他人と比較することをやめる|あたそ

 あたそ

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誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、Twitterでのツイートが話題を集め、現在は「ひとり」「家族」に関した執筆活動も行うあたそ(@ataso00)さんに寄稿いただきました。

あたそさんがやめたことは、さまざまな場面で「他人の生き方と比べる」こと。

仕事やプライベートでうまくいかないことがあると、思わず「あの人はいいな」「なんで自分は他の人と違って……」と思わず他人を物差しにして自分を比較してしまう、という方もいるのではないでしょうか。

家庭環境を起因として自分に自信をなくしたことから、周囲と比較したり、視線が気になったりするようになったというあたそさん。また、「他の人と同じような人生を歩めていない」ことにコンプレックスを抱く瞬間があるとも語ります。ただ、少しずつ「自分の人生と他人の人生を比較しても意味はない」と思えるようになったそう。誰かと比べることをやめることで、あたそさんにどんな変化があったのか、その変遷をつづっていただきました。

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スマホの画面に結婚式の様子や赤子の画像が映し出される時間が、数年前から異様に増えている。Facebookでは3週間に1度くらいの間隔で「おめでとうございます!」とコメントを残している気がするし、Instagramでは桃の節句を楽しむ子どもの姿が複数確認できた。もうすぐ4月だ。きっと、春には同じくらい入園式や入学式の写真が目に入ることになるだろう。

友人、知人、会社の同僚と、周囲にいる人間がすごい勢いで結婚や出産をしている。本当に少子高齢化が進んでいるのだろうか。晩婚化は? 未婚率の上昇は? 日本社会におけるネガティブな話題が、全て嘘なのではないかと疑いたくなるほど、私の周りは祝福ムードに包まれている。

実際のところは、この家族の形の変容だけではない。家や車を買ったり、海外転勤になったり大学院に再入学したり、脱サラしてバーを始めたり故郷に戻って起業したりしている人もいる。なかには信仰宗教や理解が難しい思想にはまっている人もいるのだが、それも含めて年齢を重ねるごとに自分と異なる世界に住む人が増えつつある。高校や大学くらいまでは同じように生き、足並みがそろっていたように見えた周囲の人間が、気づけばどんどん先の方に突き進んでいる。

自分だけが取り残されている気がする。成長できていないのは、前に進めないのは、この世界で私だけなんじゃないか。うまい立ち回り方や器用な生き方、異様にハードルの高くなってしまった理想の「普通」を手にする方法を、皆どこか何かの機関で学んでいたりするのだろうか。私が知らなかっただけで。ちょっと気を抜くと、ネガティブな感情に包まれ、現状や将来に対して不安を覚えそうになる。人より大きな何かが足りないのかもしれない。

けれど、私は人と比べるのをやめた。いや、年齢を重ねるごとに図々しくなり、気にならなくなっただけかもしれない。自分の先を歩く人々を、うらやましいとは思わなくなった。嫉妬や妬み、焦りを感じることも、今はもうない。

家族の視線が、自分で「選択」することを足踏みさせた

そもそも、人と比較することで自分から引き剥がせなくなっていた私の自信のなさは、家庭環境に起因する。

私の育ってきた環境では、選択肢を持つ機会が多くはなかったように思う。正しい答えは、常に両親が握っていた。その導きから外れると、残念そうな顔をされるか、怒号か拳が飛んでくる。その日々が続くと、自ら選択することができなくなり、いつも顔色を伺うようになる。なぜ怒っているのか、どうしたら怒られなくなるのか、当時の私には分からなかったが、気づけば、自分の選択を全て両親にゆだねていた。

自分で選ばず、両親の希望に沿った道筋を歩んでいれば、怒られることも失望されることもない。自分の好きなことを好きと言えず、本当はやりたくないことや辞めたいことを断ち切る勇気もなかった。そうしてそのまま受け入れていったことで、人の意見に左右されない、自分自身の好き嫌いに対しての感覚が鈍くなっていったように思う。常に失敗する想像が頭のなかを巡り、人から評価され、期待に応えられない自分から誰かが離れていくのが怖かったからだ。


薄々気づいてはいたのだが、「あれ? 私の家族って、少しおかしいのかも?」とはっきり理解したのは、中学3年生の頃だった。クラスメートのAちゃんがマスカラを万引きしたことが発覚し、初めて父親に殴られたらしい。その行為自体は咎められて然るべき行為ではあるが、それとは別に、「親が子どもを殴るなんて、あり得なくない?」とAちゃんは周囲に漏らしていた。

衝撃的だった。私の家庭内には、当たり前に暴力が存在していたからだ。もし私が同じことをしたら、どうなっていたのだろうか。今までだってどこに起爆装置があるのか分からず、理由も分からないまま殴られることが多々あった。今思うとDVもいいところなのだが、罰として拳が飛んでくる毎日が私の普通であり、教育の一環であった。生活の一部に暴力が存在していた。当然、他の家族も同じような教育方法で成長しているのだと信じていたし、疑問に思ったことすらなかった。


本とノートとコーヒーカップ

「選ぶ」機会が増え、自分を受け入れるようになった

記憶のなかの両親は、常に苛立っていて、仲良くしているところを見たことがなかった。テストでいい点数を取るのは当然のことであり、褒められた覚えはほとんどない。母なりの愛情表現のひとつだったのかもしれないが、「ブス」「かわいくない」と容姿を悪く言われるのが常であった。

恐らく両親は、私を理想の子どもに育てたかったのだ。勉強も運動もよくでき、親の言うことをよく聞き、自分たちの希望を叶える分身か何かが欲しかったのかもしれない。両親の理想とする人生を、代わりに請け負っていたのかもしれない。

