「辞める」と決めたとき迷いはなかった――元フロントエンジニアの漫画家・矢島光さん

矢島さん
今回「りっすん」でお話を伺ったのは、株式会社サイバーエージェントでフロントエンジニアをしていた経歴を持つ漫画家、矢島光さん。自身の会社員経験を反映させたWeb漫画『彼女のいる彼氏』が単行本化されるなど、着々と漫画家としてステップアップしている矢島さんですが、会社員から漫画家の道へ転身することに迷いはなかったのでしょうか? また、プライベートと仕事への考え方は? 今後の展望なども併せて、赤裸々に語っていただきました。

“あるある”を凝縮させたITきゅんきゅん系Web漫画がヒット

矢島さんが漫画家として活動されるまでの経歴について教えてください。

矢島さん(以下、矢島) 慶應義塾大学で環境情報を学んだ後、株式会社サイバーエージェントにフロントエンジニアとして新卒入社しました。3年弱勤めた後に退職し、2015年2月から専業漫画家として活動をはじめました。初めて連載を持つことができたのはサイバーエージェントを退職してからで、それがWeb媒体「ROLA*1」に掲載していたWeb漫画『彼女のいる彼氏』です。

『彼女のいる彼氏』は、ご自身がサイバーエージェントで働いていたときのことを参考にされているんですよね。

矢島 そうです。まだ働きながら漫画を描いていたとき、ROLAの編集部宛てに、「会ってもらえませんか」とメールを送ったのが始まりでした。メールをしたら、当時のROLAの編集長が会ってくださったんですよ。その打ち合わせの場で「えー!! サイバーエージェントで働いているの!?」と面白がってくれて。そのまま「ネーム(漫画を描く際の、コマ割りや構図、セリフなど)を描いておいで」と話が進んだんです。

職歴に目を留めてもらった、と。

矢島 ありがたいですよね。本当、人生どこでどう転ぶかわからない。ROLAの編集長から「世間には、サイバーエージェントについて興味を持っている人がたくさんいるんだよ」と言われて。私にとっては意外なことでびっくりしたのですが、「なら教えてあげよう」と思って、そのまま描きました。とはいえ、連載化する前に描いたネームは、送ってはボツ、送ってはボツの繰り返しで、なかなか大変でした。

彼女のいる彼氏 1 (BUNCH COMICS)

彼女のいる彼氏 1 (BUNCH COMICS)

  • 作者: 矢島光
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/10/08
  • メディア: コミック

仕事描写のリアルさだけでなく「ITきゅんきゅん系」と表現されるような恋愛模様も『彼女のいる彼氏』が支持されるポイントかと思います。この“きゅんきゅん”要素も、矢島さんの実体験をベースにしているのでしょうか?

矢島 すべてではないですが……一部反映はされています(笑)。ネームになかなかOKが出ないころ、編集長さんと飲みに行く機会がありまして。そのとき、私が経験したダメな恋愛話をしたら、「それおもしろいね! その話をベースにした漫画を描こう」ということになったんですよ。

実は私、それまで恋愛の話はほとんど描いたことがなかったんです。なので、編集長さんにそう言われたとき、「まじか!!!」というのが率直な感想でした(笑)。でも、ネームを描いて送ってみたら、おもしろいと好評で。結局それが『彼女のいる彼氏』というタイトルで連載されることになったんです。

選択に迷わない=動き出すタイミング

矢島さん

漫画家への憧れは、いつごろからあったのでしょうか。

矢島 きっかけは小学3年生のときです。当時私は、月刊誌の『りぼん』が大好きで、毎月楽しみに読んでいました。その中で、種村有菜先生の『イ・オ・ン』という連載が始まったんですが、扉絵がとにかくすっごくキレイで! その美しさに感動して、「私もこんな絵が描きたい!!」と思って、漫画家を夢見るようになりました。

小学生のころからの夢だったんですね。それからは、漫画家になるためにどんな行動をされていたんですか?

