秋葉原といえば何をイメージするだろうか?
例えば「オタク」「家電」「パソコン」「AKB48」など……近年では外国人観光客が大挙して集まる街としても知られている。
しかし秋葉原は、今の“表の顔”しか知らない人には思いもよらない過去を数多く抱える街だった。
例えば、秋葉原には1989年まで巨大な青果市場があった。今もUDXビルの前には碑が残り、かつての姿を見ることができる。
かつて秋葉原にあった神田青果市場。相当な広さだったことがわかる
そして水運の要所でもあり、現在のヨドバシカメラのあたりは船だまりだった。
1947年時点での秋葉原駅付近の航空写真。水路が残っているのが見える(国土地理院提供)
さらに江戸時代には、今の「原宿」のようなファッションの発信地だったというのだ。
古着屋だった建物が今も残っている(現在は営業終了)
そうしたかつての姿について聞くべく、地元で数百年続く老舗を訪ねた。
秋葉原駅から徒歩1分の和菓子店『松屋』は1769年に創業し、今年で250周年を迎える(※1)。
※1……残っている文献上「少なくとも250年は経っている」形で、さらにお店の歴史が古い可能性もある
戦前の松屋の様子
区画整理の関係で1894年に日本橋の皇居そばから今の秋葉原へ移転し、125年もの歳月をこの地で過ごしてきた、東京発祥の和菓子店としては4番目に古い店だ。
松屋の7代目である西井伸樹さんは、秋葉原に生まれ、秋葉原に育った58歳。街の歴史もかねてより研究し、生き字引として界隈の昔話を聞くのにふさわしい方である。
秋葉原の歴史について、西井さんに話を聞いた。
秋葉原は「船と貨物の街」だった
辰井「昔の秋葉原には水路があったって本当でしょうか?」
西井「はい、水運が行われていて、かつては秋葉原公園のあたりも水路で、ヨドバシカメラのところが船だまりでした」
辰井「今のアスファルトとビルで囲まれた姿からは想像を絶する光景ですね……!」
西井「当時は東北から材木などが秋葉原の貨物駅へ電車で運ばれて、そこから都内各所へ船で流通していったんです。その後、だんだん自動車による流通に変わっていきました。戦後の駅前の写真がこちらです」
1960年頃の秋葉原貨物駅
辰井「おお、トラックがたくさん。荷下ろしをしているのかな」
西井「車だけではなく、街には都電も走るようになります。いわゆる路面電車ですね」
西井「この写真は昭和30年ぐらいです。うちの店の前にも都電が走っていました。私も小さい頃は乗っていましたよ。都電の運賃は当時5円ぐらいで、後楽園球場へ野球を見に行くときなどに乗っていましたね」
辰井「都電は都電荒川線と東急世田谷線くらいしか残っていませんが、秋葉原にも走っていたんだ……!」
西井「東京にもたくさん路面電車があったんですよ」
現在の秋葉原の様子。総武線のガードはそのまま存在する
西井「秋葉原の南にある『万世橋』をご存知ですか? かつては『万世橋駅』といって、路面電車の乗り換えターミナルだったんですよ」
辰井「ああ、神田川にかかっている橋ですね。今は商業施設になっていたような」
西井「はい。東京的と同じレンガ造りの駅で、昔は交通の基点だったんです。今の新宿駅をイメージしてもらえばいいと思います」
辰井「そんな駅が秋葉原に!」
西井「今よりもたくさんの人たちが行き来していたはずです」
万世橋駅の跡に建つマーチエキュート神田万世橋は、レンガ造りの遺構を残す
万世橋駅開業当時の姿をほぼ留めた「1912階段」をのぼることができる
かつての秋葉原は「原宿」でもあった?
