「自分だけができることはない」と悩んでいた私を変えた“ある言葉”と“文章”の話

 あかしゆか

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会社員として働きながらフリーの編集・ライターとしても活動するあかしゆかさん。社会人2年目の頃に感じた「悩み」から解放されたきっかけの言葉と、大切にするようになった「文章を書く行為」についての思いを寄稿いただきました。


社会人2年目も半ばを過ぎた頃のこと。私は、「自分にしかできない仕事なんてないのでは」と悩んでいた。

周りのデキる先輩の存在や、いつまでたってもなくならない自分のミス……。特に目立ったスキルもなく、成長している実感も全然わかなかった私は、「ちゃんとチームに貢献できているのだろうか?」と、ネガティブな気持ちになっていた。チームメンバーは皆優しく、とてもいい環境だったが、当初の「やったるぞ」という自信ややる気は、時間が経過した風船のように、しぼみかけていた。

そんなふうに思っていた私だが、“ある言葉”に出会ったことで、少しずつ変わっていったように思う。本当に少しずつだけれど自信がつき、今では「自分は代えが効く存在だ」などとは思わなくなった。

今日は、その言葉との出会いについて、書いてみたいと思う。

誰もが持っている唯一の「自分にしかできないこと」

今思えば、本当にタイムリーだった。

「誰もが持っている唯一の、『自分にしかできないこと』ってなんだと思いますか?」

偶然参加した何かのイベントで、登壇者の方が参加者の私たちに向けてこんな質問をした。

前述のような悩みを持っていた私だったので、「そんなん、分かってたら悩まへん……!」と心の中でボソリとつぶやく。

すると、登壇者の方は次のように言葉を続けた。

「自分の体を使って世の中を知り、見て、感じ、考えること。それが、誰もが平等に持っている、『自分にしかできないこと』です」

この言葉を聞いたとき、私はとても衝撃を受けた。

なぜなら、私はそれまで、「自分にしかできないこと」を「スキル」の面でしか考えたことがなかったから。他の誰よりも業務効率化に長けているとか、データをまとめるのが速いとか、文章を書くのがうまい、とか。仕事をする上では「他の誰かには真似できないスキル」を身に付けることが大切なんだろうなと、そう思っていた。

でも同時に、それらの「スキル」は結局のところ、上には上がいることを思い知らされ、自分のちっぽけさを感じる原因の一つになるということも分かっていた。また、それらは代替されてしまう可能性があるものばかりだ、ということも。業務効率化も、データをまとめることも、文章を書くことも、当たり前だけれど、世の中には上には上がいる。それに今の時代、外部のプロの方やシステムに任せることが決まった途端、そのスキルはお役御免になってしまう。

だから、「スキル」面での「自分しかできない仕事」を作ることに、その頃の私は少し違和感を覚えてはじめていた(もちろんあるに越したことはないし、必要だと思うけれど)。

そういった背景もあって、「自分の感覚を使え」という言葉には、なるほど納得感があったのだ。

考えてみれば、確かに「自分」という人間は、他の誰にも取って代えられるものではない。自分の頭や、目や、鼻や、口や、耳は、自分にしかなく、それらを使って感じたことを原動力にして行う全てのことは、自分にしかできないことだと言えるだろう。

一見当たり前に聞こえるけれど、誰もが「自分にしかできないものを持っている」という事実は、なんという「希望」なんだろう、と思った。

はじめて編集者になったときに感じたこと

転機が訪れたのは、新卒3年目になるタイミング。かねてより希望していた企業ブランディングの部署に異動となり、企業の「価値観」を届ける、自社メディアの編集担当になったことだ。

「編集者」という肩書きを手にして、私ははじめて、「自分の体を使って世の中を知り、見て、感じ、考えること」……つまり、スキル面以外での「自分にしかできないこと」の大切さを身を以て知ることになった。

世の中の人は、どんなことに興味を持っているのだろうか。その興味に対して、私自身はどう考えるのだろうか。なぜそのように考えたのだろうか。考えた上で、どういうメッセージを伝えていくべきだろうか?

世の中と企業の接点を作ることが大事になるブランディングの仕事では、まさに世の中を知り、見て、感じ、考える必要性があった。自らの視点で「自社」を切り取り、伝えていく。編集部員は、誰ひとりとして同じ企画を立てていなかった。そのことこそが、前述の言葉の有用性を物語っているように思った。企画には、その人の生き様や考え、感覚が色濃く反映されていたのだ。

編集者になってみて、私は「自分の生き様」が仕事になる感覚を覚えた。自分にしかできない仕事をするという実感を、はじめて得ることができたように思う。

「文章」は、自分の感性を知り、磨く行為だった

そうしているうちに、私はもっとていねいに、世の中を知り、見て、感じ、考えてみたいな、と思うようになった。

自分はどんな世界を見ているんだろう。どんなときに心が動くんだろう。それは、どうして動くんだろう。どんなものを素敵だと感じるんだろう。そういったことを「言語化」したい、とふと思うようになったのだ。