矢島 出版社へ自分の漫画を売り込んだりしました。初めて漫画を持ち込んだのは大学2年生のころ。出版社への漫画の持ち込みは、サイバーエージェントに就職してからも続けていました。

就職活動時、サイバーエージェントを選んだ決め手はどこにあったのでしょうか。

矢島 大学の先輩が、サイバーエージェントのフロントエンジニアとして働いていたんです。その先輩に、サイバーエージェントのトークイベントに誘われたのがきっかけでした。そのときは、トーク内容が難しくて、私には何を言っているのか全然わからなかったんですけど……(笑)。オフィス見学もさせていただいたのですが、働いてる方みなさん楽しそうだったんですよね。それで、ここがいいのではと感じて。

その当時、「漫画家として活動していく」という選択肢はなかったのでしょうか。

矢島 大学生のころはすでに漫画を描いていたので、「漫画家」という選択肢もありました。でも、正直「漫画家として生活できるのか?」という不安もあったので……悩みました。ありがたいことに現在は漫画のお仕事で生計を立てられていますが、当時そのようになれる確証はもちろんなかったわけですから。自分自身踏ん切りがつかなかったので「いったん両方やってみよう」と思って、就職しました。

生活面での不安から企業へ就職したというように、やはり、会社員は「安定している」など魅力があるかと思います。それを手放してまで漫画家一本でやっていこう、と思ったのはどうしてでしょうか?

矢島 会社員として働いていても、漫画家への未練がタラタラだったんですよね。実は会社員時代、心が疲れてしまって半年ぐらい休職をさせていただいたことがあったんです。それにも関わらずその期間中も漫画を描くことはやめられなくて。それで、自分の中にある「漫画を描きたい、漫画家になりたい」という強い思いに気付いて、退職を決意しました。

葛藤はなかったのでしょうか。

矢島 「辞める」と決めたら、すっと辞められました。私自身の考えになるのですが、葛藤があるということは、それは動き出すタイミングではないんだな、と思うんです。就職するときはまだ漫画家としてやっていけるだろうかという不安があったので、きっと決断するタイミングではなかった。サイバーエージェントを辞めることに迷いがなかったあのときが、漫画家の道に進むベストなタイミングだったんだなと今でも思っています。

漫画を描くことで、苦手だった人たちへの印象が変わったことも

世に出た作品もそうでない作品も含めて、特に思い入れのある作品について教えてください。

矢島 やっぱり『彼女のいる彼氏』への思い入れは格別です。初連載で最終回まで描いた作品でしたし、大好きな編集さんと作った作品なので。

(画像左から)『彼女のいる彼氏』に登場する徳永、咲、ルミ、佐倉

特に思い出深いシーンはありますか?

矢島 “キラキラ女子の苦悩”について描いた回があるのですが、私の中ではあの話がダントツで気に入っています。

作中の職場「株式会社サイダーエイジ ジャパン」で働くキラキラ女子・藤田ルミにフォーカスした回ですね。

矢島 はい。サイバーエージェントにいたときに一番感じたのが、「キラキラ女子って大変なんだ」ということだったので、それを伝えられてよかったです。

キラキラ女子の苦労を知るまでは、キラキラ女子についてどんなイメージをお持ちだったのでしょうか。

矢島 「楽しそうでキラキラしていていいっすね」みたいな、嫉妬の心が根底にありましたね(笑)。でも、「どんなときも疲れた顔を見せない」とか「周りに対する細かい気配り」とか、キラキラ女子でいることの大変さを知ってから、彼女たちを見る目が変わりました。

それに、描くことによって、私はキラキラ女子に対して、嫉妬だけでなく感謝の気持ちを持っていたんだということにも気付くことができました。「いつも場を華やかにしてくれてありがとう」とか、「みんなの誕生日を祝ってくれてありがとう」とか。漫画を描くことで、自分ではなかなか気付けない本心と向き合うこともできたと思います。

他に、自分にとって欠かせない作品はありますか?

