「みんな頑張っているから休めない」と無理を重ねた私が、自分を大事にするようになるまで

 ねます

異動先の職場で忙しい日々が続き、自分の限界を超えてしまったというねますさん。でも、最初の頃は「みんな頑張っている」という言葉の呪縛から「自分よりもっとつらい人はいる」と自分が限界を迎えているにもかかわらず無理を重ねてしまっていたのだそう。涙が止まらない日々を何とかするために訪れた病院での診断をきっかけに「頑張る」という言葉に対する向き合い方が変化していったと言います。自分のペースをつかめるようになった今、改めて大切だと感じることについて寄稿いただきました。

***

今から数年前、雪が降り積もった朝。

3月も残り数日、今年度がもう終わるというその日、目が覚めてからとにかく涙が止まらなくて仕事に行ける状態ではなくなってしまった。しかし、行かなくてはならない。職場に電話をしたら、親しい先輩が車で迎えに来てくれた。

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職場に向かう車の中、「みんなつらいけど、頑張っているんだよ」と先輩に言われたことが、今でも忘れられない。

頑張って頑張って、それでもたりないと言われたあの日

当時の職場は、数十人の職員に対して事務職員が私一人、という環境だった。

就職してから2つ目の職場。はじめの職場は事務職員が複数いる環境で、私もそれなりに仕事をこなしてきたつもりだ。異動で一人配置だと聞いた時は不安もあったが、やっていけるという自信の方が大きかった。

規模は小さくなったものの、のんびりした環境から、がつがつ仕事をするベテラン揃いの職場になった。笑い声もあるけれど、難しい問題が次々に飛び込んでくる。○○○に異動になりました!と送別会で言った時に、訳知り顔でニヤニヤしていた同僚の顔を思い出す。こういうことか。

異動して1年目の4月。とにかく忙しかった。書類を提出、提出、そして提出。連休前に設定された締め切りの数に圧倒されながら、でもここを乗り切れば少し落ち着くはず、そう思って次々に降ってくる仕事を片付けた。5月、6月、7月。いくら仕事をこなしても「一段落ついた」と思える瞬間はやってこない。締め切りに追いかけられる日々だった。

帰宅時間もだんだん遅くなっていく。21時、22時あるいはそれ以降、残っているのが当たり前になったが、私より遅くまで仕事を続ける同僚がいた。早い時間に帰っていても、自宅で仕事をしている人もいる。私はまだ若手だし、ひとり暮らしで融通がきく、もっと頑張らないと。そう思っていた。

24時間のうち、仕事に取り組む時間ばかりが増えていく。

少し涼しくなり始めた秋頃だったか。職場ではへらへらしているくせに、家に帰って、あるいは帰宅途中で、涙がぼろぼろこぼれるようになった。何が、ということではなく、漠然と、全てが不安だった。私の能力では不十分なのではないか。仕事の進め方を相談したり、自分なりに効率的な仕事術を取り入れたりもしてみた。それでも仕事が追い付かなくて、もうどうしたらいいのか分からないのに明日も仕事がある。焦りばかりが大きくなっていく。

土日も仕事にあてて、それでやっと間に合う状態だった。

しかし、休みの日に職場に来ているのは私だけではなかったし、私より大変な事情を抱えている人は、同じ職場にいくらでもいた。自分が大きな病気をしているとか、家族の介護があるとか、子どもがまだ小さいとか。そういった事情の調整を取りながら、私より責任のある仕事を粛々と進めている姿を見ると、しんどいなんて言えなかった。みんなに比べたら、私なんて。

ここで弱音を吐いたら甘えだ、そう思って我慢した。

そして我慢しきれなくなって年度末、冒頭に戻る。

「みんな頑張っているんだよ」の言葉には、「だからあなたも頑張って」と続くのだろうか。私自身、この言葉で自分を追い詰めて、もう無理だというところまできた。しかし、まだ頑張らなければならないらしい。

