「誰も助けてくれない」という絶望感から「誰かの手助けに時間を費やす」まで。“プロ外資系OL”ずんずんさんが考えてきたこと

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シンガポールでグローバルIT企業に勤める“プロ外資系OL”としてブログ「ずんずんのずんずん行こう!改!」を書くほか、外資系企業の実態を描くエッセイや仕事術に関するビジネス書などの書籍、Webメディアの記事を執筆するずんずんさん。普段はシンガポールに在住のずんずんさんに、大変運良く、日本でお話を伺う機会がありました。著書のサブタイトルにある「超ブラック企業の元OLが、世界一の外資系企業で活躍するまで」についてお聞きしました。

「プロ外資系OL」への第一歩は新卒入社時の激務だった

「プロ外資系OL」になるまでの経歴について教えていただけますか。

大学を卒業後、日系企業に経理として就職しました。当時は手に職を付けなきゃいけないという焦りがありました。最初の会社がとにかく激務で苦しくて、心身の調子を崩しまして、「丸の内OLになりたい!」という夢を叶えるべく転職活動をしたところ運良く外資系投資銀行に入りました。そこから何回か転職をして、今はシンガポールのグローバルIT企業で財務・税務を担当してます。

著書で外資系企業を題材にしているように、最初の会社と外資系企業ではだいぶカルチャーなど違うのではないかと思いますが、転職先はどう探したのでしょうか。

転職サイトを使っていました。転職先を探していたらなぜか外資系の面接に呼ばれたという感じです。たぶん、最初の会社で年齢の割にたくさん働かされたので、その分の経歴が強かったんじゃないですかね。新卒1年目でどんどん上司が辞めていっちゃって、入社して半年でマネージャーになって……。

新卒でマネージャー……どうしてそうなっちゃったんでしょう……。

何も知らずにピュアなハートで就職したんです。そうしたら本当にどんどん人が辞めていきまして……。

部下はどのくらいいたのでしょうか。

誰もいません。“一人マネージャー”です。責任だけ大きくなって給料は初任給でして(笑)。管理職手当も付かなかったです。誰も何も教えてくれないので、いっぱい失敗して、怒られまして。今思えば「ひどいことするなぁ」って思いますね……。自分だったら絶対にそんなことさせないのに……。

ずんずんさんの上司に当たる人は入社してこなかったんでしょうか。

人員が充当される前に、私が1年で辞めちゃいました。

1年で転職されたんですね。転職後のギャップはありませんでしたか?

最初の会社での激務とは全く違いましたが、精神的にすごく苦しかったです。お局様だらけで、日本人同士のやりとりなのになぜか英語を使うし、メールもExcelも英語になりました。しかも、また誰も何も教えてくれない。採用時には実務の経験があればいいということだったはずなんですが、それまで全然英語を勉強していなかったのですごくばかにされました。今思えばよく入れたもんだなと思います……。会社の期待している「英語ができない」と私の「英語ができない」のレベルが違っていたんだと思います。私だったら雇いません(笑)。

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今のシンガポールでの生活はいつからですか?

4年くらい前ですね。当時勤めていた外資系の企業でまた体調を崩してしまい、ちょっと遊びたいなぁと思いました。シンガポールには友達も住んでいましたし、英語の勉強をしがてら行ってみたんです。

シンガポールに移ってから就職活動をしたんですね。

はい。本当は日本に帰ってくるつもりだったんですが、そこでアベノミクスが起こりまして、自分の財産がきゅーんと減ってしまい、しょうがないから働くか、どうせだったら海外で働いてみようか……と。

「誰にも頼っちゃいけないから自立しなきゃ」という恐怖心でのモチベーション

1社目も2社目も仕事を教えてくれる人がいなかったということですが、どのように仕事を覚えていったのでしょうか。

盗むしかないですね! 教えてくれる人がいなければ背中を見て盗むしかない。

なんだか職人の世界ですね。

最初の上司のやり方を盗んで、転職して、転職先でもやっぱり上司のやり方を盗んで……。上司のお気に入りの人のしゃべり方や態度を見てどうしたらいいか考えたりもしました。自己啓発の本も読みました。

誰も指導する人がいないという状況からのスタートで、仕事への熱意やモチベーションを保ち続けられる理由について教えてください。

「なんでこんなに仕事を頑張っているのか?」について自分でも最近考えていたんですよ。やっぱり学生時代にモテなかったのが一番強かったですね!

モテ!

悲惨ですよね……。そのせいだけではありませんが、結婚について夢を持つことはありませんでした。自分の母親が、結婚していて幸せそうには見えなかったんです。母親はよく「自立していないと人生がつまらない」と言っていて、「お母さんみたいになりたくないな、手に職を付けて働きたいな」と思ったのが最初のモチベーションだったと思います。

「母親が娘に与える影響」は大きいように感じますね。

「専業主婦」か「手に職を付けて自立」かといった考えはいったい誰が刷り込んでるんでしょう。何か大きい力による陰謀では……!?

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私の場合は生きるために働いています。「働いていないと自立できない」という考え方が強くて。経済的に自立しないと、自由がなくて、他人に人生を操られちゃう感じがしますからね。基本的には「この厳しい世界で、サバイバルして生きていかなければならない」「誰にも頼ってはいけない」という気持ちが強いです。

その気持ちのきっかけは、家族との関係性だったのでしょうか。シンガポールで受けたコーチングに関する記事(2014年11月)でも書かれていましたね。

お父さんに「私の事愛してますか」と聞けますか? - ずんずんのずんずん行こう!改!

ええ、「頼っちゃいけないから自立しなきゃ」というある種の恐怖心ですね。悲しいですよねぇ……。うっうっ。恐怖心にドライブされていたように思いますね。

「誰かが都合よく助けてくれる世界はない」と思っているんですね。

でも、心の奥底で、待っているんですよね。自分は自立しなければならないと思い込んでいつつも、どこかで誰かが助けてくれるんじゃないかなって思っていて。それに気づいた時、自分自身に絶望しました。でも気づけたことによって「そんな都合のいいことはあるわけないじゃん」と本当に自覚できたと思います。

いろいろあって最終的に今の仕事のモチベーションがどうなっているかというと「責任感」ですかね。あとは「チームメイトに失望されたくない」というのもあります。

同僚の期待を裏切りたくないということでしょうか。

「自分の果たすべき役割がある」とか「チームに貢献する」とか、言葉に出すと恥ずかしいですね(笑)。

「誰も都合よく助けてくれない」という絶望感から、現在のお友達や同僚との関係性が生まれていったのがすごいですね。

自分が考えていた「助けてくれる」というのは、ファンタジーの世界のようなものだったんですよね。「絶対的な救世主が現れて、いつか自分を救ってくれる」というような。現実にそんなことは起きないですし、自分ができることをやっていくのが一番良いかな、と思うようになりました。近くの人の幸せだけを考えていく。

現実性のない、すごく大きなことを考えるのではなく、自分ができることを考えれば、誰かを助けることができて、幸福感を得られる。そういうことが人生の幸せの一つなんじゃないかなって思います。

シンガポールで受けたコーチングで「人生悪くないな」と思えた経験からコーチングを趣味に

「誰かを助ける」というのは、趣味であるコーチングと通じるものがありそうですね。

コーチングは直接誰かを助けるものではないんです。その人が気づいて立ち上がれるための手助けをすることがコーチングです。ファンタジーの世界のような絶対的な存在は訪れないけれど、自分自身に立ち上がる力があるということを知ってもらえれば、人生変わってきますよね。こうしてインタビューを受けられるようにもなります(笑)。

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絶望して一人きりでいるよりも、見方を変え、行動を変えていけば、楽しいことがあるんじゃないかと思います。人生で変えられるのは、未来のビジョンと、今の行動と、考え方だけなので。

シンガポールで受けたコーチングというのはどのようなものなのでしょうか。

「自分の認知を変える」ことです。課題の解決がうまくいっていないところを整理していきます。カウンセリングやセラピーのような「癒やす」ものとは性質が違いますね。マイナスからゼロにするのが癒やしだとすると、ゼロからプラスにするのがコーチングです。

例えば、「道を歩いていたら変質者に遭った」という嫌な経験をするとします。変質者は怖い。嫌な経験は記憶になりますよね。「あの道を歩くと変質者が出る」という思い込みが発生します。その思い込みで、行動が変わってくるんです。「その道を歩かない」。

実はその道に変質者が出たのは何十年に1回だけだったかもしれなくて、自分はたまたまそれに遭ってしまっただけかもしれない。空手を習うなどしてものすごく強くなったとしても、「ここは歩かない」と決めてしまうんです。その認知のゆがみを解消すれば、その道を歩けるようになります。これは分かりやすい例えですが、似たようないろいろなことが人生で起きているんですね。

コーチとマンツーマンで行うんですか?

はい。コーチングでは、先ほどの例えでいえば、

  • 「どうしてその道が怖いの?」「変質者が出るからですよ」
  • 「今もその道に変質者は出るの?」「それは知らないです」

という会話をしていきます。コーチはその人が見えていない「ブラインドスポット」を客観的に見て、そこを突いていくんです。

コーチングはみんながみんな受けるようなものではないと思いますが、私の場合は、人生の謎を解きたくて受けていた感じですね。

趣味としてのコーチングでは、見知らぬ人からの問い合わせを受けるなどしていますよね。海外からどう対応しているのでしょうか。

Skypeを使っています。人によってはビデオチャットで話すこともあります。私のブログの読者さんは真面目で、将来のキャリア設計の話を聞いてくる人もいますね。「自分は嫌なのに繰り返してしまうこと」を解き明かしていくのは非常に面白いですよ。恋愛でいえば、「恋愛でいつもダメ男に引っかかってしまうのはなぜ?」のようなことですね。

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ネット上では素顔を出していないですが、ネット経由で問い合わせをしてきた方に対して顔を見せてしまうことに抵抗はありませんか?

全然知らない人からコーチングを受けるためにメールを送るって、すごく勇気が要る行動じゃないですか。仕事や家族の話をすることだってありますし……。「その誠意には応えなければならない!」と思いますね。

ずんずんさんにとって、そういう方はいたのでしょうか。

ううう、全然いなかったですね……誰かいてくれればよかったのに……。

自分自身は誰かから助けられなかったのに、誰かを手助けするコーチングを趣味にされたのはなぜですか?

なんででしょう……自分はそれまでの人生がすごく苦しかったんですね。実家は貧乏だし、両親はひどいし、友達はいないし……みたいな、結構つらい人生だったんですね。でも、コーチングを受けて自分の人生の見方が変わって、悲観的な物事の見方だけじゃなくなって、「そんなに悪くないな」って気づいたんですね。

見方を変えることによってもっと生きやすくなるなら、周りの親しい人やブログを読んでくださる方にも知ってほしいと思ったんですね。「世界はもっとよくなるんだ!」みたいな(笑)。そこに自分の時間を費やすのもいいんじゃないかなって思うんですよね。

日本ではコーチングを受けることはあまりポピュラーではなさそうですよね。

ビジネスチャンスかな? 起業しちゃおっかな?(笑)

自分の人生の優先順位を付ければ少し楽に生きられる

最近「英語ができるようになるために会社を辞めよう!」という記事がブログにありました。最初の転職時にどうやって英語に取り組んだのか教えてください。

3か月でTOEICで700点以上取る方法 - ずんずんのずんずん行こう!改!

そうですねぇ、やっぱり人間「命をかけないといけないタイミング」ってあるじゃないですか。

命……。

外資系企業に入ってみたら、会社のメールも英語、Excelも何もかも英語なんですよ。そこで何もできないということは、「命がかかってる」ということでして、英文法もメールの書き方も分からなかったので、英語を書けてる人のコピー&ペーストから始めました。

「英語は筋トレ」という言葉もありましたね。

英語って、階段状にスキルが上がっていくんです。「しばらく勉強してふっとレベルが上がる」の繰り返しです。上がらないときの絶望感がすごいんです。そこでやめるとそのレベルで終わってしまうんですが、続けると上がるんです。これを一生繰り返すのが英語の勉強なんじゃないかと思います。

日本で生まれ、日本の学校を出ていると、もう積み重ねていくしかないんです。吸収しているインプットの量が違うネイティブの人や帰国子女のレベルに、ドメスティックな日本人がなるのは無理なので、あきらめた方がいい! 無理をするなと言いたい!

効率良く学ぶ方法はやはりないんですね……。

「ネイティブみたいに英語を話したい」というのを目標にしちゃうと、そこにエネルギーをすべて使っちゃうじゃないですか。でもそれってあまり意味がない。「ビジネスで通じればいい」くらいでいいと思います。

失敗するのが怖い人はあまり上達しないですね。「文法を間違えた」「恥ずかしい」と思うともうしゃべれなくなっちゃうので。もし相手から「は?」というような「お前の言ってること分からないぞ」といった感じのリアクションがが来ても、「私の英語は頭の良い人なら分かるの、なんであなたは分からないの?」くらいの勢いで話していけば、相手もだんだん「この子は英語ができないんだ」ってあきらめるんですよ。でも相手も命がけで「私がこの子の話を聞いてあげないと仕事が進まない」と思って聞いてくれる。恐れずにいっぱい話して、いっぱいインプットとアウトプットを増やすしかないです。学問には本当に王道がないですね。

英語の他に何か取り組んでいることはありますか? 特に心身のケアで気を付けていることがあれば教えてください。

今はジョギングと筋トレをしています。ロッククライミングもやります。面白いですよ。

スポーツが好きなんですか?

昔は全然好きじゃなかったし苦手だったんですけど、労働時間が長いと、体力を付けないと苦しいじゃないですか。「死にたくない」っていう気持ちですね。なんで私の話はいつも悲惨な話になるんでしょう(笑)。このままだと死ぬぞ、生き抜きたい、って思っていますね。筋トレをして筋肉が付いて体力も付いて、この体力を何に使えばいいんだ? スポーツをするか、と。

最初は仕事のために体力が必要だと考えたんですね。

ロジカルに考えた結果です。最初はパーソナルトレーナーからやり方を学びました。結果としてスポーツがだんだん好きになりましたし、一時的なストレス発散にもなっています。

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今働いている中で、ずんずんさんが憧れるような人、こうなりたいと思う人はいますか?

これまでいなかったし、今もいないです。切ないですよねぇ。適切なロールモデルは欲しいですし、いたらもっと人生楽なんですが……。会社では上司にも同僚にも頭が良い人がたくさんいて、すごいとは思いますが、その人のようになりたいと思ったことはないです。「頑張って媚びていくぞ!」という気持ちです。

スーパーな人が多いんですね……。

うっうっ(泣)。自分がロールモデルになればいいんですよ! 私たちの世代にはいなかったんだから、自分がなるしかないんですよ! 自分がそうなって下の世代の者に見せていくしかないんですよ! それが新しい生き方なんじゃないですかねぇ。

働き方に迷っている人に向けてずんずんさんが声を掛けるとしたら、何をアドバイスするでしょうか。

さっきから「死にたくない」「生き抜きたい」とか物騒なことばかり言ってますが、「人生の優先順位を決める」のが大事なんじゃないでしょうか。仕事を一番にするのか、家族を一番にするのか、友達関係を一番にするのか。決めたことに対して心のエネルギーの分配方法を決めればいいと思うんです。

仕事を優先順位1位にして、全身全霊、100%の力でやると、仕事がうまくいかなかったときにすごく苦しいですよね。「家庭をナンバーワンにする、仕事は3割」というふうに決めておけば、少し楽になります。自分の人生で何が大切なのかを考えればいいんじゃないかなって思います。

ありがとうございました!

お話を伺った人:ずんずんid:zunzun428blog

ずんずん

グローバルIT企業に勤める、公私ともにプロ外資系OL。趣味はコーチング。著書に『外資系OLは見た! 世界一タフな職場を生き抜く人たちの仕事の習慣』(KADOKAWA)、『エリートに負けない仕事術』(大和書房)がある。自称ツイッターの天使(@zunzun428)。

次回の更新は、6月14日(水)の予定です。

仮面ライダーを好きな人がその生き方を真似できないなら、何の説得力もない――読売新聞専門委員・鈴木美潮さんの「仕事と特撮」

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読売新聞東京本社で政治記者を経て専門委員を務め、「よみうり大手町ホール」の企画プロデューサーとしても活躍する鈴木美潮さんは、“大の特撮ファン”として知られる存在です。記事を執筆し、コメンテーターとしてテレビ番組にも出演する一方で、自ら特撮ヒーロー番組に出演した俳優やアニソン歌手をゲストに招くトークイベントを企画・開催。精力的に仕事と趣味の両方に取り組み続ける鈴木さんに、その経緯や情熱についてお話を伺いました。

「どこまで食らいついてくるのか」試された

鈴木さんの今のお仕事について教えてください。

社長直属教育ネットワーク事務局の専門委員として、「読売教育ネットワーク」が開催する「出前授業」で講師をしています。いろいろな学校に出向いて、新聞の読み方、メディアリテラシー、18歳選挙権や主権者教育の話をします。ホール企画部の企画プロデューサーも兼務していて、東京・大手町の読売新聞ビルの中にある「よみうり大手町ホール」の企画運営にも携わっています。といっても私はアニソンライブしか担当しないんですが。他には、ほぼ週1回、「YOMIURI ONLINE」で「日本特撮党 党首の活動報告」という記事、そして隔週で英字新聞「The Japan News」でコラムを書いています。

【特集】:日本特撮党 党首の活動報告:カルチャー:読売新聞

なぜ新聞記者を目指したのですか?

私は小さい頃から政治に興味がありました。きっかけは小学校4年生のときに親が買ってくれた朝日新聞出版の「少年朝日年鑑」に、金大中事件*1が載っていたことです。それを読んで、民主化のために戦う金大中が社会のヒーローだと思いました。政治というものに興味を持ってから、ずっと政治に関わる仕事がしたいと思っていました。

父の仕事の都合で大学生の時にアメリカに渡り、アメリカの大学と大学院で政治学を専攻して修士号を取得しました。日本に帰国して就職しようとした時に、渡米前に在籍していた大学の後輩から「読売新聞のエントリーシートの締め切りが明後日ですよ。一部余ってるからあげます」と言われまして。小さい頃から漠然と書くことも好きでしたし、マスコミの仕事であれば政治に多少関わることができると考えました。幸いトントン拍子に採用試験を突破して、最初に内定をもらった読売新聞に入社を決めちゃいました。

そして新聞記者として仕事を始めたんですね。

入社すると、最初は地方支局に配属されました。私は第一志望であった横浜支局に行くことになり、事件記者からスタートして、高校野球、市役所、県庁などを担当しました。当時、横浜は事件が多いことで有名で、すごく忙しかったんですね。会社から「なぜ横浜を志望するのか?」と聞かれた時に「事件が多い所で自分を鍛えたいと思います」なんて真面目に答えたんですが、実はたまたまその時に夢中になっていたのが、横浜を舞台にしたドラマ『あぶない刑事』だっただけなんです……。もう時効だろうと思いますけど(笑)。

約4年後に本社に戻りました。同期入社はだいたい同じような時期に本社に戻ってきて、記事に見出しを付けたり、紙面のレイアウトを行ったりする「地方部整理」という部署に行きます。私はそこに1年半くらいいて、1994年10月に、政治部に配属されました。

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入社された1989年ごろは、マスコミで活躍する女性は少なかったように思います。

記者以外の職種を含めると全体の採用数は多くて、同期の記者は65人いました。そのうち7人が女性でしたね。当時は女性を全体の1割採用するって、結構すごいことだったんですよ。それでも女性の記者に対して、まだ腫れ物に触るようなところはありましたね。男女雇用機会均等法は施行された後なので無論差別はないのですが、「記者という仕事に果たしてどこまで食らいついてくるのか」ということが、採用する側もまだよく見えない時代だったのではないかと思います。

女性が少ない中で、大変だった思い出を教えてください。

政治部に配属されると、まず総理番*2から始めるんですが、総理番ってとにかく1日中総理の後をついて回るんですよ。男性でも体が弱い人は大変だと思います。朝、総理は首相官邸から隣の国会まで車で移動するんですが、記者たちは総理が官邸から出たら、走って国会の入り口で待ち構えなくちゃいけない。官邸まで全力疾走する「番ダッシュ」というものをしていました。まずこれで初日に息が上がりました。

国会内でも総理の動きを追い掛け続けるわけですよね。

総理番をやっていた頃はヒールの高い靴だとつらいので、ローヒールを履いていました。総理番を外れた後も、国会内のどこかで秘密の会合が開かれていたりすると、終わるまでずっと待っていないといけない。政局の読みが鋭ければ、前もってローヒールにしますけど、だいたい突然の出来事で、そういうときに限ってヒールの高い靴を履いてたりして。もう大変ですよ。

ある衆議院議員の秘書給与流用疑惑があった時、議員の自宅前でずっと張り番*3をしたこともありました。真夏で気温が35度を超えていて、記者仲間で協力し合って近くのコンビニに行き、議員宅前でアイスキャンディーを食べました。あんなにおいしいアイスキャンディーは後にも先にもないですね。

政治部以外での印象的なエピソードはありますか?