辰井「意外な店といえば、神田川沿いに仕立屋さんが多い気がするんですが……」
西井「あの界隈は江戸時代、庶民のための古着屋さんの街だったんですよ」
辰井「古着屋さんの街???」
西井「今でいう原宿みたいなところで、最盛期には400軒もの古着屋さんがあったそうです」
辰井「へえー!!今のとは正反対のイメージです」
西井「着るものが和服から洋服になるころに、仕立屋街へ移り変わっていったそうですね。今はオーダースーツのお店と、その関連商品を扱うお店が残っています」
1897年創業の岡昌裏地ボタン店。道路側の前面を看板のように仕上げた「看板建築」の建物は1928年に建てられたもの
西井「そうそう、仕立て屋街の反対側の神田川沿いには、材木問屋が並んでいたそうです。江戸~明治ぐらいの頃かなあ。江戸時代は火事で街が焼けちゃうんで、そうなると一日か二日で家を建てなきゃいけない。だから材木問屋が必要だったんです。先ほどの水運を利用して、木材を都内へ運んだんでしょうね」
辰井「その頃は木造の家ばかりですもんね」
西井「昔は料亭もあったんですよ。秋葉原の中央通りを越えた、かつての神田旅籠町には勝海舟らが武道を教えた講武所があって、彼らを接待するために料亭ができたそうです。そこには芸者さんもいました」
辰井「あの勝海舟が秋葉原で接待されてたとは…」
神田明神のそばには、かつてこの地で芸者をしていた方が開いた小料理屋「章太郎」が。西井さんいわく、神田明神は秋葉原界隈で古いものが最も残る地域の一つ
西井「秋葉原の料亭で遊んだあとは、船で吉原へ行く人も多かったそうです。かつての青果市場関係者も行ったはずですよ」
辰井「いわば大人の遊びの前線基地のようなところだったと」
西井「秋葉原界隈には、その時代のにぎわいをしのばせるお店が残っています。探しながら歩くのも楽しいですよ」
辰井「そういえば、歩いているとぽつぽつと松屋さんのような和菓子屋さんもありますね」
西井「江戸時代から和菓子屋さんは多かったんです(※2)。でもどんどん無くなっちゃって。神田地区でも個人商店の和菓子屋が30軒近くありましたが、今は6軒ぐらいです。継ぐ人がいないですからねえ」
※2……『製菓製パン』(1968年刊/製菓実験社)によると、戦前の時点で6、7店ほどあった
こちらはうなぎ屋の明神下 神田川本店。創業は1805年で、門外不出のタレを守り続ける
神田青果市場にはバナナやメロンが落ちていた
UDXビルの近くに神田青果市場跡地の碑がある
辰井「神田青果市場の話も詳しく聞きたいです。1989年まであったということは、西井さんも行ったことが?」
西井「ええ。市場の中がひとつの街のようでしたね。1階では野菜を荷さばきしていて、2階は事務所や理髪店などがありました。市場だから、商品にならない野菜や果物が落ちてるわけですよ。まだ小さかった頃に、場内に落ちていた少し傷んだバナナを拾って食べた思い出があります。50年近く昔の話ですが」
辰井「のどかな時代ですね(笑)。当時、バナナは高級品だったのでは?」
西井「病気にならないと食べられないほどの高級品でした。『風邪を引いてバナナ』『入院してメロン』って」
神田青果市場の場内(西井さんのブログ「どら焼き親父写真館」より)
辰井「ちなみにメロンも拾ったり?」
西井「食べましたね。『ここはつぶれてるけど、こっちは食える!』とか」
辰井「……(笑)」
西井「当時のアキハバラデパート(※3)のジュース業者も果物を買いに来たり、あちこちから大勢の業者が集まっていましたね」
※3……2006年まで存在した商業施設。現在はアトレ秋葉原1に
辰井「神田青果市場がなくなってから、街は変わりましたか?」
西井「トラックの渋滞が減りました。ちなみに当時はトラックが慌てて曲がったあとに、にんにくが一袋落ちてたりすることもあって、誰かが拾っていました(笑)。もちろん、これも昔の話ですよ」
外から見た神田青果市場(「どら焼き親父写真館」より )
かつて青果市場の場内にあった「ごはん処 あだち」は、今も営業中。市場で働く人のためのデカ盛りメニューは健在だ
電気街はGHQがつくった⁈
辰井「ここまで昔の意外な姿を伺ってきましたが、秋葉原というと僕らのイメージでは『電気街』です。そもそもなぜ電気屋さんが秋葉原に増えたんでしょう?」
西井「もともとは神田駅のほうに小さなラジオ部品屋が点々とあったんです。それを戦後になって、GHQが秋葉原の一箇所に集めたのが電気街の最初だったそうですね」
辰井「なんと、GHQがきっかけなんですね……!」
西井「戦後の区画整理の一環だったのかなあと。諸説はありますけどね。当時、電気街の家電の売り上げは全国の2割を占めていたと言われます」
辰井「秋葉原が全国の2割の売り上げ…!!!」
西井「かなり活気があったそうです。かつてはやはり『三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)』が人気でしたから」