泣いている場合じゃないということも、もちろん分かるのだけれども。

その日は出社して、その後どう過ごしたのかは覚えていない。無事に、とは言えないが、どうにか年度末は乗り切った。

受診して、やっと立ち止まることができた

異動して2年目となる4月。空気はあたたかくなり、明るい季節がやってきた。

着任したばかりの一年前に比べれば、だいぶ楽に仕事を進められるようになっていた。私が年度末にボロボロだったことを知っている同僚からは、よかったね、と声を掛けてもらうこともあった。

しかし、家に帰ってからぐずぐずしてしまうのは、いつまでたっても治らない。泣く、という行為は結構疲れるし、時間も消費してしまう。いい加減どうにかしなくてはと思い、職場の相談制度を利用することにした。ただこれは指定の病院で医師に話を聞いてもらうだけで、治療行為ではない。

「大変な人はねえ、何を食べても味がしなかったり、夜も全く眠れないんですよ」、はあそうですか。「そこまでではないんですよね、緊急性もないですし様子を見ましょう。つらい状態が続くようなら改めて受診してください」。民間のカウンセリングも受けてみた。「あなたの状態なら自分で解決できそうですね。こちら、認知行動療法のテキストですので、参考にどうぞ」、はあどうも。

話を聞いてもらうだけではあったので当然かもしれないが、なんだか「大丈夫だよね」と言われているようだった。

他の人はどうなんだろう、とインターネットで『仕事 つらい』と検索すれば、誰かのつぶやきが画面に表示されていく。

『頭痛い おなか痛い 朝から吐いた』
『眠れない ご飯が食べられない』
『暴言吐かれた 無茶振りされた』
『終電に間に合わない 睡眠時間3時間』

みんな大変なんだなあ。私なんて泣いているだけだし、まだ大丈夫、元気だよね。働くって、そういうものなのかな。そんなふうに感じていた。

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それでもやっぱり泣くのは治まらない。

とにかく情緒が安定するように漢方薬でも処方してもらえればいい、そう思って、心療内科に行くことにした。

問診票を書いて、簡単な聞き取りをされて、待つ。結構、人いるんだな。すみません、元気なのに。もっと大変な人なんていくらでいるのに、私なんかが来ちゃって。

名前が呼ばれる。医師とやり取りをしながら、漢方薬もらえるかな、様子見で終わりかなと考えていたら、抗うつ薬を処方されることになった。

え、まじですか。

自分がそういう状態、薬が必要な状態であることには驚いたし、ショックだった。だった、けれども。同時に、本当にほんとうにほっとしたのを覚えている。

すぐに、は無理だったけれど、周りの協力を得ながら少しずつ仕事量を減らすことができた。無理やり走り続けることをやめて、休んだり歩いたり、また走ったり、今は自分のペースを維持できている。

「頑張った」かどうかを、他人任せにしない

自分の健康を犠牲にしてまで仕事を優先していた、この時期の出来事を思い出すたび、ただただ、社会人として未熟だったことを痛感する。もう無理だと一人で抱え込まず、できないならできないと相談することが、仕事に対する誠実さだったのではないか、と今になって思う。

そうやって反省する一方で、しかし、どうすればよかっただろうと考えてしまう。私が何とかすべきだったこと、私ではどうしようもできなかったこと、いろいろな要因が絡まったこの経験を、正直なところ私はまだ完全に消化できていない。

あの頃の私に言いたいことはたくさんある。ただ、せめて健やかな生活を送れるよう忠告するならば、「みんな頑張っている」という言葉、その考え方には気をつけろ、ということである。

私は受験も就職もなんとなくうまくいって、それなりに努力すれば結果を出せるような、そこそこ真面目なタイプ。何度もリーダーを任せられたりして、周囲からの信頼も厚い。自分で言うのもなんだけど、私はそんな人間だ。そして、少しばかり他人を気にする(こんなこと言って、変なやつ、できないやつ、と思われないかな)。

「みんな頑張っている」という言葉は、私には相性が良過ぎた。いい子でいたい、優秀でありたい。ちゃんと分かっていますよ、とでも言いたげに、私はこの言葉を原動力にがむしゃらに働いた。

