俳句との出会いを通じて、「感情」にばかり向き合い続けるのをやめた|杉田ぱん

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誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、ゆにここカルチャースクールを運営する杉田ぱんさんに寄稿いただきました。

小さい頃からインターネットの世界に親しみ、世界を広げてきたという杉田さん。しかし、最近では感情的な言葉が飛び交うSNS上の言論空間に疲弊。そんなとき、SNSと対照的な言葉の扱い方が求められる俳句と出会い、精神的にも変化が訪れたといいます。

俳句との出会いが、SNSに疲れていた杉田さんにどのような変化をもたらしたのか。執筆いただきました。

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インターネットで知った「人間の多様さ」

私が家と学校、文房具と本が売っている大型書店、フードコートが大きいスーパーにしか行けなかった中学生のとき、個人ホームページがはやっていた。私が見ていたサイトのリンク集にはだいたい〈REAL〉というページがあり、「明日は六限まである、最悪だ」とか「いま塾から帰った」とか、ひとりのユーザーが短いテキストを呟くページがあった。

同級生のページも見ていたが、もっともよく閲覧していたのは当時興味のあったロリータファッションを着ている人たちの個人サイトだった。家の近所では、ロリータを着ている人を一度も見かけたことがなかったけど、どうやら実際に着ている人はいるらしい。そのことをインターネットで確かめるたび、うれしかった。

高校生になると、その場所はTwitterへと変わっていった。それぞれ一人の閉じた世界でつぶやく〈REAL〉とは違い、Twitterでは一つのタイムラインに複数のユーザーの140字以内のテキストが流れていく。

当時は、独り言のように見えて、やんわり誰かを想定したつぶやきも多かった。おすすめの本や最近観た映画の感想などは、なんとなく友人を意識してのものだったし、お昼にインドカレーを食べた友人の写真がアップされれば、@をつけないで「私はカツカレー」と写真を投稿して、やんわりコミュニケーションを取ることもできた。私はこの独特のコミュニケーションが結構好きだった。もともとお菓子の裏に記載された成分表を全部読んでしまうような、文字を読むのが好きな人間だったこともあり、私はTwitterへ夢中になっていった。

最初は、友人のほかに好きな本屋とか小説家、服屋さんなどをフォローしていたのだが、徐々に社会問題に対しての考えや目指していきたい社会のスタンスが似ているフェミニストやクィアといった人たちとも交流することができた。それまでそういう人たちが集う読書会やデモ、勉強会などへたどり着くための情報はなかなか見かけなかったので、これはとても有益だった。

そのとき、私は洋服の勉強や仕事をしていて、フェミニズムやクィアスタディーズに興味があっても本以外で学べる機会はとても少ない環境にいた。だから大学でやっている市民向けのフェミニズム/クィア理論講座の情報がTwitterで流れてきたとき、「こんな世界が広がっていたのか」としばらく感動したのを覚えている。そこで得た知識や出会えた人たちは、私の人生にとてもよい影響を与えてくれた。

もちろん、人間は多様だからそんなに仲良くならなかった人たちもたくさんいた。社会問題に対してのスタンスが同じでも、それで仲良くなれるかというとあんまり関係なさそうだ、と早々に気がつくことができたのもよかった。インターネットは私にたくさんの人間がいる、ということを教えてくれる存在だった。

感情的な言葉ばかり反響するSNSの世界

しかし、私がここで書きたいのは、インターネットやTwitterで得た良いことだけではない。私は、Twitterに夢中になったおかげで、Twitterで広まりやすい言葉遣いやトピックの存在に勘づき始めた

その一つに、感情を過剰に表現する言葉遣いがある。例えば、最後に「泣いた」とか「ものすごく腹が立った」と、強い感情で締めくくるツイートにはキレがある。Twitterという言語空間は、強い感情ほどよく響き、反響を繰り返し、生き残る。だから、自然と私たちユーザーも激情的になりやすく、疲弊する。

ミヒャエル・エンデの『鏡のなかの鏡―迷宮』(岩波書店)にこんな言葉がある。

ずっと昔、軽率にもはりあげてしまった叫び声のようなものの、残響だ。こんなふうにして自分の過去と出くわすと、ひどい苦痛をおぼえる。おまけに、あのとき口からもれた言葉がそのうち形と中身をうしなって、どんな言葉か見分けがつかなくなってしまっているのだから、なおさらだ。(ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡―迷宮』岩波書店, 2001年, pp.2)

私も同じだった。いつしか過去の自分が書いた、もしくは誰かの書いた強い感情的な言葉に出くわすとちゃんと体力を消耗するようになった。常に自分や誰かの感情と向き合い続けることは、心を消耗させる。

もちろん、そうした強い感情で綴られた言葉の中には、現状の社会で尊厳を奪われ、それに対する怒りを綴ったものもあるだろう。このことについて、もう少し丁寧な話をしたい。

マイノリティと呼ばれる人々は、社会の規範から外れた経験をする。例えば、私は恋愛に興味のない人間だが、「何か過去に嫌なことがあったんですか」と理由を問われることがある。どうしてあなたは、そうなのですか、と。正直、そんなの私にはよく分からない。ただ、そうなだけだ。