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記者1年生の時、高校野球を担当したんですが、本当にひどいものでした。野球に興味が全くなかったので、学ぼうという意欲はあっても、世間の常識と私の持っている常識が全然違っていてですね……。かろうじて「ヒットを打ったら一塁側に走る」は分かるんですが、「一塁ゴロ」の意味が分からなかったり、「シュート」と「ショート」を間違えたり。

高校野球の地区大会を取材して、次にちびっこサッカーの取材があったんです。私はサッカーも分からない。でも野球でちょっとは慣れたと思っているから、野球のノウハウを使えばいいんだと考えました。野球の記事に「カキーン」「鋭い打球音を残して球がフェンスの向こうへ消えていった」みたいな文章があるじゃないですか。これを応用して「バスッ」「鈍い音をさせて白黒の球が網の中に消えていった」って書いたら、「お前これ真面目にやってんの?」ってものすごく怒られました。

現職に至るまではどんな仕事があったのでしょうか。

1999年夏に、『週刊読売』という週刊誌の編集部に行って『読売ウイークリー』にリニューアルする仕事に携わりました。その頃、日本テレビの情報番組に読売新聞の記者を出すという話があったので、自分から手を挙げて、週1回出演することになりました。

この情報番組が終了するまでは『読売ウイークリー』にいて、その後政治部に戻ったんですが、2003年に読売新聞が日本テレビと「イブニングプレス donna」という情報番組を立ち上げることになり、それにも手を挙げて出演者になりました。平日の月曜日から木曜日まで約10年、2013年の暮れまで続けました。テレビ番組があると政治部の仕事はできないので、途中で文化部に移り、文化面のコラムを書きつつテレビの仕事をメインで。その間にも「PON!」などの情報番組にコメンテーターとして出ていました。よくアナウンサーと間違えられることがありましたね。

ホームシックから立ち直る原動力となったのは、仮面ライダーの存在だった

ここまでは読売新聞でのお話でしたが、次は「特撮」を好きになった経緯について教えていただけますか。

うちはすごく厳しい家庭で、母がテレビを制限していてなかなか見せてくれなかったんですよ。ところが、7歳のときに始まった特撮ドラマ『ミラーマン』だけ気まぐれで見せてくれました。それにものすごくはまって、「鏡京太郎(演・石田信之)のお嫁さんになる!」となってしまって。でも毎回は見せてくれないんです。「テストで100点取ったら見てもいい」なんて言われたので、その通り100点を取って見ていました。ミラーマンの最終回が本当に悲しくて、小学校2年生の作文で「日曜日にあった悲しい出来事」として「ミラーマン、あなたは鏡の国に帰っていくのね、さようなら、ミラーマン、ミラーマン」なんて書いたんですよ、小学2年生なのに。

ミラーマンが終了したことで、特撮を見る機会がなくなったと思うのですが、その後どのように興味を広げていったのでしょうか。

毎年夏に、青森県八戸市の、ほぼ同年代のいとこ3人兄弟の家に遊びに行くんですね。そのとき一緒に特撮ドラマ『仮面ライダー』の放送を見たり、ライダーごっこをしたりして、今度は仮面ライダーにはまるわけですよ。当時「仮面ライダースナック」のおまけの「仮面ライダーカード」というものが大いに流行っていましたが、うちでは当然買ってもらえませんでした。ところがいとこの家はスーパーマーケットを経営していて、「ひとり1個ずつライダースナックを買っていいぞ」って言われて、そのとき初めて手に入れて。「何が出るかな、本郷猛か、1号か2号か、滝和也でもいいな」とわくわくしながら開けたら、ミミズ男(敵の怪人)が出てきた。

オチが(笑)。

私が唯一リアルタイムで買ってもらえたカードが、ミミズ男なんです。唯一です! だからもう、満たされない気持ちをずっと引きずっていて、政治部記者時代に仮面ライダーカードが復刻された時には、段ボールで30箱買いました。

大人買い!!

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大人買いにもほどがある感じですよね。近所のお菓子屋のおじさんが軽トラに乗せて運んできました。段ボール1箱にスナックが28袋入っていたんです。お菓子はあんまり食べたくなくて、別梱包になっているカードを抜いて、お菓子は持てるだけ持って少しずつ会社に持ち込みました。

話は子供の頃に戻ります。そこから先の特撮番組の開拓はどうされたんでしょうか。

中学生になると、特撮よりもっと「見てはいけない」ような番組があるから、特撮については母からそんなに厳しくは言われなくなりました。そこでいろいろ見るようになって、お小遣いを貯めて超合金(ロボットアニメ・特撮作品のキャラクター玩具シリーズ)を買ったりして。そのうち『宇宙船』(SF・特撮作品の専門誌)という雑誌が創刊され、その時に初めて、自分の好きなものが「特撮」というジャンルであることを知りました。

みんなは小学校高学年ぐらいで徐々に特撮番組を卒業していくんです。でも私はずっと好きで、ずっとずっと好きで、子供心に「もしかしたら私は変態なんじゃないか」と悩みました。「私が好きなこれは何なんだろう?」ってずっと思っていましたね。

やっと自分の心が引かれるものの定義ができたんですね。

14歳の秋に村上弘明さんが出演されていた『スカイライダー』(仮面ライダーシリーズ第6作)が始まって、学校の創立記念日に、突然「今行かなかったら一生後悔する」と思って、東映の撮影所に乗り込んだんです。そしたらたまたま、ちょうどアフレコが終わった村上さんと東映テレビ部の平山亨プロデューサーが出てきた。お二人は近くの喫茶店で、私と、一緒に行った友人に付き合ってくれました。村上さんはまたアフレコがあると途中で戻ったんですが、平山さんは3~4時間、ちょっとませた14歳の話をずっと聞いてくれたんです。そこからですよ、沼にずぶずぶと沈んでいったのは。

ファンの中学生に何時間も付き合ってくれるというのはすごいですね。

平山さんのほかにもう1人、『スーパー戦隊シリーズ』の脚本を多く担当した曽田博久さんというシナリオライターさんとも交流がありました。私はこの方の作品が本当に好きで、シナリオの勉強をしたいと思って、シナリオに関する講座を受けていたことがあります。講座の主催元の協会から手帳が出ているんですが、まだ個人情報もへったくれもない時代で、手帳の巻末に協会の会員名簿が載っていました。そこで曽田さんについて調べて、番組の感想を書いて送って……。そこからしばらく曽田さんと文通が続いていたんですね。曽田さんは、私の名前を『大戦隊ゴーグルファイブ』(スーパー戦隊シリーズ第6作)の中で使ってくれたんです。

えっ!

第30回「猪苗代の黄金魔剣」で。ゲストは俳優の田崎潤さんで、田崎さん演じる道場主が、孫娘の婿をゴーグルファイブのメンバーの中から選ぼうとする話でした。その孫娘の名前が「鈴木美潮」なんです。高校3年生のときに「使いましたよ」って連絡が来ました。OAもしっかり見ました。

憎い演出ですね。

私の特撮ライフを支えてくれたのはそのお二人ですね。平山さんとは本当にずっと関係性が途切れず、アメリカ留学中にはたぶん200通以上書簡を交わしています。

当時はエアメールですよね。アメリカに行った後も連絡を取っていたのはなぜなんでしょうか。

私はもともと英語が苦手で、洋画は見なかったし、洋楽も聴かなかったし、どちらかというと演歌が好きで……。サンフランシスコ国際空港に降り立った瞬間に「これはカルチャー的に無理だ」って気づきました。当時は日本と簡単にはつながれないから、「わー、あれきれいだね」って言おうとしても、周囲はみんな外国人。ホームシックになってしまって、すごく落ち込んだんですよ。その気持ちを手紙に書いて平山さん宛てに出したら、平山さんは中学生と4時間話すくらいすごく優しい方だったから、お返事が来ました。

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でも落ち込んだ気持ちについてはまともに取り合わず、「全く大げさなことを言ってるもんだ」みたいな内容だったんです。それで頭をがーんと殴られたくらいの衝撃を受けました。仮面ライダーは、もしかしたら自分が死ぬかもしれないのに、あんな巨大なゴキブリや巨大なムカデと戦っている。それに比べたら、私が今ここでいくら大変な目に遭っても、命を取られるわけじゃない。私は何を甘ったれたことを言っているんだろうと。それまで「仮面ライダーに学んだ」なんて言っていたのに、いったい何を学んだのかと、自分が許せなくなって、その日を境に1日16時間勉強するようになりました。

仮面ライダーによる立ち直りとは……!

私は日本の大学に1年半通った後にアメリカの大学に編入したんですが、他の人より毎学期1科目多く取って、2年で卒業しているんですね。在学中にアメリカ連邦議会のインターンの選抜に日本人で初めて受かって、インターンをやって、その勢いで大学院に進んで、1年で修士号を取って帰ってくるんですが、その全ての原動力、心の支えとなったのは仮面ライダーです。

「勉強の原動力が仮面ライダー」だったんですね……。

仮面ライダーを好きな人が、仮面ライダーの生き方を真似できなかったら、何の説得力もない。甘えてはいけないと思ったんですよ。

大学を卒業したときに「特撮のために日本に帰りたい」とは思わなかったのでしょうか。

私がそのタイミングで帰国しても何の足しにもならないと思いました。仮面ライダーが好きな子が、アメリカで大学院まで行って修士号を取得すれば、平山さんは絶対に喜ぶだろうし、仮面ライダーに夢中になって「テレビばかり見てないで勉強しなさい」と言われるような子供たちにも手本を見せられると思ったんです。事実、平山さんはすごく喜んでくれて。1986年に出版された『仮面ライダー大全集』(講談社)という本の中で、「ファンの中にアメリカに留学した人がいて」と話してくれているんですよ。

仕事と趣味、両立の秘訣は「とにかく思い立ったらすぐやる」

主宰されている「日本特撮党」の活動内容について教えてください。

「340(みしお) presents」という名前の、特撮・アニソンのイベントを開催しています。活動のスタートは2003年8月、スーパー戦隊シリーズのレッド役2人を呼んで実施した「赤祭」。その少し前の読売ウイークリー時代に、平成仮面ライダーシリーズ第1作の『仮面ライダークウガ』が約11年ぶりのテレビシリーズとして始まって、うれしくて取材に行って、特撮の取材をぽちぽちするようになっていったんです。大人向け雑誌で最初にヒーローものを取り上げたのは、たぶん私がクウガについて書いた読売ウイークリーの記事なんですよ。

そうだったんですか!

ある日、読売新聞の本社近くでクウガのロケをやっていたので行ってみたら、主演のオダギリジョーさんがいて、名刺交換をしました。そこで「今度は取材でお会いしましょう」って先方から言われたので、「ライダーと約束したんだから取材しないといけない」と思って。まずはカラーで2ページの企画をやろうと考えました。当時のデスクに「どうしても仮面ライダーの原稿書きたいんですけど」って話し掛けてみたら、「そんなの子供が見るもんだろう、子供が!」と言われまして。そこですかさず雑誌『宇宙船』を見せて「ほら、ルビのない雑誌が出てるでしょう、子供だけじゃないですよ」ってアピールしたらOKをもらえたので、彼の気が変わる前にすぐテレビ朝日に電話しました。

さすが、ライダーとの約束の効果は違いますね。

その辺りから特撮に関する活動が始まりました。読売ウイークリーに「男の隠し味」という、男性が料理をするカラーのグラビアページがあって、1年かけてそこをじわじわと乗っ取りました。年間で約40週のうちなぜか20人くらいは特撮関係者という異様な状況を作り出しまして。

そのうち、もともと仮面ライダーファンつながりで交流のあった竹本昇監督(特撮ドラマを主に手掛ける監督・演出家)、『超力戦隊オーレンジャー』(スーパー戦隊シリーズ第19作)のレッド役の宍戸マサルさん、『超電子バイオマン』(スーパー戦隊シリーズ第8作)のレッド役の坂元亮介さんと飲む機会があって、深酒をしているうちに「せっかく仲良くなったし何かできないかな?」という話になりました。そこで私が突然「イベントやりましょう、イベント!」なんて言い出して、午前2時過ぎに帰りのタクシーの中で、新宿ロフトプラスワン(トークライブハウス)のプロデューサーに電話して、「戦隊もののイベントをやらせてもらえないか」と言ったところ、すぐOKが出て日程が決まりました。翌日レッドの2人に電話して「決まりました」って伝えたら驚かれましたね。

ずいぶん急に決めたんですね!

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イベントをやりたいと思った理由は、スーパー戦隊シリーズに関する当時の情報量が少なすぎたからです。スーパー戦隊シリーズは、長く続いている分、世代によって見る作品がすごく限られるんですね。例えば『太陽戦隊サンバルカン』(スーパー戦隊シリーズ第5作)は、再放送の機会が多かったので見る世代が幅広い方だと思います。でも、それより後になると、バイオマンを見ていた人はたぶんオーレンジャーを見ていないし、オーレンジャー世代はバイオマンを知らないんですよ。とてももったいないと思っていました。

昔からずっと仮面ライダーシリーズの制作に携わっていた渡邊亮徳さん(元東映副社長)という方がいるんですが、この方は若いころ、名うての映画のセールスマンだったんですよ。映画館の館主に映画を売り込みに行く際に「あなたも得をする、私も得をする、両方の得でリョウトクが私の名前です」と言ったそうです。そのフレーズが頭のどこかにあって、各戦隊のファンが別の戦隊の作品を知ってそれぞれ得をして、さらに仕掛ける私も楽しいということから始めたんです。

イベントをコンスタントに続けるのは大変だったのではないでしょうか。

始めた当時のスーパー戦隊シリーズ関係者って、みんな縦のつながりも横のつながりも切れていたんです。放送当時はメールなんてないし、携帯電話もないから、引っ越したら終わりなんですよ。それをイベントで文化財修復のようにつなげていった。同窓会みたいな感じです。今は皆さんがいろいろな場所で一緒に活動をされていますが、だいたい「340 presents」のイベントで会った人が多いんじゃないかな。

読売新聞の仕事と特撮のイベント運営、どちらもパワーを使うと思うのですが、両立の工夫はどうされているのでしょう?

どちらも好きだから、配分は考えないです。決めちゃえば何とかなるものです。「どうしよう、どうしよう」と言っていると、いつまでたっても始まらないですね。あとは「すぐやる」。とにかく思い立ったらすぐやる。仕事もイベントも後回しにして重ねていっちゃうと、無理になりますから。人間って意外と無駄にしている時間がいっぱいあるので、私は隙間時間でいろいろなことをやっています。電車に乗っているときにイベントの告知文を作ってブログにアップしちゃうとか。

政治記者として朝から晩まで仕事をしたお話もありましたが、もともと体力があるのでしょうか?

いえ、子供の頃は体が弱かったし、基本的にはそんなに強い方ではないです。だから無謀な徹夜は絶対と言っていいくらいしない。体調管理の方法は「とにかく寝る」で、6時間は寝るようにしています。書籍『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』(集英社クリエイティブ)を書いていたとき、最後の方は徹夜に近い状態だったんですが、1時間半でも寝るようにしていました。

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予定がたくさんあると思いますが、スケジュール管理の方法を教えていただけますか?

手帳です、手帳。イベントの内容も手書きでメモしてます。全部手書きでひどく汚い! 私、字がヒエログリフだって言われちゃうくらい汚いんですよ。酔っ払いながら予定を決めたときに「忘れてはいけない!」と思いながら書いたものが全然読めないこともあります。さすがにイベントの進行表はパソコンで打ったものを印刷しますけど……。

基本的には手書きなんですね。

ずっとアナログで、目で見ないとだめなんです。スマホは水没したら終わりだから情報を入れているのが心配で……。もしご興味があればお見せしますよ。ひどいですよ。落としても何の心配もない。絶対に読めない。いろんな色でぐちゃぐちゃ書いているんですけど、色には何も意味がないんです。その場にあったペンで書いているだけで。

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鈴木さんの昨年の手帳を見せていただきました。予定がびっしりと書き込まれています。そして確かにぱっと見では読めません。

イベントの開催は特撮ヒーローたちへの恩返し、仕事では「社会に対する義務」を果たしていく

「りっすん」では女性の働き方を主なテーマにしているのですが、親交の深かった平山さんや仮面ライダー以外、かつ女性で、影響を受けた方はいますか?

うーん、女性と言われると難しいですね。もちろん素晴らしい女性にはいっぱい会ってきましたけど、私のようにバツイチでお気楽に生きている女からすると皆さん素晴らしすぎて、仰ぎ見るような存在ですね……。

私たちの世代ってゴレンジャーの紅一点、モモレンジャーに、良くも悪くもすごく影響を受けていると思います。モモレンジャーにしても『ウルトラマン』のフジ・アキコ隊員にしても『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員にしても、紅一点でしょう? 紅一点の功罪ともいえる「紅一点主義」については、ぜひ私の著書を読んでいただきたいです。やっぱりふと「あっ、ロールモデルっていないな」とは思いましたね。ヒーローものが好きで、ヒーローものにロールモデルを求めた結果、どうしても「男性が求める女性の働き方」である紅一点の影響を受けて育ってきたかなと思います。スーパー戦隊だって、女性が2人になったのはバイオマンからですし。

今後の特撮活動の展望について教えてください!

できればまた本を書きたいと思っています。1冊本を書いた後、1年くらいは満足していたんですが、「自分の好きな世界とは違う」と思う方が多かったのが残念でした。だからもう少し一般の人にも読んでもらえる、違う角度のものを書けないかなと考えています。

イベントについては引き続き開催していきたいんですが、もともと規模を大きくしようとは考えていないんですよ。特撮ヒーローたちへの恩返しとしてやっています。身の程にあったキャパシティーでやっていけたらと思います。

司会業が多いのでしょうか。

司会の依頼があったイベントについてはほとんど引き受けています。よみうりランドのマスコットキャラクター「グッド&ラッキー」の新しいテーマソングをアニソン歌手のうちやえゆかさんに歌ってもらうミニライブのプロデュースをしました。イベントをやる場合は、ブッキングも企画もギャラ交渉もちらし作成も、全部自分で担当することが多いですね。

http://www.yomiuri.co.jp/culture/special/tokusatsu/20170509-OYT8T50065.html

読売新聞の専門委員としてはいかがでしょうか。

最近は「教えること」を求められるようになりました。私は自分のことを、未完成で「人に教えるほどのもんじゃなかろうよ」と思っているんですけれど、この年次になってくると、社会に対する義務を果たさなくてはならないという気持ちで取り組んでいます。

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新聞に関する啓発活動も多くなっています。どんなに良い記事を書いても、新聞を手に取ってくれない若い人が増えています。それはとても悲しいことです。「みんなが思っているほど新聞って悪くないんだよ」「きちんと作られているし、良い文章も載っていますよ」「特撮やアニメが好きな人にとっては意外とうちの紙面アツいですよ!」という話をしていかないと、新聞を触らない人はたぶん一生触らないから。読売教育ネットワークの「出前授業」にしても、まずは新聞を知ってもらう、手に取ってもらうことが重要だと思っています。

ありがとうございました!

