働く女性の「ロールモデル」を探し続けて気付いた、私らしい生き方

 ははろぐ

息子と影絵。かくとうタイプのモンスター。

はてなブログ「働く母のすすめ」で、仕事をしながらの子育てや、共働き夫婦の関係といった、「女性と仕事」にまつわるテーマで書かれているははろぐさんに寄稿いただきました。

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このたび、光栄なことに「りっすん」にて、「働き方」と「家族」について書く機会をいただいた。私が働いている環境は前時代的で女性も少なく、結婚、出産を経ても働き続けるということは、とても難しいことだと今でも感じている。

最近、私自身もまだ試行錯誤している道の途中という感覚があるのにもかかわらず、かつての私自身がそうであったように、学生や就職したての女性から「どうしたら働き続けられるのか」という質問を受ける機会が増えてきた。

そこで今回は、そうした質問に対する答えの一つとして、私自身が、働く女性として理想の「ロールモデル」を求めて暗中模索していた頃の話を書いてみたいと思う。

ロールモデル探しの原点は、地元の田舎町

私は、地方のとある市の田舎町で育った。父も母も同じ市の出身で、市内の高校を卒業後、そのまま市内で就職。結婚後も市内に新居を構えて私を育てた。父は若い頃に短期間、他の街に住んだことがあるけれど、母は生まれてから今までずっと、同じ市内で生活をしている。両親と同世代の親戚も、ほとんどが同じように地元から離れることなく暮らしている。

私と同世代のいとこたちの中でも、進学や就職で地元を離れたのは、私を含め少数派だった。私が都会の大学に進むことを決めたとき、親戚からは「女の子に勉強なんかさせて……」「女の子なのに、家の外に出すなんて……」などと言われたが、両親は私の進学を後押ししてくれた。両親は自分たちが大学進学を断念せざるを得なかった経験もあって、女性も大学や大学院に進学するべきという考えを持っていたのだ。

遠くの煙突。ここだけで生活を完結させられる田舎町。

最初に目指したのは、家事・育児も仕事も一人でこなす女性

父は進学に関して進歩的な一方で、亭主関白な一面があり、子供がある程度大きくなるまで妻には家にいてほしいという考えだった。そのため、母は結婚と同時に仕事を辞めて専業主婦になった。私が小学校高学年になってから、母はパートタイムの仕事を始めたけれど、その後も家事や育児のほとんどは変わらず母の仕事だった。

誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く退社する典型的な「昭和の日本のサラリーマン」だった父と、パートタイムの母。家事・育児の分担について話し合えるような夫婦関係でもなかったし、そんな時代でもなかった。母はいつも、私に進学を勧めると同時に「結婚や出産を経ても仕事に困らないように、手に職をつけなさい。自分で自由にできるお金を持つということは、女性にとって大切なことだから」と言った。

そんな環境で、私が進学についてぼんやりと考えていた頃、世の中では男女雇用機会均等法の施行や改正に伴い、女性を総合職として採用しようという流れが起きていた。結婚・出産を経ても“男性と同じように”社会人として働き続けることが、現実的な選択肢となりつつあった。

けれども、田舎町で育った私の知っている「働く女性」といえば、家事・育児のほとんどを担当することを前提に、時間の許す範囲で仕事をする、母のような女性。“男性と同じように”働くということは、父のように、家事・育児の時間を考慮せず、早朝から夜遅くまで仕事を主体とした生活を送ることだと思っていた。

こうして私は、「働く女性」のあり方として「主体的に家事・育児のほとんどを担当しながら、“男性と同じように”仕事をする女性」を理想のロールモデルとしてイメージするようになった。

理想のロールモデルは見つからないまま、就職、そして結婚

両親の理解もあり、私は理系の大学から大学院へと進学した。博士課程まで進み、企業に就職するにせよ、大学に残るにせよ、研究職に就きたいと考えていた。けれど就職が現実的になってきた頃、私は悩んでいた。「残業や出張が当たり前の世界で、自分が本当に働けるのだろうか?」「仕事をしながら、家族を持ったとして、それらを両立できるだろうか?」といった不安が尽きず、「そもそも、そんな仕事に就きたいと思うことがおこがましいのではないか?」とさえ思った。

博士課程修了時は、既に30歳目前。そこからが一番、仕事に打ち込める時期であると同時に、医学的に妊娠が成立しやすい時期でもある。「もし、希望通りの職に就けたら……」「もし、結婚したら……」「もし、妊娠したら……」たくさんの“もし”を想定しながら、シミュレーションしてみた。しかしどこでどんな仕事をすることになるのか、いつか誰かと結婚して妊娠・出産するのか否か、人生の肝となり得る“ファクター”が何も決まっていない状態で、最適解が見つかるはずはなかった。