それではじめることにしたのが、今の自分のブログだった。等身大の今の自分が考えていること、感じていることを、言葉にしようと思ったのだ。

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「感性を磨く」という言葉がある。

私は今まで、この言葉の意味は「いろんな経験をして、感情の幅を広げていくこと」だと思っていた。けれど、ある人に「感性を磨くとは、今ある感性をていねいに見つめるという意味なんだよ」と教えてもらった。私は「文章を書くこと」を、「今ある自分の感性をていねいに見つめる」ための手段にしたのである。

私にとっては「文章」がその手段だったけれど、手段は別になんだっていいと思う。写真でも、映像でも、音楽でも、ビジネスでも。世の中には、手段は無数に存在する。なんでもいいから「世の中をていねいに見つめる手段」があるだけで、「自分にしかできないこと」の精度はグッとあがるのではないだろうか。

とはいえ、私はもともと、文章を書くのがあまり得意ではなかった。本が好きで、文章に対して強いこだわりや理想を持っていたが故に、「自分は書くタイプではない……」と思っていた。だから、最初はものすごく、書くことに抵抗があったように思う。

でも、私は何も文学的作品を書こうとしているわけではない。自分が何を感じて生きているのか、自分のフィルターで世界を見つめるための手段として「文章」を使うのだ。そう考え直した瞬間に、「書く」ことが楽しくなった。美しい文章じゃなくたっていいのだ。

そんな私が文章を書くときには、ステップがある。

まずひとつめのステップは、おもしろいなと思った、自分の琴線に触れたエピソードをメモしておくこと。

例えば先日、私と、私の家族と、私の恋人とで、ごはんを食べにいったことがあった。そのときに、彼が私の親と話している内容を聞いていて、「はじめて聞いた!」と驚くことがあった。彼と長い時間を共にしているのに、私ではなく親の質問によって彼の新しい一面が見えたのだ。そのことが、私にとってはすごく興味深かった。なので、

「彼が私の親と話していて、そのときに彼についてはじめて知ったことがあっておもしろかった」

などとメモをした。

そして、ふたつめのステップは、そのエピソードを抽象化すること。

前述の例だと、抽象化すると「どんなに仲よくても、ふたりじゃ気づけないこともある」といったところだろうか。そのように話を抽象化することで、現象が頭の中にインプットされ、日常の中で意識しやすくなるように思う。

最後、みっつめのステップは、抽象化したものに対して、似たようなエピソードを集めていくこと。

「ふたりじゃ気づけないこともある」って、他にはどんなことがあるだろうか? あ、親子関係でもそうだな、とか、友達でもそうだな、とか。

そうやって、「具体的なエピソード→概念を抽象化する→他のエピソードを集める」ことで、書きたい内容が固まっていく。私にとって具体と抽象を繰り返すことは、文章を書く上で欠かせない行為なのだ。

「文章」が与えてくれたもの

前述したとおり、私にとってブログは、「世の中をどう見ているか」のポートフォリオだ。その文章たちは、私にたくさんのものを与えてくれた。

まずは友達関係。くだけた飲み会で知り合った人とはなかなか真面目な会話をするタイミングがないけれど、後日私の文章を読んでくれて「もっと話してみたい」と言ってもらえることがしばしばあった。文章がきっかけで再会した旧友もいたし、議論し深まった仲もあった。文章という媒介を通して、私は友達とさまざまな交流をするようになった。

そして、仕事の面でも変わった。私は現在、会社員をしながらフリーランスの編集者・ライターとしても活動しているのだけれど、そのフリーの活動を始めるきっかけになったのが、自分が書いた文章だった。「ライターしませんか?」とお声がけくださった編集者の方が、ブログを見てくださったのだ。今でも、ブログ経由で執筆をお声がけくださる方はいて、自分の仕事の幅が文章のおかげでどんどん広がっているように感じる。

文章がきっかけでいろいろなことが大きく変わった。本当に、書いていてよかったな、と思うことしかないなあ。

自分にしかできないことを大事にしたい

「自分の体を使って世の中を知り、見て、感じ、考えること。それが、誰もが平等に持っている、『自分にしかできないこと』だよ」

簡潔にまとめると、この言葉に出会って、私は自分の人生をより「ていねいに」生きるようになったのだと思う。後天的に身に付けるスキルはもちろん大事だけれど、「内側」の部分だって同じくらい、いやそれ以上に大事なもの。自分自身を掘り下げることで、世界はグッと広がっていくと思う。

「自分の体を使って生きよう」とすると、否が応でもセンサーが敏感になる。いつもより多くのことに気がつくし、いつもより多くのことを考えるようになるし、いつもより多くのことが知りたくなる。そして何よりもそれらを発信することで、自分が好きな仕事や人たちをひきつけることにもつながると思う。

これからも、自分の体を使って世の中を知り、見て、感じ、考えることを心がけていきたい。そして、私を変えてくれたこの言葉を、いろんな人に伝えたいな、と心からそう思う。

著者:あかしゆか

著者イメージ

1992年生まれ、 京都出身。 2015年に新卒でサイボウズに入社し、 1年半製品プロモーションの経験を経たのちコーポレートブランディング部へ異動。 現在は「サイボウズ式」の企画編集や、 企業ブランディングのためのコンテンツ制作を担当している。 2018年1月から複業でフリーランスの編集者/ライターとしても活動を行っている。
Twitter:@akyska

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次回の更新は、2019年2月20日(水)の予定です。

編集/はてな編集部