お話を伺った人:鈴木美潮(すずき・みしお)

鈴木美潮

読売新聞東京本社 社長直属 教育ネットワーク事務局 専門委員。ホール企画部の企画プロデューサーも兼務。「よみラジ」(ラジオ日本)キャスター。1989年に入社し、横浜支局、政治部、文化部、メディア局などを経て現職。日本テレビの情報番組「イブニングプレス donna」「ラジかるッ」「PON!」などに出演。特撮ファンとして知られており、特撮番組出演俳優や制作スタッフ、スーツアクター、特撮・アニソン歌手との親交が深い。「日本特撮党」の党首として「340 presents」をはじめとする特撮・アニソン関連イベントを主催している。著書に『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』(集英社クリエイティブ)がある。隔週刊『仮面ライダー フィギュアコレクション』(朝日新聞出版)内の「ライダー交友録」では、ホストとして各号のライダーにまつわるゲストを迎え、対談を行っている。

ブログ:340.340340.net
Twitter:@340age26

次回の更新は、5月31日(水)の予定です。

*1:1973年8月8日、韓国の政治家・金大中氏が、東京のホテル滞在中に拉致され、船で連れ去られた後にソウルで軟禁されて、5日後にソウル市内の自宅に戻った事件。全容は分からないままとなっている。

*2:総理担当の記者のこと。総理の動向を追い掛け、動静取材や政治課題に関する質問をする。

*3:特定の人物に張り込みをして取材すること。

“働き方を選択できる社会づくり”に取り組む一般社団法人「at Will Work」の藤本あゆみさんに聞く、選択肢の考え方

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今回お話を伺った藤本あゆみさんは、“働き方を選択できる社会づくり”をミッションとする一般社団法人at Will Workの代表理事を務め、働く人それぞれの「理想的な働き方」を実現するための課題に取り組んでいます。2017年2月には「働き方」を幅広い論点から議論するカンファレンス「働き方を考えるカンファレンス2017」を開催。実は株式会社お金のデザインの広報としても並行して働く藤本さんに、より女性が働きやすくなるためのヒントやご自身のパラレルキャリアへの考え方をお聞きしました。

より働きやすくするためには「自分の半径5メートル以外について知る」

「一般社団法人at Will Work」が2月に開催したカンファレンスは、働き方の事例を抽出してノウハウの研究と体系化・共有する場の構築を目指すものとのことですが、どのようなことに取り組んでいるか教えてください。

at Will Workでは、普段は5人の理事がそれぞれ“働き方を選択できる社会づくり”というミッションに沿うネタをあちこちで展開しています。ですが、2月のカンファレンスでは行政・企業・研究者・個人と多くの方々に登場いただいて、ワークスタイルはもちろん採用や生産性、心身の健康、環境づくりなどについてディスカッションしました。冒頭の挨拶では「この場にはヒントはあるけど事例はないです。事例はあくまでもどこかの会社の結果であって、それをそのまま実行したからといってあなたの会社の『良い事例』にはならない」というお話をしました。今年は他にもいろいろな企業さんとの共同企画の構想があります。

「りっすん」では女性の働き方にフォーカスしています。「女性がより働きやすくなるには」という課題へのお考えをお聞かせください。

大事なのは、「自分の半径5メートル以外にも、自分と同じことを思う人がいる」という事実を知ることだと思っています。人はどうしても、自分の近くにいる人の影響をすごく受けるんですよね。本当は変わりたくないと思っているのに、周りの人が「このままじゃだめだ、変わらなきゃ」なんて言っていたら、そこに同調してなんとなく「変わらなきゃいけないかも……」という気持ちにどうしてもなってしまうんですよ。

影響力が大きい人の近くだとなおさらかもしれないですね。

でも、人間そこまで強くないです。自分の考えはきちんと守らないとつらいし、そういう状況で自分が1人だと思ってしまうとさらに身動きが取れなくなってしまう。そこに「自分は1人じゃない」と認識できるきっかけを提供できれば、「意外と自分の考え方も良いんじゃない?」と思えるようになるんじゃないかと考えています。

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今まさに、そのために何ができるのか、いろいろやっているところです。開催したカンファレンスもその1つです。今後は人の事例をたくさん集められるような仕組みや仕掛けを作っていきたいと思っています。単なる成功体験だけが集まっては面白くない。イメージしているのは「1億2千万人の図鑑」なんです。もちろんその中には子供もお年寄りも含まれるので、全員が働いているわけではないんですが、ざっくり1億人くらいの働き方や考え方が集まる「図鑑」があればいいなと考えています。

それが「半径5メートル以外」という言葉に含まれているんですね。

自分に似た働き方や考え方を持つ人が、もしかしたら全然違う土地にいるかもしれないですよね。自分に少しでも近い人を見つけて「そういうのもありなんだ」と感じられれば、納得できると思います。

at Will Workで“働き方を選択できる社会づくり”という言葉を決めた際に、「選択できることが人にとって一番の幸せなんじゃないか」と考えました。実は、変わらないということも選択肢の1つなんです。「変えたくないのに変わらなきゃいけない」という状況はストレスになって、そのマイナスのパワーの影響力は、プラスに変化することよりも多大です。例えば「日々流されていて、こんなんじゃいけないな」と思っていても、そのせいで焦る必要はないし、無理矢理変わる必要もない。

自分の納得できる働き方をする、ということですね。

at Will Workの活動でも「みんながみんな働き方を変える必要はない」という話をずっとしています。変わりたくない人は変わらなくていいんですよ。今働きづらいと思っている人やもっと良い働き方をしたいと思っている人は、環境が変わることでパフォーマンスがもっと上がるし、変化は良いことなんですよね。

「変わりたくない人が変わらないという選択肢を選び取る」というのも難しいことのように思えますね。

今はみんなが変化について考えなければならない、世知辛い時代になっていますね。これは本当に大変なんですよ。たぶん女性の場合、親の価値観や周りの人の価値観に縛られることが多いと思いますし、その価値観から抜け出すためには選択肢を知っていないといけない。分かりやすくメディアに登場するような人って「超頑張ってます!」みたいな人が多いんですよね。ストーリーは素晴らしいけど「そこじゃない!」って思う(笑)。選択肢を知らないから動けない、できないという人が多いのであれば、それを知るきっかけをたくさん増やそう!というのが、私たちがやっていることです。

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「変わらなきゃいけない」「変わっちゃいけない」のどちらかしかないのは強制であって選択ではない。人は自分で選択ができるとその結果に納得もできますし、それを信じていけます。それは自分の意思だから。「変えたいと思うことも、変わらないということも、あなたにとっては選択肢なんですよ」と言い続けるようにしています。

「法人の代表理事」「企業の広報」2つの“本業”での働き方

藤本さんの2つの仕事、「一般社団法人at Will Work」「株式会社お金のデザイン」それぞれでの業務を教えてください。

働き方の情報が集まるプラットフォームを作りたくて前職であるGoogleを辞め、法人設立に向けて動く中で、「お金のデザイン」にいる元Googleの同僚の話を聞く機会がありました。自分とは縁遠いところにあった「ファイナンス」というものがとても面白そうに思えたので、「手伝わせてください!」と言って、今年の3月から広報として働いています。

雇用形態はどのようになっていますか?

どちらも正社員なんです。「お金のデザイン」では当初、業務委託契約でいいと思っていました。そしたら「お金のデザイン」会長の谷家(谷家衛さん)が、「君が作りたいのは『選択肢のある働き方』なのに、複数の仕事を業務委託でしかできないという選択肢を作ってしまうのは良くないんじゃないか。2つとも正社員でやるということを、自ら選択肢として示せたらいいんじゃないか」と言ってくれました。

at Will Workでは「代表理事」という名前は付いてはいますが、たまたまです(笑)。拠点は全員ばらばらで、隔週1回の理事会や普段のやりとりは全部オンラインで行っています。

最近では政府や企業で副業や兼業を推進する流れもできつつありますね。2つの仕事、それぞれどれくらいのウェイトで働いているのでしょうか。

最初は時間で区切ることを考えて試したんですが、なんだかあんまりうまくいかない。というのは、お金の話と仕事の話ってすごく密接な関係があるので、「お金のデザイン」の広報としてメディアの方と話しているうちにだんだん働き方の話になっていき、「実はこういうことをやっていて……」とat Will Workの名刺を出すと、両方の話ができるというケースが結構あるんです。今は、時間ではなくてそれぞれのミッションで決めています。

「ミッションで決める」とはどういうことでしょう?

at Will Workの代表理事として、「お金のデザイン」の広報として、何をすべきかというミッションをそれぞれ明らかにします。その中身について分かりやすいように周囲に説明しながら仕事をします。

忙しい時期もあるかと思いますが、時間のやりくりはどうされているのでしょうか?

もちろん時間のかけ方にばらつきはあります。例えば「お金のデザイン」でリリースラッシュがあるときはそちらに寄せて仕事していますし、at Will Workのカンファレンスのときには関連業務がとても多かったので時間をかけていました。それぞれ、どちらにもきちんと説明しながら進めます。1人だけではあまり仕事は進まないけれど、「こういうことをしています!」とどんどん公開していくと、自分が何をやっていて何が大変なのか、上司も含めみんな知っている状態になります。それぞれの仕事に対するアドバイスをもらうこともありますよ。

2つの“本業”をやっていく中で、大変な点を教えてください。

人によって可能な範囲でやり方を模索していく。副業や兼業については、大手の会社がそういう話を踏まえて「あれ、こっちの方が人が辞めない気がする?」という雰囲気になってきている気はします。とはいえ、制度面がまだ全然追いついていないです。例えば、労災ってどっちが払うの? 社会保険は2社で折半するんだっけ? 全然違う健康保険組合だったらどうするの?とか。

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ケースが集まって増えていけば「こんなことが起きる」「あのときはこうで」と話すことができます。前に進んでいかないと分からないことが多いので、自分の働き方のことは積極的に話しています。

判断基準もまだなかなか整っていない状態ですね。

どうしても時間で計るので、私が「どちらも正社員です」と言うと、1日16時間働いていることになるんですよ。今の法律上そういうふうに見えているけど、じゃあ本当に半々かというとそうでもない……。働き方の未来を考える上で、法律で決められないこともたくさんあるし、それをどのようにカバーしていくかが課題だという話はよく出ます。

もちろん労働基準法自体は、労働者の安全を守り、事業者による搾取を防ぐために作られているものです。でも意外とつぎはぎで決まったこと、前例が引き継がれていること、よくよく考えるとおかしいことはたくさんあります。事例が先行している現状で、そこが足かせになっているなら見直さないといけないけれど、例えば労災の例のように事故が起きた場合などで「やっぱりまずい」と変化が阻害されてしまうのは怖いですね。副業や兼業を先行してやっている人たちもその辺りはすごく慎重で、ノリだけでやっているわけじゃないということはとてもよく分かります。

「自分らしさを持つ」というのは幻想。人の良いところはピンポイントで取り入れる

藤本さんが前職のGoogleを辞めてat Will Workを起ち上げた経緯について教えていただけますか?

大学時代から「人と向き合うこと」が面白いと思っていました。新卒時には人材紹介事業とメディア事業をやっている人材紹介会社に入りました。人材紹介で人と向き合うような仕事をしたいと思っていたのに、私はメディアの方へ。しかもやりたくなかった営業に配属されまして……。でもそれが結構面白くて! 当時はまだ紙の求人誌がたくさんあるころで、その会社のストーリー、なぜ採用するのか、採用する人にどんな期待をしているのか、全部が真っ白なページの上で形になっていくのが楽しかったです。

5年目のときに1つ下の後輩と結婚することになったとき「辞めるか、異動か」と言われました。では念願の人材紹介事業に異動だ!と思ったんですけど、ふとそのとき「この先、私自身が転職することってそんなにないんじゃないか」と考えて。どうせだったら何か違うことをしてみようと思って転職活動をして、縁があってGoogleに転職しました。

当時のGoogleの雰囲気はどのようなものでしたか?

Google マップはありましたけどまだストリートビューはない時代でしたね。就職人気企業ランキングの上位に入っているのを見ると感慨深いですね。

2年そこそこ働くくらいで良いかなと思っていたんですが、結局9年も在籍しました。普通の企業がおそらく100年くらいかけてやることを、短期間でやっている最中にいられたのは、とても良かったと思っています。

そんなGoogleを離れたのは法人設立のためということでしたが、法人を作ろうとした動機は?

長くいると一通りいろいろなことができてしまって、7年目くらいから何か新しいことをしたくなりました。いろいろ試行錯誤をしていく中で、当時は「働くお母さん」を支援するプロジェクトだった「Womenwill Project」の手伝い募集を社内で見つけたのがきっかけといえばきっかけかもしれません。「人と向き合うこと」をしたくて人材紹介会社に入ったら広告が面白くなってそこから広告にどっぷりはまって、人と向き合いたいということを一切忘れていたんですけど、「あっ、そうか、これやりたかったやつだ」とそのときに思い出しました。

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当時のプロジェクトを経て知り合った何人かと「もっと対象を広げられたらいいよね」「じゃあ協会を作ります?」という話をしたのが、実はat Will Workを作るきっかけです。独立した組織の方がやりたいことのゴールに近いということが分かったので、Googleを辞めることにしました。

「新しいことをしたかった」と「人と向き合いたいということを思い出した」は、リンクしてはいなかった?

直接リンクはしていないですね。でもたぶん、そのときが、思い出さないといけない時期だったんじゃないかなと思います。ラッキーでした。Googleを辞めるのも「強い意思を持って決めた」という感じではなかったです。葛藤はもちろんありましたし、後から振り返って「当時そのように決断した」ということは言えるんですが、当時の自分が心からそう思ったのではないと思います。そのときに良いと思うことをやっていればいいんじゃないか、やらずに後悔するようなことはしないくらいでいいんじゃないかと。

結婚してからGoogleに入社、そして次のステップに移るなど忙しい中で、プライベートへの影響はありませんでしたか?

あんまりなかったような気がします。私の仕事は自分で時間をコントロールできるので、バランスは取れていたと思いますね。向こうが結婚から5年くらいして会社を辞め、自分で会社を経営するようになってからは、一緒に海外に行くことが増えました。

考え方が似ているんですね。

そうですねー。でも実は私、今年離婚したんですよ。

えっ!? いつですか?

1月です。

つい数ヶ月前……。

はい(笑)。結婚式の記念日に離婚届を出しました。離婚届も婚姻届と同じで証人が2人いるんですけど、婚姻届と同じ証人2人に来てもらってサインしてもらい、4人そろって提出しに行きました。区役所の時間外担当の人が「こういう雰囲気で受け取ったことないんで……」ってすごく戸惑ってました(笑)。

仕事の方向性が変わったことが生活に影響したのでしょうか。

私が2つの仕事を始めて、向こうもまた違う仕事を始めて、2人とも価値観が変わってきまして。結果的にそれぞれのやりたいことを一緒にはできないという話になり、「結婚して10年経ったし、まあいっか」みたいな感じでした。「ライフスタイルとワークスタイルが変化すると、ファミリーのスタイルも変わっていくのは当たり前なんだね、こういうこともあるんだね」って話してます。

今でも彼とは仲良しですし、一番の親友です。周囲からは「どっちかが折れればいいじゃない」と言われましたが、そういうことでもないんですよね。お互いを一番分かっているからこそ、お互いが決めているライフスタイルが違うということも分かっています。なので、今の私たちの最高の選択肢ですね。なかなか理解されていないんですけど。親が未だに戸惑っています(笑)。

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それはさすがに戸惑うかもしれませんね。

周囲の人には「……とはいえ、何があったの?」と聞かれますね。社会的・世間的には「もったいない」と言われますし、なんとなく「うまくいっていることを変えるのは違う」という雰囲気があります。Googleを辞めたときにも「もったいない」って言われました。でもそれらは私が変化を起こした結果の選択肢の1つで、それ以上でもそれ以下でもないです。ワークスタイルがどんどん多様化しているのと同じくらい、今後はライフスタイルも変化していくんじゃないかと思います。たまたま私たちが早かったくらいで。

藤本さんは、働き始めてからずっと今のような考え方をしていたのでしょうか?

昔からではなかったと思いますが、真似をしていてもあんまり面白くないということはずっと感じていました。かといって、すごくオリジナリティを追求したいというタイプでもなく……。ダイバーシティに関する話をしているとロールモデルの話題も出てくるんですが、誰にどんなロールモデルを示したとしても、どうしてもちょっとずつ違うんです。私の場合を考えても、仲の良い先輩やかっこいいと思う先輩はいますけど、やっぱり私とは違う。

at Will Workの理事の1人である猪熊(株式会社OMOYA代表取締役社長の猪熊真理子さん)と頻繁に、「よく女性が『私らしさ』って使うよね、男性はあまり『自分らしさ』『僕らしさ』『俺らしさ』とは言わないよね」と話しています。女性は理想の人を見ると「ああいう人の真似はできない、あんなふうにはちゃんとできない」って比べて考えがちだと思うんです。でも「自分らしさを持つ」って幻想です。理想は理想で、そこにはあくまでもヒントしかないと客観的に割り切って、そして自分がどうするのか考えるくせをつけないと、幸せになりづらいんじゃないかと思います。

理想通りにならなくても自分はこうしていこう、という考え方ですね。

「あの人のああいうところが面白い」と思ったポイントはピックアップして自分の中に取り入れればいいですよね。とにかくいったん「あんなふうにしないといけない!」と考えるのをやめてみれば、実はどうしたらいいのか見えてくるんじゃないかと思っています。同じ人なんて誰もいないし、前提条件もみんな違うし。

幸せのバリエーションは結構多いし、その中のどれかはたぶん自分に合うものがあるだろう、って適当に考える(笑)。人生なんてそんなもんじゃないかな。「あんなふうにならなくてもいい」と分かった瞬間に、結構楽になると思いますよ。

ありがとうございました!

お話を伺った人:藤本あゆみ

藤本あゆみ

一般社団法人at Will Work代表理事 / 株式会社お金のデザイン シニアコミュニケーションズマネージャー。1979年生まれ。大学卒業後、株式会社キャリアデザインセンターに入社。求人媒体の営業職を経て、入社3年目に当時唯一の女性マネージャーに最年少で就任。結婚を機に退職し、2007年4月にグーグル株式会社(現グーグル合同会社)に転職。デジタルマーケティング導入支援、広告営業チームの立ち上げに参画し、営業マネージャー、人材業界担当統括部長を歴任。女性支援プロジェクト「Womenwill Project」パートナー担当を経て、2015年12月にグーグルを退職。2016年5月に一般社団法人at Will Workを設立し、代表理事として活動するとともに、株式会社お金のデザインで広報・マーケティングマネージャーとしても従事している。

次回の更新は、5月24日(水)の予定です。

ニフティの営業担当・橋本さんが大学で専攻していたのはデザイン。営業職との向き合い方は?【おしごとりっすん】

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はたらく女性の深呼吸マガジン『りっすん』では、「企業の中で働く女性」にフォーカスする新シリーズ「おしごとりっすん」を始めます。最初にお話を伺ったのは、ニフティ株式会社でコラムサイト「デイリーポータルZ」などの営業を担当している橋本静香さんです。

美術大学を卒業し、デザイナーという職も視野に入れて就職活動していた橋本さんが、新卒入社した会社で配属されたのは営業。専門分野とかけ離れた職種に、橋本さんはどう向き合い、どう仕事に取り組んでいったのかについてお聞きしました。

デイリーポータルZでは営業と編集部が一体となって仕事をしている

橋本さんは現在「デイリーポータルZ」の営業を担当されているそうですが、今のお仕事について教えていただけますか?