教授からは「女性が男性と同様に研究職として働くには、男性の何倍も働かなければならない」とも言われ、当時は素直に「家庭を持ちながら仕事を続けるには、女性である私自身が努力して何とかするしかない」と自分を追い込んでいた。

具体的な見通しがない中で、時間だけはどんどん経過していく。やがて私は何の覚悟もないまま、希望通りの研究職に就いた。それと同時に、学生時代から付き合っていた彼氏(現在の夫)と同居を開始し、ほどなく結婚した。

夫は家事を“女性がすべきこと”として私に押し付けることなく、私が働くことを尊重してくれる人だった。そんな夫の理解もあり、忙しいながらも、何とか仕事と結婚生活を継続させることができた。

平日は朝から終電まで働いて、週末も家事をやりくりしながら働いた。「がむしゃらに働いたら、いつか仕事に余裕ができて、子供を産める日が来るのではないか」と思いながら。しかしそんな生活を何年も続けたけれど、余裕ができるタイミングは一向に来なかった。結局、私はロールモデルを見つけられないまま、自分の年齢や夫婦の仕事の状況を考えて、出産することに決めた。

私にできたことは、自分の使える全てを仕事と家事に費やして、何とかそれらを両立させることだけだった。もともと女性の少ない理系の世界で、私の理想のロールモデルを見つけるのは難しかった。

2つのタワー。がむしゃらに働いた都会での毎日。

“私にはない強さ”を持った女性たちと出会い、気付いたこと

息子を出産してからも、それまで仕事をしていた夜の時間が育児の時間に変わっただけで、相変わらず全力疾走の毎日だった。

就職、結婚、出産。人生の肝となり得る“ファクター”が決まっても、自分が“働く母”として、どう生きていくべきかについての最適解は見つからなかった。けれど、一つ大きく変わったことがあった。それまで仕事と自宅の往復のみだった生活に、保育園という新しいコミュニティーと密に関わる時間が増えたことだった。

保育園で出会うお母さんたちは、たまたま同じ時期に同じ地域で出産しただけで、生育環境も価値観も全く異なっていた。けれど、私たちの間には“働く母”という共通点があった。

医師や税理士などの資格を生かして、着実にキャリアを積み上げていくお母さん。父母会や地域の役員など、引き受け手の少ないボランティア活動に率先して参加するお母さん。趣味や友人たちとの交流など、自分自身も楽しむ時間を大切にするお母さん。

働いていると、目先の仕事と家庭のことだけで手一杯になってしまうけれど、世の中には面白いことがあふれている。何に重きを置くかは人によって違うものの、皆それぞれに理由と思いがあって、限られた時間をやりくりしていた。一人で全てを背負ってしまうことなく、パートナーをはじめとした家族にうまく頼ったり、優先順位の高くないことを潔く省略したり、試行錯誤していた。それは、私にはない強さだと思った。

謎のステップを踏む息子。出張のときは、国内でも海外でも一緒。

私にとって、働き続けるために必要だったのは、そうやって自分のやりたいことや大切なことのために、誰かに甘えたり、ちゃんと胸を張って何かを手離したりすることだったのだと思った。そう考えると、田舎町を出ることなく、自分とは異なる働き方をしていた母からも、女性の生き方のロールモデルとして学ぶことがたくさんあるのではないかと思った。

私が本当に求めていたロールモデル

以前の私は、"主体的に家事・育児のほとんどを担当し、残業や出張に対応しながら働き続ける女性"を見つけようとしていた。けれど私が本当に求めていたのは、一人で何でもできてしまう秀でた先輩女性たちの前例ではなく、未開の地を助け合いながら一緒に開拓してくれる仲間だったんじゃないかと思う。

お互いのよいところや参考になるところを取り入れたり、失敗談を笑い合って“完璧じゃなくても大丈夫”を共有できる同士の存在は心強い。

誰もがみんな、もうがんばり過ぎるくらいにがんばっているのではないかと思う。がんばっている自分だけでなく、完璧じゃない自分も認めて、自信につなげればいい。それを踏み台に進んでいけば、また明日からもがんばれるように思う。

著者:ははろぐid:hahalog

著者イメージ

理系学部博士後期課程修了(Ph.D.)
働きながら、小学2年生男児の母をやっています。
ブログ:働く母のすすめ Twitter:hahalog (@hahalog_) | Twitter

次回の更新は、2018年7月11日(水)の予定です。

編集/はてな編集部