矢島 23歳のときに雑誌『モーニング』の「MANGA OPEN」という新人賞で奨励賞をいただいた、『ピーピングトム』という漫画も大切な作品です。のぞき魔の男の子がバトントワリングを始めるという内容の読み切りです。すっごい下手くそだけど、絵に勢いがあるんです。

例えば、バトンが回っているシーンを描くとしたら、今だと「どうやったらキレイに描けるだろう?」と慎重になってしまうんですが、当時は何の資料も見ないでガリガリ描いていたんですよ(笑)。バカだなぁって思いますが、バトンがぐるぐる回っている描写は、汚いけど迫力がすごくあるんです。今では描けないよさがあって、見るたびに初心に立ち返りますね。

「自分にとっての転機」と思えるような出来事はありますか?

矢島 間違いなく、編集者さんとの出会いですね。『彼女のいる彼氏』の編集さんはもちろんですし、『ピーピングトム』を読んで初めてついてくれた担当さんもそうです。実は、この『ピーピングトム』の担当さんが「一度就職した方がいい。それで、サラリーマン漫画描こうよ!」って言ってくださっていたんですよ。その言葉に後押しされて、就職して、今につながっているので、感謝しかありません。

関わった編集さんと、すごくいい関係が築けているんですね。

矢島 すべての編集者さんとの出会いがなければ、こうはなっていなかったと断言できますね。今描いている漫画を見てくれている担当さんも、私のことをすごく考えてくださっていて。私、担当してくれた編集さん全員のことが大好きなんです。

大好きなバトントワリングに漫画で貢献したい

『彼女のいる彼氏』のように、今後もご自身の経験を生かした漫画を描いていこうという気持ちはあるのでしょうか?

矢島 あります。でも、昔ほどノンフィクションの漫画を描こうとは思っていなくて。というのも、一人前の作家さんって、フィクションでもストーリーを描き切れちゃうんです。なので、感情の面では体験したことを反映させたいですけど、ストーリーは完全フィクションで描けるようになりたいと考えています。それに、そうなれないと、いつかメンタルが潰れてしまうと思いますし。ノンフィクションで描くというのは、自分の身を削りすぎちゃうことでもあるので。

今後描いていきたいテーマや構想はもう考えられているんですか?

矢島 次の連載では『ピーピングトム』のように、中高でやっていた「バトントワリング(バトン)」をテーマにした漫画を描く予定でいます。ただ、今の自分の画力では表現しきれないこともあるなと感じることがあって。「スポーツ漫画は画力が必要」と聞いてはいたのですが、その通りで。まだまだ頑張らなきゃいけないな、と思います。

バトンの漫画を描きたいというのは、どうしてでしょうか。

矢島 純粋に、バトンが大好きなんです。ずっとバトンの連載を描くことを目標にしてきました。漫画を描くのと同じぐらい大好き。バトンはまだまだマイナーな競技なので、私が漫画を描くことで、もっともっとバトンの魅力を広めていけたらと思っています。

漫画家としての仕事のやりがいは、どんなときに感じますか?

矢島 やっぱり、読者さんが喜んでくれることです。『彼女のいる彼氏』を描いているときは、よくエゴサーチしていましたよ(笑)。「キャラクターが好き」っていうコメントは特に嬉しかったです。でも、作品に登場する「徳永」というチャラ男だけは、けなしてもらった方が嬉しいキャラクター。「本当にクソ男なのに、どうしても嫌いになれない」なんてコメントがあると、「狙い通りだ~」という感じでニヤニヤしちゃいました(笑)。

矢島さん

漫画家という職業に対するイメージにおいて、漫画家になる前と後とでギャップはありましたか?

矢島 ないですね。イメージ通り、キツイです(笑)。でも、会社員も実際大変ですよね。体調崩せないのはどちらも同じですし。

ただ、漫画の週刊連載となるとやっぱりハードかも。会社員で言うと大きめのプロジェクトが毎週あるというイメージで、息つく暇がないんですよ。私は隔週の連載しかまだ体験していませんが、それでも次々と絶え間なく原稿を描かなきゃいけない状態でした。

漫画家生活で、特に「大変だな」と感じるのは、どんなときでしょうか。

矢島 休みなく原稿を描かなきゃいけないこと……ですかね。大きな出来事がある訳じゃないんですが、今週分描き終わったと思った直後にはまた次のネームを描かなければいけない。『彼女のいる彼氏』を連載していた2年間は淡々とこの日々が続いていたのが、地味につらかったです。

それと、連載中の期間は、描く作業に影響が出ないよう感情の振れ幅を抑えることを意識していたんですが、それも精神的にしんどかったです。

感情を抑える?