橋本さん(以下、橋本) 営業企画本部の中のコンシューマー営業部という部署にいます。広告周りを見ているチームで、「@nifty」のトップページや「@niftyニュース」などのディスプレイ広告を管理するメンバーが3人、タイアップをメインとするメンバーが私1人です。もともとはアドテク(アドテクノロジーの略。広告の配信や流通の技術・システム全般を指す)とタイアップ記事を両方担当していたんですが、「デイリーポータルZ」(以下、DPZ)のタイアップが売れちゃうから誰か行って!みたいな感じでタイアップがメインになりました。

「売れちゃうから」かっこいいですね!

橋本 一昨年くらいからコンテンツマーケティングが時流に乗ったこともあって引き合いをいただくことが非常に増えたので、担当を1人つけようということに。DPZ以外にも、主婦向けチラシ情報サービス「シュフモ」など、ニフティが提供するサービスのタイアップ案件を全部担当しています。

タイアップ全般を1人で担当されているんですか?

橋本 営業としては1人ですね。

規模の大きい案件があったり、案件が並行したりで、結構大変なのでは……?

橋本 大変だと思うことはそんなに多くはないですね。休むときはチームリーダーに全部やりとりをお願いして平気で1週間休みますし。営業に関係する案件は編集部の安藤昌教さんや他の人がフォローしてくれることもありますね。

DPZ全体がチームになっているんですね。

橋本 編集部との一体感はすごくあります。私は安藤さんと一緒に動くことが多いんですが、安藤さんはすごく仕事ができる人なので、「これお願いします!」って言ったら出来上がって返ってくるし、「面白いこと考えてください!」って言ったら面白い企画が返ってきちゃうし……。

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デザイナー一筋よりは、いろいろな可能性があるニフティを選んだ

ニフティさんに入社された経緯を教えていただけますか?

橋本 大学は美大で、武蔵野美術大学の造形学部視覚伝達デザイン学科というところで情報デザインの勉強を主にしていました。タイポグラフィを学んだり、ポスターを作ったり、Webの企画やユーザーインターフェース(UI)を作ったり……。

デザインを学んだけれど営業をやっているというのは結構珍しいのでは……。そもそも美大出身でニフティさんを選ばれるのもなかなか連想しにくいですね。

橋本 実はニフティには武蔵野美術大学OBが多いんです。私が入社した当時は営業に1人いましたし、エンジニアもいますし、もちろんデザインの部署にもいます。OBが当時のクリエイティブチームのトップで、大学の就職説明会にも来ていました。

デザイナーでの採用があるということですか?

橋本 いえ、ニフティは新卒時は全員「総合職」としての採用なんです。小さいころからインターネットばかりしていたので、「とりあえずインターネット関連のサービスが作れる会社に入ろう、デザイナーだったら何かできることがあるんじゃないか」という気持ちでいくつか会社をピックアップして就職活動をしていました。

 実際にいろいろな会社を見る中で、最初にニフティから内定が出たというのが大きかったんですけど、人事担当の方もものすごく良くしてくれましたし、会った人たちもなんとなく波長が合う人が多くて。

美大だからといってデザイナーにこだわっていたわけではなかったんですね。

橋本 他の会社では基本的にはデザイナー枠で就活をしていました。ニフティで総合職採用になってしまうとデザイナーになれるかどうかわからないということはその時点で教えてもらっていました。入社して1年間のうちに3ヶ所でOJTをして、グループワークなどもした上で配属されるということだったので、その上でデザイナーになれたらなるし、なれないならならないでそういう道もあるかな、と考えました。

迷いはありませんでしたか?

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橋本 多少迷いはありました。でも「ずっと働いていく」ということを勘案すると、デザイナー一筋よりはニフティの方が自分には合っているんじゃないかなと思いました。人事の方にもその点は相談していて、親身になってくれたので、選ばない理由も特にないな、というか(笑)。文系の大学出身で1年目で研修を受けてエンジニアになった人の話も聞きましたし、いろいろな可能性を感じました。

その後営業に配属されることになって、大学での専門であるデザインとはだいぶ離れたと思うのですが、そのあたりはどうお考えでしたか?

橋本 最初のうちは「会社側がデザインの能力をかってくれなかったんだな、がっかりだな、そっかそっかー」って思ったんですが(笑)、私はどちらかといえば「デザインができる! デザイン一直線!」というタイプではないと感じていました。だったらデザインの知識があって、他のこともできるようになった方が、能力を活かせるかな?と考えていて割と前向きでしたね。

焦りが強かった美大での就職活動

よく「美大生の就職活動はスタートの時期が遅い」なんていう話も聞くのですが、ニフティの内定が最初に出たということは、就職活動は順調だったのでしょうか。

橋本 私の周りでは熱心な人とそうでない人の二極化がすごかったんです。デザイン系の学科には、入学したそのときから「広告代理店に入ってアートディレクターになる!」「ゲームの会社に絶対行く!」と活動している優秀な人が一定数いました。そういう人は高校のときから関係する活動を既にしていたり、大学1年のときからインターンに行っていたり。大学に入ってから自分の知らないことが多いことにカルチャーショックを受けました。広告代理店関係の言葉も全然知らなかったし……。

 そんなに優秀な子たちですらずっと頑張っているのに、私みたいなタイプはふわふわしていたらやばい、情報をキャッチするのが遅かった、という気持ちがあったので、早い段階から就職に向けて動かないといけない!と思っていました。

橋本さんは熱心な方だったんですね。

橋本 大学3年のはじめからずっと就職に向けて活動をしていましたね。内定が出るまで1年間くらいそのことばっかり考えていました。私は割と変な負けず嫌いで、周りの目も気になるタイプだったので、周囲より先に決めておきたいという気持ちがどうしてもあって。

大学生活は焦りが強かったんですね。

橋本 方向性がない状態で大学に入っちゃったので、それですごく焦ってました。大学生に向けてこう言うと焦らせるだけになっちゃうと思うんですけど、すべて動くのは早ければ早いほど良いなって私は思いました。高校生くらいから方向性が定まっていた子は、途中で迷ったとしても確実に実力がついていくので。そんな人に大学2~3年から太刀打ちできないな、結構つらいものがあるなって……。

ニフティさんはパソコン通信サービスからスタートしてISP(インターネットサービスプロバイダー)として長く続いてきた会社ですが、社風のミスマッチのようなものはありませんでしたか?

橋本 もともとインターネットがとても好きだったんです。小学校5年生くらいのときにパソコン好きの親がパソコンを買ってくれました。まだダイヤルアップ接続のころだから、「つないだらお金がかかるよ」なんて言われましたね。PostPet(電子メールクライアント)がすごく好きでした。ダイヤルアップからADSLになった中学生のころにはマンガやアニメのサイトを見つつ、イラストサイトを作って交流したり、2ちゃんねるにすごくはまったり(笑)。

「インターネットと一緒に育った」という感じですね。

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橋本 広告系の仕事があることもろくに知らずに大学に入り、周りが広告系の会社を目指しているからなんとなくその勉強もしていて、でもやっぱり働くんだったら一番身近なものであるインターネットがメインの会社がいいなと考えていました。たいしたことはなかったかもしれないけどサイト制作もしましたし、ちょっとは活躍できるんじゃないかな? インターネット業界は若いからいわゆる“お局”もいないんじゃないかな?って。先ほど言った通り美大出身の先輩たちがいたのは大きかったですね。

どんな働き方があるかわからない状況よりはずっと心強いですよね。

橋本 美大生は社会性がないってずっと言われてきたから。私も社会性がないんだ!と思っていました(笑)。普通の企業に入ってもついていけなくなっちゃうと思っていたけれど、そこまで自分と違わない先輩たちがここで普通にやっていけているのであれば、自分もやっていけるかもしれないと思いました。あとはやはり、DPZがあったのは大きかったです。これが許されるのであれば、多少は大丈夫だろう、みたいな。

DPZの存在は大きいですね……! あのような独創性と、プロバイダーとしての運営を両立されていることについては、どう認識されているのでしょうか。

橋本 会社創立当時はベンチャーのような、新しい感覚でやっていたと聞いています。それに、パソコン通信のフォーラムのように、社内だけではなく社外の人と何かを一緒に作り上げるのが得意な会社、という性質があったんですね。DPZは林(ウェブマスターの林雄司さん)が小さなコーナーで始めたものが1つのサービスになりました。それが、どんどん認められるようになって、今は会社のブランディングという位置付けになっています。いろいろなものを受け入れられる土壌がある会社であるということに加えて、DPZがあることで「堅苦しくない部分も持っているんだよ」というイメージアップにもつながっていると思います。

デザインも数値も「人間が作ったものには理由や事情がある」と考える

営業でアドテクも一時期されていたということは、かなり幅広い内容を受け持っていたと思います。広告関連では数値管理などもするかと思いますが、それは配属先で学んで身に付けたのでしょうか?

橋本 私はとにかく数字が苦手だったので、それを克服したかったんです。営業でちゃんと数字を見られるようになった後にその先をいろいろ考えてもいいかな、という気持ちでした。やってみると意外とできるんだなって思いました。

頑張って勉強したとか……?

橋本 数字ってただの数字でしかないので、実はわからない部分にはわからない理由がちゃんと全部あるものですよね。だから、今は「なんで前はそんなに苦手だったんだろう?」くらいに思えるようになりました。慣れるまではめちゃくちゃきつかったです。CTR(クリック率)みたいな3文字のアルファベット多すぎない?とか、横文字多すぎる!とか。

 でも3~4ヶ月やって全体像が見えて「あ、もうこれ以上難しいことは出てこないんだ」って思って、そこを乗り越えてしまうと、良いソフトウェアがあるのでそれさえ見ていればいろいろわかるのが良いなぁ……って。小さいときからパソコンに接していたのも良かったのかもしれません。

「わからない理由がちゃんとある」というのは、理由の存在を見つけて、自分で問題解決していこうという考え方ですね。

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橋本 アドテクでは、数字を追っていくと「このタイミングでこうだ」というのがしっかりデータに全部出てきます。自分で計算処理をするわけでもない。データさえ見れば「じゃあこれお願いします」って調整すればいいだけなので、企画をうんうん言いながら考えるよりは答えがわかりやすい印象がありますね。

デザイナーという職種では、何かをデザインする際にただ漠然と考えるのではなく「この要素がある意味」などを緻密に考えるようですが、それが橋本さんの「理由がある」という考え方に近いのかなと感じました。デザインの知識がそのあたりに活かされているように思いますが、いかがですか?

橋本 活かされているといいですね(笑)。そういう気もします。ソフトウェアに関しては「作った人の気持ち」を考えます。使いづらいところがあっても「なんでここにこれを置いちゃったんだろう?」「作る側の事情もあったんだろうな……」なんて。

デザインを直接やっているわけではなくても、そのマインドを学生のときに培ったという印象があります。

橋本 その通りかもしれません。私は大学に入るまで「文字を作った人がいる」という認識が全然なかったんです。でもタイポグラフィの授業などで、活版印刷の活字って1つ1つ作った人がいることを知って。「人間が見ているものにはそれぞれ作った人がいる」というのは結構大きな発見で、そういう目線でものを見ると、いろんなことが許せるようになるんです。

数字やデータにも「人間が作ったものだからそこに理由がある」とつながるんですね。

橋本 「理由」と「事情」はよく考えますね。なんとなく生きていく中で、ああこういうことか、と腑に落ちた感じがあります。そこを学べただけでも美大に行った価値があったと思います。

目の前の「できないこと」を1つ1つ潰していくことしかできない

仕事のやりがいや、どんな仕事が楽しいかなどについて教えてください!

橋本 やっぱりDPZの記事に企画段階から一緒に入って、実際に記事が公開されてSNSですごく反応が良いと「やってよかった!」と思います。もちろん数値面も大事なんですが、良い記事ができるだけで本当にうれしく感じます。案件によっては調整が必要なこともあるので、そこをうまくできて良い記事になると「よかった」「ライターさんの名前に傷がつかなかった」とほっとします。

編集部との調整に際しては営業としてぶつかるケースもあるのではないかと思うのですが、どのように進めているのでしょうか?

橋本 私は立場上クライアントさんの意向を聞く側で、クライアントさんは直接編集部には言いにくいことを私に伝えてくるので、そこを一般的な観点で考えて「ここまでは大丈夫だと思います」というような話をしますね。それでも編集部のポリシーとして無理であればクライアントさんに「ごめんなさい」と言います。決定権は編集部が全部持っているので。編集部が「絶対いやだ」と言ったら無理強いはしません。それを相手側にどう納得していただくか、そこには気を遣いますね。

タイアップ記事でも編集部が最終決定をするんですね。

橋本 そうです。林はDPZをとても大事にしていて、関係するすべてのメールに目を通しています。最初に林さんから「意に反する記事を載せることで売上を達成できたとしても、サイトとして死んでしまうから、それは絶対にやりたくない」と強い意思を示されて、「わかりました!」と。

仕事で落ち込むこと、うまくいかないことなどもあると思いますが、どんなときでしょうか?

橋本 “営業あるある”ですが、クライアントにアポの打診をしてお返事が来ないとすごくへこみます。5年やっているのにへこむのか、と思うくらいへこみます。何回やっても地味に毎回つらいですね。

落ち込んだときの自分なりの対処法はありますか?

橋本 「すぐ返信をくれるクライアントに連絡する」です。仲良くしてくださるクライアントさん、気持ち良く会いに行けるクライアントさんがいるので、そういうところを大事にしていこうと思いながら連絡します。

仕事の悩みは仕事で解決する、それで癒やされるというのは、営業の鑑といいますか……。

橋本 この前もへこんだんですけど、好きなクライアントさんがメールをくださると「ああよかった……まだ私仕事してていいんだ……」って思います。

【おしごとりっすん】ニフティ株式会社・橋本静香さん

憧れの人やロールモデルのように思う人はいますか?

橋本 基本的にすべての人が憧れレベルなんです。他人の影響をすごく受けやすいので、自然と好きな人の近くにいるように動いているなというのは感じます。安藤さんをはじめDPZのチームの人が1人で海外にばんばん行ったりしている行動力を見ると憧れるし、自分でもやってみようと思います。私は1人でモロッコやキューバに行ったんですが、それはここ3年くらいの話で、DPZの影響でできるようになりました。

DPZの皆さんは、記事を拝見していてもすごく良い雰囲気に見えますね。

橋本 本当にみんな仕事ができて、人間的に穏やかで、怒られることも怒鳴られることも全然ないです。ニフティ全体でやさしいんですが。自分には厳しいけど他人に押しつけない人がすごく多いので、そういう人たちに憧れます。林さんはよく「機嫌良くいたい」と言っていて、それが周りにも影響を与えているんじゃないかと思います。

 たぶん私、この3年くらいで性格が変わってきているような気がしています。ネガティブになりがちな性格だったんですが、DPZのチームと一緒にいると「これでもいいんだ」っていう包容力に包まれるというか……。DPZの存在は大きいですね。プライベートでも見るくらい大好きです。

「これは会心の出来だった!」「最高にうまくできた!」というタイアップ記事を教えてください!

橋本 いっぱいありすぎて、今思うと「全部やってよかった!」と思います。みんなプロフェッショナルできちんと形にしてくれているので……。DPZ全体がアルバムのような感じですね。楽しくない出来事があったとしても「そんなこともあったね」と思えます。印象に残っているのは「大人のお化け屋敷」ですね! これはクライアントさんとDPZのバランスがとても良くて、ギャップをうまく生み出せてよかったです。

お化けのいっさい出てこない「大人のお化け屋敷」 :: デイリーポータルZ

今後のキャリアについてはどうお考えですか?

橋本 明確なものはないんですが、何でもできる人になりたいなって思います。PRやマーケティングの知識ももっとつけて、できることの幅を広げたい。今周りにいる人たちはみんないい人だし、能力がある人たちなのでうまく吸収していきたいです。近くにいる人5人の影響を受けて人間ってできていくと聞いたので、今はすごくいい環境だと思いますね。

 近づきたい人はいっぱいいるしイメージも持っているけれど、それと自分を比較するとどんどん卑屈になって「私はだめだ」みたいになっちゃうので、なるべくそうは思わないようにしようと思っています。まずは目の前にあることに対して自分が何ができるか、できないことを1つ1つ潰していくことしかできないなっていう気持ちですね。

「1年後や3年後はこうなっていたい」という視点も特には意識していない感じでしょうか。

橋本 漠然と「ちゃんと給料上げていかなきゃな」とは思います(笑)。目標を定めて進める方がきっと早いんだろうとは思うんですが、完成像を決めて進むのが苦手な性格だと思っているので、割と小さく小さく、そのときの気持ちが一番ポジティブになれるように生きていった方が私には向いているかなって思っています。

ありがとうございました!

お話を伺った人:橋本静香(ニフティ株式会社 営業企画本部 コンシューマー営業部)

橋本静香

ニフティ株式会社ではフレックス制を採用しており、コアタイムは10~15時。橋本さんは18時ごろには会社を出てすぐ帰宅し、犬と遊んでリフレッシュすることが多い。「お酒があまり飲めなくて、家が大好きすぎる」。一時期はゲームアプリを作ったりオリジナルキャラクターのLINEクリエイターズスタンプを作ったりしていたとのこと。

▼ 橋本さんが開発・制作したアプリ・LINEスタンプ
そだてて!うんにゃんこ 〜ねこを育成する物語風の空き時間用ゲーム〜
ラッキーキャット!うんにゃん その4 - LINE スタンプ | LINE STORE
キャンディーカップケーキ's - LINE スタンプ | LINE STORE

次回の更新は、5月17日(水)の予定です。

文・万井綾子/写真・小高雅也

主夫を選んだ夫と、キャリアを重ねた妻。「育児と介護のダブルケアをきっかけに家庭をチームに変えた」村上さんご夫妻の場合

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千葉県市川市に暮らす村上誠さん・康子さんご夫妻は、祖父、長男、次男の3世代・5人家族。誠さんはお母さまが倒れたことを機に、康子さんのキャリアを優先して主に家事・育児・介護を担う「主夫」を選択し、父親を支援するNPO法人「ファザーリング・ジャパン」や多様な男性のライフスタイルを発信する「秘密結社主夫の友」のメンバーとして講演や登壇をするなど積極的に活動しています。康子さんはベンチャー企業での激務を経て、英語教育に携わりたいと考え、現在では子供向けの英語教室や小学校3校での外国語活動指導員として活躍中。

「妻のキャリアを優先する」「主夫として家事・育児・介護を担う」――その背景には、村上家の合理的でフレキシブルな考え方がありました。13年の結婚生活・家族の暮らしについて伺いました。

家庭を「チーム」と考え、得意分野を活かし、最適化する

村上誠さん、康子さんそれぞれの経歴について教えてください。

誠さん(以下、誠) 僕は大学で建築を学び、都市計画のコンサル会社に勤めていましたが、ちょうどインターネットが普及し出したころに退職し、フリーランスでグラフィックデザインを始めました。Webサイトを作ったり印刷物を手掛けたり。妻は結婚してから正社員になりました。

「結婚してから」なんですね。

康子さん(以下、康子) もともとは派遣社員として秘書を長くやっていました。私は母が専業主婦、父が夜遅くまで働いているような典型的な“昭和の家”で育ったので、「子供を産んだら家に入るだろう」と勝手に思っていたんですけど、夫の両親はまったく逆で、2人で働きながら子供たちを育ててきたので、「妻も働くのが当たり前」というマインドだったんです。結婚して夫の両親と同居したら「私たちが子供を見るから働きなよ」って言われました。「えっ、私働くの? じゃあ行ってきます……」って。

「働きなよ」と言われても、当時「バリバリ働く」イメージはお持ちではなかったんですよね。

康子 まったくなかったです。自分の中にそういう選択肢があることさえも分からなかったくらい。結婚したし安定した仕事をした方がいいと考えて、派遣社員ではなく正社員で、ベンチャー企業の社長秘書として就職しました。そのときはとにかく仕事、仕事っていう環境でしたね。

 ちょうど10年前のそのころ「ワークライフバランス(仕事と生活の調和)」の推進が叫ばれるようになり、その理念に共感しました。私がいたベンチャー企業は若い人が多く、平均年齢は27~28歳。社内にワーキングマザー自体がいなくて、妊娠したら辞めてしまう人もいて。私が実質的に最初の産休・育休取得者でした。

誠 普通は育休後には円滑に復職できるよう、慣れ親しんだ元の部署に戻れることが多いと思うんですが、妻は役員秘書だったのでそのポジションはひとつしかなくて、代わりの人はもういる。英語ができたので、それまでの経歴とは違う「海外事業戦略部」という部署へ配属になりました。本人も頑張ったんだけども、やっぱり子育てしながらの新しい業務は難しくて。

康子 仕事と育児を両立できない会社はきついと思い、ワークライフバランスを推進しようというプロジェクトを社内のビジネスプランコンテストに出したら優勝しまして、そのプロジェクトリーダーになりました。15人のメンバーでプロジェクトを推進し、2年後に子育てサポートをしている企業としての厚生労働大臣の認定証「くるみんマーク」の取得をしました。

ハードな働き方をしていると、自分や家族の人生のことを考えるのが後手後手になってしまいそうですね。康子さんがそのように働く中で、誠さんが「主夫」を選ばれたのはどのようなタイミングだったのでしょうか。

誠 僕の母が倒れて要介護になったのが2008年で、そのとき妻は復職して2年くらい。ちょうどワークライフバランスのプロジェクトが本格始動していたころでした。昔だったら「嫁が介護する」が当然だったのかもしれないけど、これからはそういう時代でもない。自分の親のことですし、今まで親に世話になって迷惑を掛けてきたから恩返ししたいという気持ちもありました。

 また、家族全体のことを考えたときに、妻が自分のやりたいことやキャリアを犠牲にして介護に入ったところで、果たして家庭がうまく回るのか?という疑問もありました。妻は妻で、やっぱり自分自身の人生を生きて輝いていてもらう方が、お互いに精神衛生上良いと考えたんです。母親に何かしらのフラストレーションがあると、子供に注ぐ愛情も減ってしまう。心のコップが満たされていることが、絶対家族の中でいろいろなものの潤滑油になると思ったんです。

康子 結構考えてたんですね?

