
むかしむかし、阿蘇には学生たちが下宿する村がありました。……と書くと明治や大正の話のようですが、これはほんの10年前までの話です。
熊本県南阿蘇村の黒川地区には、東海大学農学部の学生を受け入れる下宿が20軒ほどあり、全盛期には700人もの学生が暮らしていました。そのひとつ「長野下宿」は1980年ごろから30年以上続きましたが、2016年の熊本地震のあと公費解体され、幕を閉じます。

建物がなくなったいまも、元下宿生たちは「なっちゃん」こと長野名津枝さんの元へ帰ってきます。場所がなくなっても帰りたくなる場所とは、どんなところなのか。元下宿生の友人と一緒に、なつえさんの家に二泊三日お世話になってきました。
旅のはじまり
「夏になったら下宿先のお母さんの元に帰ろうと思ってるんです」
およそ令和とは思えない言葉が筆者の友人・森田氏の口から出てきたのは、4月のはじめごろ。30そこそこにして普段着は着物。お茶を嗜み、湿板写真を撮る、友人のなかでもひときわ変わった嗜好を持つひとりです。
なにを隠そう、筆者である私は「めぞん一刻」に憧れて育ちました。このご時世に「下宿」と聞いただけで鳥肌が立つほど興奮してしまったのは許してください。下宿の建物は2016年の熊本地震のあと公費解体されていましたが、村ぐるみで学生を受け入れていたという話に心が弾みます。
熊本地震から10年か……。いまの阿蘇はどうなっているんだろう。地震がなければ、いまも下宿の文化が残っていたかもしれない土地に俄然興味が湧いてきました。「ねえさんも一緒にどうですか」という誘いに二つ返事で乗りました。

2016年 当時の姿のまま残る東海大阿蘇キャンパス(熊本地震震災ミュージアムKIOKUにて)
そして取材へ赴き、下宿文化に触れ、「ああ熊本はこんなにも素敵な場所だったのか」と帰宅した5日後。10年前と同じ最大震度7の地震が熊本を襲いました。
慌てて連絡すると、なつえさんや下宿は無事。胸を撫で下ろしました。震源地は異なっているものの、天災は何も待ってはくれないし、二度三度続けざまに発生することだってあるのです。
それでも、かつての学生たちが何年経っても帰ってくる良さが熊本にはある。そのことを伝えたくて、この記事を書きました。あなたにとっての故郷を思い出しながら読んでもらえたら嬉しいです。
※この記事の取材は2026年7月21日〜23日に行いました
<記事の登場人物>
長野名津枝(ながの・なつえ)さん
東海大学農学部 阿蘇キャンパスの学生たちを受け入れる「長野下宿(ながのげしゅく)」のお母さん。元学生たちからは「なっちゃん」と慕われている。
森田 健(もりた・けん)
筆者の友人で、長野下宿の出身。卒業後もたびたびなつえさんの元を訪れている。
芭田(ばた)ふらい
ライター。埼玉県出身。2023年から東京と能登の二拠点生活を送り、2026年に能登半島の羽咋市へ移住。 海と山と酒が好き。
阿蘇の「お母さん」に会いに行く
熊本の市街地を通り抜け、車で走ること数時間。ついに目的地である長野下宿……の跡地であり、下宿主のなつえさんが暮らす長野家に到着。熊本は市街地と郊外の距離感が近く暮らしやすそうだなと感じました。

数日前に到着していた森田氏と、なつえさんへのはじめましての挨拶も早々に熱烈な歓迎が始まります。そしてすぐに、これが歓迎というよりも「子どもたちにたらふくごはんを食べさせないと」という親心であることに気が付きます。

泊めてもらう部屋の掃除を済ませて、まだ明るいうちから晩酌がスタート

準備してくれていたBBQセット
「ほら、野菜もあるよ」
「ありがとうございます、明るい時間から飲む酒がいちばんうまいです」
「ほら、唐揚げもあるよ」
「なっちゃんの唐揚げは学生みんな大好きだったからねえ」