例えば、ある出来事で落ち込みすぎちゃうと、筆が進まなくなる恐れがある。それを回避したかったので感情をコントロールしていましたが、あまりにも感情が死んでしまうといい作品も描けないし……そのさじ加減が難しかったです。

肉体的なハードさだけでなく、精神的なつらさも大きかったんですね。その期間、ちゃんとリフレッシュはできていたのでしょうか。

矢島 3ヶ月に1回ぐらいは遊んでリフレッシュしてました。宿泊はできないですが、日帰りで旅行に出かけることが多かったです。あと、大好きな夏フェスには毎年行っていました。

ハードでも、やりたいことができている幸福感で乗り切れる

では、会社員時代を振り返ってみて、「つらかったな」と感じるエピソードがあれば教えてください。

矢島 仕事内容というより、気持ちの問題にはなるんですが……。仕事で手を抜いたことはありませんが、私が漫画を描いていることを理解してくれている上司や同僚には、常にどこか申し訳ない気持ちを持っていました。会社の仕事と漫画家活動の両方をやっていることに対して、自分に納得ができていなかった部分もあるんだと思います。後ろめたさを抱えながら仕事をすること自体がつらかったですね。

矢島さん

もし今でも会社員と漫画家の両立生活を続けていたら、今ごろどんな自分になっていたと思いますか?

矢島 連載を目指して漫画を描きながら会社員もしていた当時の私は、会社の人から見るとかなりまいっていた状態だったみたいで。やりたいことが100%できないフラストレーションと、会社に迷惑をかけているのではないか、というネガティブな気持ちがそうさせていたんだと思います。なので、そういう沈んだ感情がずっと続いていたんじゃないですかね……。それを想像すると、自分のためにも周りの人のためにも、早めに決断ができてよかったと思います。

漫画を描き続けるのは大変なことですが、漫画を描けることが幸せなので、苦労より幸福度が上回っていると思います。

現在は、仕事とプライベートのバランスは理想通りにとれていると思いますか?

矢島 私は、プライベートと仕事を分けて考えていなくて。仕事が楽しければ、プライベートはなくてもいいと思っているんです。編集さんから「週刊連載は、(忙しすぎて)女でもなければ人間でもなくなるよ」という話を聞いたことがあるのですが、もし描くチャンスがあるのなら、喜んでやりたいと思います。

すごい覚悟です……! では、今後の目標を教えてください。

矢島 多くの人から「いい」と言ってもらえるバトンの漫画を描いて、バトントワリングがオリンピック種目になることに少しでも貢献したいです。贅沢なことを言えば、映像化できたら嬉しいなと思います。自分の意志ではどうすることもできないですが、「おもしろいものを描けば達成できる!」と思ってやっています。

最後に、「夢を持っているけれど、なかなか一歩を踏み出せない」という方にアドバイスをお願いします。

矢島 先ほども少し話しましたが、葛藤があるうちは動き出すタイミングではないと思うので、「ここだ!」というときが来るまでは待つことも大切じゃないかと思います。ただ、何もせず待つだけでは進歩がないので、そのときに向けて準備をしておくことも忘れずに。ベストなタイミングが来たら、迷いなく飛び込むことができるはずですよ。

ありがとうございました!

取材・執筆/石部千晶(六識)

お話を伺った人:矢島光

矢島光

サイバーエージェントでの就業経験を持つ漫画家。自身の経験を生かした、IT企業を舞台にした恋愛漫画『彼女のいる彼氏』で、多くの女性から支持を得る。ふんわりのんびりした外見からは想像できない、自分に厳しいストイックな一面も。最近は、お笑い芸人の「和牛」さんにハマり、ツッコミの川西さんが漫才のときに演じる女性の仕草や表情を漫画の参考にしているそう。

次回の更新は、10月4日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:現在はサービス終了しており、Webサイトはクローズしている