仕事でベストを尽くせない産後の私を支えてくれたのは、誰かが記した「弱さ」だった

 


産後に職場復帰し、ある程度仕事にも慣れた頃、ふと「以前の自分なら、もっと仕事にコミットできたのに」と感じた経験がある人は少なくないかもしれません。子育てをしながら働く上では、産前と同じような働き方をすることは難しいもの。そんな中で「私は役に立てているのだろうか」と、つい自分を責めてしまう場面もあるでしょう。

1児の母であり内科医として働く紺さんは、出産をきっかけに以前のようなハードな働き方を見直したそう。しかしそんな中でも時折、以前のように第一線で働けないことに、もどかしさを感じる場面があるといいます。

そんな紺さんが気持ちを切り替える手段として選んだのは、同じような悩みを抱える人たちが記した文章に触れ、自身でも書き残すこと。読むこと・書くことを通じ、産後働く中での自責感にどのように向き合ってきたのかをつづっていただきました。

出産と育児の厳しさに、医師としての自負が打ち砕かれた

かつて私には、生活の全てを仕事に捧げた時期があった。全てというのは比喩ではなく、風呂場にいる時も職場からの着信に備えて携帯電話を湯船のへりに置き、たまの休日にも遠出は決してせず、急な出勤要請に備えておく、そういう生活をしていた時期があったのだ。患者さんが相手の仕事だから、生活の全てを捧げることは当然だと思っていた。いや、今でもそう思っている。しかし、数年前に娘を産んで、私は医療現場の第一線から身を引かざるを得なくなった。

産む前は正直なところ、育児を舐めていた。医師として、同期が次々と辞めていくようなキツい職場で何年も働いてきたという自負があったし、子供ひとりを相手にするだけの育児なんて簡単だと本気で思っていた。世の中にあふれる育児に対する愚痴の数々も、自分には関係ないことだと心のどこかで思っていた。

しかし産後の現実は予想以上に厳しく、そんな自信はすぐに打ち砕かれてしまった。出産中に数リットルの出血をきたし、体のあらゆる箇所に激痛が走った。そんな中で産後2日目の深夜、泣き止まない娘をあやそうと抱っこしながら、産婦人科病棟の暗くて寒い廊下をひたすら歩き回った。歩くという生活の基本動作すら痛みでまともにできなくなるのは産まれて初めてのことで、精神的に相当こたえた。

暗い廊下を抜けて、深夜でも煌々と明るいナースステーションの前で立ち止まると、夜勤の看護師さんたちが忙しそうに立ち働いているのが見えた。そこはかつて、私の戦場だった。深夜のナースステーションで、私は輸液の指示を出し、処方をして、患者さんたちを助けるために一生懸命だった。キツい仕事だったけれどいつも気力は充実していたし、誰かの役に立つ立派な仕事をしているという誇りがあった。

泣き叫ぶ赤ん坊を抱き抱えたぼろぼろの体で、私はかつての戦場を遠く眺めて立ち尽くした。医師として持っていたはずの自負が木っ端みじんに吹っ飛ばされたその瞬間から、私が育児と向き合う時間が始まったのだった。

産後の私を支えてくれたのは、同じ経験をした母たちの言葉だった

退院後も、育児は思うようにいかなかった。私は娘を母乳だけで育てようと考えていたが、思い描いていた育児は全く軌道に乗らなかった。強くこだわっていたつもりはないが、うまくいかないことでプライドをひどく傷付けられた。抱き方を変えてみるなど散々努力してもてんでダメだった。退院後しばらくは母乳とミルクを併用していたが、産後1カ月で完全ミルク育児へと移行した。

お母さんが赤ちゃんにおっぱいをあげる。当たり前だと思っていたことが、実は当たり前ではなかった。そしてそこに自分の手が届かなかったことを、私は新鮮な驚きをもって受け止めた。勉強でも仕事でも、今までは必死に努力すれば報われるのが当たり前だった。自分の体がこんなにもコントロール不能なものだということに、私は子供を産んで初めて気が付いた。

