人生にもSeason2があるのかもしれない。経験を信じてジャンプして見えてきたこと


40代突入、初めて感じた閉塞感

こんにちは、はせおやさいです。

今年、ついに40歳になりました。「不惑」の言葉通り、悩んだり迷ったりすることは減ったのですが、その代わりに抱えるようになったのが「閉塞感」でした。

友人関係は例外として、仕事や私生活において、だいたいのことが「できる」「わかる」ようになってきて、若い頃に感じていた「突破した」という興奮を感じることが減った、とも言い換えられるかもしれません。

同時に「できない」ことに対する恥の感覚も薄れ、「こんなこともできないなんて、恥ずかしい」という焦りからも距離をとって、「できないこともあるけど、それが自分」とマイペースに歩を進めることに慣れてきてみると「あれ、もしかしたらわたしの人生って、このまま大きな転換もなく、終わりへ向かっていくのかな」と感じるようになりました。

人生80年。40歳は、ちょうど折り返し地点です。体力は正直、落ちつつあります。徹夜での仕事もしなくなりました。新しいものへの好奇心は変わらないものの、限りがある時間の中では「今までの範囲を拡張する」という程度。こうやって老いていくのかなと思うと、背筋に冷たい水を浴びせられたような寒気が襲ってきます。

30代は仕事での責任、結婚、離婚、ライターとして書き始めたこと、親族の遺産争い、などなど、たくさんの新しいことを経験し、人生というゲームに“実績解除(ある条件を満たせば、実績が解除されるゲームの機能)”のようなボタンがあるとすれば、子供を持つことを除けば、だいたい押せてしまったんじゃないか、とすら思えていました。

離婚したあとは、「おまけの人生」を生きるはずだった

少し話は変わるのですが、わたしは37歳のとき離婚をしています。一度は「死ぬまでこの人を幸せにする」と決意した相手との結婚が(双方合意の上だとしても)終わってしまい、途方もない虚無を味わいました。

40代を目前にしてバツイチ。もうこれからは「おまけ」の人生だ、と思い、誰も心配しないのだからと自傷するように酒を飲み、朝まで遊び、気づかぬうちに、享楽的に時間を浪費していたように思います。

40代でも、光り輝くように美しく溌剌(はつらつ)とした女性たちは大勢います。でも、わたしは彼女たちのようになれるのだろうか。離婚がもたらしたアイデンティティの崩壊は、わたしからある種の自信を奪っていきました。

虚無と閉塞感。息苦しいことこの上ない状態で、さまざまな媒体に「自分らしく生きよう」と書かせてもらうのは、決して嘘を書いていたわけではないとはいえ、本当にこれが自分らしい生き方なのか? とどこかで思っていた自分へのメッセージのようでもありました。

転機、悩みながらも経験を信じてジャンプすることに


そんなとき出会ったのが今の恋人です。おまけの人生、できる範囲で楽しくやれれば……と思っていたくせに、この秋から東京を離れ、海のそばで彼と一緒に暮らすことになりました。

社会人になって一人暮らしを始めてから「絶対に都内からは出たくない」「渋谷か新宿まですぐ出られるところにしか住みたくない」とかたくなに決めていた自分が、あっさりと東京を出て、1時間を超える通勤時間を受け入れることに。

恋人の存在も大きくありましたが、前述のようにゲームでいうところの「“実績解除”ボタン」を押してしまった手応えがあるからこそ、おおよそのことは乗り越えていけるんじゃないか? という思考に切り替わったからです。

もしこれが20代の自分だったら、「どうにかなるでしょ」とはとても言えませんでした。もっともっと怖がったと思いますし、組織に、街に、誰かに依存しないと挑戦することはできなかったと思います。

でも今は?

もう人生も折り返し地点です。だいたいの困り事や不便を笑って面白がれる図太さも身につけてきました。年下の恋人と対等に支え合い、時には自分が相手を引っ張って歩きながら、ああそうか、これが年齢を重ねることの良さなんだ……と、しみじみ実感できたのです。

働くことと生きることの主従を間違えてはいけない

そして仕事についても、まず働くことの前に大きな土台として「生きること、暮らすこと」があり、その主従を間違えてはいけない、と思うようになりました。以前のわたしはまず「働くこと」があり、働き手としてより多く求められたい、よりさまざまな仕事ができるようになりたい、という「求められたい気持ち」が強くありました。

しかし、実際に社会に出て20年、「わたしの代わりはいくらでもいる」という言葉の意味が自分の中で変わってきているような気がします。代わりはいくらでもいていい。いつでも、誰とでもバトンタッチできるからこそ仕事や社会が回るのでしょうし、代わりがいるとはいえ、わたしにしかできないやり方もきっとあって、それがわたしの価値になる。

だからこそ自分がどう生きたいか、暮らしたいかを考え、土台づくりをしていくことがひいては社会人、プロとしての技術をどう磨いていくかの指針になるのではないかと思ったのです。

人生にもSeason2があるのかもしれない

今わたしはこの文章を新居で書いています。家の窓からは山が見え、海までは歩いて10分程度。夜の住宅街はしんとしていて、思わず小声で話してしまうほど静かです。30代までの自分には想像もつかない生活が始まり、それを楽しめている自分がいます。人生の“実績解除”なんて、まだ全然できていなかったんですね。

もしこの文章を読んでいる人で、わたしと同じように閉塞感を抱えている人がいれば、自分を信じて、ジャンプしてみてほしい。そう思っています。自分の経験は、自分を裏切りません。経験をもとに判断し、「できない」と危険を察知して忌避(きひ)するのも、「できる!」と信じて飛ぶことも、どちらも等しく、新しい経験値を得るチャンスです。

わたし自身、今回のことで右に左にオロオロしながらも結局乗り越えられたのは、「経験がある」という自信のおかげでした。「ああこれ、知ってるな。あのときの失敗や成功をもとに、今回はこうやってみよう」など、経験をもとにした対応策を立てるのは、若いときより容易になりました。極論、人生のさまざまな出来事は何かのバリエーションなのかもしれません。多くの経験を積み重ねることはあなたの武器となり、アイデンティティを形作り、あなただけの歩き方の補助線になるだろうと思います。

さて前述した「おまけの人生」だったわたしの人生ですが、まったく想像していなかった40代のスタートとなりました。海外のテレビドラマシリーズに「Season」という区切りがあるように、もしかしたら人生にもSeasonがあるのかもしれませんね。

わたしの人生のSeason1は、仕事と過労と結婚と離婚でした。怖がりで自信がなく、自分には何もできないとおびえていて、キャパオーバーを自分で把握できないくせに、一方で過剰に自信家で、やってみれば何もかもができるような気がしていました。そんなめちゃくちゃな20~30代を終えた今、新しい場所で、新しい暮らしを始めることで、(まだ少し怖がりながらも)人生のSeason2をスタートできたように思えます。

今日はそんな感じです。
チャオ!


著者:はせおやさい (id:hase0831)

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会社員兼ブロガー。仕事はWeb業界のベンチャーをうろうろしています。

一般女性が仕事/家庭/個人のバランスを取るべく試行錯誤している生き様をブログ「インターネットの備忘録」に綴っています。

次回の更新は、11月8日(水)の予定です。

編集/はてな編集部