誠 そうですよ(笑)。

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「主夫」は誠さんから提案したんですか?

誠 はい、そうです。僕もうちの父も母も個人事業主で、母が倒れたときに社会保険に加入していたのは妻だけだったんですよ。当時のトータルの収支を考えると、僕がワークダウンし、妻にはそのまま働いてもらって、要介護認定を受けた母を妻の扶養に入れて、扶養控除や医療費控除を受けた方が家計のために良かったんです。控除分の課税対象額が下がったため保育料も下がりました。世帯年収の減少を節税対策で補いました。

康子 消去法でもありました。家庭の仕組みを変えて、そういうチームにしていったんです。

なるほど! チームメンバーの得意なことやメリットを考えた上で最適化をするんですね。

誠 合理的な判断でもあるかなと思います。家事は僕の方が得意だったからね。性別関係なく、それぞれの得意分野を考えたら、村上家では自分が主夫になったという感じですね。

康子 夫は料理がとにかくうまいんです!

その生活を始めてから、おふたりの意見が衝突することはありませんでしたか?

康子 いやー、結構衝突しましたね。「私もう働けない、無理」という話はよくしました。泣きながらのけんかもしていた気がしますね。「私、なんで働いてるの!」って言うこともあったり。

けんかして、衝突もして、最適化の方向を模索した、と。

康子 そうですね。けんかした後に落ち着いて「じゃあやっぱり働きに行くね」なんて。

誠 介護と並行して不妊治療もしました。子供は複数欲しかったんですが、1人目ができたから大丈夫だろうと思っていたら2人目がなかなかできなくて、仕事で忙しい中病院にも通って。

康子 毎日通院し、注射を打ってから会社に行く時期もありました。

不妊治療は身体の負担も大きいと聞きます。仕事しつつ治療もされていたのでしょうか?

康子 そうですね。「不妊治療をしたいけどできない! 辞めます!」と会社で言っていたんですが、異動先の上司が理解のある人で「だったら治療しながら働いてみたら?」と言ってくれまして。そんなに理解がある部署もなかなかないし、首が1回つながったくらいの気持ちで、治療しながら一生懸命働いて、四半期の本部表彰に選ばれました。そしてやっと第2子ができました。

誠 第2子の育休からの復帰後は時短勤務だったんですが、時短勤務とフルタイムで賃金がものすごく違うんです。フルタイムの場合ではみなし残業代が含まれていたので、多少早く退勤しても満額もらえていました。その会社の時短制度は定時退社で、みなし残業代が含まれないため、帰りの電車の中や帰宅後の時間帯にメールの処理などをしていても以前の6割程度の賃金しかもらえない。「同じ業務をするならフルタイムに戻った方がいいんじゃない?」と話し合って、復職から半年くらいでフルタイムに戻りました。

康子 とはいえフルタイムだと仕事がさらに増えてしまって……。当たり前なんですけどね。

離職、病気、介護……人生の転換期に「主夫」を選ぶ人たち

誠さんの「秘密結社主夫の友」での活動の前提として、他の主夫の方との接点があったと思うのですが、どのように活動を広げていったのでしょうか?

誠 妻がワークライフバランスのプロジェクトをやり始めてから「父親の子育て支援・自立支援事業を展開するファザーリング・ジャパン(FJ)という団体がある」という話題が出たこと、妻の同僚が転職した会社にFJのメンバーがいたことで、つながりができて、2008年にFJに入会しました。現在は会員が全国に400人以上います。

 そういう団体にわざわざ入ってくる人は、子育てしている父親の中でもとんがった人たちが多い(笑)。他の人よりはちょっと浮いちゃってるくらい先進的なことをやっている人たちがいます。ファザーリング・ジャパンの“非”公認団体である「秘密結社主夫の友」の活動もそのひとつです。

「秘密結社」という名前からして確かにとんがっていそうです(笑)。

誠 一般的に主夫というと「専業主夫」と思われがちですが、「秘密結社主夫の友」のメンバーには「兼業主夫」が多いんです。女性の場合だと、「専業主婦」も「兼業主婦」もあるじゃないですか。働いているお母さんはデフォルトで「兼業主婦」で、どれだけ家事・育児をやっているかは関係なく誰でも「主婦」と呼ばれる。でも、男性の場合はそういう言葉がなかなか普及していなくて、ちょっと育児をしただけで「イクメン」と呼ばれてチヤホヤされる、それもおかしいですよね。

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確かに非対称性がありますね。

誠 主体的に家事・育児をやっている意識がある男性なら「主夫」を名乗ればいいと考えています。家事の割合は妻の方が多かったとしても、前向きに家事・育児に取り組んでいれば「兼業主夫」ですよね。誰しも人生の中で、何かしら夫婦、家族の転換期があって、うちの場合は介護でしたけど、人によっては離職だったり病気だったりもします。そういう転換期に「自分たちの家庭をどうしよう?」と考えて家族の最適化を図った結果、男性が家の中のことを主にやるという選択肢を取っただけなんですよね。

そういう転換期は、確かに男女というくくりとはまったく関係なく訪れますよね。

誠 今の若い人たちは男女とも家庭科を必修科目として学んだ世代ですし、一人暮らしを経験する男性も多い。家事は性差よりも個人の意識と経験が大きいですね。「女性だから家事が得意だ」「結婚したら夫が外で働いて妻が家事・育児をやるのが当たり前」といった固定的性別役割分担意識に縛られない方がいいと思います。

 統計上では主夫は急増しているけれども、まだマイノリティで孤立していて、身近なロールモデルもいない。そうであれば、きちんと活動して男性の多様な生き方を発信していこうということになりました。メンバーの1人である放送作家の杉山ジョージが「どうせ発信するなら、面白おかしくした方がメディアウケがいい」と戦略を考えて、「秘密結社主夫の友」と名乗ることにして、でも秘密結社という割にはがんがんメディアに出て面白いことをやる、という路線でやろうということに。

いろいろなつながりがあったんですね。

康子 NPO法人に入ったら濃いメンバーがいっぱいいた、って感じですよね。

誠 珍獣が集まった感じだよね(笑)。子育てをする父親というきっかけでFJにつながり、そこに入ってみたら主夫が結構いた。「父親と育児の関わり」はFJとして10年以上推進しているんですが、「一過性のムーブメントで終わらせず、次にどういう仕掛けをするか」ということを我々はいつも考えています。イクメンの次のステージのひとつは「男性がもっと家事に関わる」だと思っています。それが今、国を挙げて「男性の家事推進」に取り組んでいる。ようやく時代が追いついてきた、動いてきたという感じです。

男性にとっての男女共同参画 | 内閣府男女共同参画局

「いつかは」と思い描く自分のやりたいことで「隠れパラレルキャリア」を作った

康子さんがそれまでの会社勤めではなく英語教育に関する仕事に就いた経緯はどんなものだったのでしょうか?

康子 将来的に何をやりたいかについて、自分の軸に「英語」「海外経験」の2つがあったこと、子供が産まれて子供に触れるきっかけができたことから、「地域に根付いた生き方」「子供に関わる生き方」をしたいと漠然と考えていました。第1子の育休中に危機感を感じて、ひとまず「小学校英語指導者資格」という民間の資格を取りました。

誠 妻はバリバリ働いてはいましたが、そのころから「長時間労働ありきの働き方は、年齢を重ねて体力が落ちてきたら厳しいよね」と話していました。終身雇用が絶対ではなくなった今は、いつ会社が傾いたりリストラされたりするかも分からないのだから、会社にずっと属するという選択肢以外の道もオプションとして考えていく必要がある。そんなときにたまたま、本屋で「小学校英語指導者資格」のことが載っている雑誌を見つけたんです。

康子 第1子の育休当時はまだできて間もない資格だったんですが、小学校では英語を教える場合に資格を持った民間指導員が担当するところが多いので、資格を取っておくとその後に有利かもしれないと思ったんですね。

誠 育児中心の毎日に追われて過ごすよりも、外に目を向ける方がきっと前向きになれて、気持ちも切り替えられる。目の前のことだけではなく、子供が育ったその先の生き方を少し描けた方が、今の子育てにおいても少し肩の荷が下りるかなと思いました。

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康子 育休から復帰しても、資格については「単に持っている」だけで終わるパターンかな……と考えていました。でも長男が私立の認可保育園にいたときに、保育園専属で英語を教えていた外国人の先生が辞めてしまって、ママ友から「そういえば資格取ったんだよね、英語教えてくれない?」と言われまして。「えっ、私が?」と驚きましたけど、そういうチャンスはなかなかない!と見切り発車をしました。

復職後ということは、会社勤めをしながらなんですね。

誠 月1回、週末に長男の保育園での友達数人に教え始めました。

康子 初日は子供たちがずっとざわざわしっぱなしで、すっごく落ち込みました。「子育てはしていても、英語を教える以前に“子供の扱い方”を知らないんだ私!」ってがつんときました。でも保護者の皆さんはありがたいことにずっと私に任せてくれて……。第2子の育休のときに、保育士の資格を取らないといけないな、って思ったんです。

再び育休のときに資格取得!

康子 子育てイベントで子供向けの講座を一緒にやった保育士のお母さんを見ていたら、そんなに声を張り上げていないのに子供たちがみんな注目していたんです。私といえば「聞いて聞いて!」って大きな声で言っているだけ。保育士の知識と経験はすごく大きいのかな、とはっとさせられました。その後勉強を始めようとしたら、保育士の資格を取得しているFJ所属の方が、通信教育の教科書をどさっとくれたんです。それがまた背中を押してくれて……。

誠 妻は育休中も僕が家事・育児をしている間に勉強し、会社に復帰してからも通勤時間で勉強して、3年かけて保育士の資格を取りました。一度合格した科目は3年間有効なのですが、それが無効になる3年目がピンチだったんです。

康子 育休期間だけでは間に合いませんでした。通勤電車の行き帰りで勉強したけど、全然頭に入らなくて……。結局、まだ資格を取れていなかったタイミングで会社を辞めて、時間ができたので、試験の直前にめちゃくちゃ勉強しました。

会社を辞めたことと保育士の資格取得とは、直接はつながっていなかったんですね。

康子 そのころには体力が落ちてしまって睡眠もなかなかとれなくて。会社勤めの最後の方は毎日夜中に帰宅してました。このままだと本当にまずいなと思って辞めました。

誠 社内でも古参のメンバーだったから職位も上がっていて、マネジメント方面の期待もされていて、すごく忙しくなっちゃったんだよね。帰っても子供の寝顔しか見られず、さらに持ち帰った仕事を深夜までこなす日々。終電を逃すこともありましたね。疲れてぼーっとして逆方向に乗っちゃって、もともと方向音痴ではあるけれど「私はどこにいるんでしょう?」って電話で聞かれたこともありました(笑)。

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康子 そういう状態だったので、「いつかは地域貢献を」「いつかは自分の強みである英語で仕事を」というマインドを持ちながら、勝手に「隠れパラレルキャリア」を築いていた状態ですね。月1回の英語サークル活動だとしても、続けていることでコンテンツも増えてきますし、一人ひとりの子供に合った指導法の経験値も上がってきますし。そうこうしているうちに、夫が去年(2016年)、小学校英語指導者の募集を見つけてきてくれて。

誠 市の広報に載っていたのを見つけたんです。

康子 ダメ元で受けたら通って、2016年11月から外国語活動指導員として働いています。通ったときは泣きましたね。10年間「いつかは」と思い描いてきたものが目の前に来たので……。

まさに「やりたいことが結実した」という感じですね。

康子 うれしいですね。自宅での英語教室や短期レッスンも、これまでは知り合いつながりばかりだったのが、「公民館に貼ってあったチラシを見ました」と連絡してくれる人がいて。期待に応えていきたいなと思っています。

誠 10年かけてまいた種がようやく実になってきましたね。

康子 会社の仕事のほかにやりたいことの場数を踏んだのは、とても大事だったと思いました。忙しいときは何もしたくなくなるなど、すごくつらいことも大変なこともありましたけど、ずっと続けたらそれが糧になりました。失敗してもトライアンドエラーで「先月よりうまくやろう」の繰り返しをずっとやっています。会社を辞めたときに意外と新しい道へうまくスライドできたんですよね。「ならし保育」ならぬ「ならしセカンドライフ」というか。

「病院に行くと、お父さんのあり方が変わっているのを感じる」

子供を取り巻く環境の中で、「お母さんが働いていてお父さんが家にいるのって、普通の家とは違う」というような同調圧力はありませんでしたか?

康子 保育園の子供たちは慣れていたと思います。友達が遊びに来ると必ず夫が家にいるので。「お父さんは家にいるものである」という状態でした。

誠 自宅で子供たちが遊んでいるところに「何やってんだ?」って顔を出したりね。

康子 小学校に入って新しいお友達ができたときに、保護者からの「?」という見えない圧力はありました。父親がPTAにすごく参加するし、授業参観日も必ず両親でいる。懇談会でも教室に父母が両方そろうのってやはり珍しくて。でもそのうち慣れました。周りも慣れてくれたようです(笑)。

誠 PTAは「女社会」で、世間と逆だなという印象でした。女性が活躍しようとしたら「男性社会の壁」があるってよく聞く話じゃないですか。それが、地域社会では逆。自分が異質なものとして入っていく感じでしたね。

康子 見かけもこんな感じなので……。でも、慣れちゃうとママ友扱いです。

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誠 「両親が共働きの家庭」と「お母さんが専業主婦の家庭」ではだいぶ考え方が違いますね。保育園では父親の送り迎えも増えていますし、父親の役割が変わってきていると肌で感じるんですけどね。小学校の活動は平日昼間が多く、どうしても幼稚園出身の専業主婦の方々が中心となります。運動会などの行事への父親の参加は増えていますが、学校協力やPTA活動への男性の参画はまだ少ないですね。

康子 2年前に夫婦でPTA活動をやったんです。本来は1人でやる学年委員長を夫婦連名で初めてやったんですが、さすがにそれは異色すぎたみたいです(笑)。

それは最先端ですね……!

康子 育児に関わるお父さんは本当に増えてきたよね。この間子供を連れて病院に行ったら、ほとんどお父さんが子供を連れてきていてびっくりしました。

誠 前はお医者さんに「お母さんはいらっしゃらないんですか?」なんて聞かれたり、「父親じゃ話にならん」という雰囲気だったりしたんですけどね。病院に行くと、やっぱり時代は変わってきたと思います。白い目で見られなくなった。

康子 よく耐えてきたね。

誠 いや、全然気にしてない(笑)。でも主夫仲間の中には、主夫になった直後は自分のプライドがあったり、周りの目が気になったりして、スーツで外に出かけていたなんていう話も聞きますね。

誠さんの、主夫業と仕事との両立はいかがですか?

誠 ワークダウンした後は登壇や講演などNPO法人関係の活動の方が多くなりました。ライフステージに合わせて、自由に、フレキシブルに自分が変化できるようになっておけば、会社に縛られすぎることがないんじゃないかなと思います。夫婦の稼ぐバランスはさまざまでも、両輪で柔軟に動けるようにしておいた方が、何かあったときにも良いですよね。

複数の仕事を持つというのは、康子さんのパラレルキャリアの話に通じるものがありますね。

康子 結婚相手によっては違う働き方や生き方をしていたかもしれないですね。自信がない時期はありましたけど、「結局は実績があれば自信になる」ということがやっと分かりました。「継続は力なり」って、月並みな言葉なんですが、私にとってはとても大事な言葉なんです。継続するってとても難しい。でも続けるために何回も復習や反省をしているわけだから、その分だけ以前の自分より成長していることを実感しています。私はきっと、いろいろなことを止めていないだけです。

この先のプランについて考えていることをお聞かせください。

誠 妻が会社勤めをしていたころは妻の方が高額で安定した収入があったけど、英語教室の運営や学校の仕事ではどうしても減収するので、今は僕の方がメインで稼いでいます。その分、妻には家事の負担を増やしてもらっています。

康子 夫の方が収入の伸びしろがあるので「頑張れ―」「働けよー」って言ってます(笑)。

誠 プレッシャー掛けられてます(笑)。妻が会社の仕事でいっぱいいっぱいだったとき、「誰が稼いでいるの!」って言われたこともありました。「今度こういう請求が来るんですけど……お金が必要なんですけど……」と生活費を要求すると「は?」みたいな反応があったりとか。

康子 悪い意味で男女逆転していた時期がありましたね。お互いのことを理解した上での逆転ではなく、単に逆転しただけの時代があって。「これはやばいね」と自覚したんですよね。

男女の役割固定化という意識が社会に根強く残る反面、病院で子供を連れたお父さんが増えたように、年月を経て変わったところも多いと思います。こういうところがもっと変われば……と思うことがあればお聞かせください。

誠 男女の役割がどちらにせよ、負荷が固定化されている状況はリスキーだと思います。状況に応じて互いに役割を柔軟にシフトして補い合えるチーム体制を準備しておけるといいですね。自分たちは変わってきたし、これからも変わり続けるんだと思います。僕は、どんなタイミングでも「自分がそのときの立ち位置で経験していることを、自分のビジネスや生き方にどう活かせるか」とポジティブに考えた方がいいと思っています。

 今NPO法人で子育て支援の活動をしているのも、自分が実際に子育てに関わっているからこその視点や経験値を商売にしているわけです。女性にとって子育てはキャリアロスやマミートラック(出産・育児休業を経て復職した女性が、子育てと仕事を両立する名目でそれまでと違う仕事に変わり、キャリアアップのコースから外れてしまうこと)に陥るきっかけになりがちですが、妻は子供向けの英語教室運営に、子育てによって得られたことを活かしています。どう活かすかについて考えてきた結果、今の我々がある。子育てはしなくちゃいけない、家事もしなくちゃいけない。しないといけないことを負担に思うのではなく、どう楽しんでいくかですね。

康子 うまくいっていないことやネガティブな話も全部含めて「直面していることを仕事につなげていける方がいい」という考えで動いているところはありますね。不妊治療の話も、自分たちにとっては本当は言いにくいことだけど、それを世間に向けて発信することで「あっ、働きながら不妊治療って意外とできるんだ」と励まされる人もいます。仕事は仕事、家は家と切り離すのではなくて、全部相乗効果です。

誠 周囲を気にするよりは自分たちのスタイルを全部オープンにした方がいいと思っているんですね。オープンにするといろいろ言ってくる人もいますし、理解されないこともある。けど、楽になるし、共感してくれる人もいるし、励まされる人もいる。うちはうち、そとはそと。今、企業ではダイバーシティが求められていますが、同様に家庭のあり方も多様性があっていいと思います。

康子 日本社会の中では、ちょっと他と違うだけでもすぐ風当たりが強くなっちゃいますよね。でも「世界を見たらもっといろんな人がいる」という感覚を持てたら、もっと生き方が楽になるし、他の人に相談しやすくもなると思います。うちはかなりいびつというか、“とんがっちゃってる家庭”になっているかもしれませんが、「こんなにとんがってる家庭もあるんだ!」と知ってもらうことが多様性を持ちたい人にとってのきっかけとなり、少しでも考え方を楽にしてもらえたらいいなと思っています。

ありがとうございました!