なつえさん特製の唐揚げ
「!! 下味がついててめちゃくちゃおいしい!!」
「そ~。よかったねえ」
「なっちゃん、これ量多すぎるよ」
とても食べきれない量の肉、肉、ちょっと野菜、肉を出してくれるなつえさんは一緒に乾杯はしているものの、このあと家族と夕飯を食べるらしい。納屋で若者たちがBBQをしていることはなにも特別ではなく、なつえさんにとっての日常であることが伺えました。

左から森田氏、なつえさん、同行していた友人K

このあと友人Kが熱中症でダウンしますが、なつえさんはそんな状況にも全く動じません。寝床を整えて氷嚢を出してくれました
BBQも満腹のためお開きになり、森田氏と私を近隣の温泉まで送ってくれるなつえさん。

車で5分程の場所にある「どんどこ湯」。閉館30分前の駆け込み入浴でしたが、広々としていてとても気持ちが良かったです。
火の山温泉 どんどこ湯
住所:熊本県阿蘇郡南阿蘇村下野135-1
電話:050-3773-4753
営業時間:11:00~22:00
https://dondokoyu.com/
なつえモーニングと阿蘇観光
2日目の朝。なつえさんが朝ごはんを作ってくれました。すでに我々は全員なつえさんの子どもになったような気持ちでテーブルに座って朝食を待ちます。

昔から見ている光景のように思える不思議

やはり私たちのことを下宿中の大学生だと思っているのではないだろうか
朝食を終え、向かった先は白川水源。阿蘇でも代表的な湧泉で、毎分60トンもの豊富な湧水を誇ります。日傘なしでは歩けないほどの猛暑日ですら、ここのまわりだけは過ごしやすかったのを覚えています。

無加工でこの透明度。まさに避暑地

湧水を汲める場所や

じゃぶじゃぶと入れる川もある
白川水源
住所:熊本県阿蘇郡南阿蘇村白川2040
電話: 0967-67-2222
営業時間: 24 時間営業

小腹が減ったので昼食へ向かいます。私の希望でローカルチェーン「ヒライ」へ行くことに。北陸の人は「すしべん」を想像してください。そんな感じです。

ちょっとしたコンビニのような商品棚と作りたてのお惣菜、イートインスペースも併設されています。

イートインで肉そばを注文。朝の揚げ物が多少響いているのでやさしいお出汁が沁みます(※現在は牛肉の肉そばに変わっています)
おべんとうのヒライ 阿蘇立野店
住所:熊本県阿蘇郡南阿蘇村立野835-2
電話:0967-68-0656
営業時間:6:00~21:00

腹ごしらえを済ませたあとは、森田氏おすすめの肉屋・菊陽食肉センターに夜の買い出しへ行きました。熊本といえば馬刺し。馬刺しといえば菊陽だそう。
菊陽食肉センター
住所:熊本県菊池郡菊陽町久保田265−1
電話:0962-32-2513
営業時間:8:00~18:00

さらに道の駅や近隣のスーパーをフル活用してお土産や地酒を買い込みます。くまモングッズの多さに慄きながら、この日は地ビールを買ってくまモンのぬいぐるみクジをやりました。

かわいいくまもんのぬいぐるみをゲット
道の駅 大津
住所:熊本県菊池郡大津町引水759
電話:0962-94-1600
営業時間:9:00~18:00
学生700人の村と長野下宿のものがたり

長野家に戻って早々、森田氏はなぜか豆腐作りを開始。阿蘇の前に立ち寄った天草から汲んできた海水を使ってなにやらぐつぐつと鍋をかき混ぜています。
キッチンを占領されても文句ひとつ言わないなつえさん。

なんで豆腐?

