初めて「会社」で働いてみたら、東京への漠然とした憧れをやめられた|豆塚エリ

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誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、エッセイストの豆塚エリさんに寄稿いただきました。

16歳のときにベランダから飛び降り、現在は車椅子に乗り生活を送る豆塚エリさん。地元・大分でフリーランスの文筆家として仕事をするなか、「何者かになるために東京に出たい」という気持ちを抱き続けていました。

しかし、今年から会社役員としてダブルワークを始め、初めて組織で働く経験をしたことにより、少しずつ他人との向き合い方が変化し、今いる場所を受け入れられるようになってきたといいます。

他人を競争相手として捉えていた豆塚さんが、どのように他人からの言葉を素直に受け取れるようになり、漠然とした東京への憧れに別れを告げたのか、執筆いただきました。

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何者かになれないなら生きている価値がない、と思っていた。

九州は大分県の片田舎で私は育った。最寄りの駅には一時間に一本列車が来ればいいくらいで、それもちょっと強い雨が降るだけで運休になるような小さな町だ。家の周りにお店らしいお店はなく、ひとつ山を越えないと買い物する場所もない。

地方都市とはいえ、生まれは愛媛県の県庁所在地で、小学校に上がるまで中心街に近いところに暮らしていた私にとって、田舎は閉鎖的で息が詰まった。

それは母も同じだったようで、私が3歳の時に再婚した義父と田舎に暮らし始めてから、両親の関係は悪化した。母は寝る時にしか家に帰って来なくなり、義父は私を無視した。家庭は私にとって居場所ではなかった。不満と苛つきをいつも抱えていた私は、学校でも人間関係がうまくいかず、どうにか大人たちの承認を得るために勉学に打ち込んだ。

ある日の夕方、学校から帰ってきて、ふとテレビから流れるニュースに目が止まった。当時は小泉政権時代。「聖域なき構造改革」を掲げた時の首相は、実力主義の時代、競争社会の到来を高らかに宣言した。その時、心が躍ったのを覚えている。男であろうが女であろうが、お金があろうがなかろうが、どこに生まれようが関係なく、挑戦する舞台に立たせてもらえる。こんな私でも、何者かになれるかもしれない。機能不全の家庭から抜け出して、”ここではない何処か”へと行けるかもしれない……。

それからは首相の掲げる自由と平等を信じ、中学卒業後は町から遠く離れた都会にある進学校へと進んだ。わざわざ町を出て目指すのなら一番がいい、半端じゃかっこ悪い、と母からよく言われていた。子供の私が"ここではない何処か"へと行くためには母の協力が必須で、そのためには立派な大義名分が必要だったし、そう聞かされ続けていたことで私自身も「東京へ行けば何者かになれるはず」と信じるようになり、東京の名のある大学を目指した。

なんでも努力すれば報われる。努力とは美徳であり、救いだ。何者かにならなければ生きている意味がない。私は努力することにすがった。

しかし、残念ながらそれほどの成果は得られなかった。私の高校進学と同時に離婚した母親は、飲食チェーン店でパートを掛け持ちして働き始め、ほとんど顔を合わせることもなかったし、経済環境はさらに落ち込んだ。

振り返ってみると、めいいっぱい努力をするには、生活を支えてくれる誰かが必要なのだ。ただ、当時の私は他の家庭を知らなかったため、成績が伸びないのは努力が足りないせいだと思い込んだ。友情・努力・勝利とは、典型的な少年漫画の三大要素だが、そういえば勝利に向かって邁進する主人公らの生活の部分が描かれることは少ない。ステージの舞台裏では、必ず生活を支えている誰かがいるはずなのに。

そうしているうち、成果を上げられない自分の甘さが許せず、他人に頼ることもできず、八方塞がりになった。その結果、「何者にもなれないのなら」と、高校2年生の冬、アパート3階のベランダから飛び降り自殺を図った。命をとりとめた代わりに、私は車いすに乗る障害者となった。