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お話を伺った人:村上誠・村上康子

村上誠・村上康子

誠さん:1971年千葉県市川市生まれ。市川市在住。東京理科大学理工学部建築学科卒。グラフィックデザイナー/兼業主夫。NPO法人ファザーリング・ジャパン理事、ファザーリング・ジャパンちば代表、NPO法人孫育て・ニッポン理事、NPO法人いちかわ子育てネットワーク理事、「秘密結社主夫の友」の総統を務める。

康子さん:幼少期からアメリカ、フランス、クウェート、インドネシアに在住。青山学院大学在学中にアメリカへ留学。コロンビア大学にてAmerican Language Program受講。第1子の育休を機に小学校英語指導者資格(J-SHINE認定)を取得、第2子の育休を機に保育士試験に合格。2011年より市川市を拠点に幼児・小学生向け英語教室「Bridge to English」を開講するとともに、親子で英語を楽しめる「エデュテイメント」を商業施設や地域の親子広場にて開催。小学校3校の外国語活動指導員。

“専業主婦幻想”との戦い方から、男女の生き方まで――河崎環さんインタビュー

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こんにちは、ライターの小川たまかです。ふだんは、働き方や教育、性のあれこれについて話を聞いたり書いたりする傍ら、編集プロダクション・プレスラボの取り締まられ役と言われたりしています。

先日、コラムニストの河崎環さんとお仕事をご一緒する機会がありました。コラムの内容からクールビューティーなイメージのあった河崎さんですが、実際お会いしてみるととても気さくで話しやすい方。一瞬で大好きになってしまった私は図々しくも、すぐに改めて取材を申し込みました。いろいろお聞きしたいことがあったからです。

河崎さんと言えば、さまざまな媒体で活躍し、働く女性があこがれる、いわばロールモデルのような人。そして大学在学中に学生結婚し、一度は専業主婦になったという経歴をお持ちでもあります。河崎さん自身が専業主婦になったときに感じたことってどんなことだったのか? ……という切り口から、現代の女性の生き方、さらには男性の生き方にまで話題を広げ、あれこれと質問してみました。


取材・文/小川たまか(プレスラボ) 写真/相羽くるみ

専業主婦議論に感じるもやもや

──河崎さん、今日はよろしくお願いします。早速ですが、私は働く女性を取材することが多いんですが、たまに専業主婦の方から「今は兼業主婦ばかり正しいって言われる。誰も専業主婦に注目してない」と言われることがあるんですね。そう言われると少し申し訳ない気持ちになります。私がもやもやするのは、メディアにしろ政治家にしろ、「専業主婦だって一つの尊い仕事」って言うくせに、彼女たちに与えてるのはその言葉だけなんじゃない? っていうことです。

専業主婦が本当に「仕事」として認められているなら、育児のためにいったん仕事を辞めても職場復帰できるはずなのに、まだまだ難しい現実もある。それなのに、口でだけ「立派な仕事」って言うのって、ごまかしだなあ……と。

河崎 専業主婦の仕事を年収に換算すると○○万円みたいな計算は出るけれど、実際に誰かが支払っているわけではないですもんね。多様性のある社会っていう視点からいうと、やはりどのような選択も等分の敬意を受けるべきなので、「大事な仕事だよ」って言うことは間違っていないと思います。

ただ、それを踏まえた上でなおかつ言えることは、私自身が以前「専業主婦」という選択をした人間として、本当に充実していたと胸を張って言えるのは子どもが小さいときだけだったんですよね。当時、自分でもそれがわかっていたから、「大事な仕事だよ」という言葉を受け取ったし、自分に言い聞かせるように言っていたんです。

実際、私の年代は男女雇用機会均等法以降に社会人になっているので、周囲でも同世代は一定の就業経験を持つ“ママ”ばかり。子どもが小さいうちは専業主婦であっても、「子育ての手が離れたらまた仕事をしたい」と、はじめはパートタイムやいわゆる“ちょこキャリ”と呼ばれる形で、少しずつ家庭から外へ出て、行動範囲や視野を広げていく人が本当に多いです。

──私は子どもがいないので、子育てについてのあれこれを迂闊に言えないのですが、やはり成長するにしたがって手がかからなくなるものなのですか?

河崎 もちろん家庭によって差はありますが、特に就園・就学という形で子どもに家庭とは別の居場所ができるとぐっと楽になってきますよね。なんというか……時期が来ると子どもの方から正しく離れていくんですよ。親に秘密を持ち始めたりするし、思春期に成長のあり方として子が親から離れるのはすごく正しい。

でもそのときに、いわゆる毒親と言われるような人たちは、自分から離れていく子どもの足を折ってしまうんですよね。「私がいないとダメよ」って言って、自分の存在を正当化してしまう。実際に依存しているのは親の方なんですけどね。

戦後の企業戦士型の家庭においては、専業主婦と家庭に不在で働く夫というスタイルの方が効率が良かったし、座りも良かった、非常に。だからその生き方が完全に正当化されて、PTAなんかも専業主婦を前提の仕組みが出来上がってる。

でも、私たち庶民レベルで女性がみんな専業主婦っていう生き方は歴史的には実は一世代しかないんですよね。専業主婦型の家庭モデルは完全に時代の中では異質なはずなんだけど、その時代にテレビやら雑誌やらメディアがすごく発達したので、それが女性の正しい生き方みたいになっちゃった。

専業主婦だってそんなに弱いばかりではない

──日本のいい時代とちょうど重なってしまったから、社会が“専業主婦幻想”みたいなのを捨てられないのかもしれません。以前、河崎さんが対談で「エリートコースを歩んでいた同級生が結婚出産であっさりと仕事を辞めることに対して『自分の敗北感になる』」ということを仰っていて、私も同じことを感じていたなあと思いました。専業主婦が悪いわけじゃないけど、「首席で卒業したあの子がなんで……」とか、心のどこかで悔しいというか、もったいないなあ……という気持ちになってしまいます。

河崎 うん、私も自分や友人の姿を見て、そういう葛藤が長かった。でも最近この考えに至ったんですが、実はその、「首席で卒業したのに」みたいな喪失感っていうのは、割とマッチョな考え方なんですよね。男性の価値観の枠組みの中で女性を考えたときの喪失感なんだよね、それは。

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──そっか……マッチョ……そっか……。

河崎 自分の中にも、もうその仕組みがインストールされていることにそこで気づくんですよ。とはいえ、そういうことで専業主婦と兼業主婦が反目し合うとか言われたりしますけど、私は女性って回遊できる生き物だと思っているんです。人生の間に自分のいろんな立場を舞台によって変えていく。

──回遊……?

河崎 専業主婦にしてもワーママにしても、1人の女性の決断。表裏一体の、1人の女性の話。ライフステージによっても、あるいはその周りの状況によっても自分の身の置き方を変えられる。専業主婦だってそんなに立場が弱いばかりではない。

小川さんは育児で一度仕事を辞めたら復帰できないことも多い、と仰ったけれど、絶対に復帰できないわけではないし、「フルタイムでなければ」とこだわらなければ、ちょこキャリでもパートでも仕事を再開することができる。復帰するならフルタイムでなければ「働く女性」とは言えない、プライドが許さない、と信じ込んでしまっている時点で、既存の枠組み……他人が過去に作った価値観の中に囚われてしまっているんですよ。

そこから自由になって、自分のできる範囲からできることを始めて広げていける、創意工夫に溢れ、時間と空間の中で自由に自分のありようを変えられるのが、女性の持つ柔軟さ、順応性の高さだと思います。男性はそれができないんですよね。というか、仕事の量をライフスタイルに合わせて減らしていくようなやり方を方法としてまだ知らない。

男性は生き物的に女性よりも優遇されてきたようにみんな思うかもしれないけれど、全然そんなことはなくって、彼らには「人生を仕事に吸われる」か「そこから脱落する」か「はじめっからそこに参加する権利が与えられてない」か、冷静に考えると絶望的な選択肢しかずっとなかったんですよね。非常に不自由なんですよ。

男性は「男から降りる」ということが難しい

──男性の方が選択肢が少ないっていうのはその通りだと思います。男性の中の勝ち組が作り上げた仕組みだとは思うのですが、どんなに仕事の能力がなくても働かなければならない雰囲気がありますし……。

河崎 私は「あーほんと男性はかわいそうだな。自分たちを語る言葉がないよね」って前から言ってるけれども。女には女性学という、自分たちと社会を徹底的に考え抜く学問があったので、自分たちを語る言葉の蓄積があるんです。その過程が、女性を自由にしていった。

でも男性学の歴史は浅い。「そんなもの必要ない、っていうか興味ない」って本人たちが思っていたから。一般的に男性は長い間、内省したり自分たちの生き方を社会や歴史との関わりの中で多面的に見たりすることができなかったんですよね。レース場にザラザラーっと放り込まれて、あらかじめ決められたルールでゴリゴリ競争することが「男らしさだ」と教え込まれてしまったので、そんな自分たちに疑問を持って「男から降りる」ということが難しい。今の若い人はちょっとずつ変わってきていますけどね。

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──「女同士はマウンティングする生き物」って言いたがる人がいるけど、おじさん同士の方がよっぽど“そう”な気がします。ネット上でもすぐ、「俺の方がこれについては詳しいんだ」とかやってるじゃないですか。あれをもしおばさん同士がやったらすごくみっともないって思われて公の場から無視されるか笑われて終わり。男同士だとなんかこう「ビジネスの話をしてるんだ俺たちは」みたいに見せかけて周囲を巻き込んで話を大きくする。

河崎 それは、競争の中で育てられてきてしまって、その土俵から降りられないから。ビジネスの話をしてるって、あれは結構本人たち本気で言ってる。

今の若い人たちってそういう昔からある思想から自由になれた初めての世代なんですよね。まあでも一部には既存の枠組みに自ら入って、そこで勝ち続けることに人生を捧げたいと思っているような人もいるけれど、それは「正義」ではなくて「自分の志向性」なんだという自覚、客観性を持っているように思います。

私の世代より上の団塊ジュニアやアラフォーより上っていうのは客観も主観もなにも、もう完全にその出世ゲーム、競争ゲームがノーダウトで自分たちの生き方にインストールされている。だから降りられなくて苦しんでいる。

なぜ男性は自分の怒りを語らないのか

──そういう苦しさを男の人が語ればいいのではないでしょうか。以前、私が自分の過去のこととか赤裸々に書いたブログに男性から「男はこうやって自分を語れない。女はいいよな」みたいなコメントがついたことがあるんです。知らんがなって思って。

河崎 その人自身が「俺は」自分を語れないと言えばいいのに、わざわざ世間一般の「男」へ主語を大きくしてるよね。

──2014年は女性の働き方、2015年はLGBTについての記事が目立った年だったと思っていて、それなら2016年は男性が自分たちのこと語ればいいって思ったんです。

河崎 でしょ? 私もまったく同じこと思いましたよ!

──でも2016年はそうならなかった。最近あった、育休を8週間取ることを決めた男性の記事とかは気になる記事だと思いましたけど。マウンティングする前に、自分の怒りとか生きづらさの根源を突き詰めて語ればいいのに……。

河崎 電車の遅延で駅員さんに食って掛かってるのはほぼ男性だもんね。思うのは、基本的に男性の怒りって「恐怖」が根底にあるんですよね。これを言うと男性からは「いや違う、常識が」「ルールが」「礼儀が」って、自分の感情じゃなくて論理的に怒ってるんだよ俺らは!って感情的に否定されることがあるんだけど(笑)。たとえば、「電車が遅延することで俺が会社で誰々に謝らねばならない」とか、「自己管理できなかった自分を許すことができない」とか、勝手に自分に課しているプライドが傷つく可能性が出たとき、シンプルな怒りとなって表出するのではないかと。

──駅員さんを怒鳴り散らしてたら余計会社に遅れますよね。

河崎 そこには全然合理的な思考が働いていないわけですよね。恐怖に直面しているから。怒鳴り散らすなんて、要は一種のパニック症状ですからね。男らしさっていうものは本当に大変な仕組みで「男なんだから泣いちゃダメ」とか「男なんだから頑張りなさい」とか、親だけではなくて社会からすり込まれるわけですよね。そうすると泣くことも負けることも怖いし、ダメな奴だと思われることも怖い。それがずーっとあるから、ちょっとでも他人から侮られかけたりするとブチっとキレてしまう。

息子を産んだとき、男を許せた

河崎 私はあのー、ずっと「男を許せない人間」だったんですね。ながーい間。「私だって男と同じようにいろんなことできるのに何で認めてくれないんだろう」とか、あるいは「すごく好きなのに自分の手からすり抜けていく」とか、まあいろいろあるじゃないですか(笑)。

──わかります。

河崎 でもそれが許せたんですよ。息子を産んだときに全部許せたの。

──えっ。

河崎 あ、男ってこういう生き物なんだって。だって最初から知ってるわけじゃない? 産まれる前から成長していくところまでずっと見ている。もうね、あの「あ、男子ってこうやって産まれて、こうやって成長するんだ。私を今まで悲しませてきた男、私にムカつくこと言ってきた男子もみんなこうやって育ったんだ」ってわかったら、もう全部が雲散霧消していったの。

──なんと……。

河崎 自分とは異なる「男なるもの」を理解するために、私の場合はそういう人生の作業が必要だったんですね。よしもとばななさんも息子が産まれたときに「男っていうものをようやく理解した」と言っていて。女は自分の中から異性をひねり出すことができるから、そういう意味で、まあ女は強いなーと思いました。

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──前に野田聖子議員が「嫌な男性に会うと脳内でオムツを替える」っていう記事がありましたけど、それと似てるのかな……。今後自分が子どもを産むかわからないですけど、もし男の子を育てることがあったら、それを楽しみにしたいと思います。いろいろ脱線してしまいましたが、今日はお話できて楽しかったです。ありがとうございました!

お話を伺った人:河崎 環(かわさき たまき)

河崎環

コラムニスト。1973年京都府生まれ、神奈川県育ち。桜蔭学園中高から転勤で大阪府立高へ転校。慶應義塾大学総合政策学部卒。欧州2カ国(スイス、英国ロンドン)での暮らしを経て帰国後、Webメディア、新聞雑誌、企業オウンドメディア、テレビ・ラジオなどで執筆・出演多数。多岐にわたる分野での記事・コラム執筆をつづけている。子どもは、20歳の長女、11歳の長男の2人。著書に『女子の生き様は顔に出る』(プレジデント社)。

「他の人ってちゃんと目標があったりしてすごい」イラストレーター・べつやくれいさんに聞く仕事の話

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イラストレーターであり、デイリーポータルZのライターであり、デイリーポータルZのウェブマスター・林雄司さんと結婚されているべつやくれいさん。夫婦ともに「ネットの有名人」であり、さまざまな活動をリアルでもネット上でもしています。
そんなべつやくさんは、最初からイラストレーターになったのではなく、OL生活を経てフリーランスとして活動するようになったとのこと。ご自身の社会人生活、仕事、そして“夫婦円満の秘訣”とは? いろいろなことを質問してみました。

生保の営業、派遣社員を経て、「消去法で」フリーランスへ

べつやくさんは、「OL生活などを経て2001年からフリーランスになる」とありましたが、フリーランスになるまでの経緯を教えていただけますか?

女子美術大学の出身で、付属の中学・高校から通っていて一応ずっと美術的なことをやってきました。大学に入ったときに、デザインをやれば就職に有利かな、いろいろ道があるかな、と思ってデザイン科(当時)に進んだのですが、それがもうデザインが圧倒的に自分に向いてなくて……。

やってみて「無理だな」と思われたんですか?

そうなんですよ。「大学でこれが勉強したい」みたいなものが特になく、本当に何にも考えていなくて。高校までの美術の授業と、大学に入ってからの美術の授業って全然違うものになるんですが、そこで「うわーこれはデザインつらい、勉強しても無理だな」「これ仕事にするの、もうなんだかつらいな」と思ったんですね。そこでいったんきちんと考えればよかったんですけど、だらだら過ごしてしまったので、その後の就職もすごく大変で。

就職活動はどうされたんでしょう?

デザインが嫌になっちゃったから、就職するにあたって、デザイン系ではない会社に入りたいと思ったんですよ。でも美術大学に来る就職口って基本的にデザイン・美術関連の仕事が中心なんです。そうじゃないところに就職するにはどうしたらいいんだろう?と思いました。4年生になって就活をしてみたら、ちょうどバブルがはじけて就職氷河期に入ったくらいのころで、その前の前くらいの年であれば割とイケイケで志望すればほぼ内定が出るくらいの勢いだったのが、がくっと就職口が少なくなっちゃって、内定も全然出なくって。

これは普通の会社に入るの無理だ、どうしよう、もうしばらくやりたいことを考えてバイトとかして、あらためて就職した方がいいのかな?なんて、いろいろ考えました。全然やる気がなくてぶらぶらしてたら、知り合いから「生保(生命保険)の営業だったらいつでも入れるよ」って言われて。私、「生保の営業」ってどんなものか具体的にはわからなかったんですが、「じゃあ入るよ」って入社しました。その会社では営業は正社員じゃなくて、業務委託のような契約で、歩合制なんです。で、入って、「あっ、これはこれでつらいな」と思いました(笑)。

そのお仕事はどれくらい続けたんですか?

一応2年半……かな……。

「つらいな」と思ってから2年半続いたのは結構すごいですね。

1年目は「何が何だかわからない」っていうのもあったし、そんなに厳しく何か言われることもなく、なんとなく過ごしました。2年目になったら、部署が大きくなって、すごく厳しい上司が来てしまって。そこで、「あっ、ちょっとつらいぞ」と思い始めて、辞めたいって思うようになりました。周囲の人が言う「つらい、つらい」の意味がわかってきて……。辞めるならちゃんと話を通して辞めたかったんですけど、他にも辞める人が多かったので、なかなか希望通りには辞めさせてくれなかったんです。3年目にまた上司が代わったので辞意を伝えたら、「じゃああと2ヶ月がんばってくれ」なんて言われまして。結局3年目の途中で円満に退職しました。

だいぶ引き延ばされてしまったんですね。

そんな状態だと体調が悪くなりますよね。私、それでぜんそくになったんです。ある日突然風邪を引いて、全然動けなくなっちゃったんですよ。すごく具合が悪いので、会社に電話して「休みます」って伝えてから、なんだろうと思って病院に無理矢理行こうとするんですけど、ぜーぜーしちゃって歩くのも大変で。横断歩道を渡るのもつらくて、「これ渡れなかったら死んじゃう!」なんて思いました。そしたら「ぜんそくですね」という診断でした。それまでもそんなに気管支が強い方ではなかったんですけど、そこまでひどくなったことはなかったです。後から考えてみて、あれはストレスだなぁって。

当時はストレスが要因だとは考えなかったんですね。

風邪引いたら一番弱いところに症状が出ちゃったんだなって思ってました。いろいろ考えてみると、つらかったんだと思います。会社を辞めて数年したらぜんそくは治りました。

“会社員的な生活”が家庭になかったから、「会社員」の想像ができなかった

その後にフリーランスになったのでしょうか。

いえ、その後は派遣で働いていました。

そうなんですか!? 意外でした……。

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会社を辞めてから何にもしたくなくなって、1年くらいぶらぶらしてました。友達のところでちょっとバイトする、なんてことはあったんですけど。その後「普通に働きたいな」と思ったんですが、その時点では手に職もなかったので、とりあえず派遣会社に登録して、とりあえずそこで実施されていたパソコンの基本的な使い方とPhotoshop・Illustratorの使い方を教えてくれる講座に行って、仕事を待って。その後に出版社の庶務みたいなことを2~3年くらいやりました。

そこでPhotoshopとIllustratorの講座を受けた結果が、出版社での仕事につながった?