なんで???
豆腐を固めている間になつえさんちの裏山から竹を切り出し、流しそうめんの準備に移ります。

3人でやる作業じゃなかったかも

勝手に参戦してくる近所のおじい

箸も作る

なつえさんちの裏には湧水もある
1時間ほどして、湧水を利用した流しそうめんの完成! そうめんをいただきながら、なつえさんに話を聞いていきます。

笑顔ですごい量のそうめんを流してくるなつえさん
「なつえさんは何歳ごろから下宿の仕事をしていたんですか?」
「50歳くらいかな。それまでの30年間は東海大の事務をやっていたから」
「勤続30年もすごいですね」
「先代の両親が70を超えたタイミングで下宿を辞めたいという話になってね。当時は先代と姉が切り盛りしていたところにわたしが入ることになったのよ」
「下宿自体の創業はいつからですか?」
「あんま覚えてないのよね~いつだったかな」
「1980年くらいですよ。そこから地震のあった2016年まで」
「なつえさんよりも詳しい」

天草までの道中、島原で買ったそうめん。歯ごたえものど越しも群抜きで美味しかった
お腹が膨れたころに、あたりが暗くなってきたので花火を開始。今年の夏にやろうとしていたことの大半を、この2日間に詰め込んで堪能している気がします。

「うちは、もともと馬小屋だった場所を民宿にして、最後に下宿の形になったのよ」
「馬小屋??」
「そうそう」
「自宅の敷地の一角に下宿があるってどんな感じですか?」
「もうそれが自然だったからなんとも思わなかったかな。同じくらいの年頃のときは学生さんとよく一緒に遊んでたねえ」
「全盛期は村内の学生民宿を全部合わせたら700人くらい学生がいましたね。下宿やアパートがあることによって村自体の平均年齢がいまよりも格段に若かったんですよ」
「だからなんでなつえさんより詳しいんだ」
長野下宿と2016年4月16日の熊本地震

森田氏が作った豆腐も添えて
昨日に引き続き温泉を挟み、部屋飲みがスタート。昼間に購入した馬刺しをつまみながら……と思っていたところ、なつえさんも馬刺しを用意してくれたらしく馬刺し祭りに。さらには豚しゃぶサラダや鶏むねのピザまで作ってくれて、二次会とは思えないような卓上になりました。

熊本の馬刺し、うまい

鶏むねのピザ、うまい
「これが当時の長野下宿。今いるのが北側の民家の部分ね」

「思っていた3倍大きい」
「北側に停まってる車とかどうやって出すんでしょうね」
「2016年の熊本地震が起きたとき、森田氏はここにいた?」
「わたしはその年の3月に卒業していたんですよ。安否確認で方々に電話してましたね」
「なつえさんはどうしていたんですか?」
「下宿は無事だったけど、最初は母屋に全員集まって過ごしていたね」

2016年当時の阿蘇大橋の看板(熊本地震震災ミュージアムKIOKUにて)
「そこから学生は3ヶ月自宅待機ってことになって。1週間後くらいには学生みんな実家に帰ったかな。わたしらは中学校の体育館で2週間の避難所生活」
「学生たちに帰る家があったのは不幸中の幸いですね」
「そうそう。それでこの下宿に住んでいた子たちは秋頃から市内のキャンパスに移動になって。翌年は公費解体で下宿を壊すのに自己負担無しだったから、そのまま終わり」
「本当に地震だけが原因の終わり方だったんですね……」
「卒業生たちから復興支援金が集まったり、まあ大変だったけど嬉しいこともあったかなあ」

当時の部屋割り表を見ながら懐かしむ二人
「ちなみに下宿してた学生たちは卒業のタイミングでなっちゃんになにかしらのプレゼントをするんですけどね。わたしたちが卒業したときは食堂の机をプレゼントしたんですよ」
「もらったもらった」
「でも、ね」
「ね。たった16日でだめになっちゃった。地震で」
学生となつえさんの思い出

「子育てで忙しい時期もあったけど、学生に誘われたり、わたしの方から混ざりにいったりしてみんな仲良くしてたね」
「なっちゃんは全然怒んないのよね」
「たとえば?」
「七輪を使っても部屋が煙ることだけ心配されたり」
「そこなんだ」
「1回だけ怒られたのが、内履きのまま外を歩いたことかな」