1950年代初頭の秋葉原ラジオセンターの画像
こちらは今のラジオセンターの画像
消えゆく老舗と、消えない老舗
石丸電気やサトームセンなど、秋葉原からは多くの家電量販店が姿を消した
辰井「石丸電気やロケットなど、老舗の電気店が次々と姿を消したり、規模を縮小したりしてますよね。電気街は生存競争が激しいなと」
西井「そうですね。石丸電気さんも『ウチは白物家電一本で行くんだ』と言ってましたが、結局なくなってしまいました。変わる秋葉原を受け入れないと、ここでの商売はやっていけないのかなと思います」
辰井「変わる秋葉原、ですか。秋葉原の街が決定的に変わったと感じるのはいつですか?」
西井「青果市場がなくなったときもインパクトがありましたが、いちばんはWindows95が出たときですね。そのころから街の雰囲気もガラッと変わりました」
Windows95はインターネット時代到来を告げたパソコンのOS(基本ソフト)。秋葉原に買い求める客の行列ができた(photo by Windows)
辰井「お客さんの層が変わったんでしょうか?」
西井「ええ、品物を買いに来るのではなく、実物を店頭で見て、インターネットで買う人が増えました。ただ、それじゃ実店舗で商品が売れませんから、秋葉原の街は成り立たなくなっちゃうんですよね。それでも活気があるのは、アニメの街に変身していったからだと思います」
辰井「じゃあ、サブカルチャーのお店がなければ……」
西井「秋葉原自体が廃れた可能性もありますよね」
今の秋葉原をけん引する、サブカルチャーの店
辰井「変わるという点では、松屋さんも新しいことを取り入れていますよね」
西井「そうですね。1985年から、どら焼きの袋にまんが絵などをプリントできるようにしました。最初はプリントゴッコでやってましたが、Windows95が出てからパソコンを使っています」
持ち込んだイラストを袋にプリントしてもらった、特製どら焼きを注文できる。萌え絵もOK!
元号が令和に決まってわずか30分ほどで発売したという、令和どら焼き。プリントが自前でできるのでフットワークが軽い
西井「ウチはブログやFacebookをやったり、プリントをやったりしていますが、周りからは『なんで老舗がそんなことを?』って言われましたよ」
辰井「新しいアイデアを柔軟に取り入れてきたからこそ、商品が売れてお店が生き残ったんですね」
西井「その柔軟性こそ、街に教えてもらったのかもしれません」
古さと新しさが共存できる街が秋葉原だ
辰井「ちなみに西井さんから見て、秋葉原にいちばん元気があったときは?」
西井「やっぱり青果市場があったころですかね。でも、今も元気はありますよ。なくなったのは2008年の秋葉原無差別殺傷事件のときぐらいで。家電製品にパソコン、アニメ……のように、そのとき元気のあるものが秋葉原を牽引してきました」
辰井「どんどん新しいものが出てきますが、それまでにあったものもまだ残っていますよね。今でも電気屋さんやパソコンショップ、市場時代からのたまご屋さんもありますし」
西井「そう、共存しているんですよね」
神田青果市場で働く人に愛された大衆割烹の赤津加(あかつか)。店内には市場の仲買さんの祝い札が残る
辰井「西井さんは、秋葉原にどんな街になってほしいですか?」
西井「新しいものを受け入れられる街ですね」
辰井「古いものを守りながら、新しいものをバカにしないで取り入れる。その姿勢は松屋さんが体現していますもんね」
西井「実際、秋葉原はいい街だと思いますよ。スーパーが少なくてふつうの買い物が大変とか、家賃が高めだとか、不便なところもありますが、もうここを出て行く気はないです」
辰井「なるほど、いい街」
西井「懐の深い街だと思いますから。マンションに住むような新しい人も、地元のお祭りにぜひ参加して欲しいです。大歓迎しますよ」
辰井「最後に、秋葉原を訪れる人に伝えたいことはありますか?」
西井「そうですね……楽しんでいってください、が一番かな。いろんな人に来てほしいですよ」
辰井「来る者拒まずですね」
西井「秋葉原は古いものと新しいものが共存できる街ですから」
古いものが新しいものと共存できる街、秋葉原。
アニメやパソコンが好きな方、メイドさん目当ての方、AKB48ファン、さらには200年を超える老舗まで共存できたのは、ひとえにこの街の持つ包容力だ。
信じられないような歴史を重ねてきた秋葉原は、知れば知るほどおもしろい。
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この記事を書いたライター
卓球と競馬と旅先のホテルで観る地方局のテレビ番組が好きなライター、番組リサーチャー。過去には『秘密のケンミンSHOW』を7年担当。著書に『強くてうまい! ローカル飲食チェーン』 (PHPビジネス新書)。