コントロール不能だったのは体だけではない。産後、以前の自分では考えられないほど、ふとした瞬間に涙が止まらなくなってしまうことが増えた。

きっかけは産後の入院中、思うように母乳が出なかったために娘の体重が増えず、さらに新生児黄疸をきたして治療が必要になったことだった。それが引き金となって、私は担当の看護師さんの前でわんわん泣いた。私は客観的に見ても精神的にタフな方だったはずなのだが、それでも産後のジェットコースターのごときホルモン変化とぼろぼろの体、育児の理不尽さの前ではあまりにも無力だった。

精神科受診一歩手前のところでなんとか自宅退院することができた後も、授乳と授乳の間のほんの短い時間に自分のベッドに潜り込み、布団の中でしくしく泣くような生活が続いた。「もしかして自分だけがこんなに惨めな思いをしているんじゃないか」という疑念が何度も心をよぎった。産婦人科病棟に入院していたお母さんたちの中で、おそらく私が一番授乳が下手くそだったし、娘は一番大きな声でわんわん泣いていた。

布団の上のスマホ

ふと思いついて、スマホで“産後 涙が止まらない”で検索した。ばかばかしいと笑われるかもしれないが、同じような経験をしている人がいないか、藁(わら)にもすがるような思いで検索したのだった。

そこには、出産直後の女性たちが書き残しておいてくれた個人ブログがあった。おそらく、今までもこれから先も、私があれほど誰かの言葉に共感することはないんじゃないかと思う。出産直後の体のままならなさや、思うように進まない育児、不安定な精神状態について、私はベッドに潜り込む度、布団の中でむさぼるように繰り返し検索しては、彼女たちの書き残したものを読んだ。

どのブログに書かれていることも、まるで自分自身の生活そのもののようで、産後の悩みは誰にも共通するところが多いのだと知った。体からは徐々に痛みが消えて、体の回復に比例するようにして精神も段々と落ち着いていった。個人ブログを開く回数も減っていって、ついにはそれらを見ることもなくなった。スマホで延々ブログを検索する時間は終わったが、誰かが書き残したものに救われたという経験は私の心にくっきりとした痕を残した。

仕事でベストを尽くせないもどかしさを、今度は「書くこと」にぶつけた

娘を産んだのは冬だったが、季節はあっという間に春になり、私は仕事に復帰した。産後3カ月頃のことだった。復帰したと言っても、以前のように生活の全てを仕事に捧げるような、そういう働き方はもうできないと考え、働き方を見直した。決められた時間まで粛々と外来業務のみをこなし、定時で帰宅する。帰宅後は決して職場に呼び出されることはない、そういう働き方だった。

復帰した当初、医療現場の第一線で働けないことを悔しいと思うよりは、やっと家の外に出ることができたという安堵(あんど)の方が強かった。

育児は同じことの繰り返しだ。朝起きた後、家の中でおむつ替えと授乳をひたすら反復する。昨日と今日にさほど違いはなく、しかし投げ出すことは許されず、ただ実直に同じような日々を繰り返すしかない。以前のように医療現場の第一線で働けなくても、外来業務をこなすだけで平坦な灰色の日々に鮮やかなアクセントがついた。

これでいい、この働き方で何の問題もない。しかし働き続けるうち、時折どうしたって、かつての身を削るような働き方が脳裏をよぎった。自分のベストパフォーマンスを知っているからこそ「もっと自分はやれるんじゃないか」という思いが拭えなかった。

子育てとは、仕事においてベストを尽くせない状況が続くことだと思う。それは予期していたし、出産をきっかけに働き方を見直したのも自分の意思だった。しかしそれでも、自分の置かれた現状に満足することは決してできなかった。ベストを尽くせず行き場をなくしたエネルギーを何に費やすか迷った時、私が選んだのは「書くこと」だった。

最初は本当に恐る恐る書いた。出産直後、出血多量で点滴を受けながら病床に横になっていた時、私を支えてくれたのは「いつかこの最悪の経験を文章にして世に出してやろう」という強い気持ちだけだった。絶対に書くという気持ちだけを杖(つえ)にしてよろめきながら退院して、それでも実際に文章にするまで半年以上かかった。

