです。

その後離婚してシングルマザーになるも、元夫が抜けただけでプロジェクトC(Cは長女の名前である「ちあき」の「C」をもじったもの)は滞りなく遂行されました。

巻き込み型子育てにもルールがある


Photo by Kat Grigg

それから1年後、今の夫(当時ダンサー)と再婚。その頃会社を拡大するために奔走していた私は大黒柱担当となり、夫がダンスの仕事と兼業で家事育児を担当することになりました。これをもってプロジェクトCは正式に解散することになりましたが、新たに夫の両親がその穴を埋めてくれるように参戦。定期的に子育てを手伝ってくれました。

さらに6年後。次女を出産するタイミングで実父が他界。一人になった実母と同居することになり、さらに夫も新しい仕事にチャレンジするため外で働き始め、

  • 家事は
    • 洗濯が実母
    • 掃除は夫
    • 料理は私
  • 子育ては
    • 3名体制 + 義母が週一で手伝ってくれる

という現在の体制に相成りました。

こうやって羅列してみると、なんて多くの人に助けてもらってきたことか……と、我ながら呆れます。しかし、私に巻き込まれた形とはいえ、助けてくれた全ての人が未だに娘たちの成長を見守ってくれているというありがたさに、改めて胸が熱くなりました。

確かに私はラッキーです。でも、この巻き込み型子育ては「ラッキーな人の、ラッキーだった子育て」という側面の他に「私特有のルールや秘訣」らしいものがあるにはあるのです。

1. 柔軟性の高いパートナーを選ぶべし

元夫も家事や育児のアウトソーシングは全く抵抗のない人でしたし、今の夫はさらに子育てのために家庭に入ったり仕事を変えたりと人生をアクロバティックに変化させてくれました。男女ともに「自分はこういう働き方しかできない!」であったり、頑なに「他人が家に入るのは嫌!」とならない「柔軟なパートナーを選ぶこと」は私の経験上とても重要だと言えます。

2. 任せて、感謝して、丸投げすべからず

子育てがスタートしてから現在まで我が家はシフト制なわけですが、その時々に担当してくれている人が実母であろうとシッターさんであろうと、ちゃんと「信頼して任せる」ことが重要です。

逐一チェックしたり、自分のやり方を細かく押し付けたりしても担当者のモチベーションを下げるだけです。情報共有は大切にしながら、毎日感謝の気持ちを言葉で伝え、気持ちよく手伝ってもらえる空気、互いに相談しあえる空気を作ることが肝でした。

3. 優先順位を間違えず、コア業務に集中するべし

家事を分担すると、コップ一つ洗ったの洗わないので夫婦は喧嘩になります。共働きですもの、家電にはガンガン投資いたしましょう。「手作り料理が愛」「毎日ピカピカな家を維持するのが愛」という幻想を捨てて、時には外食やデリバリー、時にはホコリがあってもかまへん、かまへん。

私と夫の家庭でのコア業務は「子供と話し、触れ合うこと」だと思っています。そして、仲の良い夫婦関係を維持し、その空気の中で子育てをすること。忙しさに翻弄されてコア業務の優先順位が下がらないように注意が必要です。

4. アウトソーシング費用は投資と思うべし

ベビーシッターも私立の保育園も託児所も、夫婦片方の給与が飛ぶほど高かったりします。我が家もそうでしたが、結局「子供を預けるために働いているようなもの」であり、「それだったらお母さんが仕事を辞めた方がいいのではないか?」という思考になるのは十分理解できます。

でもプラマイゼロはあくまでも現時点だけのこと。長い目で見ると、ここでキャリアを手放しブランクを作ると生涯年収で1億以上の損失が出るとも言われています。年金支給が危うい我々世代が、長い人生の中で家族の疾病や夫の失業などのトラブル時にも、子供たちの可能性にお金を投じられるよう、尚且つ自分たちが老後食べていくためにも、これからは家族にとって「妻の経済力」は最強のインフラになるであろうと予想されます。一時的な損得勘定と情に惑わされず「長期ビジョンでの判断が必要」です。

