誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、タレントのぱいぱいでか美さんに寄稿いただきました。
でか美さんがやめたのは、誰かを見返すためにコンプレックスを解消しようとすること。そして、その後コンプレックスと向き合う上で過度な「写真の加工をやめた」こと。
自分の中でコンプレックスを解消するためにやっていたことが、気付けば「コンプレックスを浮き彫りにさせていた」というでか美さん。
体験を経て気付いたことは「コンプレックスがあってもいい」「無理に完璧になろうとしなくてもいい」ということだったそうですーー。
くっそー!見返してやる!
ドラマや漫画なんかでよく聞く台詞のようで、実は現実でも使われがちなのではないでしょうか。信じてた人から裏切られた時、好きな人に振られた時、ライバルに負けた時、理不尽な目に遭った時、などなど。わざわざ口に出す人はいないけど心の中で呟いて、そういう原動力で頑張る人は多い気がします。友達を励ます時なんかにもつい言ってしまいそうな台詞ですね。……あんな奴、見返してやんな! なんて。
見返すために強い自分を目指す。もっと綺麗になりたい。もっと仕事できるようになりたい。
ただ、フィクションと現実はやっぱり違います。現実の見返したい相手は残酷なまでにリアルな人間で(当たり前だが)、こっちが拍子抜けするような反応を取ってくるならまだ良い方。まず自分に対して然程興味がないんです。
私を無下に扱っていた人が、メディアにでるようになってからもてはやすというか、グッと近付いてきたことがありました。自分がしたこと忘れたんか? と思いつつ、もしこれが私が考えていた「見返す」のゴールなんだとしたら、あまりにも虚しい出来事でした。
だってとびきり嫌なアイツのはずなのに。もっと嫌われたり、悔しがられたりするのかと思ってた……。目の前でニコニコと「写真撮りましょ! SNSあげていいですかー?」と言われピシャリと断る気持ちにすらなれず「あ、はい」と言ってる間に撮られていました。夢? と思うくらい一瞬のことでした。
どうでもいい人を「見返す」必要はない
誰かに投げられた言葉や態度で生まれたコンプレックスって何の意味があったんだろう。そしてそれをバネに頑張ることの意味も。
どう考えても自分を大切にしてくれている人たちが喜ぶ顔を思い浮かべて、違う方向で努力する方がいいじゃないか!
大切にしてくれている人たちのことは、私ももちろん大切に思っています。この人たちにコンプレックスを植え付けられるようなことをされたことが果たしてあっただろうか? いや、ない!
大切な人たちはいつも背中を押してくれて、自信をつけさせてくれていたのに。
もうどうでもいい誰かのために、ましてや見返す為にコンプレックスを解消するのはやめよう、と思った瞬間でした。
それと、25、6歳くらいの頃からジェンダーに興味を持ち始め、女性の生き方やルッキズムについて考えるようになったのは私にとって大きいように思います。見返すことをやめてからのコンプレックスとの向き合い方の大きなヒントになり、自分の中のモヤモヤを少しずつ紐解いていくような感覚は初めてでした。
過度な「写真の加工」をやめた
コンプレックスに対しての意識が変わった経験として、1,2年ほど前から「写真を加工する」ことをやめるようになりました。
まずは自撮りから。
そもそものきっかけは、自分より若い世代の子達がカメラアプリに詳しく、なんとなく流行りのアプリに乗れてないのを感じたから。あー今はそんなのが流行ってるのか。てかそもそも何で私はこのアプリを使ってるんだ? とふと考えてみたのです。
ということで思い切って一度加工系のカメラアプリを消してみました。所謂ノーマルカメラで撮って、明るさとか色味の調整だけはアプリでする程度に。
そしたら、何かちょっと意外なくらい平気でした。最初のうちは気になったり恥ずかしかったりするような感情もあったけど、すぐに慣れました。だって、自分が日常的に見てる顔はこっちの方が近いんだから。
やっぱり気になるところはある。そりゃある。でも、自分の顔を取り戻した気分にすらなって清々しかったのです。