いえ、あんまりつながらなかったんです。「パソコンの基本的な操作ができたから」でした。

2度目の質問になってしまうのですが、その後に、フリーランスとして働き始めた……?

はい、その後がフリーランスです。30歳になる年に、フリーのイラストレーターになろうと思いました。デザインはもう嫌だし無理だけど、それまでに培ってきたものを活かしてできることって何かあるかな?と選択肢を考えて、「まあイラストレーターかな……」と。

そこで「イラストレーターになってやるぞ!」みたいに一念発起した感じではなかったんですね。

消去法です(きっぱり)。

他の職は何も考えなかったんですか?

考えなかったですね。消去法です。「フリーになるぞ!」と意気込んだ感じでもなく……割とすんなり。「まあだめだったらそこでまた考えよう」と思ってました。

今のべつやくさんからは想像つかないですね……。

もう全部消去法ですよ(笑)。

フリーランスという働き方について、生活の不安などはなかったですか?

あるにはあったんですけど、実家にいたので、家の人に一応「フリーになりたいと思う」「今の会社を辞めたら給料がなくなるけども、収入がいつまでに得られる状況になるのかわからない」「家においてほしい」と話しました。ただ、うちは家族が全員フリーというか、自由業だったので*1、特に問題はなかったですね。

親の働き方を見ていてそれが自分のロールモデルになる、という一面はあったのかもしれないですね。

“会社員的な生活”がまったく家庭になかったので、私、「会社員」の想像ができていなくて。それでたぶん、就職のときにいろいろ問題があったんだと思うんですけど(笑)。そういう意味でも、フリーになることに抵抗はありませんでした。大学時代の友達でフリーのデザイナーとして働いている人もいたし、出版社で働いているとフリーのカメラマンさんやイラストレーターさんもいっぱい出入りしていましたし。

一定の時間を会社で過ごす会社員と、そういう生活ではない自由業やフリーランス。身近にいる人によって「普通」に思えるものが違うということはあるかもしれないですね。

そうですね。フリーの人の働き方をいろいろ見ていたので、一人で仕事をしていく分には、探せば意外に仕事はいっぱいあるんだろうなと想像していました。

最初からイラストのお仕事はあったのでしょうか?

全然来なかったです(笑)。1年くらいほぼ暇でしたよ。一応ポートフォリオを作って、何軒か出版社を回って営業活動してみたんですけど、そんなに仕事に結びつかずで。働いていた出版社から「知り合いだから頼みやすい」という理由でいくつか仕事をもらうことはあったんですが、そこから劇的に仕事が増えたことはありませんでした。こりゃ暇だなーと思いました。

そのころに、イラストを紙で最初から描くのは大変なので、Photoshopで描こうと思ってその環境を整えました。それまではネット回線がすごく遅かったんですけど、普通にネットができるようにしました。そこでいろいろ見ていたら「デイリーポータルZ」(以下、DPZ)を発見しまして。当時からDPZはすごく面白かったし、「ライター募集」って書いてあるし、「自分で取材しに行って記事を書くみたいなのって面白そうだな、今すごく暇だからできるな」と思って、応募したんです。

えええええ! 一般からの応募だとは思いませんでした。

一般でしたよ! DPZがなかったら今の自分はなかったと思います。一応、DPZに参加する前に、「しろねこくん」(小学館)という絵本を出したんですよ。でもそこから特にすごく忙しくなるなんていうこともなかったので、やっぱり自分で仕事を探さないとなぁ……と。

当時からイラストと文章を組み合わせた形の記事を書かれていたんでしょうか?

はい、そうです。DPZに書き始めて、その記事を見た方から仕事をもらうといった機会は多かったですね。

伊勢丹には、市販の菓子の高級版があった」のような、イラスト・写真・文章を組み合わせた記事で人気。

べつやくさん風「アイデアの出し方、考え方」

DPZでべつやくさんが書かれている記事の本数、とても多いですよね。べつやくさん風の「アイデアの出し方」があれば教えていただけないでしょうか。

思いついたときにメモを取っておく、というのはずっとやっています。「ふと思い付く」とか、お風呂に入りながら考えるとかもあるんですけど。最終的に記事のネタとして考えるときには、「メモした中からこれとこれを組み合わせたら何かできるかな」なんて集中的にがーっと考えますね。

DPZで書き始めて最初の2年くらいって、毎週1本ずつ記事を書いてたんですよ。ライターの数も今よりずっと少なかったですし。その時点で所属するライターさん全員が同じペースで書いていたんですが、その後ライターがどんどん増えて、今自分が書くものは2週に1本くらいのペースになっています。昔の記事を読み返すと量が多かったなと思いますね。ただ当時は「1ページで終わり、すごく短い」みたいなものもあります。

portal.nifty.com

当初は週1本、今でも2週に1本書いていて、ネタに行き詰まることはなかったんですか?

いやーもう毎回ですよ(笑)。締め切りは迫ってくるので、わー来週どうしよう、何かやらなきゃいけないって……。結構波があって、やりたいことが意外と次から次へと出てくる時期もあるんですよ。「これはちょっと時間がないとできないな」「これは暑すぎて夏の間は無理だな」とかすぐにできないものはストックしておきます。

DPZを拝見していると、よくこういうネタを考え付くな、すごいなと思います。

それはもう、ライター皆さんがすごいなと思います。ちゃんと地道に計画を立てたり、時間を区切っていたりする人を見るとえらいなって思います(笑)。フリーじゃない方の場合、どうしても細切れで取材することもあるじゃないですか。そういうの、たぶん私できないので……。少しずつきちんと進めておけば、もっと記事のストックもいっぱいできるだろうに、って思うんですけど、なかなかそういうタイプではないんです。今まで「りっすん」のインタビューに登場された方、すごくちゃんとしてるなって思うんですよ。目標がちゃんとあったりとか……私そうじゃないんで……。

何年後にこういうことをやろう、みたいなものもないですか?

ない……ですねえ……。でも、同じタイプの人に共感はしてもらえるんじゃないかなと思うんですよ。

フリーランスで働く方は、自分の得意な分野がないと生活していけないと思うので、それをずっとやっているべつやくさんは逆にすごいと思うんですが……。

結婚によって生活が安定した分、自分のネタのことをずっと考えていられるというのはありますね。

DPZのウェブマスターである林雄司さんと結婚されたのはもちろん「安定」のためではないと思うのですが、結婚しようと思うきっかけになった出来事はあったのでしょうか。

なんで結婚しようと思ったのかは覚えていないんですけど、まあ付き合っていて、この人だったら一緒にいてつらいところは別にない、たぶんお互いに何かを我慢しなきゃいけないようなこともないな、とは思っていました。一応お互いの家に挨拶に行って「結婚します」と言ったら、「すれば」って言われて(笑)。

一緒に住み始めるときに婚姻届を出そうと思ったら、本籍地が載っている住民票が必要だったのに、載っていない住民票を取ってきちゃってたので、「じゃあ取り直してきます」って言ったのに、めんどくさくてそのままになってたんです。

結婚の挨拶をしてからそのままずっと、ですか?

挨拶をしてから何年か後の正月に、両方の家から「ところでお前たちはいつ結婚するんだ?」と言われて、「うーん、そういえば」と思って、届を出したんです。特に困っていなかったので……。近くにいる人たちは結婚を知っていたんですが、一緒に海外旅行に行くことになった際にtweetからあれこれ推測されるよりはと思って、Twitterでも公表しました。

“夫婦円満の秘訣”は「特に何も思ったことがない」

林さんとは仕事で一緒になることが多いと思うのですが、ずっと近い距離にいることで「夫婦円満でいるのが難しい」ということはありませんか? お互いに気遣ったり、気をつけていたりするポイントがあったら教えてください。

あんまり特に何も思ったことはないですね。たぶん一緒にいて楽だなって思っているからですかね。細かいことをいえばそりゃまああるんですけど(笑)、基本的なところで「もうこいつ勘弁ならねえ」みたいなことはないですね。

「夫婦円満の秘訣!」みたいなものではないんですね。ずっと二人でいるからたまには一人になりたい、ということもないですか?

家にいるときに、お互い別にそこまでずっとしゃべっているわけじゃないので……。うーん、そうですねぇ、あんまり意識したことはないですね。ただ、化粧品を買いに行くときに一緒だと、(林さんが)明らかにつまらなさそうな顔をするので、そういうときは一人で行こうって思いますね。でもそれ以外は「いるな」って思うくらいです。何もないから変に気を遣うこともない。たぶん私、そういう人じゃないと一緒に暮らせないと思うんです。

ストレスが溜まることはない、ということなんでしょうか。

あ、ストレスはありますよ。あるけども、特に発散してないですね。

え、そのストレスはどこへ……?

……(しばし考える)。ストレスの原因が夫婦で同じ場合には、二人で話して「◯◯だよねー」みたいなことを言って、終わる。それで解消される。私だけの場合は、あんまり言わずに黙ってますね。

「スイーツを食べてストレス発散!」ということもないですか?

いえ、ただ一人でむかむかしてますね(笑)。昔はやけ食いとかしたこともありましたが、今はそれを一度やると確実に太るし、元に戻すのが大変になってきちゃったので、もうやめておこうと思ってます。

これをやったら楽しい、気分転換になる、というようなことはありますか?

買い物で気分転換をすることはたまにあるかなー。服とか、化粧品とか、自分の好きなものを買う感じです。

べつやくさんのライフワークは「ドクロマークの収集」。「これはもうルーチンワークというか、ずっとまめに探しています。一応今日も着てきました」

もともとがんばるタイプじゃない人は「そんなにがんばらなくてもなんとかなるんじゃないかな」

「りっすん」では女性の働き方を主なテーマにしています。べつやくさんが考えることについてお聞かせください。

先ほども少し言いましたが、他の人ってちゃんと目標があったりしてすごいなって思うんですよね。ちゃんと時間配分をして、朝仕事に行く前にルーチン作業をやっておこう、子供を保育園に預けてこれとこれはしておこう、みたいに、いろいろできるじゃないですか。私そういうのが全然できないんですよ。出かけるのもいつもぎりぎりになっちゃうし……。そういう点をちゃんとしたいなって、ずっと思ってるんですけど、でも「これはもうできないな」って考えてます。

ちゃんとしたいと思ってはいるけど、コンプレックスには思っているわけではない、という感じでしょうか。

若干思ってます。周りの人はみんなえらいな、って。

勝手ながら「人は人、自分は自分」のような生き方なのかと思っていました。

そういうふうにありたいと思ってはいますが、「なんでみんなにできて私にはできないんだろう?」とも思いますよ。もうそもそも朝起きるのが全然ダメ。フリーランスになりたいと思った理由には、「朝起きたくない」っていうのもあるんですよね。組織の中にいたら、ほぼそういう生活になる。それをベースにしなければならないのがつらいなと思って。

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ご自身のお仕事については、今どのように考えていらっしゃいますか?

仕事自体は、記事を書くからには変なことを書こう、面白いことを書きたいな、と考えていますね。イラストレーターという仕事を「天職だ」と言うほどには思えないですけど、他に何ができるかというと、ないので。

今でも「消去法」な気持ちですか?

いや、ここまできたらもう引き返せないなとは思っています。たぶん今から転職はもう無理だと思いますし。

今やっている仕事の範囲よりも新しいこと、例えば文章をもう少し書いてみたい、写真をもう少しきれいに撮りたい、と考える機会はあるかもしれません。仕事の延長線としてはいろいろやってみたいことは出てきますし、作品ももう少し作りたいですし、文章がもう少しうまくなりたいとも思います。今の「イラストと文章で記事を作る」スタイルだと、コマの中に文を手短に収めるので、「文章をうまく収めたい」という考えが前に立っていて。きっと計画をきちんと立てられる人だったら、時間を区切っていろいろ進められると思うんですが(笑)。

「朝きちんと起きたくない」という方でも、この記事を読んで、こういうのもありだなって安心してもらえるといいなと思います。例えば今大学生に、いろいろなことをきちんと考えているっぽい方いるじゃないですか。私は大学のとき全然何にも考えてなかった。ちゃんと意識の高い人を見ていると、「えらい」と思う反面、「大変そうだな、今からそういう感じだと大変そうだな」と感じることもあります。もともとそういうタイプの人ならいいけれど、もし「がんばらなきゃ!」みたいに思っている人に対しては、「そんなにがんばらなくてもなんとかなるんじゃないかな」と思います。

ありがとうございました!

お話を伺った人:べつやくれい

べつやくれい

1971年東京生まれ。イラストレーター。ドクロ服、ドクロ雑貨集めに情熱を燃やしすぎている。ほかにはワニ、ウツボ、ハダカデバネズミなど毛の生えていない動物も好む。著書に「しろねこくん」(小学館)、「ココロミくん」(アスペクト)、「ひとみしり道」(KADOKAWA/メディアファクトリー)、「ばかスイーツ」「ばかごはん」(アスペクト)、「ばか手芸」(スペースシャワーネットワーク)などがある。

*1:べつやくれいさんの父は劇作家・評論家の別役実さん、母は女優の楠侑子さん。

「LGBTのショートカットの道を作って消えていく人になりたい」牧村朝子さんの生き方、働き方

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「LGBT」という言葉をご存じですか? 最近では「ダイバーシティ(多様性)」と合わせ、企業の取り組みとして見聞きすることが増えたかもしれません。LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を取った、性的マイノリティの総称の一つ。

LGBTという言葉は知っていても、その存在を知っていても、どう接すればいいのか、何を配慮すればいいのかわからない……はたらく女性の深呼吸マガジン『りっすん』では今回、タレント・文筆家の牧村朝子さん(まきむぅ)にお話を伺いました。牧村さんはフランス人女性とフランスで結婚し、現在はパートナーとともに東京で暮らしながら、自らの体験をもとに執筆・講演活動をしています。牧村さんが当事者としてLGBTについて考えていること、伝えたいことをお聞きしました。

3回落とされたけれど「オフィス彩」にどうしても入りたかった

牧村さんが今のお仕事に就かれるまでの経緯について教えていただけますか。

女優で実業家の杉本彩さんの芸能事務所「株式会社オフィス彩」に所属するタレントで、文筆家です。2009年ごろに芸能活動を始め、最初は撮影会のモデルをやっていました。

モデルになったのはスカウトで?

いえ全然! 自分で応募しました。その後「ミス日本」にも自分から応募して、2010年度ミス日本ファイナリストに選出されました。

それを機に、オフィス彩に所属してタレントとしての活動を始められたのでしょうか。

全然そんなことはないんです。ミス日本ファイナリストという実績ができたので、オフィス彩に入れるかもしれない!と思ってオフィス彩に書類を送りました。でも3回落とされてるんです。

そんなに! 4回目で入れた理由は……?

根性です(笑)。(杉本)彩さんが好きで、彩さんのもとに行きたいと思って、オフィス彩一筋で書類を出し続けました。あきらめ悪くずっと連絡をとっていたら、ある日「タンゴパーティーをやるから来なさい」と言われまして。彩さんは社交ダンスをやっているんです。私はタンゴなんてやったことないから「どうしよう」と思ったんですが、その場で「私わかんないです~」みたいなことを言ったら落とされる!と思って、わからないなりに踊って(笑)。そしたら「じゃあ次から来ていいよ」という流れでしたね。

自分のロールモデルを見つけて「あの人のようになりたい」「ああいうふうに仕事ができるようになりたい」と思うことはよくあると思うのですが、牧村さんがそこまで彩さんのことを意識されていたのはどんな理由だったのでしょうか?

(勢いよく)顔です!

身も蓋もなかった(笑)。

もちろん他にもいろいろあります。でも顔が本当にきれいだなと思ってテレビや本などを追っていたら、「あの人本当にすごいな!」と。彩さんは個人的に「菩薩」なんですよ。崇拝しています。何を言っても許してくれると思います(笑)。

「菩薩」という表現はすごいですね。

彩さんがプロデュースする化粧品会社の社是が本当にすごいんです。普通は「業界トップを目指す」とかだと思うんですが、彩さんの場合は「自分を枠にはめない。自分に嘘をつかない。」。社是がそれ?!って思いました(笑)。「川は流れていくけどそれでもオールを漕ぐのをやめない」というのが彩さんの生き方なんです。私はそれについていこうって思ってます。菩薩です!(笑)

その後、牧村さんのブログによると、2012年10月にフランス人女性とPACS契約(性別に関係なく、成年に達した2人の個人の間で安定した持続的共同生活を営むために交わされる契約のこと*1を結んで、活動の拠点をフランスへ移した後、フランスでの同性婚法制化を受けて、2013年9月にフランスの法律に基づき結婚した……とあります。PACS契約を結んだときには、日本での芸能活動はどうされていたんでしょうか?

実際には開店休業状態で、事務所との契約はあるけれどフランスで仕事があるわけではなかったんです。自分が生涯をかけて愛そうと思った人がフランスに行ってしまうことになったので、とにかく一緒に行こう、その後のことは後から考えようと思っていました。

今東京に拠点を移されたのはお仕事の都合で?

そうですね。私の仕事を日本できちんとやりたいという気持ちもありましたし、パートナーも日本で仕事をやっていきたいという意向でした。振り返ってみると大変でしたね……。パートナーはフランス人なのに「日本に帰りたい……」なんて言っていました。

LGBTの人々も、そうでない人も、「考え方」「望むこと」「生き方」は全部違う

「LGBT」という言葉は身近になりつつあるように思います。その一方で、理解したくてもとっかかりがつかめない、困惑する、という人もいるんじゃないかと。そういう人に向けてわかりやすく説明するとしたらどう言われますか?