5. 理念とビジョンを作り、最重要業務は夫婦でするべし

いよいよ会社経営の体をなしてきましたが(笑)、会社経営と家庭経営を両方経験した者として言わせていただければ、これらは非常によく似た性質を持っていました。どんなに親族やプロに子育てを手伝ってもらったとしても、「どんな子供に育てたいのか」「どんな家庭にしてゆきたいのか」を決めるのは共同経営者である夫と妻です。

少し前になりますが、夫が私に「次女がおばあちゃんに甘やかされて育っているから良くない」的なクレームをずらずら言いだしまして、私は久しぶりにキレたものです。

おばあちゃんはあくまでもパートタイマー。いえいえ、無報酬ですから善意のボランティアです。こうしたい、という具体的な代替案があれば私を通して共有するもよし。私たちの理念とビジョンが伝わっていないだけです。それよりも何より、最重要業務である基本的な子供たちの躾(しつけ)は我々夫婦がやること。それは経営者が「うちの業績が悪いのはボランティアの人のスキルが低いから」などと言っているようなものです。

協力してくれる義実家もボランティアであり、我が家の大切なステークホルダー。食事会や旅行を企画して親族が仲良く結束できるよう、理念やビジョンが共有できるよう、家庭の経営者も「全てのステークホルダーの満足度」を考えなければならないのです。

仕事を持つ妻が専業主婦と同じように家族に手をかけ、ケアすることはできません。でも、できない自分を責めたり、気の利かない夫を責めて夫婦仲が悪くなったりするよりは、働くママが自らは専任で手を下さず、仕事で培ったスキルを家庭でも存分に生かし「優秀な司令塔になる」のが手っ取り早いのです。子育て中の最大のリスクは、共同経営者である夫と妻が疲弊して家庭に笑顔がなくなることです。

**

3歳児神話とか流派の違う教えに惑わされず、関わってくれる全ての人たちと密なコミュニケーションを取り、各家庭においてオリジナルな「仕事と家庭の両立」を目指していただきたいと切に、切に願っております。

家庭のためだけ、仕事をこなすためだけにそれぞれが存在するのではなく、個人と家族が幸せになるために「仕事」も「家庭」もあるのですから。

著者:川崎貴子

川崎貴子

1972年生まれ。埼玉県出身。1997年に働く女性をサポートするための人材コンサルティング会社(株)ジョヤンテを設立。女性に特化した人材紹介業、教育事業、女性活用コンサルティング事業を展開。女性誌での執筆活動や講演多数。著書に「結婚したい女子のためのハンティング・レッスン」「私たちが仕事を辞めてはいけない57の理由」「愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。」「上司の頭はまる見え。」がある。2014年より株式会社ninoya取締役を兼任し、ブログ「酒と泪と女と女」を執筆。婚活結社「魔女のサバト」主宰。女性の裏と表を知り尽くし、フォローしてきた女性は1万人以上。「女性マネージメントのプロ」「黒魔女」の異名を取る。10歳と3歳の娘を持つワーキングマザーでもある。 Facebookはこちら

ITエンジニアとしての人生を諦めず、子育てしながらチャレンジを続ける

文と写真 平愛美さん(IT系母ちゃん)

ITエンジニアになったきっかけは「ブログ」だった

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(故郷・熊本の風景)

それは10年前の春だった。私は地元・熊本の大学を卒業して上京した。ITエンジニアになる夢を捨てきれず、両親の反対を押し切り東京のIT企業に就職した。

最初は些細なことがきっかけだった。学生時代にシンガーソングライターの鬼束ちひろさんが好きで、同じく鬼束ちひろさんのファンである伊藤直也さんのサイトが情報収集先だった。そのサイトが日本でいち早くブログ(MovableType)の導入をした。私もまねしてサーバーを動かして、ブログを作ったのがきっかけで、ITエンジニアとして仕事をしたいと思った。