たまに、ぼーっと写真を眺めていると実際に会ったときと全然違うくらいの加工をしている子がいます。もちろん実物がはちゃめちゃに可愛い子です。可愛いのに、みんなおそろいの加工をしているんです。
それ自体をやっぱり否定する気にはなれないけど、きっとこの子にもコンプレックスがあるんだと思った瞬間なんだか居た堪れない気持ちになりました。コンプレックスを解消するための機能のはずが、コンプレックスが浮き彫りになっているのです。
自分が加工していたときもそうでした。ほうれい線は自動で消える設定にしていたから、もはやインカメで見る自分にほうれい線はなかったし、理想の顔や流行りの顔があって、それに近づけるような加工をしていました。
面長が嫌で少し幼く見えるように輪郭を丸く縮めたり、小さな目が嫌で大きくしたり、横にでかい鼻が嫌で小鼻は小さくしたり。加工した全体のバランスを取るためだけに、別に不満がないのに口をでかくしたり眉の位置を下げたりもしました。自分の実際の顔や印象がどうであるかより、アプリの中だけでも嫌な部分を消してしまいたかったのです。
自撮りの加工を多くしていた頃の写真
けどそれは結局、いつの間にか自分の嫌いなところを見つける作業になってしまいました。根本的な解決には至ってなかったのです。
写真を加工し過ぎることをやめてから、楽になった
自撮りの加工をやめてから、お仕事で撮っていただいた撮影データを見てひどく落ち込むこともなくなりました。これは自分にとってかなり大きな進歩!
前までは撮影データの確認が一番苦痛な作業で、自分のあらゆる部分が気になりOKカットも中々見つけられず、唯一見つけたOKカットも、結局スタッフさんにお願いして加工してもらっていました。
写真を選んでいる時も、修正箇所を指定する時も、誰に向けてか分からない情けなさでいっぱい。先回りの被害妄想が激しくて「この写真もブスって言われるんだろうなー。何でブスって言われる為にいろんな人の力借りてわざわざ写真撮ってるんだろ……」くらいの落ち込み方なんて当たり前でした。
しかし今は表情の良さで写真を選べるようになりました。修正も写真全体の色味や明るさの拘りはあれど「レタッチはそんなにしなくていいです、常識的な範囲でお任せします」と答えられるようになったし、何なら(おそらく先方的には気を遣って)どこかへ消えてしまったほうれい線のない頬が自分にはもう不自然に感じて「ほうれい線を戻してください」と言う時すらあります。あんなに、あんなに気にしてたのに!
ほうれい線を消さなくなった直近の宣材写真
そりゃあ「盛れてる/盛れてない」は、あります。奇跡の一枚みたいなものもあるし(笑)、こんなに浮腫むもんかね? なんて日も全然ある。
ここまで書いといてなんですが、今の私はコンプレックスが完全に解消したわけでもなければ、まるごと愛せるようになったわけでもないのです。日々揺らぎがあって掴み損ねる時もあるけど、でも、それでいいんです。
感覚的な話で伝わるのか不安ですが、最近は嫌いなところは嫌い、それはそのままでいいと思えるようになりました。
コンプレックスなんてあって当たり前。それ自体の感情は否定はしたくないのです。そんなすぐに完璧になんてなれないから。
だからこそ、付き合い方が大事なのかも。
私の場合は、結果、写真を加工し過ぎることをやめてから、楽になった感じがします。自分でも何だか不思議に思いますが、本当なんだからそうとしか言いようがない。ほうれい線は年を取れば誰にだってできるのです。
繰り返しになりますが、エイジズムやルッキズムを考えるようになったことも大きいです。学んでいく中で、尊敬できる諸先輩方を見つけられたおかげでもあります。歳を重ねていくことが自然で当然であることは勿論、それがどれだけ素敵であるかを見せてくれました。
それに日々、これだけ笑っていたら人より深い皺ができることくらい納得なんです。シワのある自分を嫌だと思う気持ちと、よく笑う自分は良いなと思う気持ちを比べた時に、よく笑う自分をもっと大切にしてあげたくなりました。
コンプレックスを、無理に隠していませんか?