学生が作ったなつえさんの名言ポロシャツ
「昔のことは忘れたわ」
「茶碗ば返しなっせ! もよく言ってましたよ」
「エピソードがいちいち学生すぎる」
「そういえば、森田氏はどうやって長野下宿を選んだの?」
「当時は南阿蘇村の黒川下宿会というものがあり、各下宿の簡単な間取り図と大家さんのコメントを載せた冊子を出してたんです。それが東海大学の入学パンフとかと一緒に届きました」
「下宿会かあ。いまの都会だと考えられないね」
「家が愛知だったんで、それを見て決め打ちで長野下宿にしました」
「冊子ひとつで暮らしと人生が決まるのすごいなあ……」
「当時は下宿が20個くらいあったので、下宿対抗のバレー試合などもありましたよ」
「下宿対抗! 楽しそうな学生生活だなあ」

熊本地震震災ミュージアムKIOKU
森田氏が通っていた旧東海大学阿蘇キャンパス。1号館のみ、被災した当時の姿で残っている。住所:熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽5343-1 長野家から車で3分
電話:0967-65-8065
営業時間:9:00~17:00
定休日:月曜日 ※開館日は公式サイトでご確認ください
https://kumamotojishin-museum.com/kioku/
なつえさんと長野下宿

なつえさんと森田氏
「今回みたいに帰ってくる元学生ってどれくらいいるんですか?」
「1年に1回は誰かしらくるかなあ。わたしがいないときに立ち寄って、家の写真だけ送られてくることもあるのよね。はよ言え! ってね」
「笑。無理して会おうとしてないのも実家感があっていいですね」
「何人卒業させたかも覚えてないけど、挨拶だけとか、顔見に来てくれるのは嬉しいね」
「でもなっちゃん名前わかんないひと多いよね」
「顔は思い出せても名前がわからない子はたくさんいるね~~」

きゃっきゃと笑うなつえさん。森田氏との会話は本当に親子のようで微笑ましい。この大らかさがなければヤンチャ盛りの大学生相手に下宿は務まらないのでしょう。
「やめたいと思ったことはなかったんですか?」
「学生が来た方が楽しいから、やめようと考えたことはなかったね」
「根っからのお母さん気質だ」
いつでも帰っておいで
あっという間の2泊3日。寂しくてたまらない気持ちを抑えて、なつえさんとお別れの時間がやってきました。
2016年の地震で下宿の文化は廃れてしまいましたが、ここで学び、遊び、暮らした学生たちは、いまも第二の母であるなつえさんの元へ帰ってきます。特別なおもてなしより、元気な顔が見たいだけ。連絡もせずにふらっと立ち寄っていく元学生たちも、きっとそんな気持ちなのでしょう。
なつえさんの愛に感謝!

そして熊本はいま、復旧の途中にあります。それでも阿蘇には、訪れる人を待っている場所があります。地震の影響がなく、いつも通りの観光ができる場所では、行くことが応援になります。この記事で紹介したスポットも参考にしながら、阿蘇へ旅に行ってみてください。
なお、出かける前には阿蘇広域観光連盟の「行けるよMAP」や観光庁のHPなど、ウェブで最新の情報を確かめてから行きましょう。阿蘇があなたにとっての思い出の地になれば幸いです。
<今回訪れた場所一覧はこちら>
おまけ

熊本城の真横あたりで見つけた中華屋さん。ここのちゃんぽんがめっっっちゃくちゃおいしかった。太平燕(タイピーエン)と皿うどんも絶品でした
中華料理 宝来軒
住所:熊本県熊本市中央区城東町5-64
電話:0963-53-6787
編集:友光だんご

長野名津枝(ながの・なつえ)さん
森田 健(もりた・けん)
芭田(ばた)ふらい










