就職先ではその熱意を買ってもらい、インフラエンジニアとしてECサイトの業務に配属された。繁忙期には残業が続いて大変なこともあったけれど、やりがいのある仕事で毎日が刺激的だった。良い先輩にも恵まれた。「この仕組みは変えた方が良い」「こうした方がもっと良くなるはず」といった私の意見について「じゃあ、やってみよう」とチャレンジするチャンスを幾度となく与えてもらえた。

女性エンジニアは結婚・出産でキャリアを諦めるしかないのか?

仕事のキャリアを積んでいる真っただ中に、突然崖から突き落とされたような衝撃に襲われ、目の前が真っ暗になった。

そう、私の人生を大きく変えた日が突然訪れたのだ。

これまでの成果が認められ、ITエンジニア5年目にして大規模案件のプロジェクトリーダーに抜擢され異動することに。しかし、同時に婚約者との子供を妊娠したことが発覚し、既に切迫流産の状態になっていた。絶対安静を余儀なくされた私は、プロジェクトリーダーのポジションを降りるしかなかった。「プロジェクトリーダーの代わりは居ても、このお腹の子を守るのは私だけなんだ」と自分に言い聞かせながら、行き場の無い悔し涙が流れた。

それに追い打ちをかけるように産休前の上司との面談で「育児休業明けで復帰したとしても、子持ちの女性は元のエンジニアのポジションには戻れない。前例が無いから諦めてほしい」と告げられた。

もともと女性エンジニアが少ない職場だったこともあり、そのような対応にショックを受けたが、それでも私はエンジニアとして仕事を続けることを諦めたくなかった。たった1%の希望を持って、育児休業中に行動することを決めた。

子育てしながらチャレンジした4つのこと

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(1)資格取得

長男を出産後、スキルアップのため資格取得にチャレンジした。産後は勉強時間を捻出するのが大変だったが、無事試験に合格することができた。

LPIC304に合格。産休・育休中のスキルアップについて - Mana Blog Next

(2)技術勉強会の開催

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結婚・出産などのライフスタイルの変化があってもずっと働き続けたい女性エンジニアは私だけではないはず。何か力になりたくて、女性エンジニアが参加しやすい技術勉強会を有志で開催した。女性エンジニアが社外で学べるきっかけを作り、スキルアップへ繋げていけたらと思い、無償で開催。私は講師と会場探しに奔走したが、参加者が熱心に学ぶ様子を見て達成感があった。それが男女共学の勉強会「Linux女子部」だった。

私自身も、勉強会やイベントを通して沢山の仲間ができた。仕事と子育てを両立している先輩エンジニアから有益なアドバイスをもらったことで、自信へと繋がっていった。

技術勉強会の開催が人生を変えた、と言っても過言ではない。同志の存在に何度助けられただろう。私は独りじゃないんだ。仲間との出会いに、これまでの生きづらさは綺麗さっぱり消えていった。同じように仕事と子育ての両立に悩みながらも、前向きに生きている仲間がいるだけで、こんなにも心救われるのだと気付いた。

(3) チャレンジしたことをブログに公開

これまで自分が何にチャレンジしてきたのか、それをブログに公開した。アウトプットすることでその結果を報告することになるので、続けやすいと思ったからだ。

そしてブログでの発信がきっかけでチャンスが次々と巡ってきた。キーワード検索でブログ記事がヒットし、取材や執筆の機会が立て続けに舞い込んできたのだ。自分の得意なこと・チャレンジしていることを公開することで、その情報が欲しい人(組織)との繋がりができた。