障害者になり、”どこにも行けない体”になった

障害者として生きる日々は、ままならなさの連続だ。努力をしても報われないことがある、あるいはそもそも努力をしたくてもできない状況があるのだと、障害者になり身をもって知った。私がこれまで信じ、胸を躍らせた自由と平等なんてまやかしだった。困難を努力で乗り越えるストーリーなんて限られた人にしか訪れない。

体力は、体感で言うと健常者の時に比べて半分以下になった気がする。ちょっとした無理でも体を壊してしまう。これでは頑張りようがない。何度か文字通り死にかけて、ようやく私は努力したくてもできない自分、他人の厚意に甘えて頼る自分を受け入れることができた。というか、受け入れないといつか死んでしまうのだと悟ったのだ。

けれども同時に、社会からの期待や要請というものの一切がなくなった、と言えばいいだろうか、障害を理由に就学も就職も叶わない現実がどっしりと横たわっていた。国から与えられる公的扶助はなくてはならないものである一方、「これをあげるからあなたは表舞台に出てこないでほしい」と言われている気がした。社会から、誰からも期待されないというのは楽ではあるが、苦しみでもあった。A面の世界からB面の世界へと、くるりと手のひら返しをされたような気分だった。

愛されたい、認められたい、求められたい気持ちは拭い難い。”何者”かになりたい。見えていたはずの”ここではない何処か”が一気に遠のくどころか、どこにも行けない体になってしまった

それでもこの地元で食べていくしかなく、これまでなんとかフリーランスとして糊口(ここう)を凌いできたが、漠然とした劣等感と東京への憧れは心の深くで燻り続けていた。

組織で働く一員としてダブルワークを開始

つい数カ月前から、知り合いからの誘いをきっかけに、フリーランスの文筆業とは別に、訪問介護事業の会社の役員として働くことになった。最近よく耳にするようになった、いわゆるダブルワークだ。

正直なところ、介護の世界に興味はなかった。ただ、元々収入が安定せず、コロナ禍によって仕事が激減したこともあり、収入源を複数確保することでリスクヘッジしたい、もしかしたら収入がいくらか増えることで、上京するための資金を得られるかもしれないと考えてやってみることにした。会社も障害への理解があり、そもそも女性が多い職場であることから、時短やダブルワーク、在宅ワークなど柔軟な働き方を認めてくれていた。

けれども、不安もあった。基本的に人付き合いが苦手で、長らく一人で仕事をしてきた私にとって、集団で何かをするということをうまくやれる気がしなかったのだ。仕事の悩みの多くは人間関係だと聞く。さらに自分は障害を抱えている。他人の足を引っ張りはしないか、迷惑になりはしないだろうか、それに耐えられるのだろうか、と。

しかし、組織の中で日々働くなか、今までとは違う新しい感覚を味わうこととなった。

過剰な努力は「他人への無関心」を生む

組織でする仕事のある意味で楽なところは、まず目標があり、目標達成の手段を考え、作業をこなす、という手順が明確にあり、そのために人が集まっていることだ。実際に働いてみると、そうした目標ありきで人と関係するのが実は向いているのかも、と思ったのだ。

今まで学校にいたときや、フリーランスとして仕事をしていたときには、他者を競争相手として見ることも多かった。学校では、表向きは「みんな仲良く」と教えられたが、実際のところは「受験戦争」と言われるように、数少ない椅子を取り合う戦いをさせられてきた。誰かと時間を共有することは時間の無駄だと思い込み、その間に誰かから出し抜かれてしまうのではないか、という不安に囚われていた。

他方で、組織で働き始めてみると、同じ1つの目標を達成するためには同僚を競争相手として見ていると効率が悪いことに気づく。目標に集中してとにかくやれることをこなしていく毎日の中で、いつの間にか同僚との間に仲間意識が芽生え、密度の濃い人間関係になっていく。加えて、障害者として長く生活してきたせいか、とりあえず目の前の人を信用して頼る、ということが思っていた以上にできた。苦手なことやミス、時間的制約をカバーし合い、何か目標を達成するたびに手を取り合って喜べた。