しかし私のコンプレックスは見た目だけに留まりません。まだまだある。掘れば掘るほど出てくる。あー大変だ!
ネガティブな性格も直したくて仕方なかったのです。
被害妄想が激しくて、いつも最悪のパターンを頭の隅におきながら行動。最悪を考えておけば、それより悪いことは起きないはずだから自分が傷付かずに済むのです。とは言え想像の段階でかなりプレッシャーがかかる為非常にエネルギーを消耗するし、何だかんだ想像よりはマシであれ、嫌なことが起きてしまえばそれはもう嫌でしかないので、ついさっきは「傷付かずに済むのだ」なんて偉そうに言ったけど全然その都度、傷ついているのです。これではあんまり意味がない。自己申告するのはかなり恥ずかしいけど、根っから不器用な生き方。
私ってなんでいつもこうなんだろう、と考え込んでしまいます。
ただこのネガティブさも、さっきの「写真の加工をやめた」状態に置き換えてみました。あいにく性格を加工するアプリはないので、ポジティブな状態の自分は仮の姿ですら見ることはできませんが、じゃあやっぱり、これが私ってことなんだな、とシンプルに思えました。無加工の私は何かいっつも勝手にてんやわんやして、ちょっとその様って客観的に見たら面白いな……くらいには思えてきたんです。
ネガティブな自分の中にある面白みとか、考え過ぎちゃうが故の思考回路とか、我ながら人間みあって可愛いじゃんって。
これはもはやポジティブなのでは? と言いたいところですが、ただネガティブな自分を受け入れるということ「だけ」を身に付けてたという感覚ですね。でも、たったそれだけで楽になったし、落ち込んでる自分も俯瞰で見れるようになりました。
そのおかげか、凹んだときにもがいてもがいて、どんどん深みにハマっていくのが癖みたいになっていたけど、今は凹んでる時は脳内のもう一人の自分が「凹んでいますね」とかなりフラットな気持ちで眺めています。
励ますでもなく何をするでもなく、ただ、眺めている。
中心にいる自分はもちろん悲しんだりつらかったりするのでしんどいはしんどいのですが、ネガティブ発動してますね、と一度受け入れているので妙な深みにまで到達することはかなり減りました。
さっきの写真の話と同じで、そりゃ調子みたいなものはあります。でも、それでいい。揺らいでいていい。毎日息して生きてるんだから当たり前なんです。
コンプレックスを無理に隠すことは、人目につかなくなる代わりに、少しでもはみ出ないように常に見張らなきゃいけなくなります。
自分を自分で鼓舞することや律することは大事だけど、見た目と内面も、コンプレックスへの過剰な見張りは私にとっては生きていく上で逆効果でした。
ノーマルカメラで写した私
もし私と同じようにコンプレックスが強い人がいたら、加工とか、ポジティブ啓発とか、試しにやめてみてはいかがですか。
無理に隠さず、かと言って隠したい・直したい気持ちも否定しない。
何となくいい感じの角度を探しながら、見た目も心もノーマルカメラで写した私は、今日もちょっと盛れていていい感じです。
編集:はてな編集部
INFORMATION
日程:2021年8月8日(土)
開場 12:00 / 開演 13:00 (予定)
会場:TSUTAYA O-EAST、TSUTAYA O-Crest
配信:ニコニコ生放送
Web:https://dekamimatsuri.com/
※最新の公演情報についてはイベント公式サイトよりご確認ください
「わたしがやめたこと」バックナンバー
著者:ぱいぱいでか美