(4) 夫婦の情報共有と時間の有効活用

子育てをしていると、時間がどうしても足りなくなっていく。夫婦で協力し合いながら家庭の課題を解決していくために、情報共有ツールの必要性を感じた。時間を有効的に活用するため、プロジェクト管理ツール「Backlog」を導入。移動中などのスキマ時間に家庭のタスクを確認し、夫婦間の情報共有や担当割りを行った。

家庭にプロジェクト管理ツールを導入してみた - Mana Blog Next

ちなみに夫もIT系のエンジニアで、プロジェクト管理ツールには抵抗がなく、むしろ積極的に活用してくれている。

エンジニア人生を諦めずに子育てをするために働き方を変えていった

残念ながら育児休業明けに会社に戻れるポジションが無く、職場復帰は叶わなかったけど、これまでの成果が認められ、クラウドエンジニアとして転職することができた。それは私が諦めなかったこともあるけれど、かけがえのない仲間との出会いと、夫の理解と協力があったからだと感じた。

転職後の試練。そして退職

しかし、転職した後も、子育ての試練は続いた。長男が2歳の頃、RSウイルス感染症が悪化し肺炎になって立て続けに4回入院をしたのだ。

私は仕事を続けたい気持ちがあったが、これ以上頑張ると私自身も倒れてしまいかねない。やむを得ず、長男の看病に専念するため退職を決意した。

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(長男が入院していた病室からの夜明け)

明けない夜は無い。長男はいつかきっと元気になってくれることを信じて、快復するまで寄り添った。

息子の肺炎と退職について - Mana Blog Next

自分のエンジニア人生を繋げていくために、これまでの経験を活かした

長男の看護をする中でも、仕事を続けることを諦めたくなかった。フリーランスとしてテクニカルライターの仕事をしながら仕事を続けていき、次男を出産後にエンジニアとして復帰することができた。振り返れば、育児休業中にチャレンジしたことが自分の強みとなって、活かされた形になったのだと気付いた。

働き方を変えていけば仕事は続けられることが分かり、働き方の視野が広がった。

子育てがあったからこそ得られたIoTの世界

子育てがきっかけで得たものも多い。

当時3歳だった長男がある日、「ママはなんで壊れたプラレールを直すことができないの? パパじゃ無いとできないの?」と放った一言がきっかけで「ママだって直せるよ!」と条件反射で答えてしまいそれがきっかけで電子工作に目覚め、IoT(Internet of Things)を知ることにも繋がった。

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子育てがあったからこそ、小さなコンピューター「Raspberry Pi」と出会えた。やがてRaspberry Piでプラレールを操作できるようになり、長男と一緒に「IoTプラレール」を楽しむようになった。

母ちゃんがプログラミングでプラレールを操作できるようになったとき - Mana Blog Next

子育てによって、これまでの経験では得られなかった電子工作の世界を知ることができた。子育てしながら、また新しい可能性を見付けることができた。

子育てはいつか終わるもの

現在、長男は5歳、次男は1歳8ヶ月になった。病弱だった長男は、今ではすっかり丈夫な身体になり、元気に走り回っている。次男も保育園に入った頃は病気を沢山もらってきたが、次第に体力が付いてきている。そう、育児で大変な時期は長い人生でみると一時的なものである。

過去の私のように、時には我慢が必要なときもあるだろう。けれど、キャリアを絶やさないように行動し続けることで、チャンスは必ず巡ってくる。だから、諦めないでほしい。

働き方をより良くして、次の世代に繋げていきたい。私はこれからも、ブログを通じて発信を続けていく。


文と写真:平 愛美 (id:mana-cat)

平 愛美

1983年生まれ、熊本県出身のITエンジニア。二児の母で、趣味は写真とグルメ。最近はRaspberry Pi、Arduinoを使った家庭内IoTについて日々研究するIT系母ちゃんとして活躍中。著書に『OpenStack 構築手順書 Mitaka 版』(共著、インプレス)など。『改訂3版 Linuxエンジニア養成読本』(技術評論社)に寄稿。

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