世界ゆるスポーツ協会の理事を務める澤田智洋さんも、かつては広告業界のなかでガチガチだったと語ります。スケジュールをびっしり埋め、目の前の仕事をこなす毎日。ただ、働き始めて10年がたつ頃、ふと「なんのために仕事をしているのか」と疑問に思うように。そこへ障害を持ったお子さんの誕生も重なり、道草を大切にする働き方へとシフトされました。
現在は、スポーツや福祉の領域を中心に”社会全体をゆるめる”ために活動中。凝り固まった仕事観や働き方から抜け出すためにはどうすればいいのか。これまでの歩みとともに語っていただきました。
※取材はリモートで実施しました
息子の誕生で気付いた自分のガチガチ思考
澤田智洋さん(以下、澤田) 「世界からスポーツ弱者をなくす」をミッションに掲げ、障害の有無や運動経験を問わず、誰もが楽しめる”ゆるスポーツ”を創ることを目的に2015年4月に設立しました。“スポーツ弱者”とは、日常的にスポーツをやっていない人、あるいは学校の体育の授業で傷ついた経験がある人のことで、“スポーツマイノリティ”とも呼んでいます。「ベビーバスケ」や「イモムシラグビー」など、これまで90種類以上のゆるスポーツを開発してきました。
澤田 はい。僕はもともと運動が不得意で、体育の授業も大嫌い。学生時代から、スポーツを敬遠して生きてきました。ただ、顕在化されてないだけで、実はスポーツ弱者はたくさんいるんです。スポーツ庁の調査によれば、日本人の約半分は日常的にスポーツをしていません*1。
澤田 例えば、「ベビーバスケ」は特殊なボールを使った球技です。ボールにセンサーがついていて、激しく扱うと赤ちゃんの泣き声のような音が出ます。泣かせたら相手ボールになるので、そおっとパスを回さないといけない。球技が苦手な人ってボールのスピードについていけないことが多いんですけど、これならスローにならざるを得ないから、みんな対等ですよね。

澤田 以前、Bリーグのチームのファン交流イベントでベビーバスケをやったことがあるんですけど、ファンとプロ選手が互角に渡り合っていましたね。プロ選手がいつものクセでフェイントをかけてしまうと、その瞬間に「オギャー」ですから(笑)。バスケ経験の浅い人でも、運動神経に自信がない人も、ベビーバスケならプロにだって勝ててしまう。
こう説明すると、「そんなのはスポーツじゃない」と思われる方もいると思うんですが、そもそも歴史に立ち戻ると、本来スポーツって労働者や農民の息抜きだったんですよね。日々の労働は辛く苦しいものだけれども、スポーツをやっているときだけはそのことを忘れられると。それが、いつの間にか限られた人たちだけが楽しめるものになってしまっていた。だからゆるスポーツでは本質に立ち戻り、楽しい下克上をつくることを目指しています。
澤田 例えば、義足の女性が主役のファッションショー「切断ヴィーナスショー」を年に何度か開催しています。義足であることを隠したいと思う当事者がいる一方で、むしろ積極的に見せたい人もいる。義足は自分にとって体の一部だから、もっとナチュラルに見てもらいたいと。また、最近は義足のデザイン性が上がっていて、ファッションアイテムとして魅力を感じている人もいます。彼女たちは義足を特別なものではなく、健常者にとっての洋服と同じように捉えているんです。
澤田 そうです。「切断ヴィーナスショー」にも「ゆるスポーツ」にも共通しているのは、必ず根源的な問いを入れるようにしていることです。そもそもスポーツとは何か、義足とは何か、あるいは何をもってマイノリティとするのか。実際、体験した人からは「スポーツの概念が変わりそうです」「障害者への見方が変わりました」という声が多いですね。
澤田 その通りです。これは僕が今の活動を始めたきっかけでもあるのですが、8年前に生まれた息子には先天的な視覚障害、知的障害がありました。それが分かった時、真っ先に「なぜ自分の息子が……」と思い、ひどくショックを受けたんです。
でも、今にして思えばそれって息子や障害を持つ人に対して、めちゃくちゃ失礼な考え方じゃないですか。“障害がある=不幸なこと”であると、浅く狭い解釈をしていたんです。アンコンシャス・バイアス*2と言ったりもしますが、すごく大きい主語で考えてしまっていた。
澤田 はい。自分でも気づかないうちに、「障害者はかわいそうな人」というファンタジーに捉われていた。
僕がそのことに気づいたのは、息子が生まれたあと、さまざまな障害を持つ200人の方々に会いに行った時のことです。当然ながらそこには200人200通りの生き方があって、それぞれが楽しみや生きがいを持ち、健常者と同じように仕事や恋愛の悩みを抱えていました。障害があるのは不便だけど、不幸ではないという当たり前のことに気づいた時に、僕のなかのガチガチの福祉像がゆるめられました。そして、気持ちがスッと軽くなったんです。