ただ、それも終わりは本当にあっけなく、親が希望する高校に入学できず、父親の勧めで小学3年生からはじめたバスケットボールを辞めたことで、家族からの期待も正しい答えの提示も私の生活からはなくなっていった。同時に、怒鳴られ、殴られる機会も減っていった。

幸か不幸か導きがなくなったぶん、そこから少しずつ、自分で「選択」する機会が増えるようになってきた。期待に応えることのできなかった罪悪感もあった。しかし、次第に気にならなくなっていったし、自由に選べる楽しさを感じるようになっていく。

やりたいことや好きなものを自分で選択できなかった頃は、人の顔色ばかりうかがうようになり、やがて自分自身にも自信が持てなくなっていた。それから、家族だけでなく、他人と対比し、自分の足りないところにばかり目が行く。周囲の人に不快な思いをさせてしまっているのではないか? 嫌われていないか? と、不安になる。そして、そのサイクルに一度ハマってしまうと、なかなか抜け出せなくなってしまう。

でも、大人になると自分で選ばなければならない状況に直面する機会がぐっと多くなる。大きなことだけではない。好きなアクセサリーや普段はあまり使わない色のアイシャドウ、レストランに行った際の注文にコンビニで買ったお菓子、少し遠回りして歩いて帰った時間、そこで見た景色、夢中になった漫画やアニメ、叶うはずがないと思っていた進路、誰にも言わないと決めた秘密。たとえ、小さかったとしても、自分の選択したものには、全て自分の意思が込められている。

自らの手で好きなものを選び、ひとつひとつ選び、自分というひとりの人間の個性を作りだした私を、少しは受け入れていいのではないかと思えるようになった。人と比べなくたって、私は私だ。人と比べて足りないものがあろうが、欠点だらけだろうが、それが私なのだ、と。

些細なことでもいい。自分の選択を増やすことは、自分を受け入れる第一歩であるのではないだろうか。

他人の人生と比べず、自分が満足できる人生を目指す

成長とともに自分の成り立ちを客観視できるようになると、自分のコンプレックスの正体がより鮮明になってくる。私は、世間でいうところの普通な環境で生きてこられなかったのかもしれない。(だから私は、他の人と同じようにできないんだ、自信も持てないんだ)と、心の中でそう思っていた。

だから、ずっと不思議に思っていた。なぜ、家族に対してポジティブな印象を持つ人がいるのだろうと。「何歳で結婚したい?」「子どもは何人欲しい?」など、この手の質問は物心がつき、おままごとをし始めた3歳の頃から存在していた。当時の私は、どんなふうに答えたんだろうか。今では思い出せないが、本当は特に結婚したいとも子どもが欲しいとも思っていなかった心のなかの小さなざわめきだけがなんとなく記憶にある。

しかし、「こんな家族になりたい」という理想像が身近にあるからこそ、家庭を持つことに夢を見て、将来起こるであろうイベントとして認識している人もいるはずだ。

そんな人たちと自分を比べても意味はない。育ってきた環境も、現在おかれている状況も違っている。そもそも「誰かと自分を比べる」こと自体が難しいのだ。これは社会に出て、さまざまな人と関わるようになってから、より感じるようになった。

また、家庭環境が複雑だったからこそ、自分にとっての理想の家族を持ちたい、と思う人もいるだろうし、周囲から見て順風満帆と思えるような人生を歩んでいる人も「ひとりがいい」と思っていることだってある。新しいことを始めることに積極的な人もいれば、そうでない人もいる。どんな人であっても大なり小なり何かしらの問題を抱えていて、それは他人からは見えない。

じゃあ、私はどうだろう。ときどき、先を進む人たちを見てネガティブな感情に包まれることは、たしかにある。何か特出した才能があるのかと言えばない。自信もなかったし、コンプレックスだらけではある。実際のところ、長所らしい長所なんて何もないかもしれない。

でも、好きなものに囲まれた今の生活を手にできている。自分の好きなものを自信を持って選ぶこともできるようになった。好きな場所に住み、仕事をし、一生かけても満足することのないほどの趣味を持ち、誰かの意見や感情に左右されることもない。本当に自分がしたいことを、迷いながら、悩みながらも手にできている。

今となっては両親の顔色を伺うことも、何かに怯えることもなくなった。それは、他者から見たら代わり映えもなく、大したことのない生活かもしれないが、それでも私は抑圧していたさまざまな呪縛から逃れることができている。そんな自分を評価してあげたい。

他人と比べてどうか、ではなく自分にとって満足できる生活を選べている自分を、私は受け入れたい。

だから、人と比べるのをやめる。いや、立ち止まって考えて、自分が充実した、満足のいく生活ができていれば、人と比べなくてもいいようになるのかもしれない。周りの声も、人からの目も気にならなくなるし、周囲からの抑圧もはねのけるくらいの自信につながるはずだと信じている。そう思うからこそ、私は、もう少しだけ自分を受け入れ、愛してあげたいと思う。



著者:あたそ

あたそさん

普段は会社員として働く傍ら、たまにインターネット上であれこれ文章を書いたりトークイベントを開いたりしている。好きな飲みものは酒。自分の思ったこと・感じたことをきちんと文章で表現してくことと、健康が当面の目標。著書に『女を忘れるといいぞ』(KADOKAWA)、『孤独も板につきまして 気ままで上々、「ソロ」な日々 』(大和出版)がある。
Twitter:@ataso00

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編集/はてな編集部