記憶にある「良いお母さん」になろうとするのをやめて、私のままで「親」をやる

 イシゲスズコ

イシゲさんアイキャッチ画像

誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、ブロガーのイシゲスズコさんに寄稿いただきました。

イシゲさんがやめたのは自分が思う「良いお母さん」になろうと頑張り過ぎてしまうこと。

自身の母親の姿を見て「仕事も家のこともきっちりこなす」ことが「良いお母さん」であり理想だと思っていたイシゲさんですが、無理を重ねた結果、パンクしそうになってしまいます。そんなとき、病院の先生からのある言葉に救われたそう。

自分の中で思い描いていた「何でも完璧にやる」=「良いお母さん」像を徐々に手放していったイシゲさん。無理をせずさまざまなことを手放したことで、どんな変化があったのでしょうか。

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記憶の中にある私の母は、自営業の仕事のかたわらで家事や祖父母の介護を手際よくこなしている姿が浮かびます。

休みの日にゴロゴロしているのも、1日3回の食事作りで手を抜いているのも見たことがありません。それは母の年齢が80歳に近くなった今も同じ。

そんな母の姿を見て育ち、学校でも社会に出てからも、どこでもそれなりに「仕事が出来る」と評価を受けてきた私が第一子となる長男を妊娠したのは25歳のときのこと。

出産したら母のように、そしてこれまでの私のあり方のように、テキパキとなんでもうまくやれることこそが「良いお母さん」なのだと思っていたし、自動的にそうなれるような気がしていました。

ちゃんと「良いお母さん」をできているか不安だった

第一子となる長男を生む少し前にフルタイムの仕事から時間の融通がつけやすい職場へ移りました。このときはかつての母のように「仕事も家事も育児もしっかりこなす!」という意気込みにあふれていたような気がします。

幼稚園の預かりに通えるようになる2歳までは手元で育てようと、在宅でできる作業を増やし育児関連の書籍もいろいろと読んでいました。昼間は子供の世話を中心にして、寝かしつけてから残った仕事を片付ける日が続くことも。子どもへの接し方も、書籍やネットの情報を参考にしながら試行錯誤。あれこれ情報を見た分、子育てへの理想も高くなっていきました。

自分が家事も仕事も育児も手を抜かずに完璧にしなきゃ、と思うだけでなく「同じことを同じようにやってほしい」と夫への要求もだんだんと増していきました。できるだけ協力しようとしてくれてはいたと思うのですが、私もうまく言葉ににして伝える余裕もないまま「分かってくれない!」と憤ってしまうことも。

自分ばかりが頑張っているような気持ちになって空回りしてしまい、夫とうまくコミュニケーションが取れずに関係がギクシャクしてしまう時期もありました。

公園などの外でも、家の中でも、入園してからは幼稚園でも、日々を過ごしながら「母のような『良いお母さん』になれているのだろうか」「仕事も家事も、育児もちゃんとやれているよう見えているだろうか」というのをすごく気にしていた、そんなお母さん1年生でした。

頑張り過ぎていた日々と、それに気付いて泣いた日

長男の後に年子の次男、2つあけて娘、さらに3つあけて三男が生まれ、当たり前ですがやることは増えていく一方。幼稚園や小学校の役員もできるだけ引き受けて頑張りたいという気持ちも強く、また発達障害の診断を受けた次男のための学校とのやりとりやトラブルの対応も増えていき、私の抱えるものはどんどんと増えていきました。

ちょうどその頃、夫が転職。かなり激務な環境で、朝早く出かけて夜遅く帰る日々が続きました。

家のことも子供たちのことも仕事もちゃんとしなきゃいけない。
学校からも良い親だと思われないと。
でも頼みの綱だったはずの夫は家にいないか、いても疲れ果てて寝ているか。

抱えきれないタスクが積み上がって自分がパンクしそうになっていた頃のこと。

次男の通院先の児童精神科の先生から診察の終わりに

「お母さんがしんどいときはお母さんのためのお薬も出せるからね、つらいときはつらいって言ってね」

と言われました。

「お母さんが無理し過ぎてパンクしたら次男くんたちのためにもならないからね」
「頑張り過ぎちゃダメよ、手を抜いてね」

先生の言葉に、その場でぼろぼろと涙があふれたのを覚えています。

実はこれまで、つらいと感じたときに実家の親や身内にしんどさを訴えても「親なんだからそれくらいは当たり前」と言われていました。そんな経験から「しんどくても、やっぱり全部頑張らないといけないんだ」と、園でも学校でも良い親であろうと自分を奮い立たせることでなんとか乗り切ってきた私にとって、周りの人から初めてもらった「頑張り過ぎないで」というメッセージだったと思います。

そのお医者さんや、当時息子が通っていた通級指導教室の先生方、少し先をゆくお母さんたち……。私が頑張り過ぎていることを言葉にして心配してくれた人たちのおかげで少しずつ、一人で抱え過ぎてはいけないということがわかってきたような気がします。

自分で作り上げてしいた「理想」像を少しずつ手放した

抱え過ぎてはいけない、ということが分かってから見直したことの一つに仕事がありました。これまでは仕事も全力、家のことも全力でできることが良いお母さんの姿なのだ、とついオーバーワークをしていましたが、「子供たちのために時間を使いながら無理をしないように」と在宅での作業を少しずつ減らし始めました。それからほどなくして職場でも業務を縮小することになり、結果的にトータルの仕事量はかなり減りました。