社会に“べき論”を生むショートカット思考
澤田 コロナに対する政府の迷走ぶりや、出社の必然性がないのに未だにテレワークにシフトできない企業が多いところにも、この国のガチガチぶりが現れているように思います。こうあるべき、という“常識”、あるいはこれまでこうしてきたという慣習に縛られ過ぎていて、本質的な行動をとれていませんよね。
澤田 今まさに企業の「ガチガチ格差」が可視化されていると思います。コロナに対して、しなやかに対応できている企業はサバイブしていくし、成長が期待できると思います。逆に柔軟さがない企業は「会社とはこうあるべき」という“べき論”に囚われてしまっているのではないでしょうか。
国の政策もそうですが、脳内を支配しているさまざまな“べき”を、本質に立ち戻り“問い”に置き換えるだけで解決する問題はたくさんあると思います。少なくとも手段を誤ることはない。ほとんど使われないマスクを配布したり、うちわ会食をしましょう、みたいな発想にはならないはずです。
澤田 やはり社会を運営していく際には、物事をある程度は決めつけてしまった方がラクなんですよね。脳に負荷をかけずに済みますから。でも、本当はそれってすごく危険なことです。僕は“ショートカット思考”と呼んでいますが、人や物事への態度を最短距離で結論づけてしまうと、多くのことを見誤ってしまう。
そもそも人生100年と言われる時代に、ショートカット思考で結論を急いでどうするんだろうとも最近は思うんです。だから僕は、一旦いろんなことを保留することにしました。スポーツにしても福祉にしても、あくまでリサーチ中なんです。
澤田 そう、安易に「定義しない」ことが大事なんだと思います。僕らは何でも定義したがるし、人が営みを続ける以上、定義が厳密になっていくのはある意味で仕方のないことです。でも、ガチガチにするあまり、排除の力が強く働いてしまうこともある。
広辞苑には毎年のように新しい言葉が書き加えられますが、僕は定義された瞬間にある意味でその言葉は死ぬと思っているんです。便利なんだけど、言葉がショートカットされて「死語」になる。一方で、定義されていない言葉の解釈は人それぞれだし、違う考え方の人を排除しなくて済むわけです。それって、すごく可能性がある。
例えば、部活動だって「スポーツは歯を食いしばってやるものだ。練習中に笑うべきじゃない」なんて言われてしまうと、ニコニコしながら楽しくやりたい人が排除されてしまいますよね。

澤田 つまり、ゆるめるというのは解釈を広げ、現在の定義から外れた文脈を増やしていくことなんですよね。それもアリ、これもアリだよねと、いろんな人の考え方やアイデアを取り入れていく。そうやって凝り固まった定義をストレッチして、流動性を生むための考え方なんです。
澤田 そう思います。「子育てはこうあるべき」「男性の育休はこうあるべき」など、社会のあらゆるところに“べき”は潜んでいますから。普通を定義すると深く考えずに済むから一見ラクなんだけど、やがてその普通の呪縛に苦しめられてしまうこともある。今、いろんなところでそれが起きていますよね。
”道草”することで世界が立体的になる
澤田 ありましたね。僕の場合は新卒で広告代理店に入り、最初の3〜4年はとにかくがむしゃらに働きました。5〜6年目くらいから徐々に自分の裁量で回せる仕事も増えてきて、充実感を得られるようにもなってきた。
でも、30歳を過ぎてから、自分の仕事の仕方に疑問を感じるようになっていったんです。当時は先輩たちがやってきたガチガチの広告マンの働き方をコピペしていたんですけど、大量に降ってくる仕事をただ順番にこなしていくことに、果たしてどんな意味があるんだろうと考えるようになりました。
澤田 はい。とにかく目の前のゴールに向けてシュートを決めることしか考えていなくて、自分がなんのゲームをプレイしているのか、そのゲームの目的は何なのか、という長期的な視点を持てていなかった。ただ、それでも仕事はなんとなく楽しいし、なんとなく充実している気もする。打ち上げで飲むお酒も美味しい。でも、モヤモヤは消えない。そのモヤモヤがピークに達したのが32歳の時です。
ちょうど息子が生まれたこともあって、ここらで少し働き方をゆるめてみようと思いました。それまではスケジュールをとにかく埋めがちで、結果的に視野が狭くなっていたので、意識的に余白を作るようにしたんです。ちょうど10年働いた節目でもあったので、いったん「。」を打つみたいな感じですね。いったんここで区切りを作って、次のキャリアについてゆっくり考えてみようと思ったんです。