出産のことを書く前には、子育てや自分の生活についての文章も何本か書いた。私が書いたものは魅力的なキャラクターが出てくる冒険小説でもなければ、泣いて笑って最後には少し元気が出るようなエッセイでもなかったので、こんなものは誰も読んでくれないかもしれないと思った。私は自分の身に起きたこと、それに伴って自分の中に吹き荒れた感情について書き、ありがたいことにそれを読んでくれる人たちがぽつぽつと現れた。

数本書くと、自分の中にある書くことに関する泉が枯れてしまったので、今度はどんどん本を読んだ。産前には興味の湧かなかった、女性として生きることに関する本が多数を占めていた。

読んだり書いたりする中で、私は偶然、周囲のさまざまな助けを得て這い上がることができたのだと知った。医師という仕事に就けたことも、産後の体が最悪な状態から3カ月で職場に復帰したことも、運が良かっただけだった。女性として産まれたというだけで、学歴など必要ないと親から断言されてしまう人、受験で明らかに不利な条件で戦わなければならなかった人、出産や育児を機に思うように社会参加ができなくなった人、そういう人たちがいることを、私は初めて生々しく感じたのだった。

「弱さ」を自覚することで、前に進むことができた

かつて、努力は報われると無邪気に信じてきた。体や精神、周囲の環境が努力することそのものを許さないこともあるのだと理解して、今まで信じていた世界は一変した。出産や育児は、女性として生きることについて深く考えたり、今回このような場所をお借りして文章を通して誰かに語りかけたりするきっかけを私に与えてくれたのだ。

人を産んで育てるということはものすごく大きなイベントで、誰もが傷つき、自らの弱さを突きつけられる。しかし、書いたり読んだりすることを通じて、弱さを自覚することは決して悪いことばかりではないと気付いた。

産後1年が経過して、私は外来だけでなく、病棟業務にも復帰した。週に5日は働くようになって、産後の母親特有の、自分だけが世界に取り残されたような孤独感はかなり薄れた。週末になると娘の相手をして、いつ終わるとも知れない絵本の読み聞かせや積み木遊びに付き合っていると時間の流れの遅さにくらくらすることはあるが、週に2日のことだ。平日は保育園に通う娘は、既に自分なりの方法で社会と関わり始めている。

母と娘の二人きりの時間は終わり、私は今日も本を読み、時たまこうして文章を書く。高名な先生の書いた本を読むと、その内容に深く感心することも多い。しかし、一番私のことを救ってくれたのは、産後間もない頃に読んだ、母たちの率直な思いをつづった個人ブログだった。

育児は子供が何歳になっても、きっと常に厳しい。産後間もないあの時のように大きな感情の波に攫(さら)われそうになった時、私はきっとまた布団の中でしくしく泣きながら、誰かの文章に縋(すが)って救われようともがくだろう。この文章を読んでいるあなたも、どうか率直な気持ちを記しておいてはくれないかと思う。傷ついた誰かを救うのは強さだけではないのだ。

社会から引き剥がされ、以前と同じようなパフォーマンスで働けなくなったことを恥と感じる心が消えたわけではない。私が仕事に本格復帰した2020年春、ちょうど新型コロナウイルスの感染拡大が始まっていた。テレビでは最前線の医療現場で身を削りながら働く医療従事者たちの様子が繰り返し報道されていた。非常事態下の医療現場において第一線に立てないという状況に、自責感が強まることもあった。

その葛藤を、仕事の中で解消することはまだできていない。しかし、私が書くものに共感してくれた人たちのことを思い出すたび、決して恥じて黙るまいと思う。

本棚

最後に、産後に読んだ本の中でも、特に思い出深い一冊である『メイドの手帖』から引用する。

書き記すということは、私たち二人の人生や冒険に感謝し、一幅の美しい絵を描くための自分なりの方法だった。

『メイドの手帖』(著:ステファニー・ランド、翻訳:村井理子、双葉社)より引用

この一文に私は心から同意する。この本もまた、掃除婦として働く貧しいシングルマザーがつづったブログが心ある人の目に留まり、出版され、ベストセラーとなった一冊である。

率直に記された弱さや痛みが美しい絵となり誰かを救うこともあるのだと、私はそう信じている。




編集/はてな編集部

育児と仕事のバランスに悩んだら

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著者:

紺

本を読むことと酒を飲むことをこよなく愛す内科医。一児の親。

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