新型コロナで変わる同僚や家族との距離 人類学者・磯野真穂さんと「他者との向き合い方」を考える

磯野真穂

新型コロナウイルス感染症の流行による働き方の変化や外出自粛の動きを受けて、社会全体で“他者との付き合い方”が変わってきています。職場の人や友人たちとの距離は以前より遠く、反対に、同居する家族との距離は近くなったことで、私たちが人間関係で悩むポイントもこれまでとは違ったものになってきました。

ビデオ会議やチャットツールなどを使ったオンラインでのコミュニケーションに慣れない。家族と顔を合わせることにストレスを感じるようになってきた――。そんな方もいるのではないでしょうか。

大きく変化した環境のなかで、同時に変化しつつある“他者との関わり方”にどう向き合っていけばよいか。「予測できない未来を人が他者とともにどう生きるか」を研究している文化人類学者の磯野真穂さんと一緒に考えてみました。

※取材はリモートで10月下旬に実施しました

画面上で切り取られる部分が“身体”になる

新型コロナの影響で勤務形態が変わり、対面で仕事をする機会が減ったという方も多いです。磯野さん自身は、新型コロナの影響で働き方に変化はありましたか?

磯野真穂さん(以下、磯野) 実はたまたまこの春に長く勤めていた大学を退職した影響で、学生や教員と会う機会は減って、外部の方と会う機会はむしろ以前より増えましたね。

ただこの取材のようにオンラインで、というケースももちろん多いです。現在は別の大学で非常勤講師をしていて、オンラインで演習を実施することもありますし。夏からは、Zoomを使ったオンライン講座も始めました。

「他者と関わる」と題した人類学の講座ですよね。磯野さんのご専門である文化人類学は、まさに今回お聞きしたい、“他者”について掘り下げていく学問というふうに理解しています。

磯野 そうですね。人間はひとりでは生きていけないということを前提に、他者……人間に限らず動物や植物でもいいんですが、「自分ではない人やものごと」とどうやってともに生きているのかを明らかにしていく学問と私は捉えています。

人類学は「◯◯すると人間関係が劇的に改善します」というライフハックは提供できません。その代わりに「他者と関わる」とはどういうことであるかを、対象の観察や聞き取りといったフィールドワークを通じて明らかにしていきます。

今日は新型コロナの影響で変化する「他者との関わり」について磯野さんにヒントをいただきつつ、私たちもどう「他者と関わっていくか」を一緒に考えていきたいなと思っています。改めて、磯野さんは仕事上のコミュニケーションがオンライン中心に移行しつつある現状を、どう捉えていますか?

磯野 Zoomなどのビデオ会議ツールがコミュニケーション手段として多く利用されるようになってから、“隠す”場所と“見せる”場所が変わったなと感じています。

これまで、人と対面して会話するときは全身を整えなければいけなかったけれど、それが画面に映る上半身だけでよくなった。私もいま、上半身は“ちゃんと”しているけど、下はパジャマかもしれないわけで。

その代わりに、これまではプライベートな空間として隠すことができていた、自分の部屋を人に見せる機会が増えてきた

この人こういう部屋に住んでいるんだ〜とか、本棚に本がいっぱい!とか、これまでは仕事だけの付き合いだったら見えなかった部分ですよね。

磯野 ある意味、人の身体の境界が変わってきたのかもしれない。画面上で切り取られている画角こそが“身体”になってきたというか。

カメラに映る背景に花を飾ってみたり、上半身がよりよく映るようにライトを当ててみたりするのは、服やメイクでおしゃれをするのと同じだと思うんです。その部分は大きく変わったな、と思っています。

新型コロナで変化する同僚や家族との距離 人類学者・磯野真穂さんと考える「他者」との関わり方

先ほどお話しされていたオンライン講座では、対面でないことで受講者とコミュニケーションのとりづらさを感じることはありませんでしたか?

