こんにちは。ぱれあなと申します。弁理士として小さな特許事務所を細々と経営しながら、ブログを書いたり、ごはんを作ったり、本を読んだりしています。
4月ですね。新しい生活が始まった方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。たとえ仕事や勉強の環境がそれほど変わらなくても、なんとなく気分が新しくなる季節です。
私はといえば、昨年度から持ち越した仕事がまだ積んであるのですが、それでも気持ちを新たに机に向かえるように、ちょっとばかり、これまでの自分の転機を思い出してみようと思います。よろしければ、少しの間、おつきあいください。
「好きなこと」だけしていたかったけれど
小さいころからどこか浮世離れして、ボーッと別の世界を眺めているような子どもでした。暇さえあれば本や漫画を読んでいて、本がなければチラシや看板、カレンダーの文字まで読んでいたくらいです。現実の世界が嫌いというわけではなかったと思いますが、よほど二次元の世界が好きだったのでしょう。
好きなものを読んで、好きなことを書きながら生きていけたらいいなあと、ぼんやり思いながら育ちましたが、そんな生き方は許されないだろうとも思っていました。
母はずっと教師の仕事をしていましたし、私も大きくなったらちゃんと仕事をして、お金を稼いで、自立しなくてはいけないと思っていました。そのためには、自分が一番好きなこと──好きなものを読んで、好きなことを書くこと──にかまけていてはダメだ、という後ろめたい思いもありました。
それにしても何をしたらいいのだろう、私には何ができるのだろう、と悩んで、悩みすぎて、ボーッとしたまま、私は高校生になりました。
そんなある日、数学の先生が「こんな講座があるわよ」と、一枚のパンフレットを渡してくださったのです。それは明治大学の公開講座で、テーマは、私が大好きだった宮沢賢治でした。
私は喜んでその公開講座に飛び込みました。
そこで、私の心をいっぺんに揺り動かしたのが、板谷栄城先生による「宮沢賢治と化学」の講義です。宮沢賢治の作品に出てくるさまざまな化学現象を、実験や実物を見せながら紹介してくださるという素敵な内容で、今でもあの教室に立ちこめたさまざまなエステルの香りを忘れることはできません。
もともと理科は好きだったこともあり、「そうだ! 宮沢賢治みたいに科学の勉強をすれば、仕事(研究者みたいなかっこいいやつ)も見つかるだろうし、宮沢賢治みたいに好きなことを書く生活もできるのでは?」とひらめいた私。
なんと短絡的で幼稚なアタマ! と今は思いますが、とりあえず私は理系を目指して大学に進むことにしたのでした。
これが最初の転機……というか、むしろスタートでしょうか。
「アカデミックな研究者」にならなければ負けだと思った。しかし、その道をあきらめて……
大学に入学してからは、いきなり難しくなった数学や物理と悪戦苦闘しつつ、非常勤講師としていらしていたジャーナリストの立花隆さんの講義に潜り込んで詩人の茨木のり子さんにインタビューに行かせてもらうなど、「やらなければいけない(と自分で思っていた)こと」と「やりたいこと」の間でふらふらと揺れ動く日々でした。
どうにかこうにか生物学科に進学し、教職課程も履修しつつ、私はなかなか進路を決められずにいました。
初めて触れた「研究」の世界が思っていたよりずっと魅力的だったことに加え、「いったんその世界に足を踏み入れた以上、プロの研究者、しかも大学や国立研究所などのアカデミックな機関の研究者にならなくては負けなのではないか」という気がしてきてしまったのでした。
もちろん「アカデミックな世界で研究者にならなくては負け」というのは私の思い込みに過ぎなかったわけですが、その思い込みの力で修士課程に進み、四苦八苦しながら博士課程を終えました。
ところが、借りていた奨学金の額がかなり膨れ上がったそのときになってもまだ、私は「何をして食べていくべきか」「何をしたら食べていけるのか」を見つけられないでいたのです。
知り合いの先生の研究室で、ポスドク(博士後研究員)として働かせていただきましたが、不安定な雇用環境に耐えながら、アカデミックなポストを探し続けるための気力が、もう私には残っていませんでした。