それは呪いのようでもあり、「だから休むな、もっと頑張れ」と私を追い込んだ。

頑張る、という言葉には終わりがない。さらによい結果を出そう、そう考えるのはいいけれど、上ばかり見ていた私はつまずいて転んでしまった。転んでケガをしたのだろうか、もう立ちたくない、というところまでボロボロになった。

周りを見渡せば、私より大変な人、忙しくてつらくて苦しい人はたくさんいる。そうやって、それぞれ必死にもがいている。「みんな頑張っている」から私も頑張るというのであれば、私は世界で一番頑張っている人にならなければならない。でも、そんなの無理だ。

だって、どうやって一番頑張っていることを証明できるというのか。

頑張るという行為は、その人の内面の問題だ。○○○ができたから頑張った、ということではないし、もちろん、数値化して測れるものでもない。本人にしか分かり得ないのだ。私は、「みんな」というあいまいな存在に頼ることなく、自分自身でよくやったと認めるべきだった。

「みんな頑張っているから、私も頑張る」という価値観は、時として必要かもしれない。しかし、いつでも、いつまでもこの価値観に頼っていると、困ることになるんじゃないだろうか。私みたいに。

もう、「頑張(る)」がゲシュタルト崩壊しそう。

何が苦しくてつらいのか、それは「みんな」違う

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あれから数年。私は再び異動したけれど、通院は今も続いている。

大変だったんだよ、という話を友人とすると、うんうん分かる、私もねー……と返ってくることが多い。あなたもいろいろあったんだね、山あり谷あり、平坦な道ばかりじゃないよね。それこそ、インターネットには、みんなの人生談がごろごろ転がっている。大変な状況で踏ん張っている人もいるし、ちょっとお休みします、という人もいる。  

『その程度で休むの?』

弱っているときに、インターネットなんて見るものではない。検索して表示されたこんな言葉が、ズシリと心に突き刺さる。その程度で、病院に通っているの?

確かに、その程度、なのかもしれない。ちょっと仕事量が多い、それがなんだというのだ。しかし、私たちは一人ひとり、耐えられるつらさや苦しさが違う。そう考えることにした。あなたにとっては平気でも私にはそうでないことがあるし、その逆も、また然り。

食べ物の好き嫌い、と言ったら乱暴過ぎるだろうか。好き(得意)だとかそうじゃないとか、その組み合わせはみんな違うけれども、押し付けあうものではない。食べてみて、やっぱり無理! なら残してもいいんじゃないかな、今は無理やり食べさせる時代でもないし。

そうやって一呼吸おいて、でもやっぱり食べなきゃいけないと思うのなら、工夫したり、相談したりして克服していけばいい。そう考えては、だめだろうか。


そういえば、忙しかった当時の職場で上司に言われたことがある。

「自分を大事にできない人は、周りの人も大事にできないんだよ」

私が自分を追い詰めるタイプだと、見抜かれていたのだろうか。

自分を大事にできない人は、他人にも同じように自身を大事にしないことを求めてくる。私はこれだけボロボロになったのよ、だからあなたも同じくらい働きなさい! なんて。そうやって誰かから呪いを受け、また誰かに呪いをかけてしまうのだ。

自分を大事にできる人とは、その言葉に負けない人ではないだろうか。そうやって、呪いが広まるのを、止めることができる人。

ならば私は、自分自身のつらさも苦しみも、まっすぐに受け入れられる人間でありたい。まずは、誰でもない「私」と向き合うことから始めていく。


編集/はてな編集部
イラスト/caco

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著者:ねます

昭和生まれ平成育ち地方在住OL、それ以上でもそれ以下でもありません。好物は塩パン。
Blog:明日に備えてもう寝ます

本記事は2019年5月〜6月にかけて実施した「りっすんブログコンテスト2019」に応募いただいたねますさんによる寄稿記事です。ねますさんのブログコンテスト応募記事はこちらから。※応募記事はねますさんのブログへ遷移します