元々目指していた自分の中の「バリバリ働きながら子育てをする母親像」が少しずつ崩れていく感じがして、自分の軸が少しグラグラと揺れるような感覚に陥ったりもしました。

それでも、「全て完璧にする」ことが一番大事なのか、と改めて考えると、きっとそうじゃない。私の場合は、仕事も育児も完璧に、ではない暮らし方を意識した方が、良い方向にいくのかもしれない。

「頑張り過ぎたらまたパンクしちゃうから」
「子供たちの笑顔のために」

呪文のように自分に向けて唱えながら、自分の中に描いてしまっていた理想像を少しずつ崩していきました。

激務が続いていた夫も再度転職をし、金銭的にはちょっと厳しいけどお互いに気持ちのゆとりを持ちつつ暮らす術を模索し始めました。

この頃から始めたのは、暮らしの中で「どうにもしんどい」と私が感じることを無理してやらずにカットすること。

まず見直したのは私にとって一番負担の大きかった食事作り。

時短家電を導入したりもしましたが、大きく手を入れたのは「慌てて晩ごはんを作るのをやめる」ということでした。

自分の中でのイメージとして「仕事から帰って最短で晩ごはんを仕上げて食べさせるものだ」というのが刷り込まれていたような気がします。でもそうやって慌てて作業をしていて味付けに失敗したり火傷したり、スマホをレンジに一緒に入れてチンして壊してしまったり……。

何度も失敗を繰り返してやっと「このやり方は私には合っていないのかもしれない」と気付くに至りました。

慌てない、と決めただけでは家族も困ってしまうので、具体的に「晩ご飯は午後7時半」と決めました。早く家に帰れたとしても、「7時半に完成できていればいいや」と下準備だけして仕上げは後回し。その合間にゴロゴロしてみたり、ゲームしたり、スマホでドラマや映画を見たり。メニューも手の込んだものはハレの日だけと決めて、普段はシンプルな食卓でも良いと思うようにしました。

仕事が忙しかったり、習い事の送迎などで7時半に間に合いそうにない日は、無理して作らずに買い置きのレトルトや冷食、テイクアウトを活用したりするように決めました。現在も、そのときどきの子供たちの部活や習い事のスケジュールに合わせて少しずつ変化させながら、無理のないご飯計画を立てるようにしています。

また、つい後回しにしてしまう自分自身のケアを優先することも意識するようになりました。

子供たちから何か頼まれたりすると何をおいても最優先でやってあげないといけない! と思い込んでいた私。もちろん迅速に対応しないといけないことはありますが、急ぎでないことも「自分のことよりも大事」と思い込んでやってあげてしまっていました。

そうやって少しずつタスクを積み上げては自分のことまで手が回らなくなっていったような気がします。

手を抜くぞ! 自分を優先するぞ! と決めてからは

・具体的に言葉で頼まれたことしかやらない
・行事のスケジュールから先回りして必要なものを用意しておいてあげたりしない(本人に言われるまで動かない)
・洗濯物は各自の室内干しハンガースペースに干すところまでしかやらない
・家族に何か頼まれてもキャパ不足の時は断ったり、先延ばしの交渉をしたりする(無理して引き受けない)
・自分のお風呂、睡眠、食事をとる時間を削らない


といったことを意識するように。自分のケアを疎かにすると気持ちがトゲトゲしてしまうので「自己犠牲は悪だ」と自分に言い聞かせるようになりました。

「私」のままで「お母さん」という役をやる

「良いお母さん」としてやれなければ、と自分に課していたことを一つずつ手放していった結果、安心して家にいることができる時間が増えたような気がしています。

その反面、子どもたちが巣立った後、「いつもゴロゴロして自堕落な人だった」とか「ご飯の用意や子どものことよりゲームをしていた」「同じ献立ばかりだった」とか思い返すかもしれない。

SNSで手の込んだお弁当や何品も並ぶ夕ごはん、キラキラした親としてのあり方を実践されているように見える投稿を見かけると「うちの子たちには与えてあげられていないもの」を感じて、今でも胸がチクッと痛むことがあるのも事実です。

辛抱の足りない私は時折、「〜〜してあげられなくて」と子供の前で口にしてしまうことがあります。でも、そんなときいつも決まって「でもやろうとしてもパンクするでしょ」「お母ちゃんのキャパじゃ無理でしょ」「今のままでいいんじゃない」と言ってくれる子供たち。

私が頭の中で作り上げていた「良いお母さん」像にはたどり着けなかったけれど、私が私のまま、自分のできる範囲で「お母さん」としての役割をやっていく、という形に収束していっているような気がしています。

そもそも「良いお母さん」ってなんだろう? それぞれの心の中に思い描いていることがあったとしても、家庭環境がひとつひとつ違う中で絶対的な答えなんてきっとどこにもない。

たどり着いた「私の答え」は、理想として描いた偶像になることではなく、今の家族の中での私のベターを見つけること。



いい親であらねばならないと気を張っていたあの日の私に「肩の力を抜いていいよ」って教えてあげたい。一人で頑張り過ぎなくても、手を抜いても周りにいろいろ任せても、子供たちはちゃんと、優しくすくすく育っているよ、って。

私が理想の「良いお母さん」にならなくても、毎日家族とくだらないことで笑ったりしながら生きていけている。

私には、わが家には、今のところそれでいいような気がしています。

編集:はてな編集部

著者:イシゲスズコ )

イシゲスズコ

ぼちぼち働く4児のははです。 色々考えたり、ブログ書いたり、子供たちとあたふたしたりの毎日です。

Blog:スズコ、考える。 読み聞かせしながら、考える。

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