ちょうどそのころ、後に夫となる恋人(ポスドクの研究者)との結婚の話が持ち上がり、これ以上離れ離れの不安定な生活を続けるのはイヤだという思いもあって、私は研究の世界を離れ、企業へ就職することを決意しました。
恋人の前ではあっさりと前向きに決意したように伝えたものの、心のどこかにまだ「アカデミックな世界で研究者にならなくては負け」という思い込みが残っていた私は、その後かなり長く「挫折した」という思いを引きずることになります。
「プロの研究者」の道もあきらめたときに見えてきた活路
就職した会社では、研究職として雇っていただきました。アカデミックな研究者にはなれなかったけど、プロの研究者になれたことが、とても嬉しかったのをおぼえています。
仲良しの同期たちにも恵まれ、初めて入った製品開発の現場でまったく新しい研究テーマに挑戦させてもらい、見るもの、聞くこと、すべてが新鮮で刺激的でした。
結婚してしばらくして子どもが生まれ、子どもを保育園に預けて職場に復帰したものの、以前のようなペースで働くことはできなくなりました。時短勤務にはしなかったものの、残業は到底できません。何より、落ち着いて実験のことを考える時間がまったくとれません。
ちょうどそのころ、大学の研究者である夫は仕事が佳境に入り、帰宅は毎日午前様、週末はほとんど寝ているという状況。当時はまだ「ワンオペ育児」という言葉はありませんでしたが、まさしくワンオペで仕事と家事育児を回す毎日でした。夫に少しでも早く帰ってきてもらえないかと頼んでみたこともありましたが、「俺の仕事の時間を減らせと言うのか」と怒鳴られ、取り付く島もない始末(夫も業績を上げて生き残るために必死だったのでしょう。最近になって、このころのことを謝ってくれました)。
夜泣きする子どもをひとりで抱きしめながら、このまま研究職を続けていくことはもう難しいだろうと思いました。
研究に対する強い情熱さえあれば、数年は仕事のペースを落としてでも、粘り強く機会を待って、ふたたび思うようなペースで研究に取り組むことができたかもしれません。ですが、私にはそういった強い情熱が致命的に欠けていたのです。
ちょうどそのころ、偶然、ある女性弁理士の話を聞く機会がありました。弁理士とは、特許や商標などの知的財産のスペシャリスト。特許出願に関しては発明者として関わったことがある程度の知識しかない私でしたが、そのとき弁理士から聞いた特許の仕事の話は、とても魅力的なものでした。
いろいろな発明の話を聞いて、たくさんの文献を読みながら文章で表現し、人に伝える仕事。コツコツと書類を作る作業だから、自分のペースでできそう。何より、私が好きな「読んで、書く」ことにかなり近い仕事なのでは……?
そこに活路がありそうだと思った私は、何人かの知り合いに相談した後、特許事務所の採用試験を受け、入所することができました。
1歳の子どもを抱えての転機でした。
独立開業という挑戦
特許事務所での仕事は、想像していたよりもずっと神経を使う内容でした。重い責任からのストレスも強い。ですが、仕事自体は実に楽しいものでした。研究者としての経験も生かすことができました。生まれて初めて、これが天職というものかもしれない、と思えたくらいです。個性豊かで情に厚い同僚や上司にも恵まれました。
どうにかこうにか弁理士の資格を取ることもできました。子どもが小さかったころはなかなか家に帰ってこなかった夫でしたが、弁理士試験の受験勉強をしていた間は、週に2日ほど、夜に子どもの面倒を見てくれるようにもなっていました。
入所して数年が過ぎたころには、それなりに多くの仕事を任せてもらえるようになりました。それが嬉しく、また、周囲の期待に応えたいという思いも強くありました。
そんな気持ちで自分の能力以上の仕事量を抱えて、好きな本を読む時間もないまま無理をする日々が続いたころのこと。しつこい右耳の耳鳴りとめまいが続いて、病院を訪れたところ、突発性難聴と診断されてしまいました。右耳だけ低音がほとんど聞こえなくなっていたのです。そのときは治療によって聴力はほとんど回復して、安心しました。
しかし、また忙しい日々が続いた際に耳鳴り・難聴・めまいがぶり返し、それを期に、しばしば症状が繰り返されるようになってしまいました。