時々そのような質問を受けるぐらいだったら、私は「へえ、よく分かんない質問してくるな」ぐらいで済むのだが、社会制度から自分のような人間が想定されていない事実を知るときに、けっこう弱る。婚姻制度を使った方が世の中お得にできているんだなとか、家族に頼ることが前提の仕組み中で、病気などのトラブルのときどうなるんだろうとか。私以外にも、社会の規範から外れてしまう人たち(この人たちにもさまざまなグラデーションがあって違う経験をしている)は、それぞれ不安に思ったり、実際に困ったりしているはずだ。

そういう人たちが、制度を変えるために強い感情と共に何か訴えることもあるだろう。なぜなら、そうしなければマイノリティの意見は聞いてもらうことが難しいからだ。

だから、私もそうした言葉をつぶやいたことが何度かあるが、「ここまでしないと聞いてくれない場所なのか」と落胆した。制度の不均等について、「不均等なので改善しましょう」の一言で済まないのは、それだけで人を絶望させる。

こうして常に自分や誰かの感情と向き合い続けることに疲弊していた。友人に俳句を勧められたのはそんな時だった。

自分の内面ではなく、景色に目を向けさせる俳句の世界

 
「俳句に興味ありませんか?」と尋ねられて、頭の中に最初に浮かんだのは「老後の趣味みたいなやつ……?」という、偏見まるだしのそれだった。しばらく俳句のあれこれを教わりながら、私が俳句に決定的に興味を抱いたのは、「客観写生」という考えを聞いたときだった。

高浜虚子は、『俳句への道』(岩波書店)で客観写生についてこう述べている。

客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを諷う事である。だから殆ど心には関係がなく、花や鳥を向うに置いてそれを写し取るというだけの事である。(高浜虚子『俳句への道』岩波書店, 2014年, pp.20)

 
俳句は、詩だ。

私は、それまで詩というものは、もっと抒情的な文芸なのだと思って生きていた。確かに抒情的な詩もこの世には多く存在する。だけど、そうでないものもどうやら存在するらしいのだ。人間の強い感情だけが響くタイムラインに疲れていた私は、心に関係がないことに光を見出した。さっそく歳時記を購入し、句を作り、句会に参加するようになった。

句会とは、自分の作った俳句を無記名で投稿し、それを評し合う会のことを指す。私の参加していた句会では、先に述べたような客観写生を句に反映させたものが多く、注目を集める傾向にあった。私の見てきたTwitterとは全く正反対の傾向だった

ここで私の好きな俳句を紹介したい。

水筒の暗き麦茶を流しけり(小野あらた『毫』ふらんす堂, pp.25)

たべ飽きてとんとん歩く鴉の子(高野素十『素十の一句』ふらんす堂, pp.83)

「水筒の麦茶、そういえば『暗い』わ……」とか、「鴉って確かに『とんとん』歩くね……」とか、身に覚えのある景色が頭の中に鮮明に受信される。たった一七音の文字で夏の台所の「もわん」とした湿度とか匂いなんかを連れてくる。それ以上の意味はなく、ただそれだけなのである。

俳句にもいろいろあるので、客観写生の他にも流派はあるのだが、ここでは詳しく述べない。ともかく俳句における、客観写生のなかでは、世界を観察し、描写することが求められる。そこでは、私の感情は問われない

言葉や物語の世界において人間の存在は常に大きい。そんな世界で、木や果物、野菜や天気にスポットライトを当てる。世界は人間だけで構成されていない、そんな当たり前のことを思い出すことに惹かれるように、私は俳句に魅了されていった。

私たちの言葉が言語空間をつくっていく

Twitterと俳句では、良いとされる言葉が違う。この異なる環境を行き来することで、考えることや行動が変化していくことに気づいた。

何かをするたびに、思ったり、感じることは、いいとか悪いとかでなく、あることだ。しかし、それを過剰表現することを求める空間では、その部分が発達しやすい。環境が人を乗っ取ることはいくらでもある。

私は、「自分や誰かの『感情』にばかり向き合い続けるのをやめた」。しかし、ここで述べたいのは、単に個人の選択の話ではない。感情的になることを強いる社会や、そういった強い感情のみを響かせる空間へときに疑問の目を向けることこそが非常に重要ということだ。

インターネットは人間の作り上げた空間だ。その空間が、人間の抱える問題を映し出すのは、当然のことなのかもしれない。

私は最初に述べたとおり、高校生のときにTwitterを始めた。そこには、無数の人間たちの考えや生活や学びへのアクセス、もしくはどうでもいいことが広がっていて、その多様さや果てしなさに出会った。それらは変化を続け、形を変える。足りないものを見出し、もっと充実させることも、ぼろぼろにすることも、できるのかもしれない。
 
現実の世界は、もっと果てしなく広い。人間以外のものが無数に運動を続けている。突然の豪雨や、スイカについた傷を眺めながら、どんな言葉を発したり、どんなものに力を与えるのか、もう少し居心地の良い場所であるためにできることはあるだろうかと、SNSと俳句の世界を行ったり来たりしながら、考えたり、考えなかったりしている。

編集:はてな編集部

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著者:杉田ぱん

杉田ぱんプロフィール写真

1994年6月生まれ。株式会社Unicoco代表取締役。学びから周縁化されやすい人たちが学びに近づけることを目指す場所として「ゆにここカルチャースクール」を運営。「恋の歌だけじゃない短歌教室」「心を殺さないための批評講座」など、さまざまな講座を開講している。

ゆにここカルチャースクールHP:Unicoco Twitter:@p___sp

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