LGBTって、カタカナでアルファベットだからびっくりしちゃうよね、って思っています。オバマ前大統領の声明に「LGBT rights」(LGBTの人々の権利)という言葉が登場したり、国連が“FREE & EQUAL”というLGBT啓発キャンペーンをやっていたり……とか。「新しい」「海外の」「難しい」「意識の高い」言葉に聞こえる気がしています。

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でも全然新しいことでもなんでもないんです。レズビアンを扱う日本最古の小説は、知られている限りでも鎌倉時代に書かれています。最近新しく出てきたのではなくて、もともといた人たちについて新しく言われるようになっただけなんですよね。だから、「LGBTの人を理解しましょう」というのではなくて、「あなたと私で理解し合いましょう」ということの積み重ねだと思っています。

LGBTというくくりで人を見るのではなくて、個人個人の理解の話であると。

すごく印象的だった例が一つあります。専門用語でいうところのMtFトランスジェンダー(出生届に書かれた性別は男性で、性の自己意識が女性である人)の方の事例です。その方が勤務先に「自分はMtFトランスジェンダーです」と言ったら、その企業はその人に対して女性用トイレを使えるようにしたんですって。

でも、その方は会社の対応が残念だったとおっしゃっている。MtFトランスジェンダーとして生きてきて、女性用トイレに入ったら「きゃー」って悲鳴を上げられたり、女装の男がいるという扱いを受けたりして、すごく怖かったことがあったから。いわゆるシスジェンダー(出生届に書かれた性別と性の自己意識が一致している人)の女性が怖くて、同じトイレにしてほしくなかったそうなんです。

では男性用トイレが使えればいいのか、というとそうではなく……。難しいですね。男女の区別ではないトイレがあるとベターだったというケースでしょうか。

その方は「車いすマークのある個室トイレを使えるようにしてほしかった」とおっしゃっていたんですけど、ここで気をつけたいのが、その方は「MtFトランスジェンダーです」としか企業に対して伝えていないんです。すべてのMtFトランスジェンダーが同じ対応を求めているわけではない。逆にシスジェンダーの女性と別にされて「あなたはここの個室を使って」と言われて、他の人の目に触れないようにするという扱いが悲しいという方もいらっしゃいます。

それぞれの人で、考え方や望むこと、生き方も全部違うということなんですね。

そういうことだと思います。どちらの側からも、「MtFトランスジェンダーはこういうふうに扱いましょうマニュアル」「MtFトランスジェンダーなのでこう扱ってくださいマニュアル」みたいなものはできないんです。自分がどう思うか、自分がどうしてほしいか、ということの積み重ねでしかないと思うんですよね……。

当事者が「自分がどうしてほしいか」を積極的に言わないと、変わらない部分もきっとある、ということなんですね。

そうなんですよね。ただ、そういうことをお話しすると、やっぱり「マイノリティ側に負担を強いるのか」と批判をいただくことがあります。そのご意見もごもっともなんですけど、きちんと言わなければ何も変えられず、負担は次世代にも引き継がれてしまいますよね。

自分が何かしら社会の中で不便を感じたとき……例えば「トイレに行っただけなのに『きゃー』って悲鳴を上げられる」とか、「カップルで楽しくデートしていただけなのに、すれ違いざまに『きもっ』って言われる」とか、社会の中で何か嫌な思いをしたときに、自分のせいなんだって思っちゃう方がいるんです。自分はマイノリティだから、日陰の存在だから、我慢するしかないんだ、自分が悪いんだ、と思ってしまう方がいる。でも、そうは思わないでいただきたいんです。

私は、そうやって社会の中で嫌な思いをするということは、見方を変えれば財産だと思ってます。この社会の中で足りないこと、足りないのに多くの人が気づけないこと、それに気づけたということなので。「ここが嫌だ」「こうしてほしい」「これだからマジョリティは理解がない」ではなくて、「これ足りないよね」「こうしていったらもっとよくなるんじゃない?」という見方をすれば、もっとお互いに楽じゃないかなって、私は思っています。

「りっすん」でこれまで取り上げてきた「女性の働きづらさ」に関するトピックにかなり近いんじゃないかと感じました。産休や育休などでなかなかキャリアパスがうまくいかないときに、自分から働きかけたり、自分で解決策を模索する。男女問わず、社会や制度でも同じですね。

そうですよね。社会や制度という視点になると、どうしても個々の視点を拾い上げている暇があまりなくなります。「100万人をどうやって動かそうか」と考えているときには「男性の声」「女性の声」「20代の声」「40代の声」のようにまとめて考えることになるわけですけど、でもその中に加わるのと加わらないのとでは大違いですよね。変わらないことももちろんあります。でも、自分なんかが意見を言っても聞いてもらえない、自分が我慢すれば済むんだ、というふうには思わないでほしいなって思ってます。

杉本彩さんにカミングアウト。そしてブログをきっかけに本を出して世界が変わった

牧村さんはLGBTとの向き合い方について「あなたと私で理解し合いましょう」ということである、と先ほど言われました。そういうことについて社会に対して声を上げていこうと思われた経緯について教えていただけますか。

「LGBTさん、さようなら」 同性婚の牧村朝子さんが宣言、その真意 - withnews(ウィズニュース)

最初は何も考えていませんでした。ミス日本に応募した理由も、結局「正しい女でなければならない」みたいな気持ちでしたね。あとは賞金が欲しい(笑)。ミス日本というタイトルがあれば、キャリアに役立つし、いろんなことに使えるじゃないですか。自分のことだけを考えて動いていました。でも……芸能活動を、当初「ヘテロセクシュアルの女性」としてやっていたんです。アイドル番組のひな壇に、水着姿で他のアイドルの女の子と一緒に出て、「はい、男性の好きなしぐさをボードに書いてくださーい」なんて言われて。「男性の運転するときの手つきにきゅんとします!」みたいな、思ってもないことを書くわけですよ(笑)。

そのうち、だんだん嘘をついてる感じがどうしても出てくるし、それに「この人と生きていきたい」という女の人と出会っちゃったしね。それを隠していくことはできないと考えて、杉本彩さんにカミングアウトしました。私はクビになると思って怯えてたんですけど、彩さんはすごくて。「レズビアンだからということで、あなたは思春期にたくさんつらい思いをしたんでしょうから、これ以上そういう子が出ないようにすることがあなたの役目じゃないかしら。やりなさい」って言ってくださったんです。「社会に対するメッセージがあってはじめて、芸能活動というのは意義を持つのよ」とおっしゃっていて。

彩さん、すごいですね。

その彩さんの姿を見て、「あのようにあろう」って思いました。

それをきっかけにお仕事の内容は変わりましたか?

変わりましたねー。でも最初はやっぱり、変に肩肘を張って、力んじゃってましたね。セルフブランディングのコンサルタントみたいな人についてもらって、「レズビアンライフサポーター」って名乗って、「レズビアン」という検索ワードで検索したときにブログが上位になった方が仕事を取りやすい、とか。

SEOのことまで考えられたんですか!

そうそうそうそう、誰のライフをどうサポートするねん、っていう感じなんですけど(笑)。「タレント」という肩書きでは売れなかったです。言いたいことは言えなかったし、仕事も来なかった。でもそこで「レズビアンタレント」という肩書きにしてしまうと、今度は「レズビアンであること」が芸みたいじゃないですか。芸のために「女性を好き」って言っているみたいに見えるのは嫌ですし、レズビアンであることは芸ではなく生き方なので、それはだめだなと思ってひねりだしたのが「レズビアンライフサポーター」でしたね。

「レズビアンライフサポーター」としてのお仕事は何を?

いや、実際には仕事はなかったです。まったくなかったので最初は「Skypeであなたのお話を聞きますよ」ということを始めました。「同性を好きになったことは、なかなか周りの人には言えない話かもしれないけれど、第三者としてあなたのお話を聞きます」って。それから、これは本当に彩さんのようになりたかったからだと思うんですけど(笑)、「悩める子羊さんたち……あなたがレズビアンであることで気持ち悪いといわれても、あなたは傷つかなくていいのよ……」みたいなことを、ひたすらブログに書いていました。

ブログを読む方が増えて、文筆家としての知名度が上がっていったのでしょうか?

そうでしたね。ブログ経由で知ってくださる方が増えました。あとはやっぱり、本を出版すると世界が変わりましたね。大きなターニングポイントでした。

それは最初の著書である『百合のリアル』(星海社新書)ですね。

百合のリアル 増補版

百合のリアル 増補版

(2017年1月に小学館から増補版が出版された)

2013年11月に本が出てから、「牧村朝子さんにお願いしたい」と声をかけていただける仕事がぐっと増えましたね。それまでは自分からオーディションに応募して選考してもらう仕事ばかりだったので。

世界が変わって、個人に対して「お願いしたい」という仕事が増えてから、cakesでの連載や他の書籍のような執筆活動につながっていったんですか?

ハッピーエンドに殺されない|牧村朝子|cakes(ケイクス)
ルネおじいちゃんと世界大戦|牧村朝子|cakes(ケイクス)

1冊本を出したことによって、「レズビアン タレント」で検索して来る人が私に興味を持つのではなくて、「牧村さんの『百合のリアル』を読んでお願いしたいと思った」と言われるなど、仕事を見て依頼をくださる方が増えたんですよね。それでやっと、「レズビアンライフサポーター」という肩書きを脱げるようになったかな……。脱いでよかったと思っています。私自身も楽ですし、その方が世の中のためになると思っています。

「LGBT、LGBT」と言うのを戦略的にやめる時期に来ている

「牧村朝子」個人としての仕事ができてから、LGBTに関する講義や講演をするようになったのでしょうか。

はい。一度忘れられない光景がありまして……。「LGBTと人権について講演してください」というお仕事が来たので、一生懸命下準備をして、「よーしやるぞ!」と思って登壇したんです。ぱっと客席をみたら、全員レインボーフラッグ(LGBTの尊厳・社会運動を象徴する虹色の旗)を持っていた(笑)。「ここでしゃべる意味は???」って思ってしまいました。意味がないとは言いませんが、既に私の話を聞いていただく準備ができている方ばかりなので、本当に知ってほしい人に届けられない。

既に理解を深めている方が聞きにきていたんですね(笑)。

非常に効率が悪いですよね。あともう一つ、私の本を読んでくれた10代前半の子が、「本を読みました! 感動しました!」と言ってくれて。そこまではうれしいんですよ。その続きがね、「私もレズビアンなので、LGBTの活動家になりたいと思います!」って。

それはそれでいいんだけれど、でも、そんな活動がその子が大人になるころにまだ必要なんだったら、それは私の怠慢だし、私を含めたこの世代の怠慢だし。まだLGBTの人権を訴えないと得られないような世の中であってほしくない、と思っています。ということは、こちらから「LGBT、LGBT」と言うのは、そろそろ戦略的にやめるところに来ていると思いますね。

その次の戦略として考えていることは何でしょう?

今国際的に大きな転換点として、LGBTという言葉から、「SOGI(ソギ)」という言葉へだんだん変わりつつあります。国連人権理事会でも扱っていますし、国際レズビアン・ゲイ協会(略称:ILGA)やアメリカ・スプリングフィールドの条例でも「SOGI」という言い方が入ってきています。

これはどういうことかというと、「LGBT」という言葉がなかったころって、「普通はみんなシス(異性愛者)でしょう」という考え方だったんですよね。生まれたときに言われた性別をみんなそのまま生きてきて、「異性を好きになるのが普通、それ以外のあり方は例外で矯正すべきもの」と考えられていたんです。でもそうじゃない、私たちはレズビアンだ、ゲイだ、バイセクシュアルだ、トランスジェンダーだと、「私たちをいないことにするな」とみんなが声を上げて、「普通」ということが揺らいだ。見ないことにしてきた人たちを「いない」ということにできなくなってきた。そういうステップで使われたのが「LGBT」でした。

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でも実は、「みんなが尊重されるべき」なんです。全員、ひとりひとり、「性のあり方」は違うはずです。例えば私は、ひとことで「異性愛者です」と言う人に、話を聞いたことがあるんですね。「なぜ異性愛者なんですか?」って尋ねてみると、答えはみんな違うんですよ。

  • 「子どもが欲しいから」
  • 「今のところ異性としか付き合ったことがないから」
  • 「なんかそういうものだと思うから」
  • 「今好きな人が異性だから」

……って。全員が細かく考えてみると、違う。それらが一つ一つ平等に尊重されるべきでしょう、ということで、今「SOGI」という言い方をしています。「SO」はセクシュアルオリエンテーション(Sexual Orientation)の略で、性的指向。同性愛・両性愛・異性愛・無性愛などのことですね。「GI」はジェンダーアイデンティティ(Gender Identity)の略で、性自認。女性・男性・中性・無性など、本人が自分の性別をなんだと思っているかということです。

「LGBT」という言い方だと、マイノリティの中でさらにそれ以外のマイノリティがそこからこぼれ落ちてしまう、それがさらにマイノリティになってしまうこともあり得ると思うんですが、「SOGI」という考え方なら異性愛者も同性愛者もとにかく全員が含まれるわけですよね。

そうですね。それぞれの性的指向がある、それぞれの性自認がある、それはみんな一緒だよね、ってことですね。

すべての性自認のあり方が「普通」であると……うーん、「普通」って難しいですね。みんなそれぞれ違うのに「普通」でくくるのは難しいですよね。

個人個人が違うのであって、「同性愛がクール」とか「異性愛が普通で生産的」とかの上下関係はない。平等、優劣がない、ってことですよね。私は「普通」という言葉はかぎかっこ付きで使ったりします。

LGBTの人々の悩む時間をもっと別のことに使えるような「ショートカット」を作りたい

これまでの牧村さんの人生で、つらかったこと、苦しかったことはきっと多かったと思うのですが、印象的なことを教えていただいてもいいでしょうか。

いろんなことがありましたけど、印象的だったエピソードは、「『普通』に苦しめられたはずの人が、『普通』を強いようとした姿」ですね。

どういうことがあったかというと……レズビアンバーみたいなお店に行ったときに、「レズビアンだったら普通はフェミニズムくらいわかってるでしょ? レズビアンだったらフェミニストでしょ?」というようなことをおっしゃる年配のレズビアンの方にお会いしたことがあって。そこで「普通とは何?」って思いました。

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もちろん私はフェミニストが嫌いなわけではないんです。今までフェミニストの方々が、男女問わずあんなに闘ってくださったからこそ、私は今こうやってメディアに顔を出してものを言えているわけですし、「女性のことが好きです」と言っても殺されないし、働けているし、感謝しています。

ありがたいことなんですが、私は25~26歳になるまで「フェミニスト」「フェミニズム」という言葉を知らなかったんですよね。現代日本だと、ちゃんと勉強しようと思ってはじめて出会うような言葉なんじゃないかって。それは、本当にフェミニスト・フェミニズムが目指してきたものを、ある程度つかんだ証だなって私は思っています。女性であることで苦しんでいたなら、不自由であるなら、「フェミニズム」を知らずに生きていくことはできなかったはずなので。

今の社会で、女性が完全に自由になった、平等になったとは申し上げませんけれども、私が「知らずに生きてこられた」ということはフェミニストの活動における成功の証だと思っています。それと同じことが、LGBTについても起こればいいなって私は思っているんですよね。

確かに同じ状況ですね。

今本当に、「LGBTである自分」「性的マイノリティとしての苦しみ」について、同じ境遇の牧村さんならわかってくれますよね?というように言ってこられる方がとても多いなと感じています。でも、正直に申し上げてわからないです。その苦しみはその人の苦しみでしかないし。LGBTは本当にみんなそんなに苦しいの?本当に?ということになっちゃうし。

みんなが苦しいという見方になってしまうと、逆にLGBTの方々が人生を楽しんだり、パートナーと楽しく過ごしたりすることが罪みたいになってしまいますよね。

ハッピーな結婚生活を書いているレズビアンカップルの実録漫画について、Amazonで「これは苦しみがなくて嘘くさい!」という理由で低評価がついていたりとかしますね。

それはちょっと……。

やっぱり闘った人って、苦しみますよ。でも、「こんなに闘ったんだから、こんなに苦しんだから、その苦しみを知れ、お前も苦しいだろう、私のことを賞賛しろ」……みたいな50~60代に私はなりたくないです。

牧村さんが今後目指していることを教えていただけますか。

私は「自分が女性を好きなんだ」「自分が恋愛・性欲の対象にするのは女性なんだ」ということを自分自身で受け止めるまでに、12年かけています。でも、もし世の中がもう少しましだったなら、その12年を別のことに使えたわけですよね。そちらの方がとても生産的ですよね。ですから、そういう時間をもっと別のことに使える世の中を次世代に残したいと思って、文章を書いています。

人の生産性を奪っているって考えると、本当に……。

まじで! 本当に! まじで!(力強く) LGBTとして生きていく覚悟をする、ということで悩んでいる方って本当にたくさんいらっしゃるので……。それがその人を強くしているんでしょうけど、もっと別のことに時間や労力を使えるようなショートカットを作りたいし、エレベーターやエスカレーター、高速道路を作りたい、と思います。

性的指向や性自認が「普通」とされている人は、そこを意識しないで済むし、悩む時間も比較すれば少ないですよね。LGBTの方々の場合は、そこで悩む時間が増えて、本来の生き方に近づくだけでも遠回りになってしまうと感じました。

そうなんですよね。私はショートカットの道を作って消えていく人になりたい。2016年の夏に、私はレインボーフラッグを作ったギルバート・ベイカーさんという方に会いにいったんですよ。

LGBTの象徴「レインボーフラッグ」はなぜ6色? 作った人に聞いてみた|ウートピ
(牧村さんによるインタビュー記事)

レインボーフラッグを作った人ってあまり知られていないですよね。その方はレインボーフラッグに関する特許をとっていないんですよ。

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だからあれだけ世界中に広まったんですね。

そうそう。「虹は誰のものでもないから」って。「僕の名前は知られていないし、誰も僕の名前を呼ばないけれど、世界中であの旗がひらめいている。それでいいんだ僕は」っておっしゃっていて、「ああかっこいい!」って思いました。

牧村さんはTwitter(@makimuuuuuu)で、女性の生き方・働き方についても発信していらっしゃいます。今考えていることについてお聞かせください。

「女性のためのキャリアアップ講座」ってよくありますよね。同じように「LGBT就活セミナー」というイベントもあります。「それが必要とされるということは、どういうことなの?」ということを忘れずにいたいなと思っています。LGBT枠での採用とか、女性管理職の割合を◯%にしないといけないのであなたを管理職にします!とか、「その人だから」ではなくて、「LGBTだから」「女性だから」そこにいるということになっちゃうわけじゃないですか。応急処置として、対症療法としては必要だけど、根治はしない。困っている人をみんな底上げしていく方向性になるともっといいかなって思っていますね。

枠があるから何人入れなきゃ、みたいなことだと本末転倒ですよね。

アメリカ・ロサンゼルスにあるLGBTの青年向けホームレスセンターを見学に行ったことがありました。そこでもいろいろ考えましたね。そもそも青年層のホームレスがたくさんいるロサンゼルスで、入り口にレインボーフラッグがはためいていて、LGBTでないと入れない。そこで資格をとって就職していくわけですけど、壁にはLGBT枠の求人票がばーっとはってある。「うーん、対症療法だな……」と思いながら見ていました。

「LGBTであることを理由に親から捨てられ、路上で生きていくしか手段がなくなること」「LGBTホームレスセンターを経てLGBT枠で採用される人生の選択肢しか選べなくなってしまうこと」を根治すべきなのであって、これは対症療法なのだ、ということは意識していく必要があるなと思います。

先ほどおっしゃった「ショートカットする道を作りたい」というのが、牧村さんが具体的に取り組まれる方向性なのだなと、お話を聞いていて感じました。

今、日本企業でも結構簡単に「我が社もダイバーシティでーす」「我が社のLGBT社員でーす」みたいな紹介の仕方で、ダイバーシティPRのための客寄せパンダのように社員を扱うところが見受けられますけど……本人が良いならもちろん良いのですけど、それが生み出すものは何なのか、と考えています。途中まで「レズビアンライフサポーター」なんて名乗っていた私が言うのもなんですが。でもこの肩書きはやめてます! 2~3年後には、もっと違うことを言っているかもしれないですけどね(笑)。社会も変わるし、自分も変わるし。あんまり頑なにならないようにしようと思ってます。

ありがとうございました!

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お話を伺った人:牧村朝子(まきむら あさこ)

牧村朝子

タレント、文筆家。株式会社オフィス彩所属。2010年度ミス日本ファイナリスト選出をきっかけに、杉本彩の芸能事務所「オフィス彩」に所属。2013年、フランスでの同性婚法制化とともに、かねてより婚約していたフランス人女性と結婚。現在は東京を拠点とし、各種媒体への執筆・出演を続けている。夢は「幸せそうな女の子カップルに“レズビアンって何?”って言われること」。著書『百合のリアル』(星海社新書)ほか、マンガ監修『同居人の美少女がレズビアンだった件』(イースト・プレス)。Twitterは@makimuuuuuu

文・万井綾子/写真・赤司聡

*1:在フランス日本国大使館のサイト「PACS(連帯市民協約)に関して」より