豆塚エリさん記事中写真

また、フリーランスとして働くことと組織で働くことでは、こなせる仕事のスケール感と推進力が違う。納期までに職人のように黙々と仕事をこなすのは気楽ではあるが、やはり一人でできる仕事はやれることがそこまで大きくないし、ほとんど出来上がった企画の一部分を受動的に担うことが多い。一方で、各々の分野の専門家が集まった組織では、自分が全くの専門外のことでも企画の段階から携わることができ、物事の進み方も一人でやる時とは桁違いのスピード感だ。

こうした違いは、介護という業種の特性上、そもそも助け合うことを当たり前にできる人たちが集まりやすいのもあるのだろう。利用者さんの生活の質をあげるために、その人らしく生きることや人との関わり方について常に考えている人たちだ。すでにサラリーマンをリタイアして子育ても終えている男性職員が、子育て世代の女性職員たちのために夕ごはんを作って持って来てくれたり、子持ちの職員同士で先に仕事を終えた人が子供を学童へ迎えに行ったり、独身の職員が休憩室で子守りをしたり。

効率よくよりよい仕事をすることをベースに、できる人が生活の部分を補助する。ダブルワークをしている職員の場合には、もう片方の仕事も尊重されるし、時にはその仕事がきっかけで新たな利用者さんが増えることも。抜き差しならない関係ではなく、風通しの良い、心地よい乾きを感じられる人間関係と言えばいいだろうか。頼り頼られるという関係性が自然と構築されていった

一度ドロップアウトしたとき、努力できるという、ある種の「特権」を失ったと思っていた。ただ、組織で働くことをきっかけに、過剰な努力とは、ときに自己中心的で他人に対する無関心を生むのではないか、とさえ思うようになった。特権とは、「他者に無関心でいられること」だったのかもしれない。

私はそんな特権を失った一方で、自分の周囲の他者の存在に改めて気がつくことができた。他者に関心を持ち、互いに手を取り合い、時間を分かち合うことで、どうにもならないなりにどうにかなっていくことが分かるようになったとき、不安や苦しみは少しずつほどかれ、わたしのなかに他者への感謝の気持ちが湧いてくるようになったのだ

他人の言葉を受け取れるようになり、居場所ができた

それから、他者との関わりが変わっていった気がする。これまでは、文筆業をやっている私に対して「応援してるよ」と言ってくれる地元の人が現れても、東京に対する劣等感や満たされなさからか、「何も分かってないだろうにな」と他人の言葉を額面通りに受け取ることができなかった。

分かってほしいという自己愛が強いあまりに、私は”特別”で”本物”なのだと思いたかったのだろう。”何者”かになるために、「然るべき人」に評価され、賞賛され、自分の生に意味を与えてもらいたかった

しかし、自分自身が生きることに意味を与えない限り、人生に価値は生まれない。そして、自分自身が生きることに意味を与えるためには、私にとっては頼り頼られる関係を持つことが重要だったのだ

組織で他人を頼り、他人から頼られる関係を築け、自尊心や承認欲求がある程度満たされたことにより、地元の人たちの言葉をそのまま好意として受け取れるようになった。彼ら彼女らは、”私”だから応援してくれているのだ。何者かである私ではなく、今ここにいる、取るに足らないが、かけがえのない”私”の存在を認めてくれていた。たったそれだけのことに、私は長い間気がついていなかった。それに伴って、「完璧な自分」に対するこだわりも薄れ、現実の自分と向き合えるようになってきた。

東京への憧れが完全になくなったとは言えないかもしれない。もっと自分を試してみたい、という意欲や願望はある。けれども”ここではない何処か”を夢想することはなくなった。今ここが私の居場所なのだと思えるようになった。それは、周りにいる人たちが私をコミュニティの一員として認めてくれ、また私自身もその一員なのだと思えるようになったからだろう。

編集:はてな編集部

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著者:豆塚エリ

豆塚エリさんプロフィール写真

1993年、愛媛県生まれ。 16歳のとき、飛び降り自殺を図り頚椎を損傷、現在は車椅子で生活する。 大分県別府市で、こんぺき出版という出版社を営み、詩や短歌、短編小説など精力的に執筆活動を行なうほか、テレビ番組でコメンテーターを務めるなど、幅広く活動中。著書に『しにたい気持ちが消えるまで』。

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