そして同時期に、小学生になっていた子どもが自宅近くで不審者につきまとわれるということが、立て続けに起きました。
できるだけ子どものそばにいたいという思いと、仕事のペースを自分でコントロールして体調を取り戻したいという希望が生まれ、それまで7年間ほどお世話になったその事務所をいったん退職する決意をしました。安定した職を失うのはとても怖かったのですが、それ以外の解決策が思い浮かばなかったのです。
それでも仕事は続けたかったため、自宅近くに小さな事務所スペースを借り、いざ独立開業したものの、この不景気です。
元の事務所のお客様を引き抜くようなことはしてはいけないと思ったがゆえの、何のコネクションもないところからのスタートは、相当に厳しいものがありました。仕事のペースを自分でコントロールするどころの話ではありません。よく考えれば分かりきった話ではあります。
慣れない営業に行き、少しずつ仕事を紹介してもらったりしながら、お金のことばかり考えている毎日です。
それでも、子どもの学校の用事に顔を出したり、子どもを習いごとに送り出したりして、またすぐに仕事に戻れるという環境は、予想していた以上に毎日のストレスを軽くしてくれました。
家庭と仕事を調和させていくことは、たくさんの変数を含む無数の方程式を解き続けるようなものです。職と住を近づけて、仕事上での自分の裁量を大幅に増やすだけで、その方程式を解くことがかなり楽になったのです。
子どもが小学生になると、乳幼児だったころとは違って「少し離れて見守る」ことが必要になってくるのですが、自分の時間だけでもコントロールできると、ゆとりをもって子どもを待ち、向き合う時間を楽しむことができるようにもなりました。
自分が読みたい本を読み、書きたいことを書く、という時間すら、ときには手に入るようになってきました。
あとはなんとか、収入を安定させられるようにしたいものです。
結局は「もっと好きなこと」に向かって
先日、ここまでの話を夫としていて、気づいたことがあります。
子どものころから、自分が一番好きなこと──好きなものを読んで、好きなことを書くこと──はしてはいけないと思っていましたが、その思いがいつか私自身を縛る鎖になっていたのではないか、ということです。
その鎖に縛られたまま、ときには「研究者にならなくては負け」と思い込んだり、自分を見失うほどたくさんの仕事を抱え込んで体調を崩したり。
これまで私は、何かをあきらめるような選択をせざるを得ない転機に臨んだときは、ワークライフバランスのために、しかたなくあきらめたのだと思ってきました。そして、そのような選択を自分ばかりが押しつけられているように思って、夫を恨んでいた時期もありました(しかもかなり長く!)。
でも、転機に臨んだときの私の苦しみは、環境から与えられたものだけでは決してなく、私を縛る鎖との闘いから来るものが多かったように思います。
そう、私がこれまでしてきた選択は、決して、「しかたなくそうするしかなかった」というだけのものではありませんでした。私自身を縛る「一番好きなことをしてはいけない」という鎖から私を解き放つための、とても利己的な選択でもあったのです。──資質がなかった研究者をやめて、「読み、書く」弁理士の仕事に。そして自分の時間をもっと自由にとれる自営業に。と。
「しかたなくあきらめた」というのは、一番好きなことをする選択をした責任から逃げるための言い訳という面も、多分にあったのではないかとすら今は思います。
夫ともかなりの喧嘩をしてきましたが、少なくともそんな言い訳で八つ当たりされていた分については、実に申し訳ないことをしました。
いつか完全に「好きなものを読んで、好きなことを書く」だけの生活を手に入れる。それがたぶん、私が一番ほしいものです。
そんな生活が本当に手に入るものかどうかはわかりません。リスキーな仕事を選んだことで、もっと苦しいことがこれから待っているのかもしれません。
それでも、一番ほしいと思っているものをごまかす生き方はもうしたくありません。
泣いても笑っても回り道をしても、少しずつでも「もっと好きなこと」に向かっていられるように、今日を生き、明日を迎えられたらいいな、と思っています。