磯野 私もやってみるまでその点を心配していたんですが、意外とZoomでも臨場感がある、と言ってくださる方が多くてホッとしています。

ただ、それは私が講師という立場で、受講者はなにか聞かれたら発言するという、お互いに役割が限定された空間の中だからできたことかもしれません。これが例えば、役割が与えられていない10人がバラバラに発言する場だったら、もう少し印象が変わってくると思います。

生身の身体が目の前にない状況では、ちょっとした視線の動きや仕草によるコミュニケーションがとりづらくなるので、ゼロからともに場をつくっていく、ということは以前より難しくなっているかもしれないと感じます。

自分自身が人からどう見られているかが前よりも分かりにくくなったという変化もあるような気がします。オンラインでのコミュニケーションは、相手が退屈そうにしているとか眠そうにしているといったネガティブな反応が伝わってきにくいな……と。

磯野 なるほど。この前、大学生たちにオンライン授業の感想を聞いてみたら「画面をオフにすれば先生からは一切見られないので、評価を気にしなくていいから気楽です」と言う人がそこそこいたんです。ネガティブな反応が伝わりづらい、というのはそういうことですよね。

もちろん反対に、オンラインだと緊張感や張り合いがないから対面の方がいいという人もいましたが。

「ネガティブな反応」が伝わりづらいことを良しと感じるか、悪いと感じるかは人それぞれということですね。人から見られない状況が気楽だという気持ちもとても分かります。

磯野 人から見られることってある種のストレスなのは間違いないんです。でも、同時にとても社会的なことでもある

だから「見られないから楽」というのは当然ではあるものの、社会的な交流の一部を自分から捨ててしまっているとも言い換えられます。……もちろん、どちらが良い・悪いということではなく、新型コロナによって生じた環境が人間の身体のあり方を大きく変えていっているんだろうな、とは思いますね。

人間関係には「適切に離れる」ことも大切

家にいる時間が増えたことで家族やパートナー、同居人といった「同じ空間に住んでいる人」との距離はぐっと近くなりました。DVの被害件数が増えているという話も聞きますし、新たな問題が生まれているのを感じます。

磯野 感染予防の観点から外出を控えることで、同じ空間に住んでいる人との距離が過剰に近くなってしまったという問題はたしかにあると思います。

特に東日本大震災以降、日本では「絆」や「つながり」という言葉がさかんに使われるようになりましたが、適切な「人間関係」を築く上では、離れていること、距離を置くことも大切なんです。

例えば伝統的な生活をしている人々は近くに住み協力し合っていて、「個人」という概念はあまり存在しないと考えられてきました。しかしインドネシアの西パプアに居住するKorowaiと呼ばれる民族は、個人と個人の境界がゆるいどころか、他者性を強く意識し、距離をとって暮らしていて、各家族の家を離れた場所に建てているそうです。その一つの理由は大変シンプルで、距離があることが程よい関係性を作ることができるからです。

確かに「家族」でも「民族」でも、結局、自分以外は「他者」なので近過ぎると関係性が悪化しそうです。私の周りでも、新型コロナをきっかけに同居する家族との関係が悪くなってしまったという話をよく聞きます。

磯野 私は昨今の状況下で、人が生きていることの質的な意味が軽視されることがあると感じています。新型コロナの感染者を増やさないことはもちろん大切なのですが、感染予防の名のもとに他者との適切な距離が時に遠くなったり、時に近過ぎる形で一瞬にして変容したので、その弊害は出て当然だと思うんです。

人間が他者とともに生きるときって、必ずその居住空間とも一緒に生きているわけです。居住空間も他者と他者とをつなぐ「媒介」のひとつだと思うのですが、その「媒介」の形が変わってしまったんでしょうね。

家族などに限らず、新型コロナさえなければわりとうまくいっていた人間関係、というのもけっこうあるんじゃないかと思います。

新型コロナ対策への考え方や意識の差がきっかけとなるトラブルも少なくないと感じています。

磯野 人は環境を背負って生きているので、新型コロナへの意識に環境の差や地域差というものが大きく出てしまったのだと思います。二者の間での関係が変わったというよりも、その人たちが背負っている環境の差異が関係性を変えてしまったのかなと。