澤田 しんどいし、このままだとモヤモヤを抱えたままダラダラ働き続けることになっちゃうなと思いました。それはイヤだなと。立ち止まる、とまではいかないけど、ちょっとくらい道草してもいいのかなって。それが僕の場合は、たくさんの障害者に会いにいくことだった。広告人のキャリアからすれば、相当な遠回りでしょうね。そんな時間があったら、営業をガンガンかけて仕事をとってくるか、コピーの勉強でもしろというのが常識の世界ですから。
澤田 よかったです。道草をすると、そこにしか落ちていないものに気づきます。広告業界の中心にいたら、絶対に見えなかった景色が見えてくるんです。僕の場合はそれが、ゆるめることの大切さだったり、障害者福祉のおもしろさでした。
例えば、広告はクライアントが自動車メーカーなら自動車の話、飲料メーカーならビールやジュースの話をしますが、福祉の世界はずっと“人間”の話をしているんです。物ではなく、常に人間が中心にある。それが僕にとっては新鮮だったし、すごく居心地がいいなと思いました。

澤田 僕がおすすめしているのは、片目で迷子になってみること。例えば、僕の場合であれば、片目は広告、片目はスポーツや福祉を見ています。そうすると、両目の視差があるからモノが立体視されるように、双方が相対化されるので、物事を多面的に捉えられるようになると思うんです。
とはいえ、今はこういう状況で、なかなか人に会いに行くことは難しい部分もあるかと思います。ただ、それでも迷子になる方法はいくらでもあります。例えば、ツイッターで無作為に、全然知らない人を100人フォローしてみるとか。それだけで、いろんな人の思いもよらない考え方が入ってきて、自分がもともといた世界のガチガチぶりも見えてくると思います。
社会をゆるめることは”弱さ”から始まる
澤田 そうです。自分が排除されていたり、息苦しさを感じていたりすることを探すのが、ゆるめるために最初のステップになると思います。
だから、普段は気づかないフリをしているから見つけづらいんですけど、まずはどんな些細なことでもいいから嫌なことや苦手なことを10個挙げてみてください。例えば、そこで仮に「プレゼン」というものが抽出されたら、次にプレゼンの本質について探ってみる。正解はないので、自分なりの解釈で大丈夫です。
澤田 それが本質だとすれば、相手にきちんと伝わりさえすればアプローチは問題ではないということになりますよね。プレゼンってテクニック論に陥りがちで、正解とされる方法で話せない、ということに悩んでいる人も少なくないと思うんです。例えば、どもっちゃダメとか、「あ〜」や「えっと〜」と言っちゃダメとか、最近だと「させていただきます」はNGとか(笑)。でも、それってガチガチですよね。

澤田 それもやはり、“べき論”に陥ってしまっているということだと思います。例えば、僕には吃音の友人がいるのですが、そこで「どもっちゃダメ」というルールを押し付けることには何も意味がありません。むしろ、最初にどもってしまうことを明かして、「僕は歌う時だけ吃音が出ないので、今日のプレゼン資料を4分半の歌にしてきました。聞いてください」とかだって全然アリだと思うんです。
澤田 今のはちょっと極端かもしれませんが、吃音というマイノリティの視点があるからこそ、他の人には見えない課題が見つかり、斬新な方法でゆるめることが可能になる。僕はよく「強さは一律、弱さは多様」という表現を使うのですが、僕の考える強さって、今の社会のスタンダードとして明確に定められているものなんです。「英語ができる」「スポーツが得意」「こんな資格を持っている」。これらはいずれも強みといえますが、オリジナリティがなく人とかぶってしまうことも多い。
澤田 そう思います。弱さはものすごくバラエティ豊かで、そこに着眼することで社会をゆるめるための新たなアイディアが見えてくる。だから、「私はこれができます!」ばかりじゃなくて、「私はこれができません!」と、堂々と言える世の中になればいいなと思いますね。実際、僕もスポーツが得意だったら、ゆるスポーツなんて思いつきもしなかったですからね。自分のコンプレックスと向き合うことで、既存の価値観にはない新しい道が開けました。
取材・文:榎並紀行(やじろべえ)
編集:はてな編集部
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お話を伺った方:澤田智洋さん
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