なるほど、確かにそう感じます。

磯野 私たちは意識せずとも、ある程度「人間関係のマニュアル」というものを持っていたはずなんですが、それが新型コロナの影響で有効でなくなってしまった。じゃあもう一度話し合いから始めて違うマニュアルをつくり直そうと思えるか、今まで使っていたものが使えないならもうだめだ、と思うかに分かれそうですね。

お互いの差異を意識して調整し合うことができれば新しい関係をつくることができると思うんですが、今までのマニュアルどおりで大丈夫だと思っていると、それが機能しなくなる時に関係は崩れてしまうかもしれません。

他者との交流は不要不急ではない

個人的な悩みになるのですが「知らない人とのちょっとした雑談」が大きく減ったことが、自分にとって思っていたよりもストレスだったんだなと最近気付いて。例えば居酒屋やバーで近くの席の人と会話をするような些細なコミュニケーションを意外と楽しんでいたんだな、と……。

磯野 飲食店で近くのお客さんとしゃべる、というのは「日常性を揺らす」行為のひとつなんですよ。お酒を飲むという行為は、普段の自分とはちょっと違う気分になるということだし、そこに誰がやってくるか分からないというのも、日常から少し離れる体験で。

なるほど。

磯野 人間って伝統的に、どの民族も「日常」と「非日常」を行ったりきたりすることでバランスをとっているんです。周期的にお祭りのような非日常を体験しては再び日常に戻ってくるというリズムの中で生きてきている。

けれどいま、イベントや外食、旅行といった「非日常」が危ない行為とみなされるようになり、固定された「日常」を歩むことが正しい生活様式になってしまった。日常と非日常のバランスが崩れてしまうことで、なんらかのストレスを感じるのは当然のことだと思います。

そう言われると、「予想外のことが起こらない」ことに自分はストレスを感じていたんだなと気付きました。

磯野 予想外のことを起こしてはいけない、という状況ですからね。飲食店でのちょっとした会話、というのは感染予防という観点から見ると不要不急と言われてしまうことですが、他者とのそういったコミュニケーションというのは決して不要不急ではないと思うんですよ。

家での時間をいかに楽しく有効に使うかということばかりが語られていて、この状況にストレスを感じる意識自体を変えていこうという動きが大きいように思えていたので、ストレスを感じるのは当然という言葉に少しホッとしました。

磯野 人間はもともと他者との関わりの中で生きていたのに、他者と関わる機会や関わる方法が変わって、生きることの余白を危険なものと捉える世界が突然やってきてしまったんですよね。オンラインでの交流は、コミュニケーション自体がタスクの一部みたいになりがちですし。

確かに、一時期オンライン飲み会もタスクのようになっていました。

磯野 ただ、究極的には他者と向き合うことに「対面」か「オンライン」なのかといった媒体は関係ないんだろうな、とも私は思っているんです。もちろん、新型コロナで他者との関わり方や、関わるときになにを「媒介」とするのかが強制的に変えられてしまったから、戸惑うシーンはこれからも増えてくるとは思いますが。

だからこそ、自分以外の人がこの流れの中で何に戸惑って悩んでいるのか、ということを開示できる場がもっと作られていくといいんでしょうね。それはリアルでもオンラインでもどちらでもいいと思うし、私たちにはそうやって模索していく可能性がまだまだある、という考え方もできるのかなと。

今は答えのない不測事態の中にいるからこそ、その「可能性」を模索していきたいと思いました。今日はありがとうございました。

取材・文:生湯葉シホ
編集:はてな編集部

お話を伺った方:磯野真穂さん

磯野真穂さん

人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。著書に『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)がある。身体についてもっと自由に考えよう「からだのシューレ(@krds2016)」メンバー

公式サイト